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朝香宮鳩彦王

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鳩彦王から転送)
朝香宮鳩彦王
朝香宮
続柄

身位 → (皇籍離脱)
敬称 殿下 → (皇籍離脱)
出生 1887年10月2日
死去 (1981-04-12) 1981年4月12日(93歳没)
埋葬 豊島岡墓地
配偶者 鳩彦王妃允子内親王(富美宮允子内親王)
子女 鍋島紀久子(紀久子女王)
孚彦王
音羽正彦(正彦王)
大給湛子(湛子女王)
父親 久邇宮朝彦親王
母親 角田須賀子
役職 陸軍大将貴族院議員、大日本傷痍軍人会総裁
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朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年明治20年〉10月2日 - 1981年昭和56年〉4月12日)、または朝香 鳩彦(あさか やすひこ)は、日本旧皇族旧陸軍軍人久邇宮朝彦親王の第8王子[1]。明治39年3月、朝香宮家を創設[1][2]。妃は明治天皇第8皇女允子内親王[1]。兄に久邇宮邦彦王梨本宮守正王、弟に東久邇宮稔彦王。長男孚彦王、二男音羽正彦[1]1947年(昭和22年)10月14日皇籍離脱した。最終階級陸軍大将勲等大勲位功一級。「ゴルフの宮様」と呼ばれた[3][4][5][6]。第125代天皇明仁大叔父にあたる[7]。陸軍大将であったため、朝香大将宮殿下(あさかたいしょうのみやでんか)とも呼ばれた[8]

生涯

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1887年(明治20年)10月、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、1906年(明治39年)3月に朝香宮家を創設。朝香宮の宮号は、朝彦王が伊勢神宮祭主をつとめた縁で、伊勢にある朝香山にちなんで名づけられたという[9]1910年(明治43年)に明治天皇皇女允子内親王と結婚した。

鳩彦王は学習院東京陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て1908年(明治41年)5月27日に陸軍士官学校(20期、兵科歩兵)を卒業し、同年12月25日、陸軍歩兵少尉に任官し、近衛歩兵第2連隊附となった[1]。また、1907年(明治40年)10月4日、貴族院議員に就任した[10]

1917年(大正6年)頃、陸軍歩兵大尉近衛歩兵第2連隊附)当時、大勲位菊花大綬章を佩用。

1914年大正3年)11月に陸軍大学校(26期)を卒業し歩兵第61連隊中隊長となった[1]。大正11年10月から14年12月まで「朝伯爵」の仮名でフランスに留学した[1]

交通事故とアール・デコ

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1923年(大正12年)4月1日復活祭の日曜日、義兄北白川宮成久王は、運転手のビクトール・デリア (Victor Déliât)、北白川宮妃房子内親王と御用掛エリザベート・ソビー (Elisabeth Sauvy)フランス語版、鳩彦王を連れ、排気量3970ccのヴォワザン23CVでドーヴィルに泊りがけの予定で向かった。ノルマンディーエヴルーで昼食を摂った後、御付運転手から運転を代わってシェルブール方面に出発した30分後、ペリエ・ラ・カンパーニュフランス語版村の付近でアカシアの巨木に衝突した。成久王と助手席のデリアは死亡し、後部座席の房子妃、鳩彦王は重傷、ソビーは軽傷を負った。大正一二年(一九二三)四月三日附『讀賣新聞』によると、成久王は、当初、朝香宮ではなく東久邇宮稔彦王をドライブに誘ったが、稔彦王は「あなたの運転は、失礼ですが、まだ十分でないからお止めなさい。私はイギリスに行く約束があるから」と断ってロンドンに向かったという。『東久邇宮日誌』によれば、鳩彦王は「事故当日、先約があったのだが成久に強いてすすめられたので同行した」などと語ったという[11]。鳩彦王は顎を砕かれたほか右足大腿中央部骨折、左の親指と人差指を骨折した[12]。この事故後、右足は少し不自由になった[13][14]樋口季一郎は『回想録』に「朝香宮のお足の不自由もそれに原因するのであった。」と記した[15]。稔彦王は『やんちゃ孤独』に「北白川宮妃と朝香宮は少しびっこになっただけですみました。」と記した[16]

怪我の療養のためフランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになった。看病のため渡仏した宮妃とともに1925年(大正14年)のパリ万国博覧会アール・デコ博)を観覧し、同様式に対して強い関心と理解を示した。後の1933年(昭和8年)に完成した東京都港区白金台町の朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は日本の代表的なアール・デコ建築とされている。

