香月恕経
香月 恕経(かつき じょけい[1] / ゆきつね[2]、1842年7月21日(天保13年6月14日[1])- 1894年(明治27年)5月18日[1])は、幕末の医師、明治期の政治家、教育者。衆議院議員。幼名・恕吉郎、字・子貫[3]。号・晦処、晦洞[3]。
経歴
[編集]筑前国夜須郡下浦村(現福岡県朝倉市下浦)で、医師・香月春庵の長男として生まれる[1][3][4]。佐野東庵(甘木高原町)の私塾梅西舎で漢籍を、医師・深水玄門(熊本)に漢方内科医術を、玉井養純(筑後国生葉郡)に漢学・医術をそれぞれ師事した[3]。文久2年(1862年)父の死去により家督を相続し医業を開業し、幕末には国事に奔走した[3]。
明治2年3月13日(1869年4月24日)秋月藩に同藩の情報を久留米藩に提供したとして捕らえられたが、同月17日に釈放された[1][3]。同年12月、秋月藩の下士に取り立てられ藩校稽古館副訓導に就任し、さらに同訓導、郡村教導役兼郡監察、零落村見ヶ締役および新町開拓係を務めた[1][3][4]。
1873年、筑前竹槍一揆で三潴県に投獄され、1877年、秋月の乱でも獄に繋がれた[1][3]。1879年、民権政社集志社を設立して社長となり、筑前共愛会夜須郡部長も務めた[1][3][4]。1880年、国会期成同盟幹事に当選し自由民権運動に加わる[1][3][4]。1881年、甘木中学校長に就任し、そのかたわら雖無(すいむ)学舎を開設した[1][3]。1884年、甘木中学校長を辞任して玄洋社で教育を担当した[1][3]。1887年、福陵新報が創刊されると幹事に就任した[1][3]。
1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に福岡県第二区から出馬して当選[2]。第2回総選挙でも再選され、衆議院議員を二期務め[2]、条約改正反対を主張し活動した[1][3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『三百藩家臣人名事典』第7巻、新人物往来社、1989年。
- 『福岡県百科事典』上巻、西日本新聞社、1982年。
- 三松荘一編『福岡県先賢人名辞典』葦書房、1986年(文照堂書店、1933年発行の復刻)。
- 石瀧豊美著『玄洋社 封印された実像』海鳥社、2010年、ISBN978-87415-787-9