Wikipedia:コメント依頼/久良岐のよし
利用者:久良岐のよし(会話 / 投稿記録 / 記録)さんのこれまでの行為について、コメントを依頼します。--松茸(会話) 2016年12月12日 (月) 09:05 (UTC)
これまでの経緯
[編集]久良岐のよしさんは、12月10日23:18(UTC)に笹下城の記事を作成されました。その中に、城の歴史のほかに、その城址が団地の建設工事により破壊されたことを糾弾するような記述があり、またその団地で自殺が多発している例なども追記されました。これについてノート:笹下城で利用者:伊佐坂安物(会話 / 投稿記録 / 記録)さんがこういった記述はまずいのではと疑問を呈し、Wikipedia:独自研究は載せないやWikipedia:中立的な観点に抵触するのでは、と指摘されました。すると久良岐のよしさんは工事については事実だから事実として書くとされ、自殺については「通知の義務」があると主張されました。またその後、脚注や信頼性については、自身で古文書や資料の所有者の元を訪れて閲覧させてもらうことをしないことを批判し、歴史上の人物の敬称を略したことについても子孫に対する配慮が無い、人間の屑などと述べ立てられました。
それに対し伊佐坂安物さんは、城址破壊についての出典書籍はあるかを尋ね、Wikipedia:検証可能性についての案内、城と団地は直接関連が無いとの指摘、人物の敬称を略する既定(Wikipedia:スタイルマニュアル#人物・人名)の案内などを行いました。すると久良岐のよしさんは、開発業者が出した看板や説明会資料の写真を掲載するのはどうかと主張し、確かめたければ現地に行ったり業者に電話すれば良い、敬称については、自分がある家系の子孫で、ほかの殿様などの子孫ともつながりがあるので敬称を付さないことについては憤りを感じるとのことでした(もっとも、この考えに至ったのはごく最近のようで、3か月前の編集では敬称を付しておられません)。
それについて伊佐坂安物さんは、城郭破壊の記述については信頼できる情報源(特に出版物)を提示されることが望ましい、敬称についてはどんな人物でも付けないルールであることを案内されました。また、この段階で議論を見かけた私は、城址の破壊について糾弾することも記述の目的になっているように感じたため、検証可能性や敬称略の件に加えてWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説台、広告宣伝の手段ではありませんも案内いたしました。
すると、こちらが書き込んだ利用者‐会話:久良岐のよし#一括投稿のお願いで激昂され始めました。提示した参考文献を全部読んでから独自研究と言え、自殺や開発については皆知ってる事実、開発した市長は死んだり一期落選したりしている(祟りをほのめかす?)、敬称を略することについてもなお一層不満である旨などを主張される状態でした。こちらはWikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にや、Wikipedia:出典を明記するの脚注によるページ数記述の案内(久良岐のよしさんの編集では、参考文献一覧はあるのですが、ほぼ脚注機能が用いられていないため、Template:参照方法が貼られる状態でした)、記事を例示して独自研究の可能性を呈する(例えば間宮康俊で、「可能性が高い」「考慮すると~と解る」という文面が脚注無しであり、誰が類推した結果なのか分からない)、敬称についてはWikipediaに限らず一般の事典類や書籍・論文などでも略されていることが多い、などを案内しました。
それに対し久良岐のよしさんは、こちらを「テメー」「オマエ」呼ばわりされ、自分で調べる努力をさせるために文献は出してやってる(ただしページ数は表記しない)、曽祖父の名前を教えろ、そしたら呼び捨てで罵倒してやる、目の前にいたら泣かしてやる、など暴言に走り始めました。ヒートアップしてきたようなので、こちらがWikipedia:五本の柱、Wikipedia:礼儀を忘れない、Wikipedia:個人攻撃はしないを示して落ち着くように諭し、敬称についてはWikipedia:中立的な観点により対等につけないこととなっていると引き続き伝えました。
それに対して久良岐のよしさんは、あまりにも過剰な暴言・罵倒に走ったわけです。そして、自身が編集に携わった記事を5つほど白紙化され、それを見かけた利用者:Bellcricket(会話 / 投稿記録 / 記録)さんにより1日ブロックがかけられました。--松茸(会話) 2016年12月12日 (月) 09:05 (UTC)
依頼者のコメント
