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合肥の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
逍遥津の戦いから転送)
合肥の戦い
戦争合肥の戦い
年月日208年冬~268年
場所:合肥(現在の安徽省合肥市
結果:一次(208年):曹操軍の勝利
二次(215年):曹操軍の勝利
三次(233年):魏軍の勝利
四次(234年):魏軍の勝利
五次(253年):魏軍の勝利
六次(268年):晋軍の勝利
交戦勢力
孫権軍(一次)(二次)
軍(三次、四次、五次、六次)
曹操軍(一次、二次)
軍(三次、四次、五次)
軍(六次)
指導者・指揮官
孫権(一次、二次、三次、四次)
諸葛恪(五次)
丁奉(六次)
蔣済張喜(一次)
薛悌張遼(二次)
満寵(三次、四次)
毌丘倹(五次)
司馬駿(六次)
戦力
不明 不明
損害
三国時代

合肥の戦い(がっぴのたたかい/ごうひのたたかい)は、中国後漢末期に、曹操領の南方の要衝の合肥を巡っての間で行われた戦い。三国時代を通じてこの方面では攻防が続けられたが、ついにこの戦線の決着がつくことは無かった。

劉備孫権荊州の一部を返還する代わりに曹操を攻めるという依頼から始まった。215年に起こった戦い(第二次)が有名で、10万人の孫権軍が7千人の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。

合肥城の位置と戦略上の意義

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合肥城は巣湖の北岸に位置し、曹操軍からすると長江流域の前線拠点だった。孫権軍にとっては長江流域の完全掌握にも外征にも必要な拠点だった。合肥城は張遼楽進満寵などが防衛にあたった。孫権軍は巣湖南岸の濡須口に砦を整備するなどしてこれに対峙した。濡須口も孫権軍にとって重要拠点であり、曹操軍と孫権軍が衝突を繰り返した(濡須口の戦い)。

劉馥による合肥城整備

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200年孫策が死に、孫策が廬江太守に任命した李術は孫権に逆らい揚州刺史の厳象を殺害し、それに乗じてか廬江の雷緒陳蘭梅成らが数万人を集めて蜂起するなど長江・淮河一帯は混乱の様相を呈した。この時袁紹と戦っていた曹操はこの方面を鎮撫するには劉馥が適任であると考え、上奏して劉馥を揚州刺史とした[1]

劉馥は当時空城であった合肥城に単騎で入城すると行政機関を整備し雷緒らを帰順させ、屯田・灌漑の整備、教育機関の整備などを行い民政を整え備蓄を増した[2]。劉馥は国家にとって合肥城が要衝になると考え、合肥城の城壁、土塁の強化や城壁に取り付いた兵を打ち払うための木や石・魚油を備蓄するなど戦争の準備もした[3]。この整備が後に孫権軍をおおいに苦しめることとなる。

第一次戦役(208年)

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208年赤壁の戦いで孫権・劉備の連合軍は烏林で曹操軍を打ち破り、曹操は江陵と荊州の守備を部将達に任せると許昌へ撤退した。周瑜ら孫権軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時柴桑に駐屯していた孫権は余勢を駆って自ら軍を指揮して江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。

曹操は張喜と蔣済に1000人の軍を指揮させ即座に救援として派遣し、汝南を通過する際に汝南の兵を指揮させる事とした。張喜と蔣済の軍はそもそも寡兵であった上疫病により頭数が減っていたが、蔣済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、4万の軍勢が救援として接近していると考え軍と共に撤退した[4][5]

209年、曹操は自ら出陣し合肥に陣を張った。史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時期曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される[6]

第二次戦役(215年)

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214年に呂蒙の進言により曹操配下の廬江太守・朱光を破って廬江郡都の皖城の奪取が成り、同年に劉備との荊州統治の係争も一応の解決を見、孫権は再び北方に軍を向ける余裕ができた。孫権は自ら10万を号する大軍を指揮して陸口からそのまま出撃し、合肥城への攻撃を開始した[7]

