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金森馨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

金森 馨(かなもり かおる、1933年9月3日1980年11月1日)は、日本の舞台美術家。1980年に胃癌のため47歳で死去。

略歴

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東京都江古田生まれ[1]中国青島で育ち、実相寺昭雄と出会う。終戦後北京で過ごした後宮城県白石市引き揚げる。宮城県立白石高校では演劇部在籍後、1950年に東京立正高校に転校。文化学園美術科中退。1951年文学座舞台美術研究生。1952年文学座公演「恭しき娼婦」でデビュー。1954年劇団四季に入団。

1955年「野生の女」で、初めて衣装デザインを手がける。このころ土方巽河原温が住む赤坂(港区)の「赤坂梁山泊」(進駐軍専用の連れ込み宿)と呼ばれるアパートに住み彼らと交友する。奈良原一高池田龍雄、黒木不具人、小原庄助篠原有司男らとも交流があった。

1960年、寺山修司山名雅之とジャズ映画実験室「ジューヌ」を組織する。

1963年、長女マユ誕生。このころ星新一の著書『気まぐれ指数』『エヌ氏の遊園地』の装丁を手がける。

1971年、金森美弥子と結婚。

1974年、(かお)誕生。

1976年「薔薇と海賊」で芸術祭優秀賞を受賞。

1977年、朝倉摂高田一郎と舞台美術の実践研究グループ「AKT」を結成。 1980年、第11回世界音楽祭(武道館)の美術デザイナーを務めた。

1980年、松竹「三銃士2」(12月開演)の美術を担当していたが、11月死去、これが遺作となった。美術は高弟の倉本政典が引き継ぎ担当した。他に馨に師事したのは堀尾幸夫などがいる。

劇団四季は没後、金森馨記念舞台美術奨励賞を制定した。

妻は金森美弥子(ホリプロ専務取締役)。娘にフォトジャーナリストの金森マユ、シアタープロダクツプロデューサー金森香(かお)がある。

主な舞台装置作品

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主な受賞

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  • 1963年 舞踊ペンクラブ賞美術部門賞
  • 1970年 芸術祭賞
  • 1971年 プラハ・カドリエンナーレ展団体銀メダル
  • 1972年 世界コマーシャル・フィルムコンクール「セットデザイン賞」

著書

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  • 舞台装置の姿勢(リブロポート)1981
    • 1950~1980年までの舞台装置作品を豊富な図版と、数々の諸データと共に収録した作品集。浅利慶太、海野弘、妹尾河童らによるテキスト。

テレビドラマの馨

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  • 生命果てる日まで(生命の詩シリーズ3)

脚注

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  1. ^ 梅津 齊 (2020-4-16). 浅利慶太――叛逆と正統――劇団四季をつくった男. 日之出出版. p. 99. ISBN 9784838730964