その後、陸軍少将陸軍中将と昇級し歩兵第1旅団長、近衛師団長、軍事参議官を歴任する。1937年昭和12年)12月2日、上海派遣軍司令官を拝命し、直後の南京攻略戦に参加、現地にいたこともあって、いわゆる南京事件の実際の責任者の一人として疑いが持たれている。

1938年(昭和13年)11月、帝国軍人後援会、大日本軍人援護会、振武育英会を統合して発足した恩賜財団軍人援護会の総裁に就任(これ以前より大日本軍人援護会の総裁にあった)[17]

1939年(昭和14年)8月には陸軍大将に昇った。後の太平洋戦争大東亜戦争)終盤においては、主戦論者として本土決戦に備えた陸海軍統合(統帥一元化)を主張・力説していた。また、小磯内閣当時には杉山元陸軍大臣の更迭を求めて運動したこともあった。

1946年(昭和21年)5月23日、貴族院議員を辞職[18]1947年(昭和22年)、GHQの命令により同年10月14日に皇籍離脱公職追放を受けた[19]。皇籍離脱時、一時金目当ての「うまい話」には一切乗らず、白金台の本邸を外務大臣公邸として貸し、1928年に建てた熱海の和館別荘に居を構えてゴルフ三昧の優雅な暮らしぶりだったという。株式投資をしたり、木材会社に投資したり、資産運用の真似事を行ったが、大きなやけどをしないうちに手を引いたという[20]

1981年(昭和56年)4月12日に93歳で没した。

軍歴

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陸軍中将(上海派遣軍司令官)当時の朝香宮鳩彦王。左端より海軍中将長谷川清支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官)、陸軍大将松井石根中支那方面軍司令官)、朝香宮鳩彦王、陸軍中将柳川平助第10軍司令官)。

エピソード

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  • 『NNNドキュメント'15 シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言』によれば、東京裁判や南京裁判などで、上海派遣軍司令官として南京大虐殺で「捕虜の殺害命令」に関与した疑いでGHQから戦犯に指名される可能性があったが、高松宮のロビー活動が功を奏し戦犯指定を免れた[21]
  • 名誉総裁を務めた東京ゴルフ倶楽部は、昭和5年に来日したアリソンの設計で朝霞コースを造成したが、コース名は朝香宮にちなんでつけられた。当時「膝折」という地名だったがゴルフ場に「膝折」という名前は縁起がよくないという話が持ち上がり、改名するなら東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁でもある朝香宮鳩彦王の名前を頂きたいと宮内省に打診し、理事会で「朝霞」が決定した。膝折村でもこれを機に町制施行の機運が高まり、「朝霞町」が実現した[22]
  • 1928年、長野県軽井沢町に洋館の別邸を建設する。この別邸は、1947年に堤康次郎が買収し、一部に改修を加えて「プリンスホテル」(その後「軽井沢プリンスホテル」→「千ヶ滝プリンスホテル」に改称)として開業した。ここで「プリンスホテル」という名が世に初めて登場した[23]。その後このホテルは皇太子(上皇明仁)の軽井沢における主要な滞在先となり、1964年以降は一般客の宿泊を受け入れず皇室専用となったため、事実上の「軽井沢御用邸」となった(現在は使用されておらず、メンテナンスのみ行われているとされる)。なお堤は1950年に西武鉄道名義で白金本邸も買収している。

栄典

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血縁

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明治天皇
(1852-1912)
在位
1867-1912
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大正天皇
(1879-1926)
在位
1912-1926
竹田宮恒久王
(1882-1919)
 
昌子内親王
(1888-1940)
北白川宮成久王
(1887-1923)
 
房子内親王
(1890-1974)
朝香宮鳩彦王
(1887-1981)
 
允子内親王
(1891-1933)
東久邇宮稔彦王
(1887-1990)
 
聡子内親王
(1896-1978)
昭和天皇
(1901-1989)
在位
1926-1989
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和天皇
(1901-1989)
在位
1926-1989
竹田恒徳
(1909-1992)
永久王
(1910-1940)
朝香孚彦
(1912-1994)
盛厚王
(1916-1969)
 
成子内親王
(1925-1961)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上皇
明仁

(1933-)
在位
1989-2019
 
竹田恒正
(1940-)
 
 
 
 
 
北白川道久
(1937-2018)
 
 
 
朝香誠彦
(1943-)
東久邇信彦
(1945-2019)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今上天皇
徳仁

(1960-)
在位
2019-
 
 
竹田家
 
 
 
 
(男系断絶)
 
 
 
