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雲仙山尚敏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

雲仙山 尚敏(うんぜんやま なおとし、1938年7月3日 - 没年不明 )は、長崎県南高来郡加津佐町(現在の南島原市)出身で二所ノ関部屋所属の1960年代に活躍した元大相撲力士。本名は、岩永 尚敏(いわなが なおとし)。現役時代の体格は身長174cm、体重98kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は西十両7枚目。血液型はA型。

来歴

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1955年1月場所に初土俵を踏む。初土俵から負け越すことなく1958年1月場所で幕下へ昇進、幕下でも2度負け越したのみで順調に番付を上げ、1960年5月場所に21歳で新十両に昇進。その場所は3勝12敗と大きく負け越し1場所で幕下へ陥落。1962年3月場所で再度十両へ復帰し、その場所で10勝5敗と二桁勝利を挙げると以降十両へ定着する。1963年5月場所限りで24歳の若さで廃業。

廃業後は日本相撲連盟の理事長を務めた[1]

エピソード

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  • 1962年1月場所10日目から千秋楽まで、弓取式を務めた経験がある。
  • 大学4年生の時の草野仁が長崎県に帰郷していた際、彼を1966年の大分国体・長崎県予選に勧誘した。結果、草野は当時77.5kgの体で130kgの前年度優勝者を投げ優勝を果たした。しかし、大学の卒業論文を仕上げなければならないことを理由に、草野は国体出場を辞退した[1]

主な戦績

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  • 通算成績:212勝188敗 勝率.530
  • 十両成績:44勝61敗 勝率.419
  • 現役在位:46場所
  • 十両在位:7場所

場所別成績

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雲仙山 尚敏
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1955年
(昭和30年)
新序
2–1 
東序二段79枚目
5–3 
東序二段27枚目
6–2 
x 東三段目87枚目
6–2 
x
1956年
(昭和31年)
西三段目57枚目
4–4 
西三段目52枚目
4–4 
東三段目48枚目
7–1 
x 東三段目21枚目
5–3 
x
1957年
(昭和32年)
東三段目10枚目
4–4 
東三段目10枚目
4–4 
東三段目3枚目
4–4 
x 東三段目3枚目
4–4 
東三段目筆頭
5–3 
1958年
(昭和33年)
西幕下73枚目
7–1 
東幕下49枚目
2–6 
東幕下63枚目
4–4 
東幕下60枚目
4–4 
西幕下59枚目
5–3 
西幕下48枚目
6–2 
1959年
(昭和34年)
東幕下33枚目
4–4 
東幕下33枚目
3–5 
西幕下38枚目
7–1 
西幕下12枚目
6–2 
西幕下10枚目
4–4 
西幕下8枚目
4–4 
1960年
(昭和35年)
西幕下9枚目
5–3 
西幕下2枚目
5–3 
西十両18枚目
3–12 
西幕下6枚目
3–4 
西幕下10枚目
4–3 
西幕下8枚目
2–5 
1961年
(昭和36年)
西幕下16枚目
5–2 
西幕下7枚目
4–3 
東幕下6枚目
4–3 
西幕下5枚目
3–4 
西幕下6枚目
4–3 
東幕下4枚目
5–2 
1962年
(昭和37年)
東幕下筆頭
5–2 
西十両17枚目
10–5 
西十両7枚目
5–10 
西十両11枚目
6–9 
東十両15枚目
9–6 
東十両10枚目
6–9 
1963年
(昭和38年)
東十両13枚目
5–10 
西幕下筆頭
2–5 
西幕下7枚目
引退
1–6–0
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴

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  • 岩永 尚敏(いわなが なおとし)1955年1月場所 - 1957年11月場所
  • 雲仙山 尚敏(うんぜんやま なおとし)1958年1月場所 - 1963年5月場所

脚注

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  1. ^ a b 草野仁 相撲の“最強伝説”を明かす「栃錦方式で…」 Sponichi Annex 2024年6月13日 20:12 (2024年6月13日閲覧)

関連項目

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外部リンク

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