鈴木麟三
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鈴木 麟三(すずき りんぞう、1852年(嘉永5年7月)[1] - 1904年(明治37年)6月27日[2])は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。
経歴
[編集]三河国八名郡能登瀬村(現・愛知県新城市)に生まれる[3]。和学と漢学を学び[1]、その後上京し医科予備門に入り、医学を学ぶが、父の死により帰郷する[3]。その後は能登瀬村戸長、八名郡会議員、愛知県会議員[1]などを歴任する。県議時代は別所街道の整備に尽力した[3]。ほかに当時出された愛知県の東西分県案に対し、県内の西高東低の状況を嘆き、尾張と三河の一体性を理由に反対して撤回させた[3]。1890年の第1回衆議院議員総選挙において愛知県第11区(当時)から立候補するが、151票で落選する(3位)[4]。2年後の第2回衆議院議員総選挙において221票で当選した[5]。1894年の第3回衆議院議員総選挙で落選[6]。以後、立候補しなかった。1904年死去。
親族
[編集]- 妻 - 柴田唯千代(柴田勝家の末裔)[要出典]
- 息子 - 穂積五一(社会教育家)
- 息子 - 穂積七郎(五一の弟、日本社会党衆議院議員)
- 孫 - 穂積亮次(七郎の子、新城市長)
- 娘婿 - 原田清 (北設楽本郷町長、後に名誉町長)
- 孫 - 原田畊作 (清の長男、北設楽郡東栄町長)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。