コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

弘南鉄道黒石線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黒石線から転送)
弘南鉄道 黒石線
川部駅(1997年)
川部駅停車中の2100形による黒石線の列車(1997年)
概要
現況 廃止[1]
起終点 起点:川部駅[1]
終点:黒石駅[1]
駅数 3駅
運営
開業 1912年8月15日 (1912-08-15)
民鉄転換 1984年11月1日[1]
廃止 1998年4月1日 (1998-4-1)[1]
所有者 鉄道院→鉄道省
運輸通信省運輸省
日本国有鉄道
弘南鉄道
使用車両 車両の節を参照
路線諸元
路線総延長 6.2 km (3.9 mi)
軌間 1,067 mm (3 ft 6 in)
電化 全線非電化[1]
路線図
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線
STR
五能線
ABZql BHFq eABZq+r
0.0 川部駅 奥羽本線
exSTR
exBHF
2.9 前田屋敷駅
STR+r exSTR
弘南線
eABZg+l exABZgr
KBHFe exSTR
6.2 黒石駅
exKBHFe
6.9 黒石駅(国鉄) -1984

黒石線(くろいしせん)は、かつて弘南鉄道が運営していた鉄道路線青森県南津軽郡田舎館村川部駅から黒石市黒石駅までを結んでいたが、1998年平成10年)に廃止された。日本国有鉄道(国鉄)の特定地方交通線で、同じ青森県内の大畑線とともに純民間資本の民営鉄道に転換された数少ない例であった。

路線データ(廃止時)

[編集]

歴史

[編集]

この路線は鉄道省(後に日本国有鉄道となり、黒石線転換後にJR東日本となる)が軽便鉄道法を準用して建設したもので、1912年大正元年)8月に黒石軽便線(くろいしけいべんせん)として開業した[1]1922年(大正11年)には軽便の2文字を取り、黒石線と改名されている。

1950年(昭和25年)7月に弘南鉄道弘南線が弘南黒石まで延伸されると、旅客は弘南線に流れ、黒石線の乗客は減少していった[1]1968年(昭和43年)10月には弘南鉄道から国鉄東北支社に対し経営委託の申し入れを行っている。

1980年(昭和55年)に国鉄再建法が成立し、黒石線は1981年(昭和56年)9月18日に第1次特定地方交通線として承認された[2]。これにより「黒石線特定地方交通線対策協議会」が同法第9規定により設けられ、代替輸送に関する協議が重ねられた[3]。その中で地元自治体が弘南鉄道に黒石線の存続を要請しており、数次にわたる協議の結果、1984年(昭和59年)4月5日の第6次会議で転換に最終合意した[2][3]

同年11月1日に弘南鉄道黒石線へ転換された。国鉄と弘南で分かれていた黒石駅は、経費削減のため国鉄黒石駅の直前から弘南黒石駅に渡り線を新設して弘南黒石駅に統合された[2]。国鉄時代には弘前からの直通列車や五能線への乗り入れ列車があり、また利用者の多くを占める弘前 - 黒石間の運賃も競合する弘南線と比較して割安であったが、転換以降は国鉄線からの直通運転が廃止され、さらに運賃は値上げされたのみならず弘南黒石線と国鉄の運賃が別立ての計算となったことで、弘前 - 黒石間における競争力を失い利用者の逸走を招く結果になった。財政措置として期限付きで各種交付金・補助金が支給されたが、コスト低減策として単線自動信号化・自動券売機設置などの合理化を進め、収支増加策として列車本数の増加や特定の時間帯が割引運賃となる「特割ショッピング回数券」を発売したり、黒石駅舎を新築して生協スーパーマーケット店舗を併設したりして集客を図った[2][注釈 1]。乗客は減少したがコスト削減策も一定の成果を上げ、営業係数は国鉄時代の706(1983年度)・560(1984年度10月末まで)から、121(1984年度11月以降)・110(1985年度)・120(1986年度)・120(1987年度)と改善された[2]1992年平成4年)の「第三次黒石市総合開発計画 基本計画」で黒石市は目標として「黒石線の輸送力増強」を掲げていた[5]

