阿部正耆
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政10年10月24日(1827年12月12日) |
死没 | 元治元年3月2日(1864年4月7日) |
改名 | 義三郎(幼名)、正耆 |
戒名 | 浄厳院殿徳誉賢譲良節大居士 |
墓所 | 多磨霊園(西福寺から改葬) |
官位 | 従五位下、従四位下播磨守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府奏者番 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
藩 | 陸奥白河藩主 |
氏族 | 阿部氏 |
父母 |
父:阿部正粹、母:不詳 養父:阿部正定 |
兄弟 | 正耆、較姫ら |
妻 |
正室:阿部正寧の娘 側室:弦尾 |
子 |
正功ら 養子:正外 |
阿部 正耆(あべ まさひさ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国白河藩の第6代藩主。官位は従四位下・播磨守、侍従。忠秋系阿部家14代。
略歴
[編集]文政10年(1827年)10月24日、阿部正粹(阿部正精の長男)の次男として誕生。嘉永元年(1848年)に先代藩主・阿部正定が若死にしたため、養子となってその跡を継いだ。嘉永2年(1849年)6月に奏者番となるが、文久の改革で奏者番制度が廃止されたため、文久3年(1863年)4月から江戸、5月には大坂、8月には京都守護職となった松平容保の補佐として、それぞれ警備を務めるなど、佐幕派として行動した。しかし同年12月に病に倒れ、翌元治元年(1864年)3月2日に死去した。享年38。
系譜
[編集]父母
正室
側室
- 弦尾
子女
- 阿部正功(次男)生母は弦尾(側室)
養子