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チーム・シンスケ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
TEAM SHINSUKEから転送)

チーム・シンスケ(TEAM SHINSUKE)は、島田紳助が中心となり、ベテランレーシングライダー千石清一を鈴鹿8時間耐久ロードレース(鈴鹿8耐)で走らせるために1985年に結成された、オートバイのレーシングチームである。1986年から1995年までの10年間、鈴鹿8時間耐久ロードレース(鈴鹿8耐)を中心に参戦し、95年を最後に活動を終了したが、2011年東日本大震災を機に同年一度限りの復活参戦を行った。

概要

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最初の10年間

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1985年、以前より紳助と親交のあったベテランレーシングライダー・千石清一を「自分たちの力で走らせてあげたい」との思いと、千石の「(その日鈴鹿で)絶対泣ける」の一言を信じ、鈴鹿8耐への参戦を目的として結成された。メンバーは紳助の高校生時代の同級生である「土建屋よしゆき」や、消防士である「ファイヤーやっこ」、紳助とオーストラリアツーリングを共にした「ナオ」など、紳助とプライベートで親交がある者が中心となった。なお、チーム設立時のメンバーにはライダーの千石を除き、紳助を含めてレーシングチームの運営などに関与した経験のある者は一人もいなかった。

初参戦となった1986年は予選で好位置につけながらも途中リタイヤ、1987年は予選落ちを喫するなど苦戦が続いたが、1988年に初の完走を果たしてからは安定して成績を残し、純粋なプライベートチームの中でも上位の成績を残すまでになっていった。1980年代後半はバブル景気の真っ只中であり、鈴鹿8耐にも多くの芸能人やスポーツ選手が「お飾り監督」として参戦していたが、代表としてチーム名に「シンスケ」の名はあるものの、紳助自身は芸能人としてではなく、あくまで一個人として真摯に鈴鹿8耐に参加していた。紳助自らが企画書を手にスポンサー集めに奔走し、サーキットでも真剣にレースに取組む姿は、参戦を重ねるごとに他のエントラントからも評価されていった。

チーム設立当初からチームのナンバー1ライダーとして参加していた千石は、1991年の鈴鹿8耐を最後にライダーを引退、チーム・シンスケの監督となる(競技ライダーとしては引退したが、千石はその後もマーシャルライダーとして2003年まで鈴鹿8耐に参加していた)。鈴鹿8耐と並行して参戦していた全日本ロードレース選手権では主に千石が監督を務めたが、鈴鹿8耐はどんなに多忙でもスケジュールの合間を縫って紳助が監督を務めた。

活動期間に関して、千石はずっと続けていたいというスタンスであったが、紳助は1991年頃よりチームを終了させることを考え始めた。しかし、直ぐにやめるのを良しとせずにチーム設立10年目を節目とし活動を終了することとした。その最終年となった1995年は、サテライトチーム扱いとはいえHRCからワークス・マシンを貸与されたが、レース決勝はリタイヤ。チェッカーフラッグが振られた後、このレースを最後に引退する田村圭二のライディングでラストランを行い、10年間の活動に終止符をうった。

一度限りの復活

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その後の雑誌のインタビューにおいて紳助は「何年後かに、もう一回だけ復活する」と答えていたが、2011年の第34回大会に「一度限りの復活(One Time Revival)」と謳って参戦をした。この時は従来の参戦形態とは大きく異なり、自身の番組である「紳助社長のプロデュース大作戦!」の企画での参戦であったが、チーム代表は過去の参戦時同様に千石、チーム監督は紳助が務め、メカニックもかつてのチーフメカだった喜田倫弘が中心となってマシンを仕上げた。また、この参戦は東日本大震災の復興支援も含まれており、第1ライダーには宮城県出身で実家が震災で被災した中木亮輔を起用(もともと本企画は、中木が番組宛に被災者を激励するためにチーム・シンスケ復活を打診したことがきっかけとなった)。番組出演タレントがチームクルーとして参加した他、宮城県出身で自身もロケ中に被災したサンドウィッチマン(フロントタイヤ交換)と、番組レギュラー出演者ではないが企画の趣旨に賛同し参加を申し入れた渡辺正行(ガソリン補給)がチームクルーとして加わった。

チームとして16年ぶりの8耐参戦、正式表明から2ヶ月という短い準備期間、さらにピット作業をレース素人が行うという参戦形態だったが、予選26番手を獲得。決勝では序盤に中木の転倒があったが、その後は順調に周回を重ね、目標周回数の207周には届かなかったものの204周を走破して目標順位の15位を上回るチーム過去最高位タイとなる14位完走を果たした。

戦績(鈴鹿8耐)

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車番 ライダー 使用車両 メインスポンサー 予選順位 予選タイム 決勝順位 周回数
1986 27 千石清一
大塚茂春
スズキ・GSX-R750 味の素 14 2'25"283 リタイア 41
1987 27 千石清一
山田純
スズキ・GSX-R750 65 2"__"___ 予選不通過
1988 27 千石清一
大塚茂春
ヤマハ・FZR750 チキータ 39 2'__"___ 27 185
1989 27 千石清一
大塚茂春
ヤマハ・FZR750R BOBSON 42 2'23"103 15 191
1990 27 千石清一
山本隆義
モリワキZERO-VX7 43 2'20"864 31 190
28 大塚茂春
マリオ・デュハメル
46 2'20"661 22 193
1991 27 千石清一
山本隆義
モリワキZERO-VX7 45 2'19"557 リタイア 89
72 中井直道
新井秀也
47 2'19"643 18 178
1992 27 山本隆義
宮城光
ホンダ・VFR750R 52 2'18"436 23 196
29 新井秀也
田村圭二
16 2'16"420 24 195
1993 27 新井秀也
田村圭二
ホンダ・VFR750R SNK NEOGEO 16 2'16"760 23 195
1994 27 大阪賢治
田村圭二
ホンダ・RVF/RC45 12 2'14"996 14 176
1995 27 大阪賢治
田村圭二
ホンダ・RVF/RC45 12 2'13"717 リタイア 73
2011 27 中木亮輔
津田一磨
鈴木慎吾
ホンダ・CBR1000RR 来来亭 26 2'14"365 14 204

協力サプライヤー

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メディア関係

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書籍
風よ、鈴鹿へ」1988年(島田紳助)小学館 ISBN 409363291X
チーム結成の経緯から1987年の予選落ちまでを、ドキュメント仕立てで描いた小説。
ラスト・ラン」1995年(島田紳助)小学館 ISBN 4093632936
1995年の8耐前に書かれた、チームの歴史を纏め上げた作品。
TV番組
風よ、鈴鹿へ」1988年 TBS
上記の小説を元に作られた単発ドラマ。後にビデオとしても発売された。
音楽
風よ、鈴鹿へ」 作詞/島田紳助 作曲/高原兄
前述の同タイトルのドラマで主題歌として使われていた曲。この年以降、毎年なんらかの形で8耐の現場で耳にする曲である。
NEXT GATE」  作詞・作曲/白井貴子
チーム結成当時、紳助と大阪のラジオ番組(MBSヤングタウン)で共演していた白井が、チームの応援ソングとして作った作品。白井は1986年の8耐前夜祭でのライブも行った。