赤羽橋
赤羽橋 | |
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北側の赤羽橋交差点。奥に見えるのが赤羽橋。 | |
基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 東京都港区 |
交差物件 | 古川 |
建設 | 1974年(昭和49年)3月 |
座標 | 北緯35度39分16.6秒 東経139度44分42.8秒 / 北緯35.654611度 東経139.745222度 |
構造諸元 | |
材料 | 鋼橋 |
全長 | 17.50 m |
幅 | 30 m |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
赤羽橋(あかばねばし)は、東京都港区の古川に架かる橋。また、北西側にある都営地下鉄大江戸線赤羽橋駅周辺を指す地名。
概要
[編集]北東が芝公園四丁目、北西が東麻布一丁目、南西が三田一丁目、南東が芝一丁目。
国道1号桜田通りの一部で、北側の赤羽橋交差点で東京都道319号環状三号線、東京都道301号白山祝田田町線と交差する。上部は首都高速道路都心環状線に覆われ、芝公園出入口で周辺道路と接続する。
歴史
[編集]江戸時代の橋
[編集]創架年代は不明だが、「正保江戸図」には橋が確認できる[1]。延宝3年(1675年)古川の浚渫工事に伴い木橋が架けられ、寛文7年(1667年)頃古川の拡福工事により土橋となった[2]。
修復は近隣大名の月番で行われ、文政頃には久留米藩有馬頼徳、高知藩山内豊資、伊予松山藩松平定通、浜松藩水野忠邦、川越藩松平斉典、郡山藩柳沢保泰、新庄藩戸沢正胤、三春藩秋田孝季、丸亀藩京極高朗、島原藩松平忠侯、臼杵藩稲葉幾通、清末藩毛利元世、佐土原藩島津忠徹、芝村藩織田長恭の14家が担当していた[2]。この時の橋は長さ11間、幅4間2尺、高さ3尺5寸[2]。
橋周辺
[編集]古川の内、赤羽橋周辺は特に赤羽川、中ノ橋との間の河岸地は赤羽河岸と呼ばれた。北西側の河岸地では魚商人が毎朝「ちょっと」の間立売を行ったため、ちょろ河岸と呼ばれた[3]。
橋の北東側には増上寺裏門赤羽門があり、寺への延焼を防ぐ火除地として赤羽広小路が設けられていた。
橋の南側は江戸時代初期には農村だったが、明暦年間久留米藩有馬家上屋敷、寛文7年(1667年)芝松本町一丁目、二丁目、芝新網町代地、芝中門前三丁目代地が成立し、市街化した。
文政元年(1818年)、久留米藩が国元から藩邸に水天宮を勧請して賑わったが、明治4年(1871年)、青山に移転した[4]。
文久3年(1863年)4月13日、浪士組を率いていた清河八郎が橋近辺にて暗殺されている[5]。
近代
[編集]- 1874年(明治7年)12月 長さ21m、幅11m、木橋[6]
- 1891年(明治24年)4月 長さ20m、幅11m、鉄橋[7]
- 1901年(明治34年) 長さ18m、木橋[8]
- 1926年(大正15年) 長さ15.75m、幅18.19m、鋼橋[4]
- 1974年(昭和49年)3月 長さ17.50m、幅30m、鋼橋[9]
1872年(明治5年)、久留米藩邸跡は芝赤羽町となり、1967年(昭和42年)まで存在した[4]。
都電時代は橋上を三田線が通り、南側の赤羽橋停留場で古川線と接続していた。
句
[編集]- 『誹風柳多留』ケイ22「赤羽根や橋の下にも菜の畠」
- 田安宗武『天降言』赤羽橋帰帆「追風に力もいれで舟人の帆かけて帰るけしきのどけき」
- 北原白秋「時雨降る冬の夜寒に啼く鶏(かけ)の赤羽根橋をわが渡るなり」[4]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 清左衛門「地誌御調書上帳 芝松本町弐丁」『芝町方書上』 12巻、1827年。NDLJP:2571539/72
- 斎藤月岑『江戸名所図会』 3巻、1834年。NDLJP:2563382/28
- 『東京市史稿 橋梁篇』 1巻、東京市、1936年。NDLJP:1915626/195
- 竹内理三『角川日本地名大辞典13 東京都』角川書店、1978年。