国鉄EF70形電気機関車
国鉄EF70形電気機関車 | |
---|---|
EF70 21(1次形) | |
基本情報 | |
運用者 | 日本国有鉄道 |
製造所 |
日立製作所 三菱電機・三菱重工業 |
製造年 | 1961年 - 1965年 |
製造数 | 81両 |
引退 | 1985年 |
主要諸元 | |
軸配置 | Bo - Bo - Bo |
軌間 | 1,067 mm |
電気方式 |
単相交流 20,000 V・60 Hz (架空電車線方式) |
全長 | 16,750 mm |
全幅 | 2,805 mm |
全高 | 4,260 mm |
運転整備重量 | 96.0 t |
台車 |
DT120形(前後台車) DT121形(中間台車) |
動力伝達方式 | 一段歯車減速吊り掛け駆動方式 |
主電動機 | 直巻電動機 MT52形 |
歯車比 | 17 : 70 (4.12) |
制御方式 | 高圧タップ切換方式・弱め界磁制御 |
制動装置 | EL14形自動空気ブレーキ |
保安装置 | ATS-S |
最高速度 | 100 km/h |
定格速度 | 45.6 km/h |
定格出力 |
2,250 kW (EF70 19以降は2,300 kW) |
定格引張力 | 17,700 kgf (174 kN) |
EF70形電気機関車(EF70がたでんききかんしゃ)は、1961年(昭和36年)に登場した日本国有鉄道(国鉄)の交流用電気機関車である。
交流電気機関車としては数少ないF形(動軸6軸)の機関車であり、北陸本線用交流貨物機として1,200 t牽引を目指したため、軸配置は Bo - Bo - Bo で、日本の交流電気機関車としては初のF形となった[1]。
製造までの経緯
[編集]日本の交流電気機関車は基本的にD形(動軸4軸)で製造されているが、これは仙山線での試験の際、予想を上回る粘着特性を示した整流器式のED45形の試験結果より、交流のD形と直流のF形は同等の牽引力をもつ[注 1]と算定されたことによる。
1962年(昭和37年)に11.5 ‰の連続勾配を有する北陸トンネルが開通するが、日本海縦貫線である北陸本線の列車単位は極めて大きく、この時点で1,000 t、将来的には1,100 tまで列車単位が引き上げられる予定であった。これをトンネル特有の多湿環境で勾配もきついとの悪条件のなか、D形機の単機で牽引するのは難しいという結論が下され、余裕をもたせて交流機としては初めてF形で製造[注 2]されることとなった。当初は田村 - 福井間に本形式を投入し、福井以北の平坦線にはED74形を投入する予定とされていたが、福井以北の平坦線では機関車出力に見合った牽引定数の増加(列車単位の引き上げ)を見込めることから、作り分けるのは得策ではないとして本形式が北陸本線の主力機として増備されることとなった。
構造
[編集]機器
[編集]主変圧器は外鉄形フォームフィット式で送油風冷式のTM5形(1次形)で、旅客列車けん引を想定して電気暖房用の4次巻線を持ち[2]、付属の高圧タップ切替器は、ED71形での使用実績を反映して接触部をブラシ式からローラー式に変更した25段構成[注 3]の物を搭載する。また、シリコン整流器は日立製作所製DJ14Lシリコンダイオード[注 4]を5基直列接続したものを12セット並列接続し、これを4セット用いて単相ブリッジ結線としている。これによる定格出力は2,430 kW・定格電圧750 V・定格電流3,240 Aである[注 5]。
当時は、交流電気機関車の技術は揺籃期にあり技術的にさまざまな方式が試みられていた。本形式では、交流電源を直流に変換する整流器については、取扱が簡単で装置自体も軽量かつ大容量のシリコン整流器[注 6]が採用され、高圧タップ切換器を組み合わせ、主電動機を電圧制御する[注 7]が、シリコン整流器を採用したため、水銀整流器で可能であった位相制御が不可能となった。そのため連続制御性や再粘着性能などでは、まだ技術的課題が残された過渡期のものであったが、F形機のため粘着性能には余裕があり、運転には支障はなかった[2]。
駆動系
[編集]主電動機は当初より交流機・直流機の両方に使用可能[注 8]で電気機関車用汎用電動機として開発されたMT52形[注 9]直流直巻整流子式電動機を採用した。
駆動方式はそれまでの新系列電気機関車に採用されていたクイル式をやめて、古くから用いられている吊り掛け式が採用された。歯数比は他に例がない70 : 17 (4.12) である[2]。
