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Wikipedia‐ノート:曖昧さ回避/山手線方式の適切な運用について

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Wikipedia:コメント依頼/山手線方式の記事を勝手に分割するユーザーに投稿したのですが、混乱しそうなので改めて項目を立てなおします。

とりあえず議論再開してもらえません?

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  • 議論が消息化しちゃってますが、このままでは、この件保護がかかってる項目の多くが、永久に保護されっぱなしとなってしまいます。

せめて、議論再開、最終的には、解決を図っていただきたいです。 ・・・というか、議論が止まってるって事はもう、どういでもいいという風に取れるので、保護解除しても編集合戦なんて起きないのでは?--220.209.183.138 2007年5月27日 (日) 14:51 (UTC)[返信]

山手線方式の誘導がふさわしい場合とそうでない場合について

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タイトル通りですが、どちらがふさわしいのかと言う点について疑問がある部分がありますので、提案させてください。もし既出の内容でしたら、該当記事を示して頂けると助かります。

たとえばミートローフタリオンの記事については、誘導が山手線方式であることに違和感を覚えます。逆に上伊田駅人工言語等については、特に違和感なく読むことができます。これらの違いについてですが、リンクする記事の独立性の強さにあるのではないかと感じます。前者については、ミートローフミートローフ (歌手)で名前が同じである以上の関連性が見あたりません。対して後者については、片方の意味ともう片方の意味についてかなりの部分で重なりがあるか、あるいは一方の記事の守備範囲にもう一方の記事の内容が内包されています。

そこで、以下の記事については「曖昧さ回避」に分割するのが妥当かと考えますが、どうでしょうか。

基準は、個々の記事の独立性です。ほかにもあるかも知れませんが、とりあえず以上で。--HHH 2006年8月9日 (水) 10:17 (UTC)[返信]

私としては、利用者‐会話:Roboboにも書いた通り、あまり閲覧者にページ移動を強いるべきでないという考えがあり、多数の選択肢(どれくらいの選択肢が「多数」なのかは主観になってしまいますが)がない限り、リンクを別のページに移すべきではないと思っています(後述しますが、これが即ち山手線方式支持というわけではありません)。また、山手線方式部を単純に「○○○_(曖昧さ回避)」に分割するのか、分割前の内容が「○○○」という言葉を代表するものでないのなら、「○○○_(△△)」へ移動して「○○○」を曖昧さ回避ページに編集するとか、選択肢が多くないのならTemplate:Otherusesを使うなど、いろいろ誘導の方法があります。
ひとまず、HHHさんが上で挙げたものに関しての私の解釈は以下の通りです。
⇒現状、歌手の記事へはOtherusesで誘導。将来他に選択肢が増えた場合は「ミートローフ_(曖昧さ回避)」への分割を検討
⇒保留(『失われしものタリオン』をここで選択肢としてリンクを貼る理由があるかどうかが微妙)
⇒現状、自傷症へはOtherusesで誘導。将来他に選択肢が増えた場合は「リスカ_(曖昧さ回避)」への分割を検討
⇒Otherusesでの誘導かもしくは、現在の内容を亀井淳_(ジャーナリスト)へ移動し、亀井淳をジャーナリスト・声優の2つを扱う曖昧さ回避とする
なお、現在Template:Otherusesは、6つの記事までリンクを埋め込むことができるテンプレートに変更され、これも山手線方式を解除するひとつの方法として存在しているかと思いますので、参考にしていただければと思います。
追伸:グーフィーのように、選択肢の解説で説明が完結してしまっているような場合は、現状のままの形態で選択の余地はないと考えます(将来単独記事が出来た場合は話は別ですが)。
--Shimotsuke 2006年8月9日 (水) 14:15 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。現状の記事のままでは好ましくない、という点ではおおむね問題意識の共有はできていると考えてよろしいでしょうか。具体的な分割のタイミングについては、私は多少異なる意見を持っています。私としては、ある記事内において無関係な内容が(名前が同じと言うことであっても)解説されていることに引っかかりを感じます。ユーザーの閲覧の手間については、曖昧となる対象のページについての知名度によっても左右されますが、百科事典として記事の体裁を整えることも大事だろうと思います。( Otheruses についてはその折衷案になるかと思います。こちらについても疑問点はあるのですが、別の機会に触れることにします。)追伸であげていただいているグーフィーについてですが、(曖昧さ回避への分割はまあ無理かと思いますが)正直かなり見苦しいです。いっそのこと該当部分を全削除した方がいいのではないかとすら感じますが、このあたり(ユーザーの便宜と記事の体裁を天秤にかけた場合という意味ですが)はどのようにお考えでしょうか。--HHH 2006年8月10日 (木) 13:26 (UTC)[返信]

初めて誘導部分を作る場合も同意が必要なの?

