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谷川繁次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

谷川 繁次(たにがわ はんじ、生没年不詳)は、岡山藩士。通称は繁次、春吾、定次郎。諱は鎮秀

経歴

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金光等平の四男として生まれる。兄に金光與一郎谷川幾三郎がいる。

元治元年(1864年)7月18日、新流大砲隊仰付になり、安東四郎大夫(800石・後の大目付)の組下となる。同年11月7日、前髪を落とす(元服)。このことから生年は嘉永元年(1848年)頃と考えられる。同年中、長州征伐のため出陣し慶応元年(1865年)2月2日凱陣。

慶応2年(1866年)9月15日より、湊村台場(岡山市湊)に配属。慶応3年(1867年)2月28日、御後園(後楽園)裏にて槍術御前試合に出て手拭を賜った。

慶応3年(1867年)12月、山田市郎左衛門判形格)が山口(山口県山口市)にて木戸準一郎から「朝幕間で戦が起これば備前藩天皇行在所にしたいので宜しく頼む」と要請があったため、近藤定常の提案で閑谷学校を行在所にし、併せて天皇親衛隊200名を募集することとなったので繁次は参加を決断した。親衛隊は勇戦隊義戦隊の2隊編成となり、繁次は勇戦隊所属となった。同年12月27日太政官より下命された西宮警備(兵庫県西宮市)に赴くよう命ぜられ、翌明治元年(1868年)1月4日に領内の福濱村(岡山市福浜)から船に乗船し出陣(西宮着陣は1月6日)。

明治元年(1868年)2月6日、太政官より岡山藩が江戸東征軍(新政府軍)先鋒を命じられたため、勇戦隊と耕戦隊兵)は森下立太郎(耕戦隊長)指揮下となり2月9日江戸への出陣に加わる。同年4月11日、江戸城明け渡しのため江戸城西の丸に入り接収役に加わる。

明治元年(1868年)閏4月3日、江原鋳三郎率いる撒兵隊(さっぺいたい)の分隊を中心とした旧幕府軍との戦い(八幡戦争)に岡山藩先鋒援兵のため五井・姉ヶ崎(千葉県市原市)方面の戦闘に参加。同月7日、姉ヶ崎陣屋(鶴牧陣屋)を差押える。同月11日、江戸へ引揚。

明治元年(1868年)5月15日、彰義隊討伐(上野戦争)に加わる。同月17日より市中巡進(見廻り)する。

明治元年(1868年)6月6日、新政府より命じられた奥州出兵(戊辰戦争磐城の戦い二本松の戦い)のため第一陣の一員となる。同月10日出陣、海路途中銚子湊(千葉県銚子市)で滞陣して同月21日平潟(茨城県北茨城市)に上陸。6月22日より関田(福島県いわき市)で大江文左衛門率いる仙台藩並びに平藩兵と戦う。同月24日、植田(福島県いわき市)では敵の奇襲が来る前に軍と共に関田に引揚。同月27日、薩摩藩兵・大村藩兵とともに海岸沿いの道を進軍し泉藩(福島県いわき市)攻略に加わる。同月29日、湯長谷(福島県いわき市)に着陣。同年7月13日、磐城平城攻城戦に加わり翌日落城のために入城した。同年7月25日、三春(福島県三春町)出兵に加わる。同月27日三春藩降伏のため三春に滞陣。同月28日、小浜(福島県二本松市)を出て翌29日に阿武隈川を渡河して二本松城攻略に加わった。

その後は会津戦争には加わらず、明治元年(1868年)8月5日には岡山藩兵の一部三春への移兵の人員となる。同月8日、守山(福島県郡山市)へ出兵・磐城平(福島県いわき市)に廻兵し翌9日三春へ引揚し水門口警備をするなど番兵として勤めをしている。

明治元年(1868年)10月2日、白石城下へ移動。同月12日、岡山藩兵東京へ引揚となり総裁・伊庭内記番頭)たちに随う。同月28日、岡山藩東京屋敷に凱旋し池田章政よりを賜る。同年11月24日、京都へ出立し12月11日到着する。同年12月12日、御所酒肴を仰付あり翌13日岡山へ出立。同月21日岡山へ帰国、御後園(後楽園)で酒肴仰付あり。

明治2年(1869年)2月13日、第八大隊小隊長識補に任じられる。

兄・幾三郎が箱館戦争戦死したため藩命により明治2年(1869年)7月9日、養子となった。明治3年(1870年)2月28日、兄・幾三郎生前の功績により一家相立(食禄80・初代)となったため、幾三郎家2代当主となった。

参考文献

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  • 岡山大学附属図書館 池田家文庫マイクロフィルム目録データベース〔先祖【並】御奉公之品書上〕谷川春吾
  • 岡山大学附属図書館 池田家文庫マイクロフィルム目録データベース 御奉公之品書上・谷川定次郎