- クイル式は吊り掛け式に比べて軽量な高速型電動機の搭載が容易で線路や車両に与える負担が小さく、「新系列電気機関車」と呼ばれる電気機関車の特徴の1つであったが、日本では設計の不備から異常振動の多発、保守点検の困難さなどが問題視され、本形式以降の電気機関車では旧来の吊り掛け式が再び採用されるようになった。もっとも、この代償として主電動機の定格回転数を低く抑えることが求められ、それに伴い出力をトルクで稼ぐ設計とする必要が生じたことから磁気回路の増量が必要となったため、電動機そのものの自重が増大しており[注 10]、重い変圧器などを搭載する関係で艤装に制約の多い交流電気機関車においては設計上大きな制約が課せられる結果となった。
車体・外観
[編集]単機牽引を前提としており、前面は非貫通型である。 交流電気機関車では原則的に2基搭載されているパンタグラフのうち、進行方向に対して後位のパンタグラフを使用することになっており[注 11]、本形式でも当初は2基搭載されたPS100A形(1次形)・PS101形(2次形)菱枠パンタグラフの後位側を使用していた。 だが、本形式についてはこの原則が後に破られ、2位側のパンタグラフを常用し1位側のパンタグラフは予備とすることに変更された。そのため変更以後は、2位側を先頭にして走行する場合、前側のパンタグラフを上げて走行するのが特徴である。同様の事例に北海道でのED76形500番台の運用方法が挙げられる。
形態別概説
[編集]1961年から1965年(昭和40年)にかけて計81両が製造された。1964年(昭和39年)製造のEF70 22からは大幅な設計変更がなされている(後述)。
- EF70形番号別製造分類
車体形態 | 車両番号 | 製造 メーカー |
新製配置 | 製造名目 | 予算 | 備考 |
1次形 | EF70 1 - 11 | 日立製作所 | 敦賀第二機関区 (現・JR西日本敦賀地域鉄道部敦賀運転派出) |
敦賀 - 福井間 電化開業 |
1961年度本予算 | |
EF70 12 - 18 | 三菱電機 三菱重工業 | |||||
EF70 19 - 21 | 田村 - 南福井間 貨物列車増発 |
1962年度第2次債務 | 表注1 | |||
2次形 | EF70 22 - 28 | 日立製作所 | 金沢 - 富山間 電化開業 |
1963年度第3次債務 | 表注2 | |
EF70 29 - 32 | 三菱電機 三菱重工業 |
|||||
EF70 33 - 44 | 日立製作所 | 1964年度第1次民有 | ||||
EF70 45 - 52 | 三菱電機 三菱重工業 | |||||
EF70 53 | 日立製作所 | 富山 - 糸魚川間 電化開業 |
1964年度第3次債務 | |||
EF70 54 - 57 | 三菱電機 三菱重工業 | |||||
EF70 58 - 71 | 日立製作所 | EF70 58 - 67 富山第二機関区 (現・JR貨物富山機関区) EF70 68 - 71 敦賀第二機関区 |
1964年度第5次債務 | 表注3 | ||
EF70 72 - 81 | 三菱電機 三菱重工業 |
EF70 72 - 75 富山第二機関区 EF70 76 - 81 敦賀第二機関区 |
- 表注1 … 機器類は2次形先行搭載
- 表注2 … 1968年(昭和43年)にEF70 1001 - 1007へ改造
- 表注3 … 1981年(昭和56年)にEF70 61 - 81は九州地区(門司機関区)へ転出
1次形・2次形の相違点
[編集]EF70 21までは1次形と呼ばれ、1964年以降に製造された2次形とされるEF70 22以降とは以下に示す外観ならびに性能面で相違点がある。なおEF70 19 - 21は、外観は1次形であるものの性能面では2次形の機器を先行搭載した変則機である。
変更箇所 | 1次形 (EF70 1 - 18) |
1次形 変則機 (EF70 19 - 21) |
2次形 (EF70 22 - 81) |
前照灯 | 1灯[注 12][注 13] 白熱灯 |
2灯 シールドビーム | |
側面フィルタ・採光窓 | 形状変更 | ||
電気暖房表示灯 | 2・3位 | 1・4位 | |
主変圧器・主整流器 | 容量引き上げ | ||
1時間定格出力 | 2,250 kW | 2,300 kW |
1000番台化改造