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私は元々誘導部分がない記事に関して別の意味を発見したので、それを載せるため、誘導部分を設けました。そうしたらある管理者から「同意を得てください」、「少なくとも2週間は見てください」、「無視したらブロックします」といきなり警告されました。元々山手線方式もしくはOtherusesや曖昧さ回避で誘導部分が出来ているものに対してはその物言いもまだ分かるのですが初めて誘導部分を作る際もわざわざそこまでやる必要があるのでしょうか?ちょっと乱暴な気がします。Zippy 2006年8月9日 (水) 16:26 (UTC)[返信]

「誘導部分」を既存の記事内に作るだけならともかく、曖昧さ回避ページをいきなり作るのはちょっとどうかと思います。それに、題名が「自転車」である(独立した記事になっていない)最近の曲3種に対して、自転車から曖昧さ回避をする必要はあるのですか? せいぜい「自転車」の中で少し触れておくくらいで十二分でしょう(正直、全く触れていなくても構わないとさえ思えます)。 -- NiKe 2006年8月10日 (木) 01:10 (UTC)[返信]

私は「山手線方式」の積極的な採用には否定的なのですが、現状では自転車に関しては曖昧さ回避記事を作成する必要はないと思います。自転車の記事中で楽曲に触れればよいでしょう。

「山手線方式」は列記した内容について独立した記事が1つしかない場合のみにして、それ以外は内容に応じて{{anotheruses}}、{{otheruses}}や曖昧さ回避の記事を作ればよいのではないでしょうか。--Goki 2006年8月10日 (木) 04:08 (UTC)[返信]

「自転車」のような項目の冒頭部分に楽曲の一覧ができてしまっているのは見苦しいと思いますし、私も分割したくなります。今回の場合は自転車の項目内でふれればいいと思う人が多かったので文句を言われたわけで、「初めて誘導部分を作る場合も同意が必要」だから文句を言われているのではないと思います。ただ、英語版にも曖昧さ回避ページがあるわけですし、今回の分割はあってもいいんじゃないかと思います。よく使うような一般名詞に曖昧さ回避ページが作られることは避けられないんじゃないでしょうか。--Afaz 2006年8月10日 (木) 04:34 (UTC)[返信]
冒頭部分に楽曲の一覧を作った人がいるのですか?履歴をみるとそのような事実はないようですが…。--Goki 2006年8月10日 (木) 05:53 (UTC)[返信]
あれ?そうですね。こちらの勘違いでした。削除しておきます。--Afaz 2006年8月10日 (木) 06:12 (UTC)[返信]

山手線方式部を印刷時非表示にする方法

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外部にて、印刷するときに冒頭の山手線方式部分が邪魔だと言う意見があったのですが、これに関しては問題の部分を<div class="noprint">~</div>で括ることで印刷時非表示にできます(山手線グーフィーで採用済み)。ただし、すべての環境で適用されるかは分かりませんし、XHTML・スタイルシートを剥き出しでwikiに書いていいのか疑問もあり、テンプレート化すべきかもしれませんので、「こういう方法もある」という意味で書いておきます。本導入すべきかどうかも含め、何か意見があればお願いします。--Shimotsuke 2006年8月18日 (金) 13:25 (UTC)[返信]

是非とも作成すべきかと。Sionnach 2007年1月11日 (木) 04:59 (UTC)[返信]

保護報告

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一向に編集合戦が収まらないために本日、以下の記事も保護しました。--Los688 2006年8月19日 (土) 02:46 (UTC)[返信]

編集合戦に加担してる馬鹿は議論する気はあるのかと思いますね。--Goki 2006年8月19日 (土) 04:32 (UTC)[返信]

