長崎県立ろう学校
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長崎県立ろう学校 | |
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長崎県立ろう学校 | |
北緯32度57分18.8秒 東経129度56分31.3秒 / 北緯32.955222度 東経129.942028度座標: 北緯32度57分18.8秒 東経129度56分31.3秒 / 北緯32.955222度 東経129.942028度 | |
過去の名称 |
長崎盲唖院 私立長崎盲唖学校 長崎盲唖学校 長崎聾唖学校 長崎県立聾唖学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 長崎県 |
併合学校 | 長崎県立佐世保ろう学校 |
校訓 | 強く・正しく・心豊かに |
設立年月日 | 1898年(明治31年) |
創立者 | 長崎慈善会 |
共学・別学 | 男女共学 |
分校 | 佐世保分教室(2019年 - ) |
設置学部 |
幼稚部 小学部 中学部 高等部 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | E142210000021 |
特別支援学校コード | 42452J(高等部のみ)[1] |
所在地 | 〒856-0807 |
長崎県大村市宮小路三丁目5番5 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
長崎県立ろう学校(ながさきけんりつ ろうがっこう)は、長崎県大村市植松三丁目にある県立特別支援学校。佐世保市に分校(旧長崎県立佐世保ろう学校)が設置されている。また、学校の近くには寄宿舎がある。
西九州新幹線新大村駅建設に伴い、2018年(平成30年)4月より新校地・新校舎へ移転した。
概要
[編集]- 校訓
- 「強く・正しく・心豊かに」
- 校章
- 1951年(昭和26年)4月の佐世保分校開校を機に、校章制定の気運が高まり、公募の結果、当時の職員山口貞成のデザインが採用された。発祥の地である長崎市を象徴する鶴[2]をイメージした絵に、「長ろう」の字体を組み合わせたデザインとなっている。その後、この校章を中央に織り込んだ校旗が作られた。
- 校歌
- 1998年(平成10年)9月に制定。作詞は井上信一、作曲は樋渡憲三による。1番に長崎に生まれ大村に育った伝統を、2番に校訓を、3番に各部の努力目標をそれぞれ詠み込んである。以前より校歌といわれるものはあったが、詩のみで曲はついていないこともあり、正式な校歌とはなっていなかった。そこで、創立100周年を機に正式な校歌作成の動きが高まり、今日の校歌が完成した。
- 学部
- 分教室
- 長崎県立ろう学校佐世保分教室 - 2019年分校から分教室となった。
沿革
[編集]- 1898年(明治31年)
- 1900年(明治33年)12月 - 長崎市興善町43番に移転、小学校令に基づき、校名を「私立長崎盲唖学校」と改称。
- 1900年(明治37年)4月 - 長崎市新大工町76番聖堂構内の講義室に移転。
- 1901年(明治38年)4月 - 内務大臣の芳川顕正が視察。
- 1903年(明治40年)11月 - 閑院宮載仁親王および同妃智恵子が来校。
- 1908年(明治41年)11月 - 生徒数増加により、長崎市桜馬場町70番に校舎を新築移転。
- 1909年(明治42年)
- 1910年(明治44年)4月 - ろう唖技芸科として裁縫部及び木工部を設置。
- 1919年(大正8年) - 校名を「長崎盲唖学校」と改称。
- 1921年(大正10年)4月19日 - 設立の父長崎慈善会専務理事安中半三郎永眠(享年69)
- 1924年(大正13年)7月12日 - 前年の「盲唖学校及聾学校令」公布に伴い、盲・聾教育の組織を分離、「長崎盲学校」及び「長崎聾唖学校」の両校が開設。
- 1925年(大正15年)4月 - 口話法による言語指導を開始。
- 1929年(昭和4年)4月1日 - 県に移管され、「長崎県立聾唖学校」となる。
- 1933年(昭和8年)11月 - 長崎市新中川町1番地(旧長崎市立商業学校)の仮校舎に移転。
- 1934年(昭和9年)6月23日 - 長崎市上野町237番地の校地に新設された寄宿舎に移転。
- 1935年(昭和10年)7月12日 - 校舎が完成し、寄宿舎より本校舎(以下・浦上校舎、現・中華人民共和国駐長崎総領事館敷地)に移転。
- 1937年(昭和12年)5月29日 - ヘレン・ケラーが来校、記念として月桂樹を植樹(この月桂樹は後に原爆投下により焼失)。
- 1942年(昭和17年)- 学友会を報国団に改組し、生徒が勤労奉仕や慰問治療等に動員。
- 1944年(昭和19年) - ろう唖学校の修業年限が変更となる。
- 1945年(昭和20年)5月3日 - 浦上校舎を三菱長崎造船所に貸与、校舎を長崎市近郊の南高来郡(現南島原市)加津佐町(三菱寮)に疎開移転。
- 1945年(昭和20年)8月9日 - 長崎市への原子爆弾投下により、長崎出張中の多比良校長が被爆し死亡、浦上校舎も原爆の直撃を受け壊滅的な被害を受ける。
- 1947年(昭和22年)5月13日 - 大村市古町455番地旧第21海軍空港廠[6]女子工員寄宿舎跡(以下古町校舎)に移転。
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)8月 - 盲学校が分離して長崎市上野町の新築校舎に移転。
