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高田繁太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高田 繁太郎(たかた しげたろう、安政4年〈1857年〉 - 大正8年〈1919年〉)は日本実業家。高田家11代目。旧姓:伊藤。農政の先駆者といわれ、多彩な独創的事業に成功[1]。日野川河口の埋め立てによる高田新田、旗ケ崎海岸の開墾、倉庫の建設など、繁太郎の事業は米子の産業発展に寄与した[2]

経歴

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伯耆国会見郡上福原村(鳥取県西伯郡福生村を経て現・米子市上福原)に生まれた[1]。伊藤平十郎の三男[1]。儒者高橋及び穴山の両師に従い漢籍を研修する[3]

19歳の時、同郡福万村高田家の人となった[2]。家は代々農を業とし資財富裕であった[3]。22歳の時に家督を相続して11代の主となった[3]。当時高田家は酒造林業を営んでいたが、財を守るだけを潔しとせず、時勢をみて志を立て大山原野50町歩を開拓し薬用人参などを栽培した[1]

当時塵埃捨て場米子町海岸を数町歩埋め立てたり、皆生日野川河口付近湿地帯の開拓、旗ヶ崎海岸3町5反の開拓を行った。当時の上方との唯一の海上交易路であった米子港に、広大な倉庫を建て商業発展につとめた[1]

明治23年(1890年)、県小校舎移転改築に敷地を提供して自費で建設した[1]。大山の天然氷を貯蔵販売して、人工製氷のできるまで魚や病人用・食用に供した[1]

家族

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  • 養父・徳三郎[3]

史料

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所得額三千円以上の人々

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国税営業税納入者名と対照して検討すべき資料として『郡勢一斑』から見積り所得額(所得税から各税率によって換算した額)三千円以上の人々の名を掲げておく[4]大正4年(1915年)である[4]

三万四千五百五十九円・尾高町坂口平兵衛
二万千九百二十八円・博労町名島嘉吉郎
一万二千五百十四円・道笑町三好栄次郎
一万二千三百五十三円・県村高田繁太郎
一万二千二円・法勝寺町野坂茂三郎
一万百十三円・道笑町益尾吉太郎
九千九百十九円・大高村・船越弥一郎
八千九百三十九円・富益村永見億次郎
八千百九十九円・内町後藤快五郎
七千五百八十二円・春日村・田後与一郎
七千三十二円・角盤町久山義英
六千九百十七円・福生村・本生芳三郎
五千九百八十四円・東倉吉町木村吉兵衛
五千四百五十六円・道笑町・益尾徳次郎
五千二百三十八円・糀町田村源太郎
五千六円・住吉村旗ヶ崎)・油木茂三郎
四千九百十八円・糀町・近藤なお
四千八百四十一円・四日市町・田口庸三
四千八百十三円・彦名村・高場保蔵
四千六百八十六円・西倉吉町赤沢康平[5]
四千三百二十六円・道笑町・三好常太郎
四千二百八十九円・西町・渡辺慶太郎
四千二百二十九円・紺屋町船越作一郎
四千二百円・法勝寺町・高板秀治
三千六百十七円・日野町・杵村善市
三千五百十四円・道笑町・大谷房太郎
三千三百二十五円・糀町・小坂市太郎
三千三百二十五円・成実村・遠武勇蔵
三千二百円・紺屋町砂田竹太郎
三千百七十六円・内町中村藤吉
三千七円・車尾村・高田浅蔵

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『鳥取県大百科事典』541頁
  2. ^ a b 近代史を飾った 西部人物伝
  3. ^ a b c d 『島根鳥取名士列伝、中』四十三
  4. ^ a b 『米子商業史』165頁
  5. ^ 元自治大臣赤沢正道の父。

参考文献

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  • 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 541頁

外部リンク

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