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金子義晁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

金子 義晁(かねこ よしとも、1894年明治27年〉7月1日 - 1966年昭和41年〉11月27日)は、日本内科医病理学者。医学博士。同和病院初代理事長・院長、元外務省診療所所長、元老人病研究所副所長、元東京医科大学教授。

略歴

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新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)の士族出身[1][注 1]1914年大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1918年(大正7年)7月に第八高等学校を卒業[注 2]1922年(大正11年)3月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。

1922年(大正11年)4月に東京帝国大学医学部病理学第一講座(教授:緒方知三郎)に入室、1927年昭和2年)に東京帝国大学医学部附属医院第二内科(教授:呉建)に入局、1929年(昭和4年)3月に東京帝国大学から医学博士号を取得。

1932年(昭和7年)に入沢達吉[注 3]の勧めで同仁会[注 4]診療所所長に就任[5]1937年(昭和12年)に同仁会東京医院[注 5]院長、1946年(昭和21年)に同和病院[注 6]院長、1949年(昭和24年)に同和病院[注 7]初代理事長・院長に就任[6]

1954年(昭和29年)に同和病院内に老人病研究会とその附置機関の老人病研究所を設立して東京帝国大学医学部病理学第一講座の恩師の緒方知三郎を老人病研究会の会長および老人病研究所の所長に迎えた[10][11][12]

外務省診療所所長を兼任し[5][13]、海外の診療施設に派遣されると、在留邦人の診療制度に貢献した[5]。また、外務省の職員の健康管理に尽力した[11][12][13]

1966年(昭和41年)11月27日午前6時50分に同和病院で尿路腫瘍のため死去[12]

栄典

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家族・親戚

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友人

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著作物

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著書

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  • 『處方集成』沈倹[訳]、同仁会、1936年。

校閲書

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論文

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脚注

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注釈

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  1. ^ 金子義晁の先祖は渥美友吉(太郎兵衛)、渥美友吉の先祖は舎人親王、舎人親王の父は天武天皇。舎人親王が領有していた三河国渥美郡(現 愛知県豊橋市田原市)で舎人親王の子孫が渥美を名乗り、渥美友吉の時に渥美郡に攻めてきた徳川家康の家臣になった。渥美家の分家の渥美利太夫が越後国蒲原郡村松に移って村松藩藩主の堀家に医者として仕え、堀家は渥美利太夫の勤学を褒めたたえて金子姓を与えた(金子利太夫〈金子家初代〉)[2]
  2. ^ 1915年大正4年)9月に第八高等学校に入学。
  3. ^ 金子義晁の岳父の岳父の甥、金子義晁の妻の父の沢田敬義の妻の父の竹山屯の姉の入沢唯とその夫の入沢恭平の長男[3]東京帝国大学名誉教授、見附市名誉市民[4]
  4. ^ 外務省外郭団体
  5. ^ 1945年昭和20年)に神田神保町の東京医院は東京大空襲で焼失、同仁会GHQの命令により解散、1946年(昭和21年)に東京医院は神田淡路町に移転して同和病院と改称[6]
  6. ^ 金子義晁の新潟中学校の先輩で落語家の2代目三遊亭円歌は同和病院で死去した[7]
  7. ^ 同和病院は松田優作主演のテレビドラマ『探偵物語』の「工藤探偵事務所」として撮影に使用された[8][9]
  8. ^ 1903年明治36年)11月に入沢達吉の推薦により就任[17]
  9. ^ 竹山屯は、長崎医学所ポンペ医学を学んで帰郷した義兄の入沢恭平に医学を学んだのち、長崎に赴いて精得館ボードウィンに医学を学んだ。
  10. ^ 1912年(明治45年)3月に入沢達吉の推薦により就任[17]
  11. ^ 坂口献吉は金子義晁が重大な病気であると思い、金子義晁に精密検査を受けるよう勧めた(「書簡」1965年〈昭和40年〉10月3日)[30]
  12. ^ 東京帝国大学医学部病理学教室で研究していた金子義晁は1923年(大正12年)11月3日に同教室で行われた坂口仁一郎病理解剖を観察し、坂口献吉の依頼によりその概要を記した[31]
  13. ^ 坂口安吾が坂口献吉に日本一の医者を紹介すると伝えたところ、坂口献吉は新潟大学医学部第二内科の桂重鴻教授と第一内科の小黒忠太郎助教授、それに金子義晁の診療を受けていて快方に向かっていると返した(「書簡」1954年〈昭和29年〉4月30日)[32]

