高田繁太郎
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高田 繁太郎(たかた しげたろう、安政4年〈1857年〉 - 大正8年〈1919年〉)は日本の実業家。高田家11代目。旧姓:伊藤。農政の先駆者といわれ、多彩な独創的事業に成功[1]。日野川河口の埋め立てによる高田新田、旗ケ崎海岸の開墾、倉庫の建設など、繁太郎の事業は米子の産業発展に寄与した[2]。
経歴
[編集]伯耆国会見郡上福原村(鳥取県西伯郡福生村を経て現・米子市上福原)に生まれた[1]。伊藤平十郎の三男[1]。儒者高橋及び穴山の両師に従い漢籍を研修する[3]。
19歳の時、同郡福万村高田家の人となった[2]。家は代々農を業とし資財富裕であった[3]。22歳の時に家督を相続して11代の主となった[3]。当時高田家は酒造と林業を営んでいたが、財を守るだけを潔しとせず、時勢をみて志を立て大山原野50町歩を開拓し薬用人参・桑などを栽培した[1]。
当時塵埃捨て場米子町海岸を数町歩埋め立てたり、皆生の日野川河口付近湿地帯の開拓、旗ヶ崎海岸3町5反の開拓を行った。当時の上方との唯一の海上交易路であった米子港に、広大な倉庫を建て商業発展につとめた[1]。
明治23年(1890年)、県小校舎移転改築に敷地を提供して自費で建設した[1]。大山の天然氷を貯蔵販売して、人工製氷のできるまで魚や病人用・食用に供した[1]。
家族
[編集]- 養父・徳三郎[3]
史料
[編集]所得額三千円以上の人々
[編集]国税営業税納入者名と対照して検討すべき資料として『郡勢一斑』から見積り所得額(所得税から各税率によって換算した額)三千円以上の人々の名を掲げておく[4]。大正4年(1915年)である[4]。
- 三万四千五百五十九円・尾高町・坂口平兵衛
- 二万千九百二十八円・博労町・名島嘉吉郎
- 一万二千五百十四円・道笑町・三好栄次郎
- 一万二千三百五十三円・県村・高田繁太郎
- 一万二千二円・法勝寺町・野坂茂三郎
- 一万百十三円・道笑町・益尾吉太郎
- 九千九百十九円・大高村・船越弥一郎
- 八千九百三十九円・富益村・永見億次郎
- 八千百九十九円・内町・後藤快五郎
- 七千五百八十二円・春日村・田後与一郎
- 七千三十二円・角盤町・久山義英
- 六千九百十七円・福生村・本生芳三郎
- 五千九百八十四円・東倉吉町・木村吉兵衛
- 五千四百五十六円・道笑町・益尾徳次郎
- 五千二百三十八円・糀町・田村源太郎
- 五千六円・住吉村(旗ヶ崎)・油木茂三郎
- 四千九百十八円・糀町・近藤なお
- 四千八百四十一円・四日市町・田口庸三
- 四千八百十三円・彦名村・高場保蔵
- 四千六百八十六円・西倉吉町・赤沢康平[5]
- 四千三百二十六円・道笑町・三好常太郎
- 四千二百八十九円・西町・渡辺慶太郎
- 四千二百二十九円・紺屋町・船越作一郎
- 四千二百円・法勝寺町・高板秀治
- 三千六百十七円・日野町・杵村善市
- 三千五百十四円・道笑町・大谷房太郎
- 三千三百二十五円・糀町・小坂市太郎
- 三千三百二十五円・成実村・遠武勇蔵
- 三千二百円・紺屋町・砂田竹太郎
- 三千百七十六円・内町・中村藤吉
- 三千七円・車尾村・高田浅蔵
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 541頁