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2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長嶋ジャパンから転送)
2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表
主将を務めた宮本
大会名 2004年アテネオリンピックの野球競技
日程 2004年8月15日 - 25日
成績 銅メダル
監督 中畑清
 < 20002008 > 
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獲得メダル
男子 野球
日本の旗 日本
オリンピック
2004 野球

アテネオリンピック野球日本代表(アテネオリンピックやきゅうにっぽんだいひょう)は、2004年アテネで開催されたアテネオリンピックの野球競技に出場した野球日本代表である。通称長嶋ジャパン

概要

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プロ選手の参加が認められた2000年シドニーオリンピックで、アマチュア主体のメンバーに松坂大輔らプロ8人を参加させた混成チームで出場しながら初めてメダルを逃した。そのため、日本球界が一丸となっての代表選定を目指して、監督に長嶋茂雄巨人終身名誉監督を起用し、初めて全選手をプロ選手のみで構成する代表が編成された。

代表チームはオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権大会を全勝してアテネ大会への出場権を得るが、長嶋は大会を前にした2004年3月4日に脳梗塞のため入院。病状によっては監督交代という事態も取り沙汰され、星野仙一(前阪神監督)や原辰徳(巨人監督)など具体的な名前も報道された。だが全日本野球会議は長嶋の早期回復を期待して、5月に長嶋体制の続行を決定する。6月25日の代表選手発表の会場には長嶋の姿は無かった。病状が回復した場合のアテネ行きも検討されたが、最終的に長嶋は医師団の判断を尊重して断念。結局代表チームの指揮はヘッドコーチの中畑清が執ることとなった。また監督としての登録を長嶋にすることもできなかったため、中畑が正式に監督となっている[1][2]

また代表選出にあたっては、各球団の経営者側の判断によって、戦力への影響を公平にするとの目的で各球団から2名ずつに制限された。長嶋らは制限の撤廃を希望していたが、アテネ大会の開催期間中にもプロ野球の公式戦が通常通り行われることから、多くの代表候補選手を持ち、チームを優先させたい当時中日監督の落合博満や阪神監督の岡田彰布らの希望でもあった[3]

日本代表は、野球が正式種目になって以来初めて予選リーグをトップ(6勝1敗)で通過して(銀メダルを獲得したアトランタ五輪代表は4勝3敗の予選3位)決勝トーナメントに進出した。キューバを五輪で破ったのも初めてである。しかし決勝トーナメント準決勝でオーストラリアに敗れて決勝進出を逃し、銅メダルに終わった。

代表メンバー

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登録上のメンバーを上げる。いずれも選出当時。

背番号 氏名 所属球団 備考
監督 33 中畑清 打撃コーチ兼務
コーチ 31 高木豊 守備・走塁コーチ
32 大野豊 投手コーチ
投手 11 清水直行 日本の旗 千葉ロッテマリーンズ
13 岩瀬仁紀 日本の旗 中日ドラゴンズ
15 黒田博樹 日本の旗 広島東洋カープ
16 安藤優也 日本の旗 阪神タイガース
17 三浦大輔 日本の旗 横浜ベイスターズ
18 松坂大輔 日本の旗 西武ライオンズ
19 上原浩治 日本の旗 読売ジャイアンツ
20 岩隈久志 日本の旗 大阪近鉄バファローズ
21 和田毅 日本の旗 福岡ダイエーホークス
30 小林雅英 日本の旗 千葉ロッテマリーンズ
61 石井弘寿 日本の旗 ヤクルトスワローズ
捕手 9 城島健司 日本の旗 福岡ダイエーホークス
59 相川亮二 日本の旗 横浜ベイスターズ
内野手 2 小笠原道大 日本の旗 北海道日本ハムファイターズ
5 中村紀洋 日本の旗 大阪近鉄バファローズ
6 宮本慎也 日本の旗 ヤクルトスワローズ
8 金子誠 日本の旗 北海道日本ハムファイターズ
25 藤本敦士 日本の旗 阪神タイガース
外野手 1 福留孝介 日本の旗 中日ドラゴンズ
10 谷佳知 日本の旗 オリックス・ブルーウェーブ
23 村松有人 日本の旗 オリックス・ブルーウェーブ
24 高橋由伸 日本の旗 読売ジャイアンツ
27 木村拓也 日本の旗 広島東洋カープ
55 和田一浩 日本の旗 西武ライオンズ

壮行試合メンバー

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2004年7月13日、14日に行われた日本代表壮行試合の選手として社会人野球から選出された選手は以下の通り。

坂本以外は、その後プロ野球を経験している。

アテネオリンピックの戦績

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リーグ 日時 対戦相手 結果 備考
予選リーグ 8月15日 イタリアの旗 イタリア 12-0 7回コールド
8月16日 オランダの旗 オランダ 8-3 第2グラウンド
8月17日 キューバの旗 キューバ 6-3
8月18日 オーストラリアの旗 オーストラリア 4-9 第2グラウンド
8月20日 カナダの旗 カナダ 9-1 第2グラウンド
8月21日 チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ 4x-3 延長13回
8月22日 ギリシャの旗 ギリシャ 6-1 1位通過
準決勝 8月24日 オーストラリアの旗 オーストラリア 0-1
3位決定戦 8月25日 カナダの旗 カナダ 11-2 銅メダル獲得