この時、曹操は合肥城に3人の将軍の張遼、楽進、李典と護軍の薛悌を置いていたが、兵力は7000人弱しかおらず、3将軍の仲は悪かった。楽進と張遼は仮節された上位の将軍であったが、かつて潁川を彼等が守備していた時はいがみ合って協調しないことが多かったため、趙儼の仲裁によって統制されていた。張遼と李典が不和である理由には明確な記述はないが、張遼が呂布の部将であった時、李典は一族の長であった伯父を呂布の配下に殺されている。孫権軍が迫り、薛悌が曹操から預かっていた命令書を3将軍と共に開封すると、「もし孫権が来たならば張遼と李典は出撃せよ。楽進は護軍の薛悌を守り、戦ってはならない」と書いてあった。みな曹操の意図を理解できなかったが、張遼は「公(曹操)は遠征で外におり、救援が到着する頃には敵は我が軍を破っているに違いない。だからこそやつらの包囲網が完成せぬうちに迎撃し、その盛んな勢力をくじいて人心を落ち着かせ、その後で守備せよと指示されている。成功失敗の契機はこの一戦にかかっているのだ。諸君は何をためらうのだ」と主張した[8]。李典はこれに賛成し、「国家の大事にあって顧みるのは計略のみ。個人的な恨みで道義を忘れはしない」と断言し、張遼と共に出撃する事となった[9]

張遼は夜中に敢えて自らに従うという兵を選別し800人を集め、牛肉を将兵に振る舞い、明け方に出撃すると伝えた[10]

明け方、張遼は鎧を着込み戟を持ち自ら先鋒となって孫権の本陣に斬り込み、数十人の兵と2人の将校を斬り、孫権の眼前に迫った。徐盛が負傷し牙旗を奪われて逃走したが、賀斉が牙旗を奪い返し、潘璋が逃亡兵を斬って士気の崩壊を防いだため、前線に戻った。孫権は長戟を振るって身を守りつつ高い丘の上に逃走した。孫権は張遼の率いる軍が寡兵である事を見てとり張遼の軍を幾重にも包囲した[11]

張遼は左右を指差し左右から包囲を突破すると見せかけ、敵軍の意表を突き包囲の中央を急襲。張遼以外は数十人の兵しか脱出する事が出来ず、残りの兵は包囲の中に取り残された。残された兵たちが「将軍は我らを見棄てられるのですか」などと叫んでいるのを聞くと張遼は再び包囲に突撃し残された兵を救出した。孫権軍は張遼の凄まじい攻撃に意気消沈し、脱出していく張遼に敢えて攻撃しようとはしなかった。結局張遼は明け方から日中まで戦い続け、孫権軍は戦意を喪失したと判断し、城まで後退し守備を固めた[12]

その後孫権は合肥城を攻囲したが陥落させる事ができず、陣中に疫病が発生したこともあって10日目で退却を開始した。孫権は自ら最後衛に位置し、武将らとともに撤退の指揮を執っていた。この時川の北岸側には近衛兵1000人弱と、呂蒙蔣欽凌統甘寧が残っているのみであり、一緒に食事をする。張遼はその様子を窺い知ると、楽進ら7000人と襲撃をかけ、孫権軍を幾重にも包囲した[13]。孫権は馬上から弓矢で急襲に応じた。凌統が配下300人と共に包囲を破り、将らが死に物狂いで防戦している間孫権は橋にまで来る事ができたが、橋はすでに張遼らの手によって1丈(3m)余り撤去されていた。孫権の側仕えの谷利が孫権の馬に後ろから鞭を当てて馬に勢いをつけさせ、孫権の乗る馬は橋を飛び越した[14]。賀斉は3000人を率れて孫権を迎える。孫権は船に戻って諸将と会して食事を続けたが、賀斉は孫権の安危を心配して、席を下りて涕泣した。孫権は賀斉を慰め、二度とそんな危険なことをしないと誓った[15]

凌統は孫権が橋を渡った後再び戻って奮戦したが、配下は皆死に、自らも全身に傷を負いながら数十人を斬った。孫権が無事撤退した頃を見計らって自らも撤退したが、橋は壊れていたので革の鎧を着たまま河に飛び込んだ。船に乗っていた孫権は凌統が無事帰還すると狂喜した[16]