せっかく作った曖昧さ回避をわざわざリダイレクトにしてまで元の記事に戻すメリットは果たしてあるのでしょうか。--春野秋葉 2006年8月19日 (土) 12:59 (UTC)[返信]

議論の再開

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議論が停止しておりましたが、先日またしても合意形成なく大量かつ機械的に、「山手線」から曖昧さ回避ページへの分割が行われました(特別:Contributions/Arara参照)。正直なところ、この一連の編集強行は「荒らし」として扱えば十分な気がしますが、いずれにせよ議論の再開は必要でしょう。

私見ですが、論点は以下の2つになると思います。

  • 曖昧さ回避部分を、「山手線」などの記事に含んだ形式とするか、独立したページにするかの切り分け。
  • 記事内に曖昧さ回避部分を含める時、「山手線」方式にするか、Otherusesなどのテンプレートを使うか。

また、ここまでの議論で、「山手線」方式に若干否定的な意見はあっても、廃止の提案はありませんでした。現状では、「山手線」方式はコミュニティに認められた曖昧さ回避の手法である、ということでよろしいでしょうか。 -- NiKe 2006年8月29日 (火) 02:32 (UTC)[返信]

私は「山手線方式」の利点は十分にあると考えています。荒らしは言語道断ですが、過剰運用となっている部分もあるかと思いますので、もう少しわかりやすい指針が有ればいいのになと考えています。--HHH 2006年8月29日 (火) 10:18 (UTC)[返信]

廃止は提案しませんが山手線方式の採用は(他の意味を表す記事が「ひとつもない」場合など)大幅に制限すべきだと考えています。ですので、今のある種馬鹿なユーザーへのカウンターでどんどん山手線方式を増やしているのはゆゆしき問題であると言うのが私の意見です。--Goki 2006年9月1日 (金) 22:57 (UTC)[返信]

「増やしている」というのは事実に反すると思いますが。以前から「山手線」方式だったものを維持しているだけでしょう。 -- NiKe 2006年9月2日 (土) 00:17 (UTC)[返信]
編集合戦などの理由で保護されることで、減らすべきものが減らなくなり逆に増やす結果になっているという意味です。--Goki 2006年9月2日 (土) 01:30 (UTC)[返信]

それは、ともかくアニメのキャラクター等の固有名詞を山手線方式で誘導するのは見苦しいですね。別記事に隔離すべきです。--Goki 2006年9月2日 (土) 01:32 (UTC)[返信]

曖昧さ回避部分の必要性について

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恐れ入ります。曖昧さ回避部分(山手線方式)を付けるべきか否かの基準ないし指針についてですが、

  • 読者が検索ボックスでその言葉を入力して「表示」を押してその項目を探す可能性がどれだけあるか
  • 読者が迷うおそれがない場合には、曖昧さ回避にしたり、曖昧さ回避のためのページにリンクを追加したりしない

について、このようなケース(ノート:ふたりのロッテ)では、どう判断したらよいでしょうか?コメント依頼にも出しましたが、今だに議論が平行線を辿っています。最初の曖昧さ回避部分の私のつけ方が下手だった点は認めます。しかし、全面的に不必要であるとも思えません。ご助言を賜れれば幸いです。--ponpon 2006年9月5日 (火) 06:34 (UTC)[返信]

原作が明確で、そこから派生した作品群(ジャンル群)がある場合には、山手線方式は有害だと思います。山手線方式は、全く別物が偶然同じ名称になっているときに使うべきではないでしょうか。このケースでは、カッコつきの「作品名 (ジャンル) 」が妥当でしょう。 --ねこぱんだ 2006年9月5日 (火) 20:32 (UTC)[返信]

ふたりのロッテノートでの議論を読んで思ったのは、「記事の文中にアニメ版へのリンクがあるから曖昧さ回避は必要ない」という意見がみられたことでした。これは裏を返せば「アニメ版の記事を探している人に、不必要に小説版の記事本文を読ませてしまう」ということになります。ふたりのロッテとは少々趣が異なりますが、桃太郎金太郎でも派生用語を文末に置いており、冒頭には(山手線方式なり、Otherusesなりの)曖昧さ回避は貼り付けられていません。こういう記事は不親切だと思います。桃太郎 (曖昧さ回避)か、それがダメなら(確かどこかのノートで「桃太郎の派生作品を曖昧さ回避にしてはならない」という議論をしていたはずなのですが、どこだか忘れましたorz)桃太郎 (派生用語)のような記事を作り、冒頭にOtherusesを置いて不必要に本文を読ませないようにすべきだと思います。--春野秋葉 2006年9月5日 (火) 21:05 (UTC)[返信]

