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鈴木哲 (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鈴木 哲
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県福島市[1]
生年月日 (1964-01-22) 1964年1月22日(60歳)
身長
体重
180 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1989年 ドラフト2位
初出場 1990年6月1日
最終出場 1996年6月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導者歴
オリンピック
男子 野球
1988 野球

鈴木 哲(すずき てつ、1964年1月22日 - )は、福島県出身の日本の元プロ野球選手投手)、野球指導者。

ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。

来歴・人物

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プロ入り前

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中学で野球を始め、当時は三塁手だった[1]福島県立福島高等学校では現聖光学院監督の斎藤智也と同期。1981年夏の福島大会では準々決勝まで進出するが、平工に惜敗。2年浪人して慶應義塾大学文学部に進学した[1]。同期に後に主将となる猿田和三(のち秋田県副知事で石井浩郎秋田高校の先輩)が居たが、当時慶大には課外活動等を評価する推薦制度がなかったため、猿田も2年浪人している。入学時は肩の筋肉が衰えていたが、トレーニングを重ねて2年春には志村亮とともに投手陣の柱に成長[2]1985年秋季リーグではチーム13年ぶりとなる優勝を飾る。直後の明治神宮野球大会では登板がなかったが、1学年下の志村亮が主戦を務めると決勝で西崎幸広を擁する愛知工大を降し初優勝。1986年春季リーグでは、勝てば優勝の決まる早慶戦で9回2死から加藤正樹に逆転サヨナラとなる二塁打を打たれ、優勝を逃している[3]。4年生になると最速145km/hの速球[4]六大学リーグ屈指の速球派右腕と評される。1987年日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。リーグ通算48試合登板、18勝10敗、防御率2.74、199奪三振を記録。プロからも注目を集めたが、海外に出て勉強をしたいとしてドラフト会議前に熊谷組への入社を宣言し[5]、指名する球団は現れなかった。中日ドラゴンズ読売ジャイアンツはそれぞれドラフト1位での指名を検討していたが、鈴木の指名拒否を受けそれぞれ立浪和義橋本清(ともにPL学園の同級生)を1位指名した。[6]

社会人1年目の1988年都市対抗に出場し、1回戦から3試合連続で先発、準々決勝では日本たばこを完封する。しかしNTT東海との準決勝では、同点の9回1死一、三塁の場面で登板し、湯之戸孝修にサヨナラ3ランホームランを打たれた[7]。 また同年は第30回アマチュア野球世界選手権日本代表、ソウルオリンピック野球日本代表に選ばれている[1]。翌1989年都市対抗にもエースとして出場、2勝をあげ準々決勝に進むが新日鐵堺に敗れた。チームメートに宮里太佐藤和弘らがいた。

社会人時代も一貫してプロ入り拒否の姿勢を示していたが、1989年度ドラフト会議西武ライオンズから指名を受けた。指名直後は入団しない事を明言したが、一方でドラフト直前に西武のスカウトと接触しており[8]、二回の交渉の結果、契約金と年俸それぞれ7,500万円、840万円(金額はいずれも推定)で入団に合意している[9]

プロ時代

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1990年から先発・中継ぎとして1軍の試合に登板し、9月12日の対ロッテ戦ではプロ初先発で完封勝利を挙げている。また、11月にはパ・リーグ東西対抗にも出場した[10]

1991年オープン戦の第一戦に先発するなど期待され[11]、7月には連続完投勝利を挙げるなど14試合に先発している。同年の日本シリーズでは第4戦に登板し、2回を3安打1失点に抑えた[12]

1992年は登板機会が減少して年俸は400万円減の1,400万円(推定)となっている[13]。ひじ痛などで思うように成績が伸ばせず[14]

1993年オフに植田幸弘との交換トレード広島東洋カープへ移籍。

1994年はアンダースロー気味にフォームを変え自己最多の36試合に登板して防御率2.62と、リリーフとして活躍した[15]

1995年10月に金銭トレードにより西武に復帰[16]

