阿仁町
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(阿仁から転送)
あにまち 阿仁町 | |||||
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廃止日 | 2005年3月22日 | ||||
廃止理由 |
新設合併 鷹巣町、森吉町、合川町、阿仁町 → 北秋田市 | ||||
現在の自治体 | 北秋田市 | ||||
廃止時点のデータ | |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 東北地方 | ||||
都道府県 | 秋田県 | ||||
郡 | 北秋田郡 | ||||
市町村コード | 05324-4 | ||||
面積 | 371.92 km2 | ||||
総人口 |
4,026人 (推計人口、2005年3月1日) | ||||
隣接自治体 |
北秋田郡:森吉町、上小阿仁村 仙北郡:田沢湖町、西木村 秋田市 | ||||
町の木 | カツラ | ||||
町の花 | 花菖蒲 | ||||
町の鳥 | やまどり | ||||
阿仁町役場 | |||||
所在地 |
〒018-4613 秋田県北秋田郡阿仁町銀山字下新町41-1 | ||||
外部リンク | 阿仁町(2005年2月27日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project | ||||
座標 | 北緯40度00分00秒 東経140度24分08秒 / 北緯40度 東経140.40211度座標: 北緯40度00分00秒 東経140度24分08秒 / 北緯40度 東経140.40211度 | ||||
ウィキプロジェクト |
阿仁町(あにまち)は秋田県北部にあった町である。2005年(平成17年)3月22日、北秋田郡の鷹巣町・合川町・森吉町と合併し北秋田市となった。合併後は北秋田市阿仁○○として地名が残るが、北秋田市阿仁前田地域は旧森吉町であった。
1955年(昭和30年)、阿仁合町と大阿仁村が合併し、阿仁町となる。山深い谷に狩猟生活をする阿仁マタギの集落が点在していたほか、1309年(延慶2年)に発見された阿仁鉱山の金、銀、銅の採掘で栄えた(1970年(昭和45年)に休山)。以前は銅の生産量が日本一だった。
地理
[編集]山
[編集]河川
[編集]- 阿仁川
- 小様川
- 佐山川
- 比立内川
滝
[編集]隣接していた自治体
[編集]歴史
[編集]日本三代実録で榲淵村(すぎふち)の一部として成立したとされる。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 阿仁合町と大阿仁村が合併、阿仁町が発足する。
- 1957年(昭和32年) - 阿仁町立大阿仁小学校根子分校、阿仁町立大阿仁小学校伏影分校が阿仁町立根子小学校、阿仁町立伏影小学校として独立。
- 1960年(昭和35年)6月10日 - あにまち広報(広報あに)が創刊[1]。
- 1961年(昭和36年)6月2日 - 阿仁町「町章」制定[2]。
- 1962年(昭和37年)4月1日 - 阿仁町立大阿仁中学校・阿仁町立中村中学校が統合して阿仁町立第二中学校が開校。
- 1963年(昭和38年)10月15日 - 日本国有鉄道(国鉄)阿仁合線の阿仁合駅~比立内駅間が運転開始。
- 1965年(昭和40年)3月31日 - 阿仁町立阿仁合中学校鍵ノ滝分校が閉校。
- 1966年(昭和41年) - 桂を町の木にする。
- 1968年(昭和43年)3月31日 - 阿仁町立荒瀬小学校露熊冬季分校が閉校。
- 1969年(昭和44年)3月31日 - 阿仁町立阿仁合小学校鍵ノ滝分校が閉校[3]。
- 1970年(昭和45年)
- 1974年(昭和49年)4月1日 - 阿仁町立阿仁合中学校が阿仁町立阿仁第一中学校と改称[6]。
- 1978年(昭和53年)4月1日 - 旧阿仁町立阿仁合小学校・阿仁町立荒瀬小学校・阿仁町立伏影小学校・阿仁町立三枚小学校・阿仁町立阿仁合小学校萓草分校が統合して新阿仁町立阿仁合小学校が開校[7]。
- 1986年(昭和61年)11月1日 - 国鉄阿仁合線が廃止となり、秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸北線が開業。
