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藤原是人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原是人
時代 奈良時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 許人麿
官位 正五位下右少弁
主君 光仁天皇桓武天皇
氏族 藤原南家武智麻呂流
父母 父:藤原乙麻呂、母:真都我橘佐為の娘)
兄弟 是公是人藤原今河
不詳
菊池麻呂
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藤原 是人(ふじわら の これひと)は、奈良時代貴族。名は許人麿とも記される[1]藤原南家参議藤原乙麻呂の子。官位正五位下右少弁[1]

経歴

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宝亀元年(770年称徳天皇の崩御後、白壁王(のち光仁天皇)が皇太子に冊立されてまもなく従五位下叙爵され、翌宝亀2年(771年大学助に任ぜられる。のち、光仁朝では図書頭肥後守を歴任し、この間の宝亀9年(778年)には、秋の豊穣を祈願するために、参議藤原是公と共に廣瀬大社龍田大社に派遣され奉幣を行っている[2]

桓武朝では、大判事中務少輔を歴任し、延暦4年(785年)8月に従五位上に昇叙されるが、同年9月に藤原種継暗殺事件が発生すると、10月に長門守に任ぜられ地方官に転じる。延暦9年(790年治部大輔として京官に復帰すると、延暦10年(791年右少弁に転じている。

官歴

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続日本紀』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c 『尊卑分脈』
  2. ^ 『続日本紀』宝亀9年6月26日条

出典

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