[編集]1968年10月1日のダイヤ改正で20系客車により運転されていた寝台特急列車は、ASブレーキに中継弁 (Relay valve) ・電磁給排弁 (Electro-pneumatic valve) ・ブレーキ率速度制御機能を付与したAREB増圧装置付き電磁指令式自動空気ブレーキへの改造を施工し110 km/h運転対応されることになった。日本海縦貫線においても在来急行格上げで20系寝台特急「日本海」が設定されたことから、その牽引に充当される本形式にも対応する改造を松任工場(現・金沢総合車両所)で7両に施工した。なお、本形式は寝台特急けん引時でも性能上、最高速度は100 km/hである。
- 改造内容
- 編成増圧仕様応速度増圧ブレーキ装置を新設
- つり合い空気ダメを2室式に変更
- 電磁ブレーキ制御装置と引通しとなるKE72形ジャンパ連結器を新設
- 20系客車との連絡電話用KE59形ジャンパ連結器を新設
- 運転席へ連絡電話及び、単機増圧表示灯及び試しボタン、編成増圧表示灯を新設
- 第二元空気ダメを供給空気ダメへ用途変更し、元空気ダメと供給空気ダメの間にコックの追加
- 元空気ダメ管を新設[注 14]
- アルカリ蓄電池を新設
- 前面ナンバープレートをブロックタイプに変更
- 車両番号を1000番台に改番
- EF70 22 - 28 → EF70 1001 - 1007
改造内容はED73形とほぼ同じだが、ED73形と異なり主変圧器やタップ切り替え機への改造は行われていない[3][4]。
直流化改造計画
[編集]1980年代になると東海道本線・山陽本線で荷物列車牽引に運用されていたEF58形の老朽化が深刻になり、代替機関車が必要となった。しかし当時の国鉄は多額の累積債務を抱えており、その財政状況では新造の機関車を投入することができなかった。そこで、大量に余剰の発生していた本形式の直流化改造計画[注 15]が持ち上がる。1982年ごろに本形式の鷹取工場入場が目撃される[注 16]など、実現間近と見られる動きはあったが、1984年(昭和59年)のダイヤ改正で電気暖房装置を有する既存直流機のEF62形の大量余剰からの転用[注 17]となったため、制御器の新製が必要で改造費のかかる本計画は中止となった。
運用
[編集]北陸本線
[編集]北陸本線の交流電化の進捗とともに運用の場を広げていき、最終的には田村 - 糸魚川間で運用されるようになった。当初は主に貨物列車を中心に牽引したが、のちにED70形の運用縮小とED74形の九州転出により、多目的に使用されるようになった。
1968年10月1日のダイヤ改正以降、1000番台が限定運用で寝台特急「日本海」の田村 - 糸魚川間の運用を担当し、1972年3月には「つるぎ」の田村 - 金沢間の運用も加わった。なお北陸本線糸魚川 - 直江津の電化完成後の1969年10月以降、日本海のけん引区間は金沢までに変更され、ここでEF81形と交代してた。[5]
1969年(昭和44年)に信越本線が直流電化された際、交直接続を糸魚川 - 梶屋敷間に設けたデッドセクションで行うこととなり、これに充当する交直流電気機関車が必要となった。こうしてEF81形が製造されることになるが、この時点のEF81形は富山第二機関区に配属され、金沢以東の北陸本線北部に運用されており本形式とも共存していた。
しかし、1974年(昭和49年)に開業した北陸 - 関西の短絡ルートでデッドセクションをもつ湖西線経由に貨物列車の大半が変更され、本形式の大半が所属している敦賀第二機関区にEF81形が配置された。[6]
この結果、田村 - 糸魚川間に運用が制限される本形式は、EF81形のロングラン運用の前に次第に持て余し気味となり、寝台特急も1975年3月のダイヤ改正以降は湖西線経由となったため、1000番台もEF81形に役目を譲り、基本番台と共通運用に就くようになった。1978年(昭和53年)10月のダイヤ改正では1次形の大半が休車になる。
車齢の問題(電気機関車の法定耐用年数は18年)からも廃車にもできず、本形式の末期は有効な転用先の模索の歴史となる。1980年(昭和55年)11月からに1982年(昭和57年)2月にかけてEF70 61 - 81がED72形・ED73形の置換用として門司機関区に転属した[注 18]。
また北陸本線残留機は、前述の門司区転出の穴埋めとして休車になっていた1次形を復活させたものの、1982年11月のダイヤ改正で本形式が富山 - 福井間の牽引をしていた急行「越前」の廃止[5]、貨物列車の削減や普通列車の急行形転用による電車化などで、余剰機が大量に発生[注 19]、米原経由の急行「きたぐに」の田村 - 金沢間の運用も1983年4月にEF81形に置き換えられ[5]、1985年3月のダイヤ改正で全機が運用を終了した。
