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東伏見慈洽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
邦英王から転送)
東伏見邦英
東伏見慈洽
邦英王
久邇宮家・東伏見伯爵家
続柄

身位 臣籍降下
敬称 殿下 → 臣籍降下
出生 (1910-05-16) 1910年5月16日
日本の旗 日本東京府東京市
死去 (2014-01-01) 2014年1月1日(103歳没)
日本の旗 日本京都府京都市
配偶者 東伏見保子(旧姓・亀井)
子女 東伏見韶俶
東伏見慈晃
東伏見睿俶
西川邦子 (具仁子)
父親 久邇宮邦彦王
母親 邦彦王妃俔子
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東伏見 慈洽(ひがしふしみ じごう、1910年明治43年〉5月16日 - 2014年平成26年〉1月1日)は、日本僧侶旧皇族。旧華族久邇宮邦彦王の第3王子。旧名邦英王(くにひでおう)。香淳皇后の弟。第125代天皇・明仁上皇)は甥、第126代天皇・徳仁今上天皇)は大甥にあたる。妻は伯爵亀井茲常の次女・東伏見保子。元衆議院議員亀井久興は妻の甥。後述の経緯により1931年に皇族の身分ではなくなったが、皇族出身者としては記録に残る限りで一番長寿であった人物である(死去時点で103歳7か月16日、37851日)。

生涯

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皇族時代

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1910年明治43年)、久邇宮邦彦王の第三男子として誕生[1][2][3]東伏見宮依仁親王・同妃周子より実子のように可愛がられており、子女がなかった同夫妻は、邦彦王と相談の上、当時9歳であった邦英王を東伏見宮に永く預かりの形で迎えることとなり、邦英王は、1919年大正8年)10月26日の吉辰を卜して東伏見宮邸に移った。邦英王は依仁親王薨去の際は御沙汰によって葬儀喪主を務めた。事実上、邦英王は、宮家の継承者であったといえる。しかし、旧皇室典範は、皇族に養子を認めていなかったため(第42条)、邦英王は東伏見宮を皇族としては継承することができなかった。邦英王を東伏見宮で養育することも、養子またはそれに類似した趣旨で宮内省が認めていたわけではない。1923年(大正12年)に学習院初等科[4]、1928年(昭和3年)に同中等科を卒業し[5]同高等科へ進学した[6]

華族時代

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皇族大礼服を着用した臣籍降下直前の邦英王 有爵者大礼服を着用した臣籍降下後の東伏見邦英
皇族大礼服を着用した臣籍降下直前の邦英王
有爵者大礼服を着用した臣籍降下後の東伏見邦英

邦英王は、1930年昭和5年)5月に成年となり[7]勲一等に叙され[8]、同月15日、貴族院皇族議員となる[9]。しかし、東伏見宮家の祭祀を継承するため、1931年(昭和6年)の紀元節臣籍降下の願出をなした。この願は、皇族会議及び枢密院の諮詢を経て、允可され、同年4月4日に「東伏見」の家名を賜い、華族に列せられ[10]伯爵を授けられた[11]。なお、皇族の身分を離れたことで貴族院議員の資格も消滅した[12]。伯爵東伏見邦英となったあと、1931年(昭和6年)に、仏教の美術関係の書物として、『宝雲抄』(民友社)を刊行した。 『宝雲抄』は、1924年大正13年)4月の春休みに奈良に行ったときの印象や感想を『学習院輔仁会雑誌』に「奈良より」と題して投稿したのをきっかけに、4年間掲載されたものを、ひとつの本にしたものである。

1931年(昭和6年)に学習院高等科を[6]、次いで1934年(昭和9年)に京都帝国大学文学部史学科を卒業[13]後、1939年(昭和14年)度から8年間、同大学で古代美術史などの講師を務めている[1][3]。また1931年、ピアニストとして姉・大谷智子が作詞・歌唱した「同朋の歌」レコードのピアノ演奏を担当、翌1932年(昭和7年)には近衛秀麿指揮の新交響楽団(NHK交響楽団の前身)とともにハイドンピアノ協奏曲ニ長調の録音演奏を行った。これは、同曲の世界初録音である。この音源はローム・ミュージック・ファンデーションによりCD化されており、片山杜秀などによってアマチュア離れした技術と評されているが、彼が実際にピアノを師事した人物についての記録は残っていない。1937年(昭和12年)に横浜市磯子区の高台の上に別邸を建てる[14]。別邸は戦後、西武グループに譲渡され、1954年(昭和29年)に横浜プリンスホテルとして開業する[15]

僧侶時代

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1945年(昭和20年)に京都青蓮院得度1952年(昭和27年)に善光寺大勧進住職に就き、1953年(昭和28年)に青蓮院門跡の門主となって法名を慈洽と称し、長らく門主の地位にあった[1][2][3]1956年(昭和31年)、「飛鳥時代の芸術研究」によって京都大学から文学博士学位を授与される[1][16]1985年(昭和60年)より終生、京都仏教会会長を務めた。

