鶉 (水雷艇)
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艦歴 | |
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計画 | 明治30年度計画[1] |
起工 | 1903年1月20日[1] |
進水 | 1904年2月29日[1] |
就役 | 1904年4月22日[1] |
除籍 | 1923年4月1日[1] |
その後 | 1923年4月1日雑役船編入、曳船兼交通船指定[1] |
廃船 | 1932年9月30日[1] |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:152トン |
全長 | 垂線間長:45.00 m (147 ft 7 in 11/16) |
全幅 | 4.91 m (16 ft 1 in 7/16)[2] |
吃水 | 1.45 m (4 ft 9 in 3/32) |
機関 | ノルマン式ボイラー 2基 直立式3気筒3段膨張レシプロ 2基 2軸 4,200馬力 |
速力 | 28.5ノット[3] |
航続距離 | 10ノットで2,000海里 |
燃料 | 石炭:28.5トン(満載) |
乗員 | 30名 |
兵装 | 4.7 cm 保式単装軽速射砲3基(推定) 45 cm 水上旋回式発射管3基 |
鶉(うづら[4]、うずら)は、日本海軍の水雷艇で、隼型水雷艇の12番艇である。
艦歴
[編集]発注時の艇名は第十三号百二十噸水雷艇[4]。1901年(明治34年)12月18日、鶉と命名[4]。1902年(明治35年)10月31日、水雷艇に編入され等級一等となる[5]。1903年(明治36年)1月20日、呉海軍造船廠で起工[1]。 1904年(明治37年)2月29日に進水し、同年4月22日に竣工。
日露戦争では旅順口攻撃に参戦し、日本海海戦では第十五艇隊に所属し夜戦に参加した[1][6]。
1923年(大正12年)4月1日に除籍され[7]、同日、雑役船に編入となり、曳船兼交通船に指定され呉海軍工廠水雷部所属となる[1][6]。1932年(昭和7年)9月30日に廃船となる[1][6]。
艇長
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」27頁。
- ^ 4.91 mは『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表の値をメートル換算した値。『世界の艦船 増刊第47集』によると4.90 m。
- ^ 『世界の艦船 増刊第47集』による。『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の附表によると29ノット。
- ^ a b c #海軍制度沿革(巻8、1940) 390頁。◎「水雷艇鷺外四隻命名ノ件」明治三十四年十二月十八日(達一七一) 新造水雷艇ニ左ノ通命名ス | 呉海軍造船廠ニ於テ製造 |〔中略〕第十三號百二十噸水雷艇 鶉 ウヅラ〔以下略〕。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 63頁。◎明治三十五年十月三十一日(達一〇〇) 軍艦及水雷艇類別等級別表中驅逐艦ノ欄内ニ「春雨」ヲ、水雷艇一等ノ欄内ニ「鷺、鶉、鷗、鷂、鴻」ヲ、同二等ノ欄内ニ「第七十二號、第七十三號、第七十四號、第七十五號」ヲ加フ。
- ^ a b c 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、480-481頁。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 79頁。◎大正十二年四月一日(達七一) 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「敷島、朝日、須磨、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雲雀、鷺、鶉、鷂、第七十二號、第七十三號、第七十四號、第七十五號」ヲ削ル。
- ^ 「明治三十七年辞令通報 5月」 アジア歴史資料センター Ref.C13071937800
参考文献
[編集]- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 中川努「日本海軍特務艦船史」
- 『世界の艦船 増刊第47集』海人社、1997年3月号増刊、第522集。
- 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
- 堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、1969年。ISBN 4-562-01873-9
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料篇、KKベストセラーズ、1994年。