九州地区
[編集]北陸本線と同じ交流20,000 V・60 Hz電化の九州地区へ、老朽化が進んでいたED72・ED73形の置換用として、前述のとおり1980年(昭和55年)11月からに1982年(昭和57年)2月にかけて敦賀第二機関区から21両が門司機関区へ転属した。暖地であるため、スノープラウやデフロスタを外したスタイルとなった。[7]
九州地区では電気暖房を使用しないため、本形式はED72・ED73形が担当していた運用の寝台特急「あさかぜ」「さくら」「みずほ」「あかつき」や貨物列車等を牽引したが、軸重[注 20]の関係で鹿児島本線熊本以北および長崎本線に運用が制限された。九州にて21両が出そろった半年後の1982年(昭和57年)11月のダイヤ改正では貨物列車の削減などで早くもED76形に置き換えられて半数が余剰となり、1984年(昭和59年)2月のダイヤ改正で全車が運用離脱し、1986年11月までに全車が廃車になった[7][注 21]。
末期の本形式は運用効率の悪さから不遇を託ち、1000番台や九州転属機を含めて1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化前に全機が廃車されたため、JRグループには1両も承継されていない。
保存機
[編集]画像 | 番号 | 所在地 | 備考 |
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EF70 1001 | 群馬県安中市松井田町横川 碓氷峠鉄道文化むら |
廃車後は高崎運転所で修復され保管。 1999年(平成11年)の碓氷峠鉄道文化むら開館に伴い移設展示。 | |
保存後に解体・または消息不明 | |||
EF70 1 | JR西日本松任工場(現・金沢総合車両所) | 『全国保存鉄道II』(1994年)で同所に保管されているとリストに記載されたが、その後現存は確認されていない。1989年(平成元年)9月当時、スカートの半分やナンバーがない状態で留置されていた[8]。 | |
EF70 4(ナンバープレートはEF70 1) | JR西日本敦賀運転所(現・敦賀地域鉄道部敦賀運転センター車両管理室) | 『全国保存鉄道II』(1994年)ので同所に保管されているとリストに記載されたが、その後現存は確認されていない。 | |
EF70 57 | 石川県白山市の松任青少年宿泊研修センター | 宿泊棟としてオハ47形2両とともに保存されていたが、老朽化のため2013年(平成25年)3月に閉鎖。2015年度以降解体撤去予定と報道された[9]。2016年(平成28年)2月に富山県高岡市伏木へ搬出された。子供が憧れる特急列車に似せるため[10]、客車ともども塗装が485系に類似する旧国鉄特急色へ変更されていた。 | |
EF70 70 | JR貨物吹田機関区 | 扇形庫内で保存され、1990年代にはイベント時に公開されたが、1999年の扇形庫撤去前に同様に保存されていた本機を含めた機関車7両のうち6両 (EF30 21, EF61 201, ED77 2, ED78 901, DD13 381, DD16 16) が同区での解体を確認されたことから[11]、同時期に解体されたと思われる。 | |
EF70 1003(ナンバープレートはEF70 1005[12]) | 福井県福井市両橋屋町 | 焼肉レストラン「どん幸」としてオハフ45 2014・オハフ46 2029とともに保存[13])され、客車がレストランとして使用されていた。1995年(平成7年)11月にレストランが廃業[14]したため解体が検討されたが、有志で保存会を結成して修復作業を行い移転保存先を募った。その結果、鯖江市に本社がある長谷川眼鏡に本機とオハフ46 2029が譲渡され、1998年(平成10年)3月に同社が福井県越前市(旧・武生市)で運営する施設「金華山やまぼうし高原」に移転した[15][16]が、2007年(平成19年)ごろに撤去された。なお「金華山やまぼうし高原」は後に廃業し、同社も2010年(平成22年)に倒産している[17]。 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 出力を見れば直流F形機が交流D形機を大きく上回っているが、交流機は直流機より車輪粘着性能が良いため、計算上は牽引力が同等になる。だが、これは一般的条件における直流機と、最高条件時の交流機との比較にすぎず、やや過大評価に過ぎたという意見が当時より国鉄部内にはあった。
