長背広足
長背 広足(ながせ の ひろたり、生没年不詳)は、奈良時代中期から後期にかけての官人。氏は長瀬とも記される。氏姓は狛連のち長背連。外正六位下・狛文麻呂の子とする系図がある。官位は外従五位下・西市正。
出自
[編集]狛氏は高句麗第23代国王安原王の後裔を称する高句麗系渡来氏族[1]。欽明天皇26年(565年)高句麗より筑紫に渡来した頭霧唎耶陛[2]を安原王の子とし、以降広足まで繋げる系図がある[3]。姓は首または造。
経歴
[編集]称徳朝の天平宝字2年(758年)一族の浄足3人とともに、狛連から長背連に改姓した(この時の官位は正六位上・散位大属)とある。同時に朝鮮半島系の渡来系氏族である余益人らも百済朝臣、高麗浄日らも多可連に改姓している。同年7月に広足は少初位上・秦常陸を経師として貢進している[4]。
同年10月に広足は文部省から出された宣として、「坤宮官大弼の巨勢卿(巨勢堺麻呂)の宣によって、儀仗旗製作のために後家河万呂・十市和万呂・小治田乙成ら3名を召喚せよ」という内容の散位寮牒を東大寺写経所に送る。写経所側からは3人には写経の作業が終わっていないため、3日間でそれを終わらせるという返事があった。それに対して広足が「写経のことは来年に廻してもよいが、儀仗旗製作の方が至急である」という上官からの命令を写経所に伝えた結果、写経所からの3名の現状が伝えられている(河万呂は病で休暇中、和万呂は辰時に文部省に出向する、乙成は見参可能)[5]。この儀仗旗は淳仁天皇の大嘗祭に用いるものであったが、天皇は即位以前から藤原仲麻呂の田村第に住んでおり、その旗の製作は仲麻呂ら権力中枢の肝煎事業であった。また、坤宮官は紫微中台を改組したもので仲麻呂の強い影響下にあり、この官司が文部省・散位寮を通じて3名の召喚を東大寺写経所に通達してきたのであった[6]。
藤原仲麻呂の乱において功労があったらしく、称徳朝の天平神護元年(765年)正月に弓削牛養・百済安宿奈登麻呂・金刺舎人八麻呂らとともに外従五位下に昇叙する。
光仁朝では宝亀7年(776年)3月に園池正に任ぜられるが、まもなく高市屋守と官職を交代して西市正に遷った。
官歴
[編集]注記のないものは『続日本紀』による。
- 時期不詳:散位大属。正六位上
- 天平宝字2年(758年) 6月4日:狛連から長背連に改氏姓
- 天平神護元年(765年) 正月7日:外従五位下
- 神護景雲2年(768年) 日付不詳:見散位[7]
- 宝亀7年(776年) 3月5日:園池正。3月8日:西市正
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本書紀 (三)』岩波文庫、1994年
- 『続日本紀 3(新日本古典文学大系14)』岩波書店、1992年
- 『続日本紀 4(新日本古典文学大系15)』岩波書店、1995年
- 『続日本紀 5(新日本古典文学大系16)』岩波書店、1998年
- 宇治谷孟訳『日本書紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年
- 宇治谷孟訳『続日本紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
- 宇治谷孟訳『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
- 竹内理三・山田英雄・平野邦雄編『日本古代人名辞典 3』吉川弘文館、1961年、810頁
- 佐伯有清編『日本古代氏族事典』雄山閣出版、1994年
- 『人事の古代史-律令官人制からみた古代日本史』、十川陽一、ちくま新書、2020年