張遼は孫権の容貌を知らなかった。孫権が最後衛の1000人の中でとても目立ったので、戦いの後に張遼は「勇武と騎射を備えた紫髯の将軍は何者だ」と孫権軍の降兵に問うと、自らが目撃した将軍が孫権その人であった事を知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねた事を惜しんだ[17]

合肥新城の築城

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230年代初頭、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。曹休の後任として都督揚州諸軍事となった満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済はこれを「味方の士気を削ぐ」と反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡(明帝)の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた[18]

第三次戦役(233年)

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233年、孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったので上陸しようとしなかった。満寵は孫権は魏が弱気になっているのではないかと決めつけ、必ず襲撃してくるに違いないと判断し、伏兵として歩騎兵を6千用意したところ孫権が上陸して攻めかかってきた。伏兵らは数100人の首を取った[19]

第四次戦役(234年)

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234年に、孫権は諸葛亮北伐に呼応し、10万の軍勢で自ら親征して巣湖の入り口から合肥新城へと進撃。同時に陸遜諸葛瑾らには1万人余りの軍勢で沔水(漢水)から襄陽へと向かわせ、孫韶張承には淮水から広陵・淮陰へと向かわせ、魏領内への多方面同時侵攻に打って出た。

6月、合肥新城は孫権軍に包囲され、滿寵はいったん合肥新城を放棄して北方の寿春にまで孫権軍を引き込み、そこで改めて敵を迎え撃ちたいと曹叡に打診して許可を求めた。曹叡は「魏呉蜀の三国にとって合肥・襄陽・祁山の3城は兵法で言う所の『兵家必争の地』たる最重要防衛拠点で、魏ではこれまでここを死守することによって呉蜀からの侵攻を撃退することができた。たとえ孫権が合肥新城を攻撃しても決して攻め落とすことはできない、だから諸将に於いてはこれらの城を堅く守り抜くこと。もし私自らが親征して赴けば、敵は恐れを抱いて逃げ出すであろう」と言い滿寵の訴えを却下した。満寵は合肥新城へ救援に赴くと、数十人の義勇兵を募り松と麻の油を用いて風上より火をかけ呉軍の攻城兵器を焼き払い、孫権の甥の孫泰を射殺した[20]

7月、曹叡は御龍舟に乗って東征を開始。孫権軍は幾度も合肥新城を攻撃するも、魏の張穎らが力戦し合肥新城を死守したため、突破口を見出せないでいた。孫権は曹叡の親征を知ると、曹叡の軍が未だ数百里に至る前に撤退。陸遜・諸葛瑾・孫韶らもまた同様に軍を引き上げ、遠征は呉軍の全面敗北という結果に終わった。蜀の諸葛亮も戦果のないまま陣没し、遺された将兵は撤退した(五丈原の戦い[21]

第五次戦役(253年)

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孫権が252年に崩御すると、魏の胡遵諸葛誕らは呉領の東興などを攻めた。呉の諸葛恪丁奉朱異らを指揮して迎え撃ち、魏軍は韓綜桓嘉が戦死して敗走した(東興の戦い[22])。

253年、勢いに乗った諸葛恪は魏に侵攻して合肥新城を包囲した。魏の諸将は慌てたが、司馬師毌丘倹文欽張特に持久戦を命じた。彼らは2ヶ月間城を防衛するが、城内では兵の半分が戦死したり病にかかったりして、合肥新城も呉軍に攻め落とされた。張特はこの状況でまともに戦っても勝機は無いと見て、諸葛恪に対し「魏の法では、城を100日守ればその将兵は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた。諸葛恪はこの言葉を信じ、城への攻撃を中止した。張特は密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。諸葛恪はこれに激怒して城を攻めた。

合肥新城は100日経っても攻め落とせなかった。同年7月、魏の太尉司馬孚が東征して合肥新城の救援に赴くと、呉軍内部で疫病が流行り始めたこともあり、諸葛恪の軍は撤退し8月に呉に帰還した[23]

