阿部正瞭
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化10年8月20日[1](1813年9月14日) |
死没 | 天保9年4月10日(1838年5月3日) |
改名 | 松平信賢、阿部正瞭 |
別名 | 益之助 |
戒名 | 成徳院殿行誉自昭翠山大居士 |
墓所 | 多磨霊園(西福寺から改葬) |
官位 | 従五位下能登守 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番兼寺社奉行 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 陸奥白河藩主 |
氏族 | 大河内松平氏→阿部氏 |
父母 |
松平信明、神原氏娘・利和 阿部正篤 |
兄弟 |
松平信順、篤之助、泉吉郎、本庄道貫、 松平信厚、津軽順承、深井信恭、 松平忠質、内藤忠行、大森頼実、正瞭、 松平孝、雅、栄、従、錦、厚、睦、庸ら |
妻 | 松平康任養女 |
子 |
善七郎、禎之進、拎鋼、女子 正備 |
阿部 正瞭(あべ まさあきら)は、江戸時代後期の大名。陸奥国白河藩3代藩主。官位は従五位下・能登守。忠秋系阿部家11代。
経歴
[編集]文化10年(1813年)8月20日、三河国吉田藩主・松平信明の十四男として江戸谷中にて誕生。文化13年(1816年)9月2日に旗本・杉浦房次郎の仮養子となる。天保2年(1831年)10月に陸奥白河藩主・阿部正篤の養子となり、間もなく正篤が隠居したため家督を継いだ。
幼少期から聡明として知られ、天保7年(1836年)6月17日に奏者番に任じられ、天保8年(1837年)7月20日には寺社奉行を兼任するなど、将来を嘱望されていたが、正瞭は病弱だったため天保9年(1838年)5月12日(実際は4月10日)に26歳で死去した。
家督は養子・正備が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
子女
- 阿部善七郎
- 阿部禎之進
- 阿部拎鋼
- 娘
養子
脚注
[編集]- ^ “阿部正瞭 あべ-まさあきら”, デジタル版 日本人名大辞典+Plus, 講談社, (2015-9)