アジア地区予選兼第22回アジア野球選手権

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メンバー

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アテネオリンピック予選を兼ねた第22回アジア野球選手権に代表として選出され、アテネオリンピック本戦の代表には選出されなかった選手は以下の通り。

※会場は札幌ドーム。日本代表は決勝ラウンドからのシード。2003年11月5日から7日。

戦績

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リーグ 日時 対戦相手 結果 備考
決勝リーグ 11月5日 中華人民共和国の旗 中国 13-1
11月6日 チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ 9-0
11月7日 大韓民国の旗 韓国 2-0 優勝、アテネ五輪出場権獲得
中国戦オーダー
1 [遊] 松井稼頭央
2 [二] 宮本慎也
3 [一] 小笠原道大
4 [捕] 城島健司
5 [中] 高橋由伸
6 [左] 谷佳知
7 [右] 福留孝介
8 [指] 和田一浩
9 [三] 二岡智宏
投手 上原浩治
チャイニーズタイペイ戦オーダー
1 [遊] 松井稼頭央
2 [二] 宮本慎也
3 [中] 高橋由伸
4 [捕] 城島健司
5 [右] 福留孝介
6 [左] 谷佳知
7 [指] 井端弘和
8 [一] 小笠原道大
9 [三] 二岡智宏
投手 松坂大輔
韓国戦オーダー
1 [遊] 松井稼頭央
2 [二] 宮本慎也
3 [中] 高橋由伸
4 [捕] 城島健司
5 [右] 福留孝介
6 [左] 谷佳知
7 [指] 井端弘和
8 [一] 小笠原道大
9 [三] 二岡智宏
投手 和田毅

その他

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敗因

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決勝トーナメント準決勝でオーストラリアに敗れた原因として、7回の攻撃時に投手ジェフ・ウィリアムスに対し藤本敦士に代わる右の代打に適任者がいなかったケースのように、プロ・アマ合同でメダルを逃したシドニーオリンピックの反省からドリームチーム構想を掲げながら、各球団の思惑もあって乗り越えられなかった2人枠が足かせとなったこと[4]や、中畑が「予選リーグから9連勝と金メダルがセットになり息が抜けなかった。初のオールプロ代表で負けられない意識が強かった」と語ったように、全勝にこだわりすぎたことが挙げられる[5]。日本チームのレギュラーと控え選手に力の差があったのに対し、キューバやオーストラリアは予選リーグで選手交代も行いながら4位を確保したことから、決勝トーナメントへの照準の合わせ方も指摘されている[5]。また解説者の衣笠祥雄は「気持ちが空回りしていたとしか言いようがない」「松坂はよく投げたが、打撃のほうは入れ込みすぎて普段の力が出なかった」「粘り、つなぐ野球といったものが消えていったように思えた」とコメントしている[5]。また、コーチの高木豊は、オーストラリア戦の敗因として、日本ベンチに直射日光が当たって体感温度が10度違ったことを挙げている。

選手はプロから選出されているものの周辺スタッフがアマ側のみだったことから、今後は国際大会での経験不足を補うシステムや代表チームを支える体制作りが不可欠とされている[5]

また、当時の代表はオーストラリア代表を比較的やりやすい相手と見ていたらしく、中畑は後のインタビューでスコアラーから何をやっても勝てると報告が入っていたが、いざ試合に入った時はピッチャーの球が想定以上の速さのために焦ったと語っている。なお、オーストラリアの捕手であり元中日のデーブ・ニルソンは日本時代の経験を活かして日本の野球を研究しており、何度やっても勝てると発言していたという[6]

さらに、中畑は試合前日でも対戦相手の試合を観なかったことが報じられており、観光に出かけていたことも報じられている[7]

その他

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捕手登録は2人であるが、外野手登録の和田は緊急時の代役捕手としての起用(城島が負傷し、かつ終盤で相川に代打を出さざるを得ない劣勢時を想定)も首脳陣の構想にあった。和田を含め、小笠原と木村拓がプロ入り時は捕手登録である。

脚注

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  1. ^ http://www.la84foundation.org/6oic/OfficialReports/2004/Results/Baseball.pdf
  2. ^ マスコミの多くでは「監督が長嶋茂雄、ヘッド兼打撃コーチおよび監督代行が中畑」とされたが、登録上はあくまでも中畑が監督である。
  3. ^ 例を挙げれば予選で活躍した中日の井端弘和はこの2人枠のためチームでは福留孝介岩瀬仁紀がいたため出場できなかった。また阪神は希望していた選手ではなくチームに影響のない安藤優也藤本敦士を派遣した。
  4. ^ 朝日新聞 2004年8月25日
  5. ^ a b c d 朝日新聞 2004年8月26日
  6. ^ https://web.archive.org/web/20180921034544/https://bbcrix.com/articles/48208/original
  7. ^ https://www.asagei.com/excerpt/3825

関連項目

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外部リンク

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