- 1989年(平成元年)4月1日 - 秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線の比立内駅~松葉駅間が運転開始。
- 1990年(平成2年)4月29日 - 阿仁熊牧場が開園[8]。
- 1991年(平成3年)4月1日 - 阿仁町立阿仁第一中学校・阿仁町立阿仁第二中学校が統合、阿仁町立阿仁中学校が開校[9]。
- 1995年(平成7年)4月1日 - 旧阿仁町立大阿仁小学校・阿仁町立中村小学校が統合、新阿仁町立大阿仁小学校が開校[10]。
- 1998年(平成10年)3月31日 - 阿仁町立根子小学校が閉校[11]。
- 2001年(平成13年)6月21日 - 道の駅あに「マタギの里」が開駅[12]。
- 2005年(平成17年)3月22日 - 北秋田郡の鷹巣町・合川町・森吉町と合併し北秋田市となる。
教育
[編集]中学校
[編集](合併後は北秋田市立)
かつてあった中学校
[編集]- 阿仁町立阿仁第一中学校(阿仁町立阿仁合中学校)
- 阿仁町立阿仁第二中学校
- 阿仁町立大阿仁中学校
- 阿仁町立中村中学校
- 阿仁町立阿仁合中学校鍵ノ滝分校
小学校
[編集](合併後は北秋田市立)
かつてあった小学校
[編集]- 旧阿仁町立阿仁合小学校(銀山小学校[13])
- 旧阿仁町立大阿仁小学校
- 阿仁町立中村小学校
- 阿仁町立荒瀬小学校
- 阿仁町立伏影小学校
- 阿仁町立三枚小学校
- 阿仁町立根子小学校
- 阿仁町立阿仁合小学校萱草分校
- 阿仁町立阿仁合小学校鍵ノ滝分校
- 阿仁町立荒瀬小学校露熊冬季分校
地名の由来
[編集]房住山が修験の場として開かれていた頃、房住山一帯を支配していた高倉長者[注 1]という族長がいた。その長者に「たつこ」というひとり娘がいた。この娘の婿は阿仁と言ったので、人々は彼のことを「阿仁殿」と言った。ところが、婿をとってしばらくしたら長者に男子ができた。長者は後に財産の争いが起き、血を見ることがないようにとクジ引きで土地を分け与えることにした。その結果、娘婿の阿仁殿は米ヶ沢(米内沢)、実子は鎌ヶ沢(鎌沢)に住みそれぞれの地を支配することになった。その後、二人は奥地を切り開き、娘婿は「大阿仁」と言われる比立内地区まで、実子の方は「小阿仁」とよばれ萩形までをそれぞれ支配することになった[14]。
アイヌ語の「アンニ」(木立)が転じたものという説もある。しかし、このような用例はアイヌ語辞典では確認出来ない。
交通
[編集]鉄道
[編集]道路
[編集]名所・旧跡
[編集]出身著名人
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 高倉長者については秋田叢書 別集 第2 (菅江真澄集 第2) 房住山昔物語にも記載があり、翁面(沖田面?)にいたとしている
出典
[編集]- ^ “広報あにNo.1-1960年6月10日”. 北秋田市. 2023年5月24日閲覧。
- ^ “広報あにNo.11-1961年6月”. 北秋田市. 2023年5月24日閲覧。
- ^ “広報あにNo.78-1969年4月”. 北秋田市. 2023年5月23日閲覧。
- ^ “広報あにNo.94-1970年8月”. 北秋田市. 2023年5月25日閲覧。
- ^ “広報あにNo.98-1970年11月”. 北秋田市. 2023年5月25日閲覧。
- ^ “広報あに特集号-1974年4月”. 北秋田市. 2023年5月23日閲覧。
- ^ “広報あにNo.187-1978年3月”. 北秋田市. 2023年5月23日閲覧。
- ^ “広報あにNo.334-1990年5月”. 北秋田市. 2023年5月24日閲覧。
- ^ “広報あにNo.345-1991年3・4月合併号”. 北秋田市. 2023年5月24日閲覧。
- ^ “広報あにNo.394-1995年4月”. 北秋田市. 2023年5月24日閲覧。
- ^ “広報あにNo.430-1998年4月”. 北秋田市. 2023年5月24日閲覧。
- ^ “広報あにNo.469-2001年8月”. 北秋田市. 2023年5月24日閲覧。
- ^ “広報あにNo.146-1974年10月”. 北秋田市. 2023年5月24日閲覧。
- ^ 鷹巣阿仁部「郷土学習」指導資料 第一集 『鷹阿の文化』、鷹阿郷土学習指導資料研究会編、1984年、p.38