穂積七郎
穂積 七郎 ほづみ しちろう | |
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生年月日 | 1904年9月30日 |
出生地 | 愛知県八名郡七郷村(現・新城市) |
没年月日 | 1995年12月10日(91歳没) |
出身校 | 東京帝国大学経済学部 |
所属政党 | 日本社会党 |
親族 |
父・鈴木麟三(帝国議会議員) 義父・小畑忠良(愛知県知事) 子・穂積亮次(新城市長) |
選挙区 |
(旧大選挙区制の愛知2区→) 旧愛知5区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 |
1946年4月10日 - 1947年 1953年4月19日 - 1969年12月2日 |
穂積 七郎(ほづみ しちろう、1904年9月30日 - 1995年12月10日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(7期)。
父は帝国議会議員を1期務めた鈴木麟三[1]。兄は「アジア学生文化協会」などの設立者で社会教育家の穂積五一[2][3]。義父は愛知県知事を1期務めた小畑忠良[4]。新城市長の穂積亮次は子[1]。
経歴
[編集]愛知県八名郡七郷村(現・新城市)出身[5]。旧姓は鈴木。生まれる前の1904年6月27日に父を亡くした[6]。
旧制愛知県豊橋中学校を経て[7]、旧制第七高等学校造士館を1926年に卒業[8]。同年東京帝国大学に入学。共に入学した兄の穂積五一は国家主義者らからなる「帝大七生社」に所属していたが、左翼の「新人会」とも交流し、両者の仲介も行った[1]。
1930年に東京帝国大学経済科を卒業し、商工省工務局に入省。1933年、大企業擁護の政策を嫌って退官し、加藤完治の農民農場に入る[1][5][9]。日本労働総同盟に入り[10]、日本労働学校主事、「労働日本」主幹となる[10]。戦時中は大日本産業報国会(総同盟と統合)参事、大日本言論報国会理事として活動した[10]。近衛文麿の一派に加わり、軍部批判で特別高等警察に逮捕される[1]。
戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知2区(大選挙区制)から無所属で立候補して初当選する。当選後は無所属倶楽部[11]、新政会[12]、国民党[13]、国民協同党[14]に所属した。衆議院議員として日本国憲法制定には反対票を投じた。翌年、言論報国会での活動のため、公職追放となる[15]。
追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙において愛知5区から無所属で立候補したが落選。翌1953年の第26回衆議院議員総選挙で左派社会党から立候補して当選した。社会党では外交部会長、中央執行委員などを歴任し[10]、松本治一郎派に属した[16]。
1955年に訪ソ議員団の幹事として野溝勝らとともにシベリア抑留により帰国できない日本人が収容されているイワノボ収容所及びハバロフスク収容所を訪問している[17]。なお、フルシチョフは議員団に対して平和条約締結との引き換えに抑留者を帰国させることを仄めかしてきたが、穂積は「客観的に見て、人質があるので、むこう(ソ連)は領土問題に強硬なのだという事実はどこにもない。不明確なのは日本が調印した降伏文書や、さらに決定的なのはサンフランシスコ講和条約だ」と自派にとって都合の悪いソ連の人質政策を看過した[18]。
1954年6月に30日間の登院停止の処分を受けた。1968年4月、佐藤栄作首相に対し「売国奴である」と発言し30日間の登院停止の処分を受けた[19]。
1969年の第32回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退。
新東京国際空港(現・成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった[20]。
1995年12月10日、腎不全のため東京都文京区の病院で死去、91歳。[21]
選挙の記録
[編集]執行日 | 選挙 | 所属党派 | 当落 | 備考 |
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1946年(昭和21年)4月10日 | 第22回 | 無所属 | 当 | 旧愛知2区(大選挙区)から出馬。 |
1952年(昭和27年)10月1日 | 第25回 | 無所属 | 落 | |
1953年(昭和28年)4月19日 | 第26回 | 左派社会党 | 当 | |
1955年(昭和30年)2月27日 | 第27回 | 左派社会党 | 当 | |
1958年(昭和33年)5月22日 | 第28回 | 日本社会党 | 当 | トップ当選。 |
1960年(昭和35年)11月20日 | 第29回 | 日本社会党 | 当 | トップ当選。 |
1963年(昭和38年)11月21日 | 第30回 | 日本社会党 | 当 | トップ当選。 |
1967年(昭和42年)1月29日 | 第31回 | 日本社会党 | 当 | |
1969年(昭和44年)12月27日 | 第32回 | 日本社会党 | 落 | 142票差で落選。 |
息子・亮次との関係
[編集]新左翼運動にのめりこみ穂積が産業報国会に戦前籍を置いていたことを知った高校生だった亮次から、「戦前は戦争協力者だったんじゃないか。今は議員という特権階級に身を置いて反戦も口だけだろ」と罵られ、「あの時にできた精いっぱいのことをした」と悲しげな顔をしながら答えた。学生運動について「学生諸君の言っていることは理解できる」と語り、「好漢惜しむらくは兵法を知らず」が口癖だった穂積は、その後も過激な運動に走る息子を止めることはなかった。妻と死別した後は岡山大学北津寮襲撃事件での服役から帰ってきた亮次から介護を受けていた[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f “百年のこと 第一部 家族写真 (2) 「主義」に生きた若き日々 情熱と過ち・・・父も子も”. 朝日新聞: p. 31. (1999年1月3日)
- ^ 佐高信著『黄沙の楽土』朝日新聞社刊 ISBN 4022575255 251~258頁 「日本人から離れる」と題した雑誌『未來』のインタビュー(1973年6月号)
- ^ “日立の人々 改定版”. 木下秀人 (2007年12月30日). 2017年5月27日閲覧。
- ^ 高碕達之助のアジア版「シューマン・プラン」構想―戦後日中経済交流の原型―
- ^ a b 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』547頁
- ^ 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』337-338頁。
- ^ 『第七高等学校造士館一覧 自大正十二年四月至大正十三年三月』1923年9月16日、164頁。
- ^ 『第七高等学校造士館一覧 自昭和十四年四月至昭和十五年三月』1939年8月15日、219頁。
- ^ “穂積 七郎(ホズミ シチロウ)とは”. コトバンク. 2019年2月17日閲覧。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』567頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』522頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』525頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』527頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』539頁。
- ^ 『朝日新聞』1947年4月7日一面。
- ^ 『中部日本新聞』1960年11月2日付朝刊、三河版、「立候補者の横顔と公約」。
- ^ “第024回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第6号”. 国会会議録検索システム (1956年2月23日). 2017年5月6日閲覧。
- ^ 稲垣武『悪魔祓いの戦後史―進歩的文化人の言論と責任』文藝春秋、1997年 ISBN 4163491708、77p
- ^ 『朝日新聞』2006年2月25日付朝刊、4面、「議員への懲罰、平成に入って3人 民主『送金メール』問題」。
- ^ “第065回国会 予算委員会 第7号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月4日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』1995年12月12日付朝刊、31面。
参考文献
[編集]- 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治∼昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056