[編集]城址と団地開発の件、出典の示し方が不十分である件、敬称略についての度を越えた思い入れの件等々、それらを指摘されると過度の暴言・罵倒に走るなど、対話が極めて困難としか言えません。敬称を付さなかったからといってこちらが史上の人物に対して敬意を払っていないわけではないですし、敬称略については(一般の事典・書籍等でも同様の)中立的な観点などのルール上のことだと言っただけなのですが、それで呪詛されたり、祟りをほのめかされるとは流石に思いませんでした。
久良岐のよしさんの言動はWikipedia:投稿ブロックの方針#利用者を危険にさらす個人攻撃(他の利用者の安全を脅かす攻撃)、Wikipedia:投稿ブロックの方針#コミュニティを消耗させる利用者に該当すると思われますが、他の皆様方のご意見も募ろうと思い、当コメント依頼を提出させていただきました。--松茸(会話) 2016年12月12日 (月) 09:05 (UTC)
12月13日の久良岐のよしさんのコメントを受けてのコメントです。暴言や呪詛の件については謝罪いただいたようなので、その件は終わりとしましょう。
「以前、松茸氏が参考文献にしていたと思う”鈴木かほる”と言う人物」という文がございますが、私はこの方の著書を参考文献としたことは(少なくとも記憶の上では)ございません。他の方がこの方の著書を参考文献とした記事を編集したことならあるかもしれませんが、私自身は恐らくこの方の著書を読んだことすらないと思います。
「学者崩れ」の件については、久良岐のよしさんのお怒りの様子は文章から窺えますが、ひとまずこれはWikipediaとは直接関係無い話題ですので置いておきます。敬称を付さない件については、久良岐のよしさんは「寺社や歴史上人物の関係者と対話する際に、その面前で」呼び捨てにすることを怒っておられるようですので、Wikipediaの規定とはちょっと違う点にあるのではないでしょうか。Wikipediaは百科事典で、Wikipedia:中立的な観点によって記述することが求められますので、市販の百科事典や一般書籍・学術論文が歴史上の人物の敬称を略することと同様に略しているだけで、人物に敬意を払っていないというようなことは無いかと思います(ちなみに、共同通信社の基準では敬称を略する「歴史上の人物」とみなす基準を「没後30年経過」としているようなので、書籍等もおおむねこのような基準にしている可能性があります。無論、場合によりけりでしょうが)。関係者との対話で敬称を付ける・付けないと、出版物(およびWikipedia)で敬称略にする・しないとは別問題であることをご理解いただきたいです。出版物で人物の敬称が付いていないことを気にしだしたらきりがないのではないでしょうか。
また、記事の削除をご希望とのことですが、Wikipedia:削除の方針#ケース F: 投稿者本人から依頼がある場合というものがありますが、利用者:Fusianasan1350(会話 / 投稿記録 / 記録)さんもおっしゃるように、他の方の編集も入っている以上、残念ながら今回のケースではそれを適用するのは難しそうです。間宮康俊に関しましては、そもそも初版を投稿されたのは他の方ですし。技術的な削除ではなく、久良岐のよしさんの書いた文章をなるべく使わないように全面書き換えるという形でなら何とかならないわけでもありませんが、それでも編集履歴からみられる過去の版を消すことはできないかと思われます。これについては、編集文章の投稿ボタンの上に「保存すると、あなたは利用規約に同意し、自身の投稿をクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンス 3.0およびGFDLの下で公開することに同意したことになります。この公開は取り消せません。あなたは再利用者によって、最低でもあなたが投稿しているページへのハイパーリンクか URL を通して、クレジット表示されることに同意したとみなされます。」とあることからやむを得ないことです。
アカウントの永久ブロックについては、少なくとも英語版ではWikipedia:追放の方針というガイドラインがあるものの、それは荒らしなどの過度の破壊行為によるもので、Wikipediaを自ら去るために追放を自ら申し出るということはできないようになっています(日本語版ではそもそも「追放」制度は未実装です)。Wikipediaへの投稿を取りやめるのであれば、自身の利用者ページにTemplate:Retiredを貼り付け、それ以後アカウントを使わないようにする、というような方法しかありません。
歴史事実よりも出版物によって事実と異なることを優先させかねない記載が可能、という指摘は確かにごもっともなのですが、Wikipedia:検証可能性という方針がある以上、ある程度やむを得ないところです(流石に歴史系トンデモ本を出典とすることぐらいなら抑止はできるでしょうが、公刊された研究文献はそうもいかない場合もあります)。既存の研究文献の誤謬に憤りでしたら、まずはその正しい内容を論文にまとめ、学術雑誌に投稿するなど、自らWikipedia:信頼できる情報源となり得る研究本を出してみてはいかがでしょうか。そうすれば、後に誰かがそれを出典としてWikipediaに正しい内容を書いてくれるかもしれません。--松茸(会話) 2016年12月13日 (火) 12:24 (UTC)