- 1951年(昭和26年)4月 - 理容科設置認可。佐世保分校が開校(佐世保市保立町旧重砲隊跡)
- 1951年(昭和26年)4月 - 専攻科(2年制)を設置。
- 1954年(昭和29年)~1955年(昭和31年)7月 - 植松地区に木造2階建ての校舎3棟、平家本館、寄宿舎が新築(以下植松校舎)。
- 1956年(昭和31年)- 本校を植松校舎に移転、ただし中高部は古町校舎に残す。
- 1962年(昭和37年)
- 2月 - 新運動場が完成。
- 4月 - 職業科の中に窯業科を新設。
- 1963年(昭和38年)2月~1965年(昭和40年)3月 - 高等部棟、木材工芸科教室、給食室、寄宿舎渡り廊下、陶芸科実習室、窯場が完成。
- 1963年(昭和38年)4月 - 幼稚部(5歳児学級)を新設。高等部が古町校舎から植松校舎へ移転。
- 1964年(昭和39年)2月 - 中学部を植松に移転し、古町校舎を閉鎖。
- 1965年(昭和40年)4月 - 職業科の中に陶芸科を新設。
- 1966年(昭和41年)4月 - 教育課程改訂により、高等部に産業工芸科・理容科・被服科・窯業科の4学科を設置。佐世保分校に幼稚部を新設。(5歳児学級)
- 1970年(昭和45年)4月 - 幼稚部4歳児学級を新設。
- 1971年(昭和46年)4月 - 幼稚部校舎が完成。
- 1972年(昭和47年)3月 - 体育クラブ兼更衣室が完成。
- 1974年(昭和49年)3月 - 幼稚部プレハブ校舎が完成。
- 1975年(昭和50年) 3月 - 米国クラーク[要曖昧さ回避]スクール総長G・T・ブラット来校、講演会を開催。
- 1976年(昭和51年)3月~1981年(昭和56年)3月 - 寄宿舎、管理棟、小学部棟、中学部棟を改築、渡り廊下を新設。
- 1976年(昭和51年)4月 - 佐世保分校が独立し、「長崎県立佐世保ろう学校」となる。
- 1977年(昭和52年)4月 - 幼稚部3歳児学級を新設。
- 1978年(昭和53年)5月 - 常陸宮正仁親王および同妃が来校。
- 1983年(昭和58年)3月 - 産業工芸科棟を改築。
- 1984年(昭和59年)
- 1月 - 窯業科棟を改築。
- 11月 - 寄宿舎ソーラー設備が完成。
- 1985年(昭和60年)1月 - クラブ部室が完成。
- 1990年(平成2年)3月 - 中学部棟フラットループ設備を設置。
- 1991年(平成3年)3月 - 手作り環境・野外給食施設が完成。
- 1995年(平成7年)11月 - 第1回海外(韓国)修学旅行を実施。
- 1996年(平成8年)3月 - 小学部、高等部集団補聴器設備を設置。
- 1997年(平成9年)8月 - 高等部、韓国愛話学校小学旅行団と交流。
- 1998年(平成10年)3月 - 玄関前手づくり築庭完成
- 2001年(平成13年)11月 - 同窓会が発足。
- 2003年(平成15年)2月~2005年(平成17年)3月 - 体育館、管理棟小学部棟、高等部棟などの大規模改修を完了。
- 2006年(平成18年)
- 4月 - 長崎県立佐世保ろう学校が再び「長崎県立ろう学校佐世保分校」となる。
- 10月 - 文字放送システムを新設。
- 2016年(平成28年)4月 - 高等部に総合デザイン科(セラミックコース・インテリアコース・ライフデザインコース)を新設。窯業科・被服科・産業工芸科の募集を停止。
- 2018年(平成30年)
- 3月 - 高等部の窯業科・被服科・産業工芸科を廃止。
- 4月 - 新校地・新校舎に移転。(旧校地は〒856-0027 大村市植松三丁目160番地2号(北緯32度56分2.1秒 東経129度57分34秒 / 北緯32.933917度 東経129.95944度))
- 2019年(平成31年)4月1日 - 佐世保分校を佐世保分教室とする[7]。
部活動
[編集]1970年(昭和45年)に課外クラブとして陸上競技部、卓球部、バレーボール部が創部され活動が始まった。翌年に軟式野球部も加わり、1972年(昭和47年)からは高体連などに加盟し、バレーボール部、軟式野球部は地区新人戦や高総体、全国大会の予選に参加していた。また1976年(昭和51年)より陸上競技部も高総体や新人戦など様々な大会に出場している。1986年(昭和61年)にはバドミントン部も創部されたが、生徒数の減少で運動部としての活動が困難になり、1997年(平成9年)からは陸上競技部を残すだけとなっている。
アクセス
[編集]- 最寄りの鉄道駅
- 最寄りのバス停
- 最寄りの国道・県道
- 高速道路大村インターチェンジから近い。
- 国道444号
周辺
[編集]脚注
[編集]- ^ 大学入試センター試験高等学校等コード表
- ^ 長崎港はその形から「鶴の港」と呼ばれており、長崎市にある長崎県立長崎鶴洋高等学校(旧長崎水産高等学校)や長崎県立鶴南特別支援学校の名前に「鶴」が入っているのはそのため。
- ^ 長崎県立長崎図書館の創立者の1人でもある。
- ^ 開院式は長崎市本興善町の高等女児小学校(後の長崎市立新興善小学校、現長崎市立図書館の敷地)で開催。
- ^ 1番目は1878年(明治11年)に開院された京都盲唖院(現京都府立盲学校・京都府立聾学校)。日本の盲・聾教育の始まりである。
- ^ 仕事場・工場・工作所
- ^ 平成30年12月定例教育委員会資料(長崎県立学校管理規則の一部改正について) (PDF) - 長崎県ウェブサイト