毌丘倹は「建国以来、これほど困難な戦はなかった」と上奏し、戦死した将兵の功績を讃え、遺族のために便宜を図ったという。

第六次戦役(268年)

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268年秋9月、呉は荊州と揚州で同時に軍事行動を起こした。命をうけた丁奉諸葛靚は芍陂に布陣して合肥を攻撃し、孫晧も自ら東関まで軍をすすめた。

丁奉は、晋側の指揮を取っていた石苞が中央とうまくいっていない事を聞きつけると、有りもしない手紙を送って離間の計を行った。この計略は上手くいき、司馬炎は軍を派遣して石苞を捕らえようとするなど大きな事態に発展しかけたが、孫鑠の助言により武装解除の上石苞自ら寿春を出て罪に服したため、事態は収拾された。司馬駿が変わって丁奉と対峙した。その頃荊州では襄陽を攻めていた万彧胡烈に打ち破られ、江夏を攻めていた朱績も撤退した為、荊州で指揮を執っていた司馬望は合肥方面へ軍を向けた。丁奉は2か月にわたって晋軍と対峙を続けていたが戦況は不利であり、司馬望の救援もやってきたため、冬11月には撤退した[24]。これが三国時代を通して行われた合肥方面での最後の戦いとなっている。

脚注

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  1. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 太祖方有袁紹之難,謂馥可任以東南之事,遂表為揚州刺史。
  2. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 馥旣受命,單馬造合肥空城,建立州治,南懷緒等,皆安集之,貢獻相繼。數年中恩化大行,百姓樂其政,流民越江山而歸者以萬數。於是聚諸生,立學校,廣屯田,興治芍陂及茹陂、七門、吳塘諸堨以溉稻田,官民有畜
  3. ^ ウィキソース出典 三國志魏書·劉司馬梁張溫賈傳 (中国語), 三國志/卷15#劉馥, ウィキソースより閲覧。  - 又高為城壘,多積木石,編作草苫數千萬枚,益貯魚膏數千斛,為戰守備。
  4. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書•武帝紀 建安十三年十二月の項 (中国語), 三國志/卷01, ウィキソースより閲覧。 
  5. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·程郭董劉蔣劉傳 蔣済伝建安十三年の項 (中国語), 三國志/卷14#蔣濟, ウィキソースより閲覧。 
  6. ^ ウィキソース出典 三國志魏書•武帝紀 (中国語), 三國志/卷01, ウィキソースより閲覧。  - 十四年春三月,軍至譙,作輕舟,治水軍。秋七月,自渦入淮,出肥水,軍合肥。辛未,令曰:「自頃已來,軍數征行,或遇疫氣,吏士死亡不歸,家室怨曠,百姓流離,而仁者豈樂之哉?不得已也。其令死者家無基業不能自存者,縣官勿絕廩,長吏存卹撫循,以稱吾意。」置揚州郡縣長吏,開芍陂屯田。十二月,軍還譙。
  7. ^ ウィキソース出典 三國志吳書·吳主傳 (中国語), 三國志/卷47#孫權, ウィキソースより閲覧。  - 十九年五月,權征皖城。閏月,克之。獲廬江太守朱光及參軍董和,男女數萬口。是歳劉備定蜀。(中略)權反自陸口,遂征合肥。
  8. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·張樂于張徐傳 (中国語), 三國志/卷17#張遼, ウィキソースより閲覧。  - 太祖旣征孫權還,使遼與樂進、李典等將七千餘人屯合肥。太祖征張魯,教與護軍薛悌,署函邊曰「賊至乃發」。俄而權率十萬衆圍合肥,乃共發教,教曰:「若孫權至者,張李將軍出戰;樂將軍守護軍,勿得與戰。」諸將皆疑。遼曰:「公遠征在外,比救至,彼破我必矣。是以教指及其未合逆擊之,折其盛勢,以安衆心,然後可守也。成敗之機,在此一戰,諸君何疑?」李典亦與遼同
