中央鉄道学園
中央鉄道学園 正面 | |
前身 | 中央鉄道教習所(Central Railway Training School)[1] |
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設立者 | 日本国有鉄道 |
解散 | 1987年 |
種類 | 企業内学校 |
法的地位 | 国鉄本社の付属機関 |
所在地 | 東京都国分寺市泉町二丁目 |
中央鉄道学園(ちゅうおうてつどうがくえん)は、東京都国分寺市泉町二丁目(西国分寺駅の南側)にかつて存在した日本国有鉄道(国鉄)の教育機関。1961年(昭和36年)までは「中央鉄道教習所(Central Railway Training School)」、さらにその前身は鉄道省の「東京鉄道教習所」(豊島区西池袋)である[1]。本所(国分寺)の開設により、三島・池袋は分教所となった[1]。
1987年(昭和62年)に国鉄が分割民営化される際に、国鉄の債務を返済する目的で閉鎖され、敷地は売却された。
概要
[編集]第4代国鉄総裁・十河信二は、1953年(昭和28年)より中央線国分寺-国立間[注 1]の南側に広大な敷地があった中央鉄道教習所を[2][1]、1961年(昭和36年)に「中央鉄道学園」と改称、新たにスタートさせた[3]。十河はこれを「国鉄大学」にして、高卒の国鉄職員に大学卒業資格をとらせようと文部省と交渉した。学園の大学認可は下りなかったが[4]、十河総裁時代の中央鉄道学園は「事実上の大学教育課程に相当する充実ぶりを示した」[3]という。同学園には鉄道省時代から引き継いだ3年の大学課程が設けられていた。鉄道専門学科と一般の大学と同じ各種科目を教え、講師は国鉄本社や鉄道技術研究所のほか東京大学、一橋大学、東京工業大学などから招いた[1]。
入学定員は180人(1970年代当時)で[注 2]
、総計で約1万3千人が学んだ。同課程の学生は国鉄職員として雇用され、学園内では国鉄の制服を着用した。修了によって国鉄内部における人事処遇で大学卒業者相当の扱いとなった[5]。そのため、国鉄内部でもこの大学課程を一部で「鉄道大学校」と呼称することもあった。
また鉄道管理局が所管した各地方の鉄道学園と同じく、動力車操縦者の養成および転換教育なども行った。
約22万平方メートルの敷地に校舎や実習設備、図書館、学生寮、陸上競技場、野球場などを備えていた[1][注 3]。国分寺駅から旧下河原線(中央本線の支線)を利用した引き込み線(総延長1890メートル)が引かれており[注 4]、構内には新幹線0系・101系電車・EF60形機関車などの古い鉄道車両が教育目的で多数存在した[注 5]。
毎年10月頃に富士見祭と称する学園祭で一般公開が行われた[注 6]。車両公開のほか、研修用のマルスを使い希望の区間のダミー切符を発行したり、0系のビュッフェ車を用いて喫茶室を営業した。
現況
[編集]敷地売却後、遺跡調査で東山道武蔵路が発掘され、一部が復元保存されている。跡地には団地(ゆかり、トミンハイム)、中央鉄道学園の記念碑[8]が設置された東京都立武蔵国分寺公園(建設中の仮称は泉町公園)、総務省情報通信政策研究所(2004年に目黒区駒場から移転)、東京都立多摩図書館(2017年に立川市錦町から移転)、東京都公文書館(2020年に世田谷区玉川から移転)などが整備され、2025年には国分寺市役所の新庁舎も開庁する。
国分寺駅高尾寄りの中央本線の線路脇に引き込み線の跡が一部残っていたが、2008年頃にレールは撤去された。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 西国分寺駅開業は1973年(昭和48年)
- ^ 1959年(昭和34年)当時の中央鉄道教習所の学生数は、管理科・運輸科(鉄道・自動車〈バス〉)・機械科(機械分科・工作分科・自動車分科)・土木科・建築科・電気科(電力〈変電所〉・通信)の総計111名であったという[5]。
