遠山清
遠山 清 | |
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遠山 清 (とおやま きよし) | |
生誕 |
1903年11月15日 愛知県名古屋市 |
死没 | 1963年6月10日(59歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 |
東京美術学校 図画師範科卒業 |
著名な実績 | 洋画 |
代表作 | 『婦人像』(1941年) |
受賞 |
光風賞(1928年) 岡田賞(1941年) |
民族 | 大和民族 |
活動期間 | 1925年 - 1963年 |
影響を受けた 芸術家 | 岡田三郎助 |
遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月15日 - 1963年〈昭和38年〉6月10日)は、日本の教育者、画家。
サンサシオン同人、広井尋常小学校教員、名古屋市立第一高等女学校教員、光風会会員、愛知県立愛知工業高等学校教員、社団法人光風美術会会員、社団法人日展会員、社団法人日展審査員などを歴任した。
概要
[編集]愛知県名古屋市出身の洋画家である[1]。広井尋常小学校、名古屋市立第一高等女学校、愛知県立愛知工業高等学校に教員として勤務する傍ら[2]、光風会展、帝展、日展に出品を続け[1]、光風賞や岡田賞を受賞している[3]。光風会や日展の会員となり[1]、のちに日展の審査員も務めた[1]。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1903年(明治36年)11月15日、大日本帝国の愛知県名古屋市にて生まれた[1]。旧制中学校を卒業すると[1]、上京した[1]。1923年、東京府東京市に所在する東京美術学校に入学し[2][註釈 1]、図画師範科にて絵画を学んだ[1][2]。在学中は岡田三郎助らから指導を受けた[2]。1926年(大正15年)に東京美術学校を卒業した[1][2]。
画家として
[編集]東京美術学校卒業後は愛知県名古屋市に帰郷し[2]、広井尋常小学校で教鞭を執った[2][註釈 2]。1928年(昭和3年)には、名古屋市立第一高等女学校に転じ[2][註釈 3]、そちらで教鞭を執った[2]。1945年(昭和20年)からは、愛知県立愛知工業高等学校にて教鞭を執った[2][註釈 4]。1956年(昭和31年)、教職を辞した[2]。
また、洋画家としても活動しており、東京美術学校に在学していた頃から、鬼頭鍋三郎、松下春雄、中野安治郎らが結成した「サンサシオン」に関心を持っており、サンサシオン展に出品を重ねていた[2]。1926年(大正15年)にはサンサシオンの同人として名を連ねた[2]。1928年(昭和3年)に初めて帝展で入選を果たした[1][2][註釈 5]。同年には光風会展にて光風賞を受賞している[1][2][3]。その後も帝展や光風会展に作品を出品していた[1]。1934年(昭和9年)、光風会展を主催する「光風会」の会員となった[1][2][註釈 6]。なお、のちに光風会は社団法人としての認可を得て「光風美術会」となったが[註釈 7]、引き続き会員として在籍した。太平洋戦争終結後は、1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)にかけてフランス、スペイン、イタリア、オランダなどで遊学し[2]、絵画を学んだ。なお、戦後は日展にも作品を出品するようになった[1][註釈 8]。日展を主催する同名の社団法人である「日展」の出品委嘱を経て[1][註釈 9]、1960年(昭和35年)に日展の会員となり[1][2]、1963年(昭和38年)には審査員となった[1][2]。
しかし、脳卒中を発症し[1]、1963年(昭和38年)6月10日に死去した[1]。
作品
[編集]東京美術学校在学中からサンサシオン展に出品を重ねており[2]、1925年(大正14年)には初めて光風会展で入選を果たすなど[2]、早くからその才能を開花させていた。1928年(昭和3年)には、帝展に『青島風景』を出品し[1]、初めて帝展で入選を果たした[1]。同年には光風会展にて光風賞を受賞している[1][2][3]。1929年(昭和4年)には、光風会・サンサシオン合同展にも出品している[2]。1941年(昭和16年)に『婦人像』を出品したところ[1]、帝展、二科展、独立展、新制作展、一水会展、春台美術展、光風会展の出品作の中から選出される岡田賞を受賞している[1][2][3]。
また、1942年(昭和17年)、および、1962年(昭和37年)には個展が開かれており[2]、没後も1964年(昭和39年)に愛知県美術館にて遺作展が開かれている[2]。また、21世紀に入ってからも、生誕100年となる2005年(平成17年)に個展が開かれている[2]。
略歴
[編集]- 1903年 - 愛知県名古屋市にて誕生[1]。
- 1926年 - 東京美術学校図画師範科卒業[1]。
- 1926年 - サンサシオン同人[2]。
- 1926年 - 広井尋常小学校勤務[2]。
- 1928年 - 名古屋市立第一高等女学校勤務[2]。
- 1933年 - サンサシオン解散[2]。
- 1934年 - 光風会会員[1]。
- 1945年 - 愛知県立愛知工業高等学校勤務[2]。
- 1954年 - 光風美術会会員。
- 1960年 - 日展会員[1]。
- 1963年 - 日展審査員[1]。
- 1963年 - 死去[1]。
賞歴
[編集]著作
[編集]画集
[編集]- 遠山清著、名古屋画廊編『遠山清作品集』名古屋画廊、2005年。NCID BB22721765
共著
[編集]- サンサシオン編『加藤松三郎遺作集』サンサシオン、1932年。NCID BB05464575
師匠
[編集]脚注
[編集]註釈
[編集]- ^ 東京美術学校は、のちに東京芸術大学の源流の一つとなった。
- ^ 広井尋常小学校は、のちに名古屋市立笹島小学校の源流の一つとなった。
- ^ 名古屋市立第一高等女学校は、のちに名古屋市立菊里高等学校の源流の一つとなった。
- ^ 愛知県立愛知工業高等学校は、のちに愛知県立愛知総合工科高等学校の源流の一つとなった。
- ^ 帝展は、のちに改組新日展の源流の一つとなった。
- ^ 光風会は、のちに一般社団法人光風会の源流の一つとなった。
- ^ 社団法人光風美術会は、のちに一般社団法人光風会の源流の一つとなった。
- ^ 日展は、のちに改組新日展の源流の一つとなった。
- ^ 社団法人日展は、のちに公益社団法人日展の源流の一つとなった。