伏見宮貞敬親王
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(貞敬親王から転送)
伏見宮貞敬親王 | |
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伏見宮 | |
続柄 | |
称号 | 勝光明院 |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
安永4年12月10日(1776年1月1日) |
死去 |
天保12年1月21日(1841年2月12日)(65歳没) |
配偶者 | 一条輝子(一条輝良の娘) |
子女 |
伏見宮邦家親王 梨本宮守脩親王 韶子女王 直子女王 他 |
父親 | 伏見宮邦頼親王 |
母親 | 松木宗美の娘 |
役職 |
上野太守 兵部卿 |
サイン |
伏見宮貞敬親王(ふしみのみや さだよししんのう)は、江戸時代の日本の皇族。世襲親王家の伏見宮第19代当主。伏見宮邦頼親王の王子。幼称は嘉禰宮(かねのみや)。
経歴
[編集]安永8年(1779年)の後桃園天皇の崩御の際には、皇位継承の候補となった[1][2]。
寛政9年(1797年)8月親王宣下。貞敬と命名される。同月元服し、上野太守に補任され三品に叙せられる。享和2年(1802年)父邦頼親王が薨去したことにより伏見宮を相続する。文化元年(1804年)兵部卿となり、翌文化2年(1805年)には二品に昇叙される。文化8年(1811年)一条輝良の女輝子(てるこ)と結婚する。天保12年(1841年)正月一品に昇叙するが、間もなく薨去した。67歳。
なお貞敬親王から見て、香淳皇后が玄孫であることから、第125代天皇明仁は来孫、第126代天皇徳仁は昆孫にあたる[注釈 1]。
家族
[編集]- 子
- 第1王子:邦家親王(1802-1872) - 20代伏見宮
- 第2王子:尊宝法親王(1804-1832) - 青蓮院門跡、223世天台座主
- 第1王女:師子女王(1805-1833)
- 第2王女:韶子女王(1806-1841) - 松平忠堯室
- 第3王子:某王(1806) - 普照院
- 第4王子:尊誠法親王(1806-1822) - 一乗院門跡
- 第3王女:日尊女王(1807-1868) - 瑞龍寺門跡
- 第5王子:某王(1808) - 清観院
- 第4王女:英子女王(1808-1857) - 徳川斉明室
- 第5王女:某女王(喜之宮、1810-1811)
- 第6王女:種子女王(1810-1863) - 錦織寺歓慈常厳室
- 第7王女:某女王(陳宮、1811-1813)
- 第6王子:某王(千嘉宮、1814-1815)
- 第8王女:増子女王(1815-1859) - 東本願寺光浄宝如室
- 第7王子:某王(苞宮、1816)
- 第9王女:宗諄女王(1816-1891) - 霊鑑寺門跡
- 第10王女:政子女王(1817-?) - 錦織寺宅慈養子、高田瑞泉寺室
- 第11王女:隆子女王(1818-1860)
- 第8王子:尊常法親王(1818-1836) - 一乗院門跡
- 第9王子:某王(和宮、1819)
- 第10王子:守脩親王(1819-1881) - 初代梨本宮
- 第11王子:某王(懐宮、1820-1831) - 聖護院門跡附弟
- 第12王子:某王(煥宮、1821)
- 第13王子:某王(佐那宮、1822-1823)
- 第14王子:某王(1822) - 戒珠院
- 第12王女:某女王(正宮、1823)
- 第15王子:某王(1824) - 証妙楽院
- 第13王女:某女王(泰宮、1824)
- 第14王女:某女王(福宮、1825)
- 第15王女:某女王(登久宮、1828)
- 第16王女:某女王(1828) - 盧遮那院
- 第16王子:某王(1829) - 漸学院
- 第17王女:直子女王(1830-1893) - 徳川慶壽室
- 第18王女:某女王(芳宮、1831)
- 第19王女:成淳女王(1834-1865) - 有栖川宮韶仁親王養女、中宮寺門跡
貞敬親王は16男19女もの子宝に恵まれたが、成人した男子は5人にとどまった。幕末・明治期まで存命した男子は邦家親王と守脩親王のみである。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “四親王家実録 第Ⅰ期 伏見宮実録 第14巻・第15巻 貞敬親王実録 全2巻”. ゆまに書房. 2024年5月20日閲覧。
- ^ “四親王家実録 第Ⅳ期 閑院宮実録 第7巻・第8巻 美仁親王実録 全2巻”. ゆまに書房. 2024年5月21日閲覧。
外部リンク
[編集]- 『親王・諸王略傳』貞[貞敬] - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)