- ^ 1959年(昭和34年)前後、中央鉄道教習所時代の構内パノラマ写真、校舎や授業、運動会の様子の写真などが『みにこみ国分寺』No. 57掲載の「鉄道学園(旧国鉄・中央鉄道学園)があった頃」で確認できる[5]。
- ^ 中央鉄道学園への引き込み線は、日本芸術高等学園の横を通っていたという[6]。
- ^ 構内に保存されていた鉄道車両については、学園祭(富士見祭)で学園内が一般公開された際に撮影された写真が多数存在する[7]。『みにこみ国分寺』No. 57掲載の「鉄道学園(旧国鉄・中央鉄道学園)があった頃 (その2)」には、1975年(昭和50年)頃に在校生の実習時に撮影されたクモヤ443系計測車(442系と二両連結運用)、1981年(昭和56年)頃に構内で撮影されたキハ系気動車(ディーゼル車)、キヤ92形計測車、クモヤ92教習車、DD51形ディーゼル機関車などの車両写真が見られる[7]。
- ^ 富士見祭が何年ごろ始まったかは不明[7]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f 竹淵立男「中央鉄道学園(教習所)の概要」『鉄道通信』第12巻第4号、鉄道通信協会、1961年4月、2-7頁、doi:10.11501/2366027。
- ^ 国分寺市立図書館 2018.
- ^ a b 川北晃司「第4代国鉄総裁 十河信二における教育理念」『工学教育研究講演会講演論文集』第67回年次大会(2019年度)セッションID:3E18、日本工学教育協会、2019年、424頁、doi:10.20549/jseeja.2019.0_424、ISSN 2189-8928、NAID 130007741603。「2. 中央鉄道学園」
- ^ 戸田千速 2012, p. 30.
- ^ a b c 近藤 將「鉄道学園(旧国鉄・中央鉄道学園)があった頃」『みにこみ国分寺』No. 57 (2023 Mar.)、国分寺市商店会連合会(後援 国分寺市, 国分寺市商店会)、2023年3月、8-9頁。
- ^ 名取紀之 (2018年). “質問票回答(講演会「廃線は語る ~多摩地域を中心として~」)” (pdf). 都立多摩図書館. 東京都立図書館. p. 1. 2023年5月31日閲覧。 “Q1: 中央鉄道学園の線路と現在の道路との関係について。投影された図では日本芸術高等学園の横が下河原線の線路跡と紹介されていましたが、これは中央鉄道学園線の跡で、下河原線の跡地は中央本線沿いの現在は花壇となっている場所です。(..) / A1: 当時の土地開発に関わられた方の証言で、謹んで訂正させていただきます。” ※pdf配布元は「東京マガジンバンクカレッジ 鉄道セクション 講演会「廃線は語る~多摩地域を中心として~」 当日の様子」ページ。
- ^ a b c 近藤 將「鉄道学園(旧国鉄・中央鉄道学園)があった頃 (その2)」『みにこみ国分寺』No. 57 (2023 Mar.)、国分寺市商店会連合会(後援 国分寺市, 国分寺市商店会)、2023年3月、12頁。
- ^ 千葉雄高「(各駅停話)国分寺駅 鉄道学園、いまに伝える碑」『朝日新聞デジタル』朝日新聞社、2014年2月24日。2023年5月31日閲覧。
参考記事・文献
[編集]- 【東京の記憶】中央鉄道学園/国鉄マン向上心育む/入学は難関 憧れの学舎『読売新聞』朝刊2017年9月25日(都民版)
- 戸田千速 (2012年). “高速鉄道開発における教育・研究体制に関する研究 : 日英両国の体制の相違を中心に” (pdf). 東京大学大学院工学系研究科. 2020年11月3日閲覧。 ※修士論文。pdf配布元は「学位論文 – 東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻 都市交通研究室」ページ。中央鉄道学園/新幹線開発/鉄道技術研究所/鉄道学研都市型開発モデル-2011(東京大学)
- 国分寺市立図書館 (2018年3月30日). “昔(昭和時代)国分寺市にあった中央鉄道学園について知りたい”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2023年5月31日閲覧。