- ^ 同様に急勾配区間での使用を考慮し、F形で製造されたのが奥羽本線板谷峠対応のEF71形である。
- ^ 2次側電圧は順に65, 99, 135, 173, 217, 260, 303, 347, 390, 433, 476, 520, 563, 606, 650, 693, 736, 780, 823, 866, 910, 953, 996, 1040, 1080 V。
- ^ 逆耐圧 (PIV) 1,000 V・逆耐圧(インパルス)1,300 V・平均電流100 A。
- ^ 115秒間の短時間に限り電流4,680 Aを許容する。
- ^ シリコン整流器自体は1960年(昭和35年)に試作されたEF30 1が初採用であるが、同機の運用においては交流区間が短いことから、交流区間での出力を小さくした特殊設計であった。このため、本格的な本線用として採用するには大容量シリコン整流器の開発が急務とされており、本形式で初めて本格的に搭載されることとなった。
- ^ ノッチ数25段 + 弱め界磁1段。本形式では貨客両用とするため、界磁率70 %の弱め界磁制御を搭載しており、これにより高速域での走行性能を改善している。
- ^ 交流機も交流電流を整流器で直流に整流した上で駆動する整流器方式を採用しているため、交流機と直流機で主電動機を共通化することが可能である。
- ^ 端子電圧900 V時、1時間定格出力475 kW、定格回転数1,100 rpm、あるいは端子電圧750 V時、1時間定格出力425 kW。端子電圧設定が架線電圧に制約される直流用とは異なり、出力変圧器のタップで比較的自由に設定可能な交流での使用においては、定格電流量を直流用と同水準 (570 A) としつつ絶縁材の耐性を最大限生かすことで端子電圧900 Vとして定格出力が設定されており、本形式と前後して量産が開始されたイグナイトロン整流器搭載のED72・ED73形ではこの値を採用している。ただし、本形式ではシリコン整流器の当時の逆耐電圧の制約から端子電圧は直流機と同じ750 Vとなっており、1時間定格出力も同様に整流器の出力の制約ゆえに直流機よりも低い375 kW(1次形)あるいは383.3 kW(2次形)として扱われている。なお、MT52は本形式以後に製造された国鉄電気機関車のうちEF66形とEF80形以外のすべてに採用されている。
- ^ EF60形などで採用されていたMT49Bは自重2,200 kgで1時間定格出力400 kW、定格回転数1,200 rpmを公称したが、MT52形は1時間定格出力が425 kWと6.3 %増えたものの自重が2,800 kgと27.3 %も増大しており、額面上はともかく実質的な出力ではMT52形はMT49B形に劣ることになる。
- ^ パンタグラフの破損事故の影響が屋根上の特別高圧機器の破損へと拡大しないよう予防する目的で後位のパンタグラフを使用する。しかしパンタグラフ・架線の信頼性向上で、事故対策として後位のパンタグラフのみを使用する必要性が薄れた。
- ^ EF60 15 - 83およびEF61形に通じるスタイルであるが、本形式ではスカート部に設置された電気暖房用ジャンパ連結器を避けるため、EF65形500番台やEF81 1 - 38同様に前面通風口を前面飾り帯下部に設置している相違点がある。
- ^ 後年、一部の車両を除いて101系電車・103系電車・EF58形・ED60形(阪和線向けのみ)・EF30形のようなシールドビーム2灯式に改造(いわゆる「豚鼻」化)された。
- ^ 元空気ダメ菅ホースはスカートの1・4位側(助手席側)のみに設けられ、2・3位側(運転席側)はホースのない予備コックのみ設置された
- ^ 多くの標準型直流機と同じくF形の本機は、それなりの高速運転に耐える性能と電気暖房装置を有し、機械関係も主電動機をはじめとして新性能直流電気機関車と互換性があった。したがって、主変圧器や整流器などの交流機器を主抵抗器および単位スイッチ式あるいは電動カム軸式の主制御器に置き換え、補助電源用インバータを搭載することで抵抗制御方式の直流電気機関車に改装可能と考えられた。
- ^ 当時の鷹取工場は交流機関車の保守は担当していない。
