陳澄波
チェン・チェンボー 陳 澄波 | |
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生誕 |
1895年2月2日 清朝・台南県嘉義区 |
死没 |
1947年3月25日(52歳没) 台湾省嘉義市 |
死因 | 二・二八事件 |
出身校 | 東京美術学校師範科 |
職業 | 画家・政治家 |
陳 澄波(拼音: Chén Chéngbō、白話字: Tân Têng-pho、英語: Tan Teng-pho、ちん とうは、チェン・チェンボー、1895年2月2日 - 1947年3月25日)は、台湾の画家・政治家。台湾近代美術界を代表する画家であり、「台湾画壇のモダニズムの父」[1]とされている。
清朝の台南県嘉義区に生まれ、日本の東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業した。1926年には台湾人画家として初めて帝展に入選した。1947年の二・二八事件で殺害された。故郷の嘉義市文化会館の一角には陳澄波記念館が設置されている[2]。
経歴
[編集]出生
[編集]1895年2月2日、清朝の台南県嘉義区に生まれた。なお、同年4月17日には下関条約によって台湾が清朝から日本に割譲されている(日本統治時代の台湾)。
父は科挙に合格した秀才だったが、陳澄波が生まれた後すぐに死去し、母が落花生油を売って生計を立てていた[1]。1907年には日本語教育を行う嘉義公学校に入学した[2]。
画家として
[編集]1913年には台北市の台湾総督府国語学校(現・国立台北教育大学)に入学し、日本人水彩画家の石川欽一郎の下で学んだ[1]。その後は故郷の公立学校で教壇に立っていたが、1924年3月に基隆港から船で日本に渡り[2]、日本の東京美術学校(現・東京芸術大学)図画師範科に入学した[2]。この時の陳澄波は30歳近くになっていた[3]。洋画家の田辺至の下で学ぶとともに、私塾の本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事した。1926年には油絵「嘉義街外」が第7回帝展に入選し、台湾人として初めて帝展で入選した画家となった[1][3][4]。
陳澄波はフィンセント・ファン・ゴッホの画風に憧れ、「台湾のゴッホ」になることを夢見ていた[1]。1929年に東京美術学校を卒業して中華民国の上海に渡ると、新華芸術専門学校で西洋画主任を、昌明芸術専門学校で教科主任を、芸苑絵画研究会で名誉教授を務めた[2]。1932年1月には日本軍が上海租界に侵攻し(第一次上海事変)、中華民国に住む台湾人も反日感情の対象となった[3]。1933年には郷里の嘉義市に戻り、故郷を作品の題材とした[1]。
陳澄波は絵画の制作のみならず、台湾における芸術運動にも関わっている。1926年には共同で七星画壇を設立し、1934年には楊三郎や廖継春と共同で台陽美術協会を設立した。さらに、1940年には嘉義市の若手芸術家が青辰美術協会を設立するのに協力している。
1945年8月に日本が降伏して日中戦争が終結し、日本による台湾当地が終わると、中国語を話せる陳澄波は嘉義国民政府歓迎準備委員会の副委員長に就任した[3]。1946年には嘉義市議会議員となり、さらに中国国民党に入党した[3]。
二・二八事件
[編集]1947年2月28日、中華民国政府による民衆弾圧事件の二・二八事件が起こった[3]。陳澄波は民間人側の代表者となったが、3月11日に政府軍によって捕らえられた[3]。3月25日、陳澄波は政府軍によって嘉義駅前で公開射殺された[3]。
1979年には初めて遺作展が開催された[5]。中華民国政府によってその功績が秘匿され、1987年に台湾省戒厳令が解除されるまではほとんど知られていなかった[3]。国立台湾図書館でさえ、陳澄波に言及している1987年以前の資料は絵画1点のみしか所蔵していない[3]。
再評価
[編集]1994年には嘉義市で陳澄波百年紀念展が開催された[5]。1995年には李登輝総統が二・二八事件の被害者に対して公的に謝罪し、1997年に中華民国政府が刊行した書籍『台湾美術家 陳澄波』ではその死因について言及した[3]。
2007年にサザビーズ香港で行われたオークションで、陳澄波の作品『淡水夕照』が5,073万香港ドル(約8億円)で落札された[5]。
東京芸術大学と国立台湾師範大学は共同で陳澄波の作品の修復事業に取り組んだ[6]。2014年に東京芸術大学大学美術館で開催された展覧会「台湾の近代美術」には陳澄波の作品も出品され、同年には東京芸術大学正木記念館で展覧会「陳澄波 台湾絵画の巨匠」が開催された[5]。
2015年12月、山口県防府市の防府市立防府図書館に展示されていた油彩画「東台湾臨海道路」が陳澄波の作品であることが判明し[7][8]、その後福岡アジア美術館に寄託された[9]。防府出身の台湾総督である上山満之進が陳澄波に依頼して描かせた風景画であり、1941年に上山家から三哲文庫(後の防府図書館)に寄贈されて図書館内に展示されていた[9]。日本に残る数少ない台湾近代美術の作品とされる[9]。2020年には同作品のレプリカが製作され、防府図書館に常設展示されている[10]。
2018年、台湾人作家の柯宗明によって陳澄波を主題とする小説『陳澄波密碼』が刊行され、同年には第3回台湾歴史小説賞の大賞を受賞した[5]。2024年にはこの小説の日本語版として、岩波書店から『陳澄波を探して 消された台湾画家の謎』(栖来ひかり訳)が刊行された[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 血に染まった画家 陳澄波の旧宅と文化館 台湾光華雑誌、2017年4月
- ^ a b c d e 王宇鵬、福田隆眞「陳澄波の美術活動とその影響について」『山口大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要』第39号、山口大学教育学部、2015年3月。
- ^ a b c d e f g h i j k Han Cheung「Life and death on the streets of Chiayi」『タイペイ・タイムズ』2016年1月31日、12面。2024年11月28日閲覧。
- ^ 台湾人として初めて帝展で入選した人物は彫刻家の黄土水である。
- ^ a b c d e f 陳澄波を探して 消された台湾画家の謎 Amazon
- ^ 台湾絵画の巨匠 ─ 陳澄波 油彩画作品修復展 ─ 國立台湾師範大学藝術学院文物保存維護研究発展中心・東京藝術大学大学院文化財保存学保存修復油画研究室共同研究発表 東京芸術大学大学美術館
- ^ 「油絵を防府図書館で発見 台湾『悲劇の画家』陳澄波 福岡の美術館に寄託へ」『中国新聞』2015年12月26日
- ^ 「油絵『東台湾臨海道路』を再展示 台湾の陳澄波作近代洋画家 防府図書館」『山口新聞』2019年10月6日
- ^ a b c 台湾近代美術の巨匠作品を福岡で初公開! 福岡アジア美術館
- ^ 「台湾近代美術の巨匠・陳澄波 油絵レプリカ完成 防府・市立図書館で常設展示」『毎日新聞』2020年6月16日