原作と派生作品という関係が明白である場合、「小説版」についての記事本文はむしろ理解を深めるためには有益なのであって、避ける方が不可解です(そもそも、それは「小説版」ではないし)。メディアミックス展開によるノベライズ、つまりまさに「小説版」である場合は若干事情が異なってくるかもしれませんが。 -- NiKe 2006年9月5日 (火) 22:47 (UTC)[返信]
原初と派生という関係の場合、記事冒頭に山手線方式やOtherusesを使うことに抵抗を感じて当然だと思います。ただ、派生の方がより一般的でよく知られているような物の場合、むしろ関係は逆転すると思います。だから、原初と派生という関係だから山手線方式やOtherusesを使わない、というのでなく、読者の便を考え、判断する必要があるように思います。-- 2006年9月5日 (火) 23:02 (UTC)[返信]

今回のケースの場合、一番知名度が高いのは原作小説(もしくはそのストーリー)であり、テレビアニメやミュージカル、映画はその知名度に基づいて作られた派生作品なわけですから、原作の関連項目に含めても何の問題もないと思いますけど。--SINOBU 2006年9月6日 (水) 05:30 (UTC)[返信]

そもそも「一番知名度が高いのは原作小説」という点を断定することが難しいと思いますが。ガリヴァー旅行記や桃太郎は原典そのものを読んだ人は少ないでしょうが、原作がありその派生作品であることはほぼ間違いないケースでしょう。しかし、アニメのペリーヌ物語の原作は間違いなく家なき娘ですが、原典の知名度が一番高いとは間違っても言えない物語です。このふたりのロッテの場合、アニメ作品や映画・舞台作品から原典を知った可能性が高い作品なのでは?(このあたりの検証は不可能だろうと思いますが。)そして、原典に勝らずとも劣らない同等の知名度が派生作品にある場合、例えばアニメの製作スタッフ・声優や、映画の主演子役の情報を求めて検索する人は決して少なくないはずです。ふたりのロッテノートにも示しましたが、google-testではアニメ版の「ふたりのロッテ」を正式名称で記さない人が少なからずいることは事実であり、アニメ作品の検索で「ふたりのロッテ」と記入する人は絶対に存在しているはずです。このようなケースで曖昧さ回避を付けてはならないとされるのは、今のところ納得いきません。--ponpon 2006年9月7日 (木) 02:05 (UTC)[返信]

世界中で読み継がれている児童文学の有名作品を「アニメ作品や映画・舞台作品から原典を知った可能性が高い作品なのでは?」ですか?原作を馬鹿にするのもいいかげんにしてもらいたいですね。--SINOBU 2006年9月7日 (木) 05:01 (UTC)[返信]

そういう主観で強い表現をされるのはいい加減にしていただけませんか。世界中で・・・確かにそうでしょう。私も好きな作品ですが、知名度の点でそこまで強く断定できる作品ですか?ふたりのロッテのinterwikiは幾つありますか?先に記事化されていたのは原作版ですか?それともアニメ版ですか?英語版記事のen:Lottie and Lisaの記事分量はどうですか?合意を形成すべく、もう少し落ち着いた議論をして下さい。失礼ですが、SINOBUさんがノートで議論することなく、一方的に削除をしたことから始まった議論です。--ponpon 2006年9月7日 (木) 05:46 (UTC)[返信]

合意も何も、「曖昧さ回避を使おう」と主張してるのはPonponさん一人だけで、それ以外の人は記事のノートでもこの井戸端でも「曖昧さ回避は不要」という意見でほぼ一致してるわけですが。--SINOBU 2006年9月7日 (木) 05:52 (UTC)[返信]

