裏松良光
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裏松良光 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 嘉永3年4月19日[1](1850年5月30日) |
死没 | 大正4年(1915年)9月12日[1][2] |
主君 | 孝明天皇→明治天皇→大正天皇 |
氏族 | 裏松家 |
父母 | 父:裏松勲光、母:四辻績子(四辻公績の長女) |
兄弟 | 良光、水無瀬忠輔、今子、為子 |
妻 | 万里小路千代子(万里小路博房の三女) |
子 | 友光、良子 |
裏松 良光(うらまつ たるみつ)は、幕末の公家、明治から大正期の陸軍軍人・政治家・華族。最終階級は陸軍歩兵少佐。貴族院子爵議員。裏松家10代当主。
経歴
[編集]文久元年12月3日(1862年1月2日)元服して昇殿を許され従五位上に叙せられ筑前権介に任じられた[4]。中務権少輔、兼中宮権大進などを歴任し、明治2年8月22日(1869年9月27日)侍従に就任[2][4]。明治5年1月14日(1872年2月22日)依願免本官となりドイツ帝国へ留学[2][4][5]。1874年3月に官費留学生に帰国命令が出されたが、自費留学が認められ、1875年(明治8年)10月31日に帰国した[4][5]。祖父裏松恭光の死去に伴い、明治5年2月12日(1872年3月20日)家督を相続[1][3][4]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[6]。
1876年(明治9年)3月4日、陸軍歩兵少尉に任官し陸軍戸山学校附となる[2][4]。以後、名古屋鎮台歩兵第6連隊小隊長、東京鎮台歩兵第2連隊小隊長、同歩兵第3連隊小隊長、歩兵第17連隊中隊長、歩兵第32連隊中隊長などを歴任[2]。1898年(明治31年)4月1日、歩兵少佐に昇進と同時に後備役に編入された[7]。
1902年(明治35年)10月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[8][9]、死去するまで在任した[2][10]。
栄典
[編集]系譜
[編集]- 父:裏松勲光
- 母:裏松績子(四辻公績長女)[1][4]
- 妻:裏松千代子(万里小路博房三女)[1]
- 二男:裏松友光(貴族院子爵議員)[1]
- 長女:正親町良子(正親町季董夫人)[1]
- 弟:水無瀬忠輔(水無瀬経家養子)[1]
- 妹:大原今子(大原重朝夫人)・西五辻為子(西五辻文仲夫人)[1]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『平成新修旧華族家系大成 上巻』260頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』37頁。
- ^ a b 『人事興信録 第4版』う36頁。
- ^ a b c d e f g 『裏松家譜』
- ^ a b 『新訂増補 海を越えた日本人名事典』153頁。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『官報』第4423号、明治31年4月2日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、11頁。
- ^ 『官報』第5792号、明治35年10月23日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、23頁。
- ^ 『官報』第822号「叙任及辞令」1915年5月1日。
参考文献
[編集]- 『裏松家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
- 『新訂増補 海を越えた日本人名事典』日外アソシエーツ、2005年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 裏松家初代 1884年 - 1915年 |
次代 裏松友光 |