 
朝香家東久邇家


脚注

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  1. ^ a b c d e f g 「朝香宮鳩彦王」秦郁彦編『陸海軍総合事典 [第2版]』東京大学出版会、2005年8月15日 第2版第1刷、ISBN 4-13-030135-7、8頁。
  2. ^ 米田雄介小田部雄次「近現代の宮家皇族」皇室事典編集委員会編著『皇室事典 令和版』KADOKAWA、2019年11月30日 令和版初版発行、ISBN 978-4-04-400490-3、132頁。
  3. ^ 乾豊彦「私の履歴書 25」『私の履歴書 経済人 21』日本経済新聞社、昭和六十一年十二月九日 一版一刷、ISBN 4-532-03093-5、79頁。
  4. ^ 佐藤朝泰「朝香家—わが国のゴルフ界黎明期の大恩人、鳩彦王」『門閥―旧華族階層の復権』立風書房、1987年4月10日 第1刷発行、42頁。
  5. ^ 小田部雄次『49人の皇族軍人 戦場に立った近代日本の陰の主役たち』洋泉社、2016年7月18彦、初版発行、ISBN 978-4-8003-0983-9、216頁。
  6. ^ 「11宮家の肖像 朝香宮家」『皇室 The Imperial Family』令和2年夏 87号、扶桑社、令和2年 (2000) 7月22日発行、80頁。
  7. ^ 小田部雄次『皇族』中央公論新社〈中公新書〉、2011年。ISBN 978-4-12-102011-6 [要ページ番号]
  8. ^ 紀元二千六百年記念観兵式」を伝えるニュースで、「…諸兵指揮官朝香大将宮殿下、御指揮の5万の精鋭、林のごとく整列…」と伝えられている。[要出典]
  9. ^ 鹿島茂【編著】『宮家の時代 セピア色の皇族アルバム』朝日新聞社、2006年10月30日 第1刷発行、ISBN 4-02-250226-6、107頁。
  10. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、17頁。
  11. ^ 浅見雅男『皇族と天皇 <ちくま新書 1224>』筑摩書房、二〇一六年一二月一〇日 第一刷発行、ISBN 978-4-480-06938-2、288頁。
  12. ^ 大給湛子・構成◎岩尾光代『素顔の宮家 私が見たもうひとつの秘史』PHP研究所、2009年10月19日 第1版第1刷発行、ISBN 978-4-569-77172-4、83~86頁。
  13. ^ 早坂隆『戦時演芸慰問団「わらわし隊」の記録—芸人たちが見た日中戦争』中央公論新社、二〇〇八年七月一〇日 初版発行、ISBN 978-4-12-003960-7、157頁。
  14. ^ 猪瀬直樹『ミカドの肖像』小学館、1986年12月20日 第1刷発行、ISBN 4-09-394161-0、61頁。
  15. ^ 樋口季一郎『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』芙蓉書房、昭和46年10月11日、0095-010140-7344、234頁。
  16. ^ 鹿島茂『パリの日本人』新潮社、2009年10月25日 発行、ISBN 978-4-10-603650-7、111頁。
  17. ^ 総裁に朝香宮、会長に奈良武次大将『東京日日新聞』(昭和13年11月5日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p128 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  18. ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
  19. ^ 『朝日新聞』1947年10月17日二面。
  20. ^ 佐藤 (1987)、41頁。
  21. ^ 1905-1987., Takamatsu no Miya Nobuhito, Prince, son of Taishō, Emperor of Japan,; 1905-1987., 高松宮宣仁, Prince, son of Taishō, Emperor of Japan, (1995-1997). Takamatsu no Miya nikki. Hosokawa, Morisada, 1912-2005., 細川護貞, 1912-2005. (Shohan ed.). Tōkyō: Chūō Koronsha. ISBN 4124033915. OCLC 34168867. https://www.worldcat.org/oclc/34168867 
  22. ^ 鹿島建設 (2009年4月28日). “第25回 東京ゴルフ倶楽部朝霞コース―日本初の常緑芝のゴルフ場”. 鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~. 2021年3月7日閲覧。
  23. ^ 写真で見る西武ヒストリー(前編) 西武ホールディングス
  24. ^ 『官報』第7306号「叙任及辞令」、明治40年11月4日(NDLJP:2950652/2
  25. ^ 『官報』第1575号「叙任及辞令」1917年11月1日。p.6
  26. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  27. ^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
  28. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  29. ^ 『官報』第4570号「宮廷録事 勲章親授式」1942年4月7日、p.213。

関連項目

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外部リンク

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