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藤堂高悠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤堂高悠
藤堂高悠像
時代 江戸時代中期
生誕 寛延4年6月8日1751年6月30日
死没 明和7年閏6月2日1770年7月24日
改名 斧千代(幼名)→与右衛門→高丘→高悠
戒名 到岸院殿円真高徳権大僧都
墓所

東京都台東区上野の寒松院 三重県津市の寒松院

三重県伊賀市の上行寺
官位 従四位下和泉守、侍従
主君 徳川家治
伊勢津藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高朗
母:安藤信友の養女(安藤信周の娘)
兄弟 高嶷高朶高悠高興、娘(加藤泰候正室)、娘(清水谷公美室)
養子高嶷
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藤堂 高悠(とうどう たかなが)は、伊勢津藩の第8代藩主藤堂家宗家8代。

生涯

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寛延4年(1751年)、江戸卯原にて生まれる。初名は高丘。先代である父の藤堂高朗は第6代藩主・高治の長男・高般を養嗣子として迎えていた。宝暦2年(1752年)8月23日、高般の養子となる。宝暦4年(1754年)に高般が死去し、翌年3月13日に高治の嫡孫になった。明和3年(1766年)8月15日、将軍徳川家治御目見する。同年12月19日、従四位下・大学頭に叙任する。明和6年(1769年2月9日、高朗の隠居により家督を継ぐ。同年3月5日、和泉守に改める。同年12月18日、侍従に任官する。

高悠は勤皇の意思が強く、佐賀藩と協力して仙洞御所の普請役を率先して務めたが、そのため藩財政をさらに悪化させた。

藤堂高悠の墓(津市寒松院)

生来から病弱ということもあって、明和7年(1770年)閏6月2日に20歳で病死した。嗣子がなく、跡を兄の高嶷が継いだ。

系譜

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