  9. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·二李臧文吕许典二庞阎传 (中国語), 三國志/卷18#李典, ウィキソースより閲覧。  - 與張遼、樂進屯合肥,孫權率眾圍之,遼欲奉教出戰。進、典、遼皆素不睦,遼恐其不從,典慨然曰:「此國家大事,顧君計何如耳,吾可以私憾而忘公義乎!」乃率眾與遼破走權。
  10. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·張樂于張徐傳 (中国語), 三國志/卷17#張遼, ウィキソースより閲覧。  - 於是遼夜募敢從之士,得八百人,椎牛饗將士,明日大戰。
  11. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·張樂于張徐傳 (中国語), 三國志/卷17#張遼, ウィキソースより閲覧。  - 平旦,遼被甲持戟,先登陷陳,殺數十人,斬二將,大呼自名,衝壘入,至權麾下。權大驚,衆不知所爲,走登高冢,以長戟自守。遼叱權下戰,權不敢動,望見遼所將衆少,乃聚圍遼數重。
  12. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·張樂于張徐傳 (中国語), 三國志/卷17#張遼, ウィキソースより閲覧。  - 遼左右麾圍,直前急擊,圍開,遼將麾下數十人得出,餘衆號呼曰:「將軍棄我乎!」遼復還突圍,拔出餘衆。權人馬皆披靡,無敢當者。自旦戰至日中,吳人奪氣,還修守備,衆心乃安,諸將咸服。
  13. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·張樂于張徐傳 (中国語), 三國志/卷17#張遼, ウィキソースより閲覧。  - 權守合肥十餘日,城不可拔,乃引退。遼率諸軍追擊,幾復獲權。
  14. ^ ウィキソース出典 三國志吳書·吳主傳 (中国語), 三國志/卷47#孫權, ウィキソースより閲覧。  - 建安十九年5月の項と江表伝より、遂征合肥。合肥未下,徹軍還。兵皆就路,權與淩統、甘寧等在津北爲魏將張遼所襲,統等以死扞權。權乘駿馬越津橋得去。《江表傳》曰:權乘駿馬上津橋,橋南已見徹,丈餘無版。谷利在馬後,使權持鞍緩控,利於後著鞭,以助馬勢,遂得超度。權旣得免,即拜利都亭侯。谷利者,本左右給使也,以謹直爲親近監,性忠果亮烈,言不苟且,權愛信之。
  15. ^ ウィキソース出典 三國志 吴書·贺全吕周钟离传 (中国語), 三國志/卷60#賀齊, ウィキソースより閲覧。  - 二十年,從權征合肥。時城中出戰,徐盛被創失矛,齊引兵拒擊,得盛所失。江表伝より《江表传》曰:权征合肥还,为张辽所掩袭於津北,几至危殆。齐时率三千兵在津南迎权。权既入大船,会诸将饮宴,齐下席涕泣而言曰:“至尊人主,常当持重。今日之事,几至祸败,群下震怖,若无天地,原以此为终身诫。”权自前收其泪曰:“大惭!谨以克心,非但书诸绅也。”
  16. ^ ウィキソース出典 三國志 吴書·贺全吕周钟离传 (中国語), 三國志/卷55#凌統, ウィキソースより閲覧。  - 從往合肥,爲右部督。時權徹軍,前部已發,魏將張遼等奄至津北。權使追還前兵,兵去已遠,勢不相及,統率親近三百人陷圍,扶扞權出。敵已毀橋,橋之屬者兩版,權策馬驅馳,統復還戰,左右盡死,身亦被創,所殺數十人,度權已免,乃還。橋敗路絕,統被甲潛行。權旣御船,見之驚喜。統痛親近無反者,悲不自勝。權引袂拭之,謂曰:「公績,亡者已矣,苟使卿在,何患無人?」