1997年シーズンを最後に現役を引退した。

現役引退後

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引退後は西武のスカウトとして東北地区や海外を担当した。2012年に二軍ディレクター[17]に就任し、2017年からは編成部(プロ担当チーフ)[18]

2022年11月22日、ベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)・群馬ダイヤモンドペガサスの監督に就任することが発表された[19]2023年シーズンの群馬は北地区の最下位に終わり、シーズン終了後の10月30日に監督退任が発表された[20]

選手としての特徴

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サイドハンド気味のスリー・クォーターから繰り出す140km/h台の速球が持ち味で、スライダーフォークも投げていた[21]。一方で制球力が課題となり[22]先発ローテーションに定着できなかった。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1990 西武 7 4 1 1 0 1 1 0 -- .500 135 28.2 28 2 20 0 3 19 1 0 12 9 2.83 1.67
1991 20 14 2 1 0 4 6 0 -- .400 334 77.2 67 8 41 1 7 48 1 0 39 35 4.06 1.39
1992 4 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 63 11.1 20 3 6 0 1 11 1 0 18 15 11.91 2.29
1993 5 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 48 10.0 10 0 11 0 2 2 1 0 9 9 8.10 2.10
1994 広島 36 6 0 0 0 2 3 1 -- .400 319 75.2 63 6 37 2 3 58 0 0 25 22 2.62 1.32
1995 8 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 37 8.0 8 0 6 0 0 3 1 0 5 5 5.63 1.75
1996 西武 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 23 4.1 6 0 4 0 0 4 0 0 4 1 2.08 2.31
通算:7年 84 26 3 2 0 7 13 1 -- .350 959 215.2 202 19 125 3 16 145 5 0 112 96 4.01 1.52
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

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背番号

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  • 34 (1990年 - 1993年)
  • 26 (1994年 - 1995年)
  • 46 (1996年 - 1997年)
  • 77 (2023年 )

脚注

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  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、295ページ
  2. ^ 朝日新聞、1985年5月31日付夕刊、P.3
  3. ^ 毎日新聞、1993年11月2日付夕刊、P.7
  4. ^ 朝日新聞、1988年6月18日付夕刊、P.3
  5. ^ 読売新聞、1987年11月18日付朝刊、P.17
  6. ^ 【11月18日】1987年(昭62) 長嶋一茂、幻の巨人1位指名
  7. ^ 読売新聞、1988年8月7日付朝刊、P.19
  8. ^ 読売新聞、1989年11月28日付朝刊、P.19
  9. ^ 読売新聞、1989年12月21日付朝刊、P.21
  10. ^ 読売新聞、1990年11月19日付夕刊、P.21
  11. ^ 読売新聞、1991年2月28日付朝刊、P.19
  12. ^ NPB公式記録 1991年日本シリーズ 第4戦
  13. ^ 毎日新聞、1992年12月3日付朝刊、P.21
  14. ^ 朝日新聞、1993年11月16日付朝刊、広島地方面
  15. ^ 読売新聞、1994年10月26日付夕刊、P.3
  16. ^ 読売新聞、1995年10月14日付朝刊、P.21
  17. ^ 【西武】米スカウトにセ最多勝ホッジス氏”. 日刊スポーツ (2011年12月6日). 2011年12月7日閲覧。
  18. ^ 横田久則・鈴木哲についてお知らせ”. 埼玉西武ライオンズ (2016年11月13日). 2016年11月13日閲覧。
  19. ^ 新監督決定のお知らせ - 群馬ダイヤモンドペガサス(2022年11月22日)2022年11月22日閲覧。
  20. ^ 鈴木哲監督退任のお知らせ - 群馬ダイヤモンドペガサス(2023年10月30日)2023年10月30日閲覧。
  21. ^ 読売新聞、1990年3月14日付朝刊、P.19
  22. ^ 読売新聞、1991年8月17日付朝刊、P.18

関連項目

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外部リンク

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