私はここで曖昧さ回避の基準をメインとしてお尋ねしましたし、ここで回答されている方も全般的な指針を主内容として回答されていると思いますが。少なくとも家なき子で曖昧さ回避が利用されいる状況で、ふたりのロッテでは絶対に使用してはならないという見解は成立しないと思います。あと、少なくとも春野秋葉さんは不要という見解ではないと認識していますが?--ponpon 2006年9月7日 (木) 07:44 (UTC)[返信]

繰り返しますが「曖昧さ回避にすべき」と主張してるのはあなた一人だけなんですよ。コメント依頼や井戸端で意見を募ってもPonponさんに賛同する人が誰一人出てこないと言う意味をもう少し考えてみてはどうでしょうか。--SINOBU 2006年9月7日 (木) 08:02 (UTC)[返信]

・・・・。ふたりのロッテにおける曖昧さ回避の私の見解が、SINOBUさんの認識のように私一人だけであるかはさておき、ここではもう少し「曖昧さ回避」の一般論的見解を皆さんにお伺いさせてください。上記に上げた二つの基準が背反するような事態になった場合、各記事のノートで合意を形成すべきか、それかどちらかを優先すべきなのか。どちらでしょうか。あと、繰り返しになりますが、SINOBUさん。もう少し言葉遣いを考えてくださいませんか?--ponpon 2006年9月7日 (木) 14:18 (UTC)[返信]
そうは言っても、ケースバイケースとしかどなたも答えようがないと思いますよ。ふたりのロッテについては曖昧さ回避パートを載せるべきでないと私も思いますが。あと、きついことを言うようだけど、ガリヴァー旅行記を「原典を読んだ人は少ないでしょうが」と言っちゃうような人は多分賛同を受けられないと思う。いやもちろん私も和訳のみでオリジナルの英語版を読んだ訳じゃないけど。--cpro 2006年9月7日 (木) 14:31 (UTC)[返信]
ガリヴァーについてだけ説明させて戴くと、「絵本等で子供の頃から目に触れる機会が多く、それなりに成長してから原典を知る」タイプと、「原典と派生作品がほぼ同等に目に触れる機会があり、どちらが先か判明しにくい」作品という主旨だったんですが・・・。--ponpon 2006年9月7日 (木) 23:23 (UTC)[返信]
「曖昧さ回避」は「項目名」が「項目」を指し示すインデックスであるという、ウィキペディア(あるいは他のウィキ)の形式上、「項目」の一意性を確保する手段として行われるものであって、項目名の衝突の無い場合にまで積極的に行われるような素性のものではありません。項目の構成の仕方にもよりますが、いくつかの項目の依存関係が明瞭であって、各項目の項目名に衝突がないという場合、それに対して取られるべき処置は「曖昧さ回避」とはまったく別の存在です。そしてそのような依存関係の取り扱いは項目の本文における解説の一つとして行われるべきものです。
ふたりのロッテの項目については(内容を私はよく知らないのですが)眺めてみると、項目の冒頭文末尾に「この作品を原作とした[[演劇]]・映画・[[アニメ]]などが多数作られている」とありますが、このリンクをパイプを用いて「… 映画・[[わたしとわたし ふたりのロッテ|アニメ]]などが…」とすれば、今回の論争の両者ともに目的を果たすに十分であるように思われます。ただ個人的には、現在のアニメ版の項目は根幹の部分がまったく書かれていないので、これをことさらにリンクする必要性もあまり感じませんが。--Lem 2006年9月7日 (木) 14:47 (UTC)[返信]
[[わたしとわたし ふたりのロッテ|アニメ]] は止めた方がいいでしょう。here症候群と同じになってしまいます。せめて ''[[アニメ]]などが多数作られている。各作品については[[#派生作品]]を参照。'' くらいではないですか。Tietew 2006年9月9日 (土) 06:21 (UTC)[返信]

そもそも、曖昧さ回避とは「JR東日本の山手線」と「神戸地下鉄の山手線」のように、正式名称が同一だけど全く無関係なものを記事として区別するために行うための方法であって、「原作小説」と「それを元にして作られたテレビアニメ」という関係性が明確で利用者が迷う余地がないものに使うべきものじゃないでしょう。確かにその辺を誤解して運用されてる記事も存在するようですが、一般論的見解を示せ、というならば「使うべきではない」という原則になるのではないでしょうかね。--SINOBU 2006年9月9日 (土) 05:29 (UTC)[返信]