しかし、利用者の減少から、1992年(平成4年)10月に弘南鉄道・黒石市田舎館村青森県の担当者レベルで 「黒石線活性化推進協議会」 を設置した[3]。1993年(平成5年)は弘南鉄道に対する補助最終年度であったが、同年までにおいて黒石線は、同社全体の65%を占める累積欠損額を発生させており、黒石線の不振が経営の悪化・悪影響の要因として懸念された[3]。活性化協議会は検討を重ねた結果「黒石線活性化協議会報告書」を作成し、「黒石線再生のための恒久的・効果的対策を見いだし得ない」「自治体の支援なしには存続できない」との結論を出した[3]。 活性化協議会は黒石線の今後の方針について、 弘南鉄道トップに最終的な結論を委ねることに決めて解散した[3]

1995年(平成7年)10月、 弘南鉄道は青森県・黒石市長・ 田舎館村長に対して黒石線廃止の意向を申し入れた[3]。その後、 関係者への説明や協議を経て、1997年(平成9年)12月に黒石線廃止後のバス代替運行計画を受け入れた黒石市長・田舎館村長が黒石線の廃止を最終的に承認した[3]

1998年(平成10年)4月1日、黒石線は廃止された[1]。これは転換特定地方交通線の廃止第1号であった。

年表

[編集]

運行形態

[編集]

最短30分 - 最長2時間程度の間隔で運行されていた。当初は朝の4往復のみ2両で運行されていたが、乗客減のため廃止直前は全て単行(1両編成)で運行されていた。また、転換当初は車掌乗務であったが、後に全列車ワンマン運転となった。

車両

[編集]

転換当初は国鉄から譲り受けた気動車キハ22形3両を使用していたが、老朽化のため1995年(平成7年)7月[10]小坂製錬小坂線で使用されていた気動車キハ2100形2両を譲り受けて、キハ22形は予備車1両を残して廃車にした。しかし、キハ2100形には排雪器が取り付けられていなかったことから冬季の豪雪時には予備車となったキハ22形が引き続き使用された[11]。なお、キハ22形のワンマン化に際しては、既に同型でワンマン運転を開始していた下北交通へ担当者が出向き、改造時の図面を参考にしている[11]

廃線後、キハ22形1両、キハ2100形2両が田舎館村で保存されていたが、2013年(平成25年)11月17日にこの気動車3両が同月18日以降解体されることになったと報道された[12]。22日解体実施。

利用状況

[編集]

輸送実績

[編集]

黒石線の転換後の輸送実績を下表に記す。転換後輸送量は減少し、転換時の約半分になった時点で廃止されている。 表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。

年度別輸送実績
年度 輸送実績(乗車人員):万人/年度 輸送密度
人/1日
特記事項
通勤定期 通学定期 定期外 合計
1984年(昭和59年) 3.8 7.5 6.0 17.3 962 国鉄より転換
1985年(昭和60年) 5.5 13.0 12.2 30.7 711  
1986年(昭和61年) 4.6 13.0 11.5 29.1 685  
1987年(昭和62年) 4.2 12.6 10.6 27.4 648  
1988年(昭和63年) 3.7 11.0 9.7 24.4 579  
1989年(平成元年) 3.3 11.3 9.1 23.7 565  
1990年(平成2年) 3.0 12.7 8.7 24.4 592  
1991年(平成3年) 2.7 13.4 8.6 24.7 598  
1992年(平成4年) 2.9 13.8 8.2 24.9 609  
1993年(平成5年) 2.7 12.0 7.6 22.3 544  
1994年(平成6年) 2.3 10.6 7.1 20.0 487  
1995年(平成7年) 2.3 9.6 6.6 18.5 449  
1996年(平成8年) 2.2 10.1 6.4 18.7 454  
1997年(平成9年) 1.6 9.4 5.4 16.4 407 路線廃止

収入実績

[編集]

黒石線の転換後の収入実績を下表に記す。旅客運賃収入は一時増加したがその後減少し、廃止を迎えた。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。

