丹羽光重
大隣寺所蔵 | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 元和7年12月28日(1622年2月8日) |
死没 | 元禄14年4月11日(1701年5月18日)[1] |
改名 | 宮松丸(幼名)、長栄、光重 |
別名 | 半古庵、玉峰 |
戒名 | 慈明院殿従四位下前拾遺補闕玉峰大居士 |
墓所 | 二本松市大隣寺 |
官位 | 従五位下左京亮、従四位下左京大夫、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
藩 | 陸奥白河藩主→陸奥二本松藩主 |
氏族 | 丹羽氏 |
父母 | 父:丹羽長重、生母:竜光院、養母:報恩院 |
兄弟 | 亀千代、鍋麻呂、光重、酒井忠正正室、大島義唯正室、浅野長直正室 |
妻 |
正室:安藤重長の娘 継室:櫛笥隆胤の娘 側室:松田氏 |
子 | 長次、長之、千子、久勝院、西尾忠成正室 |
丹羽 光重(にわ みつしげ)は、江戸時代前期の大名。陸奥国白河藩の第2代藩主。後に陸奥二本松藩初代藩主。官位は従四位下・左京大夫、侍従。茶人としての号は半古庵(はんこあん)、画家としての号は玉峰(ぎょくほう)。
生涯
[編集]元和7年12月28日(1622年2月8日)、丹羽長重の三男として誕生。幼名は宮松丸。2人の異母兄が共に夭逝したため、寛永5年(1628年)に嫡子となる。寛永11年(1634年)12月19日、3代将軍・徳川家光より偏諱を賜って光重と名乗る。また、従五位下左京亮に叙任する。寛永14年(1637年)4月、父・長重の死去により白河藩主となる。寛永19年12月晦日、従四位下に昇進する。
寛永20年(1643年)7月4日、陸奥安達郡、安積郡へ移封されて、二本松に居城を構え、二本松藩初代藩主となる。また、陸奥国田村郡の幕領1万5360石を預けられる。正保元年(1644年)4月10日、初めて二本松へお国入りする許可を得る。国替えに伴い藩の諸制度を定め、城郭や道路・城下町の大規模な整備事業を行った。光重は文化人としても知られ、茶道を石州流の片桐貞昌に学んで奥義を極めたり、絵画を狩野益信や狩野常信に学んで狩野派画風の作品を描いたり、また華道や書道にも造詣が深かった。他にも高野山や萬福寺の僧侶を招請し、後者に「烈祖図」や「十六羅漢図」を寄進する(共に現存)など、仏教や学問の普及に努めた。
万治元年(1658年)閏12月27日、侍従に任官する。延宝6年(1678年)8月6日、預かっていた陸奥田村郡の幕領を返還する。延宝7年4月7日、嫡子・長次に家督を譲って隠居した。隠居後は玉峰と称した。元禄14年(1701年)4月11日に死去した。享年80(満79歳没)。
逸話
[編集]- 『土芥寇讎記』の息子長次の項目に拠れば、「父親(光重)は美童を甚だしく愛して問題が多かったが、息子(長次)にはその気配はない」「父は文武禅学の教養があったが息子にはない」とされている。実際、光重の小姓、おそらく寵童を狩野益信が描いた「西村志摩之助画像」が、二本松市の台雲寺に残っている[2]。
- 浅野長矩が松の廊下で高家旗本・吉良義央を切りつけた際(浅野長矩#殿中刃傷)、その報を聞いて「何故切りつけたのか?突きさえすれば殺せたものを!」(丹羽氏の刀術は突きが基本)と立腹し、煙管(キセル)で煙草盆の灰入れを叩き、凹ませたという。この時叩いた灰入れは丹羽氏18代当主・丹羽長聰が家財を二本松市に寄付する際に偶然発見した[3]。なお、丹羽長重の娘が赤穂藩初代藩主浅野長直の正室であり、丹羽光重は浅野長矩の大叔父に当たる。
系譜
[編集]父母
正室、継室
側室
- 松田氏
子女
脚注
[編集]- ^ 『丹羽光重』 - コトバンク
- ^ 榊原悟 『狩野探幽 御用絵師の肖像』 臨川書店、2014年6月、pp.705-706、ISBN 978-4-653-04085-9
- ^ http://dot.asahi.com/wa/2014092600055.html