豊島陽蔵
豊島 陽蔵(てしま ようぞう、嘉永5年9月3日(1852年10月15日) - 大正11年(1922年)2月9日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。広島市長[1]。広島県平民[1]。
経歴
[編集]安芸国矢賀(現在の広島市東区)出身[2]。豊島文礼の二男[1]。
明治8年(1875年)2月、陸軍兵学寮に入り、同年12月、陸軍士官学校に入学。明治10年(1877年)4月、陸軍教導団付・見習士官となり、同年11月、陸士に帰校。明治12年(1879年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸士(旧2期)砲兵科を卒業した。
明治13年(1880年)5月、大阪鎮台野戦砲兵第2大隊付となり、教導団教官、要塞砲兵幹部練習所練習員を経て、明治23年(1890年)5月、砲兵少佐に昇進し要塞砲兵第1連隊大隊長となる。その後、砲兵第2方面副提理、要塞砲兵幹部練習所長を歴任。明治27年(1894年)11月から翌年11月まで日清戦争に出征し、この間、臨時徒歩砲兵連隊長、東京湾要塞保塁団司令官を務めた。
明治28年(1895年)11月、砲兵会議審査官に就任、陸軍要塞砲兵射撃学校長に異動し明治30年(1897年)10月、砲兵大佐に進級した。明治32年(1899年)10月、東京湾要塞砲兵連隊長に発令され、明治35年(1902年)5月、陸軍少将に昇進し要塞砲兵監に就任。翌年1月、野戦砲兵監を兼務した。
明治37年(1904年)5月、攻城砲兵司令官兼第3軍砲兵部長に発令され日露戦争に明治38年(1905年)6月まで出征。旅順攻囲戦では第3軍の全砲兵を指揮した。明治38年(1905年)1月、独立重砲兵旅団長に転じ奉天会戦に参戦した。
明治39年(1906年)2月、要塞砲兵監に就任、重砲兵監に異動し、明治41年(1908年)12月、陸軍中将に進んだ。大正元年(1912年)9月に待命となり、翌年9月に休職。1914年(大正3年)1月7日、予備役となる[3]。1915年(大正4年)4月1日に後備役となり[4]、1919年(大正8年)4月1日に退役した[5]。
大正3年(1914年)1月29日広島市長に就任、同年4月2日退任[6]。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1891年(明治24年)12月28日 - 従六位[7]
- 1895年(明治28年)3月28日 - 正六位[8]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[9]
- 1902年(明治35年)9月20日 - 正五位[10]
- 1907年(明治40年)10月11日 - 従四位[11]
- 1912年(大正元年)11月20日 - 正四位[12]
- 1914年(大正3年)1月30日 - 従三位[13]
- 勲章等
- 1892年(明治25年)5月28日 - 勲六等瑞宝章[14]
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[17]
- 1902年(明治35年)5月31日 - 勲四等瑞宝章[18]
- 1904年(明治37年)11月29日 - 勲三等瑞宝章 [19]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、勲二等旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[20]
家族・親族
[編集]豊島家
[編集]- 男・龍[1]
- 男・厚[1]
- 男・恂[1]
- 男・武[1]
- 男・勇[1]
- 孫[1]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 『人事興信録. 4版』(大正4年)て二頁
- ^ 豊島医院 - iタウンページ
- ^ 『官報』第431号、大正3年1月8日。
- ^ 『官報』第812号、大正4年4月20日。
- ^ 『官報』第2009号、大正8年4月17日。
- ^ 歴代広島市長(広島市ホームページ)
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3521号「叙任及辞令」1895年3月29日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5767号「叙任及辞令」1902年9月22日。
- ^ 『官報』第7288号「叙任及辞令」1907年10月12日。
- ^ 『官報』第94号「叙任及辞令」1912年11月21日。
- ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
- ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
- ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
- ^ 『官報』第5671号「叙任及辞令」1902年6月2日。
- ^ 『官報』第6426号「敍任及辞令」1904年11月30日。
- ^ 『官報』号外、「叙任及辞令」1906年12月30日。