賀茂神社 (鳥取県南部町)
賀茂神社 | |
---|---|
所在地 | 鳥取県西伯郡南部町倭3 |
位置 | 北緯35度20分59.4秒 東経133度19分54.6秒 / 北緯35.349833度 東経133.331833度座標: 北緯35度20分59.4秒 東経133度19分54.6秒 / 北緯35.349833度 東経133.331833度 |
主祭神 | 別雷命 |
社格等 | 旧郷社 |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 大社造 |
別名 |
賀茂大明神 賀茂両社 賀茂下上大明神 |
例祭 | 10月19日 |
地図 |
賀茂神社(かもじんじゃ)は鳥取県西伯郡南部町倭にある神社。 旧社格は郷社[1]。
由緒
[編集]創立年代不詳。京都賀茂別雷神社より御分霊を奉遷して大平山(おおなるやま)の頂上に鎮座していたと云われる。その後、同山の中腹小平という所に遷り、さらに同山の麓に奉遷したと伝えられる[1]。
戦国時代、尼子経久が伯耆国を領有すると、崇敬篤く社領100石が寄附された他、度々参拝して祈願、奉幣、社殿造営が行われたが、尼子氏滅亡と共に当社も次第に衰微した[1]。江戸時代の1733年(享保18年)鳥取藩主池田氏より社領高10石の寄進があり、1872年(明治5年)4月郷社に列せられ、1907年(明治40年)2月3日に神饌幣帛料供進社に指定された[2]。猪小路、北方、原、小原、新庄、上阿賀、下阿賀7ヶ村の氏神であり、近世まで賀茂大明神と称した[3]。
1916年(大正5年)5月に大国村大字北方字宮ノ峠ノ山鎮座の無格社北方神社、同村大字原字客ノ前鎮座の無格社小原神社、1917年(大正6年)4月30日に天津村大字阿賀字王子﨏山鎮座の無格社阿賀神社、同村大字同字トヲベン神田鎮座の無格社田邊神社を合併した[2]。
境内社
[編集]糺神社(ただすじんじゃ)は本社と同時の創立と思われ、本社と併せて賀茂両社、あるいは賀茂下上大明神と称されていた[2]。
鷺神社(さぎじんじゃ)の創立年代は不詳[4]。もと雲伯の国境渡田峠、通称疱瘡ヶ峠と称する所に鎮座していた。古来疱瘡神として信仰篤く、旧藩主池田氏の祈祷所であったと伝えられる[2]。1897年(明治30年)10月失火により社殿が焼失したが1905年(明治38年)5月に再建された。1916年(大正5年)猪小路鎮座の田中神社(祭神:磐長姫命)を合併し、1917年(大正6年)に渡田峠より現在地の賀茂神社境内に奉遷した[4]。 もとの場所には小祠があり祠内に疱瘡地蔵が祀られ[5]、小祠の前には1825年(文政8年)6月の御神燈が残されている[4]。現在の祭神は稲背脛命であるが『伯耆志』に「祭神は束積の鷺神社に同じ」とあるため、もとの祭神はスサノオであった可能性がある[4]。
祭神
[編集]- 主祭神
- 配神
- 神武天皇
- 天照大御神
- 豊岩窓命(北方神社:大正5年5月、阿賀神社:大正6年4月30日合祀)
- 大己貴命(小原神社:大正5年5月合祀)
- 少彦名命(小原神社:大正5年5月合祀)
- 倉稲魂命(田邊神社:大正6年4月30日合祀)
- 素戔嗚命(阿賀神社:大正6年4月30日合祀)
境内
[編集]-
本殿
-
拝殿
-
随神門
-
神楽殿
-
祭器庫
-
手水社
-
一の鳥居
-
左が賀茂神社
右が糺神社 -
二の鳥居
- 境内神社
- 糺神社 - 祭神:玉依姫命
-
糺神社
-
本殿
-
拝殿
-
拝殿と本殿
- 鷺神社 - 祭神:稲背脛命、磐長姫命
-
鷺神社
現地情報
[編集]所在地
[編集]交通アクセス
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 石破洋『イナバノシロウサギの総合研究』牧野出版、2000年6月1日。
- 鳥取縣神社廰 (2024年). “賀茂神社”. 鳥取縣神社廰(公式ホームページ). 2024年12月24日閲覧。
- 鳥取県神職会『鳥取県神社誌』鳥取県神職会、1935年、474–475頁。