私が疑問を呈しているのは、その関係性が明白だからダメ、という点なんですが。英語版では風と共に去りぬのように原作と派生作品が明確であってもen:Gone with the Windのように、曖昧さ回避を利用していたりします。これは誤った運用法というわけではなく、原作が古典である場合は派生作品を先に目にする機会は当然ながら増えるからだと思います。ガリヴァー旅行記を最初からフルサイズ作品で読んだ、という方もごく一部にいらっしゃるかも知れませんが、通常は派生作品から目にするはずです。そして、派生作品だけしか読んでない方もいると思います(私はフルサイズで読んでます、念のため)。無論、ガリヴァーのように誰が読んでも原作のダウンスケール作品もしくは翻案、あるいは絵本化された紹介的作品等ならば、派生作品の曖昧さ回避を利用する必要性はないでしょう。また、派生作品が少数に留まっている作品ならば、LemさんやTietewさんからご示唆を戴いたように、トップの定義の末尾で作品の紹介をすることがベストだと思います(クオーレ愛の学校クオレ物語母をたずねて三千里の例が上手くいっている典型でしょう)。しかし歴史的名作は派生作品の数が極端に増える場合もあり、オペラ座の怪人の英語版にいたっては派生作品だけの「一覧(List)」とも言えるページen:The Phantom of the Opera (adaptations)を作成し、原作記事においてOtherusesを用いて誘導しています。原作-派生作品という流れであっても、派生作品の数や知名度において、「曖昧さ回避」の厳密な定義運用ではなく、同じくWikipedia:曖昧さ回避に記された運用基準である「検索可能性の高い場合の利便性供与」を積極的に利用することも認められてもいいのではないでしょうか?もちろん、原作からの派生作品の解釈レベルが翻案作品(「ウェストサイド物語」と「ロミオとジュリエット」ぐらいの関係にまでオリジナル性が産まれている作品を翻案作品と便宜上呼んでおきますが)にまで解釈が広がると混乱の元でしょうが、そこまで極端な運用を想定していません(念のため)。しかし今回、この「井戸端」で例としてお尋ねしたふたりのロッテのように派生作品の種類が多く、その多数が独立記事になりうるケースでは、必ずしも定義の厳密運用を強いなくとも良いケースなのではないでしょうか?(まぁ、関連記事を作ってからの話だ、という理由で曖昧さ回避が削除されるのであれば、その通りだろうと思いますが。)--ponpon 2006年9月9日 (土) 14:17 (UTC)[返信]
「一般論的見解」というなら、「××の記事では使ってた」といった特定の記事における特殊な例を引き合いに出すのはヘンでしょう。あと、「ご助言を賜れれば幸いです。」と言う割には自分のルール解釈を他人に押し付けようとしてるだけにしかみえないんですけど。--SINOBU 2006年9月9日 (土) 19:46 (UTC)[返信]

一般的な意見を述べますが、話を具体的にするため、例示も出します。一概に、元となる作品と派生作品について、曖昧回避を造ってはならない、ということは云えないと思います。ただ、例として、名犬ラッシーを挙げますが、ここでは、原作よりも、ずっと大きな容量を持ってTVアニメの記事があり、現在は「同居」しています(実はこの記事は、久しぶりに見に行くと、とんでもない形になっていたので編集し直しています。最近のわたしの編集前の状態を見ると、何が問題か分かります)。ところで、別の例で、クリスマス・キャロルという記事があります。これは二つの記事に分けてもよいのですが、分量的内容的に、一つの記事のなかに、「クリスマス・キャロル」という歌または習慣と、そういう題の小説が同居しています。

日本語版では、クリスマス・キャロルの映画はたくさんあるという記述だけですが、これが英語版だと、en:A Christmas Carol ですが、この記事では、「Film, TV or theatrical adaptations」という節で、名称なども異なる「派生作品の一覧」があり、そこからリンクで飛べるようになっています。つまり、何年の映画の「 A Christmas Carol 」という風に個別的な記事が立っています。更に、この記事のトップには、実は「曖昧回避ページ」へのリンクがあり、派生作品のリストがあります。(en:A Christmas Carol (disambiguation))。これは、ある意味でやむをえないことだとも思います。一つの記事に収めるにはあまりにも派生作品記事が分量的に大きく、しかも、派生作品記事が、一つや二つでないということです。このぐらいになると、派生作品にも「曖昧回避」設定をせざるを得ないですが、名犬ラッシー程度だと、一つの記事のなかで同居願うということです。