- ^ 山岳路線用で低速機のEF62は長距離高速運転性能の必要な荷物列車運用で故障を続発させたものの、この運用自体が1986年(昭和61年)のダイヤ改正による荷物列車そのものの廃止で消滅し、長期問題とはならなかった。
- ^ 最終増備グループの九州転出に伴い、1次形が(部品供給用になっていたEF70 1を除いて北陸本線の運用に復帰)結果として末期まで1次形が使用され、1985年(昭和60年)3月24日の「EF70形・旧型客車引退さようなら列車」の牽引機も1次形のEF70 13, 18であった。
- ^ 1983年(昭和58年)4月時点で、敦賀第二機関区所属の49両中19両が休車、富山第二機関区所属機は11両全機が休車に追い込まれ、稼動機は半数の30両にまで落ち込む有様だった。
- ^ 本形式は運転整備重量96 tで軸重16 t、つまり戦前の甲線規格を満たす重軌条が敷設された幹線系統でしか使用できなかった。
- ^ しかし、偶然にも80号機が『あかつき』3号(長崎編成)牽引に充当しているシーンを、西村京太郎トラベルミステリー『寝台特急「あかつき」殺人事件』の収録時に捉えられている。本放送は1983年10月1日だったため、時期的に1982年11月ダイヤ改正後も熊本以南に入線しない『さくら』『みずほ』『あかつき』の運用についていたと思われる。
出典
[編集]- ^ 広田尚敬 (2000-8-10). 20世紀なつかしの機関車 ヤマケイブックス. 山と渓谷社. ISBN 4-635-06802-1
- ^ a b c 『鉄道ファン』 1987年11月号 No.319 交流・交直流電機出生の記録 4
- ^ 『鉄道ファン』 1990年5月号 No.349 近代形電機 転身の記録 3
- ^ 『鉄道ファン』 1993年10月号 No.390 EL版 ヨン・サン・トオの回願
- ^ a b c j train編集部 (2010) (日本語). 交直流電気機関車 EF81. イカロス出版. ISBN 978-4863203792 EF81優等列車ものがたり Part1日本海縦貫線
- ^ 『鉄道ファン』 2024年6月号 No.758 敦賀第二機関区とEF70 1000
- ^ a b ネコ・パブリッシング『国鉄時代』 2024年5月号 No.77 九州の交流電気6形式
- ^ 『鉄道ピクトリアル』1989年12月号(通巻520号)p.92
- ^ 松任青少年センターで四半世紀余 アーカイブ 中日新聞 2014/6/14
- ^ 鉄道ホビダス 2016年2月4日 【石川県】旧列車ホテル「なかよし号」 解体撤去始まる2018年]月17日閲覧
- ^ 交友社『鉄道ファン』1999年10月号 通巻462号 p.106(印刷直前に飛び込んで来た情報として速報を掲載)
- ^ 産業技術史資料データベース 日本国有鉄道 EF70 1003号 電気機関車 EF70/国立科学博物館 産業技術史資料情報センター2014年6月15日閲覧
- ^ 白川淳『全国保存鉄道II』「歴史的車両全リスト3700両」(1994年 JTB)
- ^ 交友社『鉄道ファン』1996年7月号 通巻423号 p.149
- ^ マイロネBOOKS 笹田昌宏『「ボロ貨車」博物館 出発進行! 』第1章『その前に、電気機関車をもらった話から』(JTB 2004年)
- ^ 鉄道ジャーナル社『旅と鉄道』No.117<'99冬の号>、1999年、p.120「保存車両に愛を」(笹田昌宏)
- ^ 福井の眼鏡フレーム製造「長谷川眼鏡」が自己破産申請し倒産へ - 不景気.com(2010年12月21日)
参考文献
[編集]- 電気学会通信教育会 編『電気鉄道ハンドブック』、電気学会、1962年
- 交友社
- 『鉄道ファン』 1987年11月号 No.319 交流・交直流電機出生の記録 4
- 『鉄道ファン』 1988年2月号 No.322 交流・交直流電機出生の記録 6
- 『鉄道ファン』 1988年3月号 No.323 交流・交直流電機出生の記録 7
- 『鉄道ファン』 1988年8月号 No.328 交流・交直流電機出生の記録 8
- 『鉄道ファン』 1990年5月号 No.349 近代形電機 転身の記録 3
- 『鉄道ファン』 1993年10月号 No.390 EL版 ヨン・サン・トオの回願
- 『鉄道ファン』 2024年6月号 No.758 敦賀第二機関区とEF70 1000
- ネコ・パブリッシング
- 『国鉄時代』 2024年5月号 No.77 九州の交流電気6形式