出典

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  1. ^ 越佐人物誌 上巻』271頁。
  2. ^ 蒲原』第33号、24-25頁。
  3. ^ a b 蒲原』第33号、27頁。『越佐人物誌 名家系譜』127-128頁。
  4. ^ 見附市の名誉市民 - 見附市ホームページ
  5. ^ a b c 蒲原』第33号、24頁。
  6. ^ a b ご挨拶 | 医療法人財団 同仁記念会 明和病院
  7. ^ 青山同窓会會報』第4号、3面。
  8. ^ 工藤探偵事務所老朽化 優作さん「聖地」取り壊し/1998年3月29日付 - 日刊スポーツ新聞社
  9. ^ 同和病院 | KANDAアーカイブ | 神田写真館 - 神田学会
  10. ^ 一般社団法人 老人病研究会 60年のあゆみ』3頁。
  11. ^ a b 越佐人物誌 上巻』272頁。
  12. ^ a b c 新潟日報』1966年11月28日付朝刊、13面。
  13. ^ a b 青山同窓会會報』第3号、1面。
  14. ^ 「叙位・叙勲」『官報』号外第48号、2頁、大蔵省印刷局、1966年4月30日。
  15. ^ 蒲原』第33号、25頁。
  16. ^ a b 蒲原』第33号、27頁。『越佐人物誌 名家系譜』128頁。
  17. ^ a b 新潟市名誉市民 荻野久作と澤田敬義展
  18. ^ 澤田敬義 - 名誉市民 新潟市
  19. ^ 竹山病院 - 病院概要 - 歴史
  20. ^ 竹山病院 - 荻野久作博士について
  21. ^ 荻野久作 - 名誉市民 新潟市
  22. ^ a b 蒲原』第32号、4頁。
  23. ^ 越佐人物誌 名家系譜』128頁。
  24. ^ 蒲原』第32号、4-5頁。
  25. ^ a b 蒲原』第33号、26-27頁。
  26. ^ 徳川(德川)氏(将軍家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~
  27. ^ a b c 寺島氏(薩摩藩士) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~
  28. ^ a b c d e 蒲原』第33号、27頁。
  29. ^ a b c d 細川氏(肥後熊本藩主家) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~
  30. ^ 坂口献吉追悼録』479頁。
  31. ^ 五峰餘影』287頁。
  32. ^ 坂口献吉追悼録』249頁。

参考文献

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  • 「金子義晁(かねこよしあき)」『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』182-183頁、泉孝英[編]、医学書院、2012年。
  • 「金子義晁(かねこよしとも)」『越佐人物誌 上巻』271-272頁、牧田利平[編]、野島出版、1972年。
  • 「金子義晁(よしとも)」「越後のお医者山脈 (9)」『蒲原』第33号、24-29頁、沢田百泉[著]、継志会、1973年。
  • 「金子義晁(トモ)」『村松町史 下巻』164頁、村松町史編纂委員会[編]、村松町教育委員会事務局、1982年。
  • 「金子義晁氏」『新潟日報』1966年11月28日付朝刊、13面、新潟日報社、1966年。
  • 金子義晁 (PDF) 」「多年の功績に対し叙勲」『青山同窓会會報』第3号、1面、青山同窓会、1966年。
  • 金子さん (PDF) 」『青山同窓会會報』第4号、3面、湊元克巳[著]、青山同窓会、1967年。
  • 「竹山家」『越佐人物誌 名家系譜』127-129頁、牧田利平[編]、野島出版、1986年。
  • 「竹山家、沢田家系図」「越後のお医者山脈 (8)」『蒲原』第32号、3-8頁、沢田百泉[著]、継志会、1973年。
  • 『新潟市名誉市民 荻野久作澤田敬義展』新潟市立沼垂図書館[編]、新潟市立沼垂図書館、2002年。
  • 阪口仁一郞氏遺骸剖檢錄」『五峰餘影』287-291頁、金子義晁[著]、坂口献吉[編]、坂口献吉(私家版)、1929年。
  • 「書簡」『坂口献吉追悼録』169-488頁、坂口献吉[著]、BSN新潟放送・新潟日報社[編]、BSN新潟放送新潟日報社、1966年。
  • 一般社団法人 老人病研究会 60年のあゆみ (PDF)老人病研究会、2013年。