なお、原作の記述があまりに長いという場合は、冒頭に、原作作品についての簡単な概要を付け、次に、「派生作品」として色々な作品を列挙するという方法があります(名犬ラッシーを参照してください)。この場合、最初に原作が来て節となり、次の節からは派生作品がならぶということになります。原作と派生作品は、同居させるのが望ましく、派生作品で独立記事になるには、よほど詳細で大きなものでないとなりません。また曖昧回避も、同じように、やむをえない場合に造ります。

(個人的には、わたしとわたし ふたりのロッテの記事を造ってもよいとは考えますが、原則からは作らないのが正しいです。造ってしまっているようなので、誘導は、ふたりのロッテのなかに、派生作品として提示し、リンクを造るということになります。曖昧回避はいささか問題外です。劇場版も、TV版も、アニメ版も、名称がよほど違う場合は別の記事になりますが、同じか、似たようなものの場合、「同居」願うことになります)。--Maris stella 2006年9月10日 (日) 08:28 (UTC)[返信]

適切な議論の場に移動処置をして戴き、ありがとうございました。Maris stellaさんがおっしゃるように、クオーレ(というより母をたずねて三千里)や名犬ラッシーのようなケースが理想だと私も思います。ただ今回のようなケース(要は著名な舞台作品や映画になっているケース)で、原則処理を厳密に適用されるのは個人的にはかなり疑問に思えてるのです。件のふたりのロッテについてもそうですが、これはアニメ版わたしとわたし ふたりのロッテが原作記事よりかなり前に立てられた記事です。その意味でも、原作-派生作品という関係で知名度の上下等を判断されるのは納得いきませんでした。また、舞台版や映画版はそれぞれのバージョンごとにキャストや大筋、そして演出が異なり、同じ作品を元にした派生作品であっても、英語版のように個々の作品毎の記事があってもおかしいとは思えません。特に舞台作品の場合、同じ舞台・同じキャストであってすら、別の日の公演では微細に舞台が異なります。特に長期公演ではダンスの振付やセリフが変化したり、公演場所(地方や劇場)が異なるだけでもセリフ・演出・舞台装置に違いが生じる場合もあります。再演時に演出に大幅に変更が加わったり、あるいは作品名すら変更される場合すらあるのです。グチになりますが、舞台化されている作品の場合は、『原作』のページ内で記事を纏めることは非常に難しいこともあり、原作-派生作品の枠で原則論処理をされるのは、編集者として非常につらい。英語版のen:The Phantom of the Opera (adaptations)のように「曖昧さ回避」ではないにしろ、"adaptations"(派生作品群)という処理法も、日本語版で考えられないものなのでしょうか。そうでなければ、歴史的名作と言える作品の記事ほど、(派生作品も含めた)内容が充実するにつれゴチャゴチャした記事になりかねないような気がします。(現に、日本語版のオペラ座の怪人は原作の記事を書こうとしてもかなり書きにくい状態です。英語版から原作の内容を翻訳移転させようとしても、やるにやれない状態なのです)。--ponpon 2006年9月10日 (日) 10:02 (UTC)[返信]
双方の落としどころが見つかってもまだ続いているのかとちょっと驚いています。記事作成時間の新旧がその作品の知名度の大小や価値の軽重を決定するわけではまったく無いので、そういう観点を持ち出されることには些か違和感を感じざるを得ません。派生作品をある程度まとめて記述することは誰も否定していませんし、今現在の当該項目にも既にそういった形で記述があります。したがって、Ponpon さんの推される、ことさらに巨大な曖昧さ回避状の記述を記事冒頭に掲げて記事の可読性を著しく損ねることの利点がわかりません。--Lem 2006年9月11日 (月) 06:22 (UTC)[返信]
いや、冒頭で述べたように、最初に作った曖昧さ回避部分が甚だまずかったという点は認めてます。Maris stellaさんからご示唆を戴いたような、「一概に、元となる作品と派生作品について、曖昧回避を造ってはならない、ということは云えないと思います」ということが、「ノート:ふたりのロッテ」での私が言いたかったことです。曖昧さ回避の削除理由が、「派生作品だから作ってはいけない」ではちょっと困る、ということだったのですが、極めてグダグダな論調になってしまったので、不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。その後、ここで述べさせていただいていることは、派生作品群のまとめたとして、その提示の一般論的な話をMaris stellaさんの話に乗っかってしたかったのですが、ちょっと場違いですね。お詫びして、引き下がりたいと思います。長々とありがとうございました。--ponpon 2006年9月11日 (月) 07:56 (UTC)[返信]