  17. ^ ウィキソース出典 三國志吳書·吳主傳 (中国語), 三國志/卷47#孫權, ウィキソースより閲覧。  - 建安十九年5月の項記載の献帝春秋抜粋より《獻帝春秋》曰:張遼問吳降人:「向有紫髥將軍,長上短下,便馬善射,是誰?」降人答曰:「是孫會稽。」遼及樂進相遇,言不早知之,急追自得,舉軍嘆恨。
  18. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書滿田牽郭傳 (中国語), 三國志/卷26#滿寵, ウィキソースより閲覧。  - 青龍元年,寵上疏曰:「合肥城南臨江湖,北遠壽春,賊攻圍之,得據水爲勢;官兵救之,當先破賊大輩,然後圍乃得解。賊往甚易,而兵往救之甚難,宜移城內之兵,其西三十里,有奇險可依,更立城以固守,此爲引賊平地而掎其歸路,於計爲便。」護軍將軍蔣濟議,以爲:「旣示天下以弱,且望賊煙火而壞城,此爲未攻而自拔。一至於此,劫略無限,必以淮北爲守。」帝未許。寵重表曰:「孫子言,兵者,詭道也。故能而示之以弱不能,驕之以利,示之以懾。此爲形實不必相應也。又曰『善動敵者形之』。今賊未至而移城却內,此所謂形而誘之也。引賊遠水,擇利而動,舉得於外,則福生於內矣。」尚書趙咨以寵策爲長,詔遂報聽。
  19. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書滿田牽郭傳 (中国語), 三國志/卷26#滿寵, ウィキソースより閲覧。  - 其年,權自出,欲圍新城,以其遠水,積二十日不敢下舡。寵謂諸將曰:「權得吾移城,必於其衆中有自大之言,今大舉來欲要一切之功,雖不敢至,必當上岸耀兵以示有餘。」乃潛遣步騎六千,伏肥城隱處以待之。權果上岸耀兵,寵伏軍卒起擊之,斬首數百,或有赴水死者。
  20. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書滿田牽郭傳 (中国語), 三國志/卷26#滿寵, ウィキソースより閲覧。  - 明年,權自將號十萬,至合肥新城。寵馳往赴,募壯士數十人,折松爲炬,灌以麻油,從上風放火,燒賊攻具,射殺權弟子孫泰。賊於是引退。
  21. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·明帝紀 (中国語), 三國志/卷03, ウィキソースより閲覧。  - 五月,太白晝見。孫權入居巢湖口,向合肥新城,又遣將陸議、孫韶各將萬餘人入淮、沔。六月,征東將軍滿寵進軍拒之。寵欲拔新城守,致賊壽春,帝不聽,曰:「昔漢光武遣兵縣據略陽,終以破隗囂,先帝東置合肥,南守襄陽,西固祁山,賊來輒破於三城之下者,地有所必爭也。縱權攻新城,必不能拔。勑諸將堅守,吾將自往征之,比至,恐權走也。」秋七月壬寅,帝親御龍舟東征,權攻新城,將軍張頴等拒守力戰,帝軍未至數百里,權遁走,議、韶等亦退。羣臣以爲大將軍方與諸葛亮相持未解,
  22. ^ ウィキソース出典 三國志 吳書 三嗣主傳第三 (中国語), 三國志/卷48#孫亮, ウィキソースより閲覧。  - 閏月,以恪爲帝太傅,胤爲衞將軍領尚書事,上大將軍呂岱爲大司馬,諸文武在位皆進爵班賞,宂官加等。冬十月,太傅恪率軍遏巢湖,〈巢音祖了反。〉城東興,使將軍全端守西城,都尉留略守東城。十二月朔丙申,大風雷電,魏使將軍諸葛誕、胡遵等步騎七萬圍東興,將軍王昶攻南郡,毌丘儉向武昌。甲寅,恪以大兵赴敵。戊午,兵及東興,交戰,大破魏軍,殺將軍韓綜、桓嘉等。
  23. ^ ウィキソース出典 三國志 魏書·三少帝紀 (中国語), 三國志/卷04#齊王, ウィキソースより閲覧。  - 五年夏四月,大赦。五月,吳太傅諸葛恪圍合肥新城,詔太尉司馬孚拒之。
  24. ^ 呉志・三嗣主伝、呉志・丁奉伝 晋書・武帝紀、晋書・安平献王孚伝及び資治通鑑より。武帝紀では司馬望と司馬駿が共同して丁奉を打ち破ったと書かれているが、安平献王孚伝では司馬望が到着する前に丁奉は撤退したとしている