1982年(昭和57年)には、文化観光税(文化観光施設税、文観税)の復活に関する議論を発端として、古都保存協力税問題(古都税問題)が起きる。同問題では、古都税の創設を目指す京都市とこれに反対する京都府仏教会・京都市仏教会(後に統合して京都仏教会[17])が衝突して深刻な対立抗争を繰り広げ、ついには多くの寺院の拝観停止や行政訴訟の提起にまで至った。この間、慈洽は、1984年(昭和59年)に京都市仏教会の会長に就任し、翌1985年(昭和60年)には新たに統合設立された京都仏教会の初代会長に就任して、理事長の松本大圓・清水寺貫主や常務理事の有馬賴底鹿苑寺責任役員、大島亮準・三千院執事長、清瀧智弘・広隆寺貫主らとともに、古都税反対運動の先頭に立ち指導に当たった。同問題は、1988年(昭和63年)3月末限りで古都税を廃止することで収束した。

1995年(平成7年)、喉頭癌の手術により声を失った[18]。青蓮院が属する天台宗の主要寺院が住職の世襲を認めていないのに対し、青蓮院門主の地位を子息に譲ることを強く望んで天台宗教団と鋭く対立し、一時は教団離脱をほのめかして教団に圧力をかけ、ついには世襲を認めさせた。

2004年平成16年)2月、青蓮院の執事長であった次男の慈晃に門主の地位を譲り、自身は名誉門主に就いた。2006年(平成18年)4月、起立性低血圧症を発症し、以後寝たきりの生活を余儀なくされた[18]2009年(平成21年)9月30日に妻の保子が死去した。2010年(平成22年)5月16日、100歳を迎えた。2013年(平成25年)には叔父にあたる東久邇宮稔彦王の存命記録を抜き、臣籍降下をした記録の確かな元皇族の中では歴代最長寿となった。2014年(平成26年)1月1日、死去[1][2][3]。103歳没(享年105)。

栄典

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血縁

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脚注

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  1. ^ a b c d e “東伏見慈洽さん死去 天皇陛下の叔父”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2014年1月1日). オリジナルの2014年1月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140101125521/http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201401010021.html 2016年12月7日閲覧。 
  2. ^ a b c “天皇陛下の叔父、東伏見慈洽氏が死去 103歳”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2014年1月1日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASHC01004_R00C14A1000000/ 2016年12月7日閲覧。 
  3. ^ a b c d “東伏見慈洽師死去 天皇陛下の叔父、京都・古都税廃止に尽力”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2014年1月1日). オリジナルの2016年12月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161220232038/http://www.sankei.com/west/news/140101/wst1401010004-n1.html 2016年12月7日閲覧。 
  4. ^ 学習院編『昭和12年9月 学習院一覧』学習院、1937年、p.335
  5. ^ 学習院編『昭和12年9月 学習院一覧』学習院、1937年、p.291
  6. ^ a b 学習院編『昭和12年9月 学習院一覧』学習院、1937年、p.255
  7. ^ 昭和5年宮内省告示第23号(『官報』第1012号、昭和5年5月17日、p.457)
  8. ^ a b 『官報』第1012号、昭和5年5月17日、p.483
  9. ^ 貴族院編『貴族院事務局報告』貴族院事務局、1932年、p.248
  10. ^ 昭和6年宮内省告示第7号『官報』第1277号、昭和6年4月6日、p.141
  11. ^ 『官報』第1277号、昭和6年4月6日、p.148
  12. ^ 『官報』第1279号、昭和6年4月8日、p.220
  13. ^ 京都帝国大学編『京都帝国大学卒業生名簿』京都帝国大学、1936年、p.312
  14. ^ 磯子区歴史年表 昭和2年~20年 磯子区総務部
  15. ^ 磯子区歴史年表 昭和21年~45年 磯子区総務部
  16. ^ 書誌事項(CiNii Dissertations)”. 国立情報学研究所. 2017年7月20日閲覧。
  17. ^ 1985年(昭和60年)3月、京都府仏教会と京都市仏教会が統合して財団法人となった(京都仏教会編「古都税反対運動の軌跡と展望-政治と宗教の間で」)。
  18. ^ a b 会報『武徳』” (PDF). 大日本武徳会 (2014年10月). 2019年12月27日閲覧。
  19. ^ 『官報』第849号、「叙任及辞令」、昭和4年10月28日、p.672
  20. ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」、昭和5年12月28日、p.742
  21. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  22. ^ a b c d e f g h i j 人事興信録45版ひ24
  23. ^ a b 週刊新潮2011年12月8日p28
  24. ^ https://project.nikkeibp.co.jp/behealth/atcl/feature/00003/101300245/
  25. ^ 平成新修旧華族家系大成下p390

外部リンク

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日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
東伏見家初代
1931年 - 1947年
次代
(華族制度廃止)