この種の編集合戦は「保護」せず放置すればよい

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話題になっている項目の履歴をいくつかみてみました。
閲覧者の立場では、編集合戦を行っているどちらの形式で書かれていても、内容的には違いがないので、必要とする情報は入手できます。執筆者には自分の作品に対してそれなりに思い入れがあるでしょうが、閲覧者はそこまで細かく見ていないので、このような状態を放置してもさして気にならない。それよりも、「保護」の掲示が目障りになるほうが大きいぐらいです。考えられる実害としては、「たまたま」編集合戦の書き込みとのタイミングで、ある項目についてはA派、ある項目についてはB派というように統一性のない状態になっているときに、情報を入手できないと言うことがあるかもしれませんが、ごく短時間のことなので気にしなくてよいと思います。
以上より、特にこの種の編集合戦に対して「保護」などの処理をする必要はないと思います。Penpen 2006年9月23日 (土) 02:23 (UTC)[返信]
どうして、そういう話になるのか、さっぱり分からないのですが。編集合戦はサーバー資源の無駄遣いであり、百科辞典の作成の妨げになるため、保護されます。保護の方針にも規定されております。この件に関しては、多くの対話要請・ブロックを行ったにも関わらず、対話要請が無視され、多数の多重アカウントの不正使用などが行われたために保護となっております。対話要請のため、15分ブロックした間に、別アカウントを作られ強行分割編集されてこともありましたし、利用者ノートのほか、記事ノートでの反対意見も無視され、強行分割編集された例もあります。この保護に関しては、ユーザーが悪質すぎ、記事まで保護しないと無意味です。特にロデオ (曖昧さ回避)の履歴をご覧下さい。多重アカウントによる差し戻しばかりで全く記事の向上に結びついておりません。なお、掲示が警告喚起の意味があるために、目障りとの理由は、保護解除理由になりえません。--Los688 2006年9月23日 (土) 03:47 (UTC)[返信]
「さっぱり分からない」とのことなので、補足説明をします。構成の変更を繰り返していても内容自体は欠落がなければ、「閲覧者」にはとってはどちらでも支障がないわけです。(私も含めて)なんとなく閲覧している分には「編集合戦」がおきていることにも気づかないだろうと思います。私から見ると正直言ってどっちもどっちなので、英語版に比べるとただでさえ人数が少なくて手薄な管理者をこのような編集合戦の対応で忙しくさせるのはいかがなものかと思います。管理者はなるべくなら中立的な立場を維持するほうがよいと思っています。「保護」等で対応すると、どちらが正しいかという判断を行う必要が生じるので、回避できるなら回避したほうがよいと思います。たしかに資源の無駄というのもわからないじゃないですが、どちらか賢いほうが手を引けばすむことで、放置しておけば最後までがんばっているほうが馬鹿ということになると思います。Los688さんの書いておられる「ブロック」の件はブロックが火に油を注ぐ結果になったように思います。Penpen 2006年10月7日 (土) 16:38 (UTC)[返信]
実際の経緯から言うと、機械的に絨毯爆撃のごとく書き替えや分割を行っているので、問題がありそうなものについて考えを聞いたり、良くないと思われるものを差し戻したりしたわけですよ。しかし質問には答えず、差し戻しには差し戻しで応じられました。もし放置したとして、後で問題がある部分を修正しようとしても、同じことが起きたでしょう。また、彼(?)が気の済むまで編集させていたら、内容を確認して不適切なものを修正する作業は膨大になってしまいます。はっきり言えば、ダメージが大き過ぎます。結局、途中で手を止めてもらうしかないのです。 -- NiKe 2006年10月8日 (日) 00:13 (UTC)[返信]