年度別収入実績
年度 旅客運賃収入:千円/年度 運輸雑収
千円/年度
総合計
千円/年度
通勤定期 通学定期 定期外 手小荷物 合計
1984年(昭和59年) 10,792 ←←←← 11,157 0 21,949 336 22,285
1985年(昭和60年) 18,873 ←←←← 24,839 0 43,712 1,382 45,094
1986年(昭和61年) 17,995 ←←←← 23,401 0 41,396 3,000 44,396
1987年(昭和62年) 6,487 12,030 22,095 0 41,612 3,854 45,466
1988年(昭和63年) 5,767 10,455 21,488 0 37,710 816 38,526
1989年(平成元年) 5,004 10,765 20,583 0 36,352 884 37,236
1990年(平成2年) 4,677 12,009 19,317 0 36,003 867 36,870
1991年(平成3年) 3,959 12,887 19,261 0 36,107 1,161 37,268
1992年(平成4年) 4,394 13,397 18,540 0 36,331 988 37,319
1993年(平成5年) 4,403 12,636 18,296 0 35,335 962 36,297
1994年(平成6年) 3,694 11,084 17,525 0 32,303 1,003 33,306
1995年(平成7年) 3,571 10,067 16,220 0 29,858 1,008 30,866
1996年(平成8年) 3,355 10,957 15,672 0 29,984 1,600 31,584
1997年(平成9年) 2,487 10,737 14,031 0 27,255 1,070 28,325

駅一覧

[編集]
  • 線路(全線単線) … ◇:列車交換可、|:列車交換不可
  • 全駅青森県内に所在
駅名 駅間キロ 営業キロ 接続路線 線路 所在地
川部駅 - 0.0 東日本旅客鉄道奥羽本線五能線 南津軽郡田舎館村
前田屋敷駅 2.9 2.9  
黒石駅 3.3 6.2 弘南鉄道:弘南線 黒石市

時刻表への掲載

[編集]

JTB時刻表』『JR時刻表』などの冊子版全国時刻表では通常、特定地方交通線から転換した路線はJRに準じ、JR線のページへ全駅・全列車掲載されるのが原則であるが、黒石線は転換線で唯一、巻末の私鉄・バス路線のページへ、他の弘南鉄道線と併せて掲載されていた。この点、同じく既存の純民間事業者の下北交通へ譲渡されながら、時刻表の掲載位置が他の第三セクター鉄道などと同じ大畑線とは対照的な扱いであった(下北交通は大畑線が唯一の鉄道線だったため、他に路線のある弘南鉄道との事情の違いはある)。ただし、黒石線は弘南鉄道他線と異なり全列車掲載にはなっていた。

廃止後の状況

[編集]

代替バス弘南バス黒石 - 川部線(91)として存続している。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ このスーパーマーケット「コープあおもり黒石店」は2020年6月に閉店し、店舗部分は解体された[4]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 荒井悦郎「津軽の街と風景 浪岡まで計画の黒石線=7」『陸奥新報』陸奥新報社、2014年7月21日。
  2. ^ a b c d e 宇野耕治・谷本谷一・仲上健一・中村徹・米田和史 (1989年11月). “特定地方交通線における経営形態の転換と現状-第三セクター鉄道会社を中心に-” (PDF). 産業研究所所報 第12号. 大阪産業大学 / J-GLOBAL(科学技術総合リンクセンター). pp. 202-207. 2021年11月27日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 田中重好 (2001年). “地域総合交通計画策定の社会的条件の探求 (下)-青森県津軽地方を事例として-” (PDF). 弘前大学 / CiNii(NII学術情報ナビゲータ・サイニィ). pp. 169-170. 2014年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月27日閲覧。
  4. ^ 黒石/駅前に更地、活用不透明」『東奥日報』東奥日報社、2020年12月31日。2021年2月21日閲覧。
  5. ^ 田中重好 (2001年). “地域総合交通計画策定の社会的条件の探求 (上)-青森県津軽地方を事例として-” (PDF). 弘前大学 / CiNii(NII学術情報ナビゲータ・サイニィ). pp. 101-102. 2014年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月27日閲覧。
  6. ^ 1912年8月15日付『東京朝日新聞』(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  7. ^ 「鉄道省告示第109号」『官報』1922年9月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 『鉄道省年報. 昭和10年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 「国鉄蒸気線区別最終運転日一覧」『Rail Magazine 日本の蒸気機関車』1994年1月号増刊
  10. ^ 出典:1995年7月24日『東奥日報』夕刊1面記事
  11. ^ a b 交友社鉄道ファン』1996年11月号 通巻427号 p.76 - 77
  12. ^ 旧黒石線の3車両解体へ/田舎館」『東奥日報』2013年11月17日。オリジナルの2013年11月19日時点におけるアーカイブ。2021年11月27日閲覧。

外部リンク

[編集]