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藤沢周次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤沢 周次
自画像(『北海タイムス』1904年11月3日付2面)
人物情報
別名 藤沢 古雪(ペンネーム)、菊丸(幼名
生誕 (1875-04-10) 1875年4月10日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1945-11-29) 1945年11月29日(70歳没)
日本の旗 日本 東京都杉並区
出身校 東京帝国大学文学部英文科 卒業
学問
時代 明治大正
研究分野 英文学
研究機関 学習院
学位 学士(文学)
称号 学習院名誉教授
主要な作品 『英国文学史』(栗原基との共編著)
『史劇がらしあ』(戯曲)
『珊瑚の宮』(戯曲)
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藤沢 周次(ふじさわ しゅうじ、1875年4月10日 - 1945年11月29日)は明治大正日本英文学者劇作家学習院名誉教授。号は古雪(こせつ)。

来歴

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1875年(明治8年)、新潟県士族(元佐渡奉行所幕臣)・藤沢親之の次男として東京府に生まれる[1]幼名菊丸(きくまる)。東京帝国大学文学部英文科に入学し、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)から英語を学んだ。在学中、英作文の優秀者に与えられる賞を受賞しているが、その理由は英文の正確さ以上に「内容が優れている」と評されてのものであった[2]。同期には森清子爵森有礼長男)、内ヶ崎作三郎衆議院議員)、小日向定次郎(英文学者)、栗原基(同)、小島武雄旧制第五高校教諭)らがいる[2]

1901年(明治34年)に東京帝国大学を卒業した後、志願兵として青山陸軍歩兵第3連隊に配属されるが訓練中に右手を負傷して除隊され、療養生活に入る[3]。この頃から「藤沢古雪」の名義で戯曲の執筆やドイツ文学の翻訳に従事した。1904年(明治37年)、北海タイムス社が主催した『北海道歌』の歌詞募集において応募作が入選する[4]。この入選作は小山作之助の作曲で、11月3日付の同紙1面に歌詞と楽譜が掲載された。

1905年(明治38年)12月に嘱託で学習院の英語教授となり、翌1906年(明治39年)6月に高等官6等の待遇で正式に着任する[5]学習院高等科で英語主任を務めていた1925年(大正14年)、英語および英文学研究のためヨーロッパへの渡航を命じられる。1年2か月の渡航留学で初めはパリ、後にロンドンへ滞在し、帰りの船では教え子の秩父宮雍仁親王と乗り合わせた。船上では手慰みにスケッチを描いていたが、その腕前は本職の画家にもひけを取らない出来栄えであり親王は「藤沢は絵で飯が食えるのだ」と激賞したという[2]

1936年昭和11年)、依願により学習院中等科主任を退官。名誉教授の号を授与される[5]

1945年(昭和20年)11月29日、杉並区阿佐谷の自宅で脳溢血のため死去。享年71(満70歳没)。生涯独身で妻子はいなかったため、甥の藤沢威雄が喪主を務め12月23日に親族のみで葬儀が行われた旨の死亡広告が翌1946年(昭和21年)1月14日付の毎日新聞に掲載された[2]

作品

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特に注記の無い場合は「藤沢古雪」名義。

戯曲

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  • ささやき(金港堂、1903年
  • 史劇 がらしあ(大日本図書、1907年) - 藤沢周次名義。
  • 珊瑚の宮(敬文館、1926年) - 藤沢周次名義。

訳書

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『ささやき』に収録。
アルフォンス・ドーデ快男子タルタラン』、フリードリヒ・フーケアンデイン』の2作品。

研究書

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  • 英国文学史(博文館、1907年) - 藤沢周次名義、栗原基との共編著。

家族・親族

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栄典

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参考文献

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出典

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  1. ^ 『人事興信録』第14版下(人事興信所、1943年)フ, p57。
  2. ^ a b c d 片々子(1946)。
  3. ^ 『ささやき』巻頭、梅沢和軒国文学者)の序文。NDLJP:889059
  4. ^ 『北海タイムス』1940年(昭和15年)7月5日付5面「半世紀前の北海道歌 構想に開拓偲ぶ」。
  5. ^ a b 佐藤(1984), pp 67-69。
  6. ^ 『人事興信録』第9版(人事興信所、1931年)ヤ,p75。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

関連項目

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