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間部詮衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
間部詮衡
時代 江戸時代中期
生誕 天和元年(1681年
死没 享保10年8月26日1725年10月2日
別名 図書(通称
官位 従五位下中務少輔伊賀守淡路守
幕府 江戸幕府 小姓
主君 徳川家宣家継
氏族 間部氏
父母 父:西田清貞、母:小川次郎右衛門の娘
兄弟 詮房詮貞詮之詮衡詮言
秋田季品の娘
詮長詮綽詮光、女子(駒井政潔妻)、女子(間部詮之養女・細田時敏妻)
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間部 詮衡(まなべ あきひら)は、江戸時代中期の旗本間部詮房詮之の実弟。徳川家宣家継に仕え、本家から独立し赤坂間部家[1]という分家を興した。

生涯

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延宝8年(1680年)、西田清貞の四男として生まれる。元禄7年(1694年)から甲府藩主、徳川綱豊(家宣)の小姓を務める。宝永元年(1704年)、家宣が江戸城西の丸入りすると、兄たちと同じく幕臣に取り立てられ、西の丸小姓になった。城内では、侍講の新井白石と、詮房および家宣との間の取次役を務める[2][3]

その後、兄詮之と同じく出世し、正徳5年(1715年)には1550石知行旗本になった。正徳6年(1716年)、7代将軍徳川家継の死によって職を解かれ寄合に列した。享保10年(1725年)、死去。享年45歳。家督は長男の詮長が継いだ。赤坂間部家明治維新まで存続する[4]

略歴

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※日付は旧暦

赤坂間部家歴代当主

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  1. 間部詮衡
  2. 間部詮長
  3. 間部詮番
  4. 間部詮芳
  5. 間部詮寛
  6. 間部詮徴
  7. 間部詮義

采地

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赤坂間部家が支配した知行所の一覧。()内は村高と相給者の人数[10]

  • 三河国
    • 宝飯郡
      • 御馬村(517.464石・五給)-100.159石
      • 市田村(999.204石・四給)-199.8408石
  • 伊豆国
    • 田方郡
      • 南江間村(939.651石・三給)-247.854石
      • 青羽根村(194.636石)-194.636石
    • 君沢郡
      • 平沢村(57.72石・二給)-57.51石
  • 下総国
    • 相馬郡
      • 上高井村(242.432石・三給)-179.242石
      • 酒詰村(540.854石・三給)-538.854石
      • 百井戸村(196.787石・三給)-87.577石
      • 押戸村(739.954石・三給)-262.621石
      • 羽根野村(212.638石)-212.638石

脚注

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  1. ^ 名称は屋敷地がはじめ赤坂氷川台にあったことにちなむ。また「末家」ともよばれた。
  2. ^ 深井雅海 1991, p. 199.
  3. ^ 福留真紀 2006, p. 201.
  4. ^ 竹内信夫 1998, pp. 648.
  5. ^ 間部家文書刊行会 1980, p. 49.
  6. ^ 間部家文書刊行会 1980, p. 646.
  7. ^ 竹内信夫 1998, pp. 649.
  8. ^ 間部家文書刊行会 1980, p. 142,651.
  9. ^ 間部家文書刊行会 1980, p. 511.
  10. ^ 竹内信夫 1998, pp. 658.

参考文献

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  • 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第二十二 八木書店、1966年。
  • 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」『地域史研究と歴史教育:森山恒雄教授退官記念論文集』 亜紀書房、1998年。
  • 間部家文書刊行会『間部家文書』第一巻 鯖江市、1980年。
  • 深井雅海『徳川将軍政治権力の研究』吉川弘文館、1991年。
  • 福留真紀『徳川将軍側近の研究』校倉書房、2006年。