久良岐のよしさんのコメント
[編集]伊佐坂安物殿、松茸氏(対立したので敬称を省きますが敵意は現在ありません。手打ちにした後に関わる際は敬称を用います。)へ
1日経過して少し冷静に成りました。
色々と思う所有るので以下の内容を御覧頂き御対応頂きたくお願い申し上げます。
小生IQは122と低くないのですが極端な右脳型でシステムは目の前で手本を見せて頂かないと中々理解出来ない欠点を抱えているので御協力頂きたく思います。
●謝罪
伊佐坂安物殿
先ずは、コンテンツの運営方針を理解しないまま参加した事を伊佐坂安物殿にお詫び申し上げます。
次に松茸氏
先ず松茸氏に対しては挑発を受けたと判断し、小生が攻撃的な悪意を以て罵倒した事を謝罪させて頂きます。面目ない。
松茸の過去の投稿に歴史事実と整合性の無い事が有ったのを拝見した事があり(詳細は覚えていません)そもそも、貴殿の知識量を低評価して先入観を持っていた所に批判を受け小生が過剰に反応し今回の投稿は顕彰文と同じ様式をとると言う方針で投稿した事もあり根本的に”敬称”の問題で相容れないのは当たり前でした。情報提供で参考文献しか示さないのも、自分で調べて関係先を廻って貰う努力をする事で先人の事績と宗教に敬意を持って貰う意図が有りましたんで、これが既に貴方にとってアウトなのですね。
御迷惑をお掛けしました。又、安心して頂く為に伝えますが、本日の午前中、松茸氏に対する呪詛は解除しました。貴方に信仰心が無くても気分の良い物ではないと思いますので通知します。
ただし、以前、松茸氏が参考文献にしていたと思う”鈴木かほる”と言う人物については関係者への取材も無く更に寛政重修諸家譜すら読んでもいないまま間宮信次公の戦死年代と当時の次代背景を考証せず歴史事実と異なる記載を本で出版していると既に関係者に通知します。そして、関係者に挨拶も無かった事も確認してありますので以後、協力しないで欲しいと制裁は加えます。この点については伊佐坂安物殿、松茸氏には関係の無い事ですの現実でその様な事が有るとだけ御理解頂ければ幸いです。
●投稿の内容について
そもそも当方が事実の羅列だとしても形式上の顕彰文のスタイルで登場人物全員に敬称を付ける投稿が貴方達で規約違反に成る訳ですよね。そして存命中の人間の個人名を出すのも好ましくないとの事と理解しました。
この方針に従う事は小生と当方の宗派を超えた宗教関係者の皆さんの思いと協力を無下にする事に成るので小生の提供した情報の、情報提供を全て停止します(攻撃的な意味では無く運営方針に従うのは先人への冒涜に当たると考えるからです。
これは立場の問題で皆さんに非は有りません)。
小生の関わる御寺サンでも、具体的には曹洞宗で三浦道寸公、三浦義意公の菩提寺である海蔵寺さんが学者崩れが宗教的な敬意も持たないまま歴史観光ガイドとして大挙観光客を連れて来たり殿様を呼び捨てにする事件があり一般参詣不可にせざるを得なく成った事実が現在発生しています。
同様の事例が北条重臣の笠原信為公の開いた笠原家菩提寺雲松院でも起きており、現在の御住職(俳優内田聖陽さんの叔父)によって学者への協力禁止と対応が行われています。
その他にも北条重臣の高橋家の中興した円融寺でも現在は高橋家と関わりが無いのにWikipediaで書籍の引用から菩提寺として現代の事実と異なる誤った紹介をされて御住職に迷惑が掛かっていました(これについては小生がWikipediaを訂正しましたが)。その様な先人に対して敬意を持たず宗教観も尊重しない学者崩れに大変迷惑しておる場所が御協力して頂いている場所に多く有ります。
よって以下纏める内容で、小生が投降したページの削除依頼をして頂けるよう、手続きを御二人に代行して頂きたく依頼いたします。
●Wikipediaに提供した情報全ての削除依頼
皆さんの運営方針と当方関係者の思惑には埋められない差異が有ります。
当方はあくまで神社仏閣史跡の保護と多くの人に自ら足を運んで頂く誘導の思惑、そして破壊も歴史として記録を残す意図が有ります。これは運営方針と相いれないと本日理解致しました。
御指摘の開発破壊の件に関して、業者が自己の責任所在を公開した説明会の資料及び現場に掲げられている工事責任者の通知看板の画像の公開も運営方針にそぐわないと本日理解致しました。
皆さん根本的に小生と小生の周囲の協力者のスタンスはWikipediaの運営方針と相いれないようです。
そこで小生は関係者を代表して投稿した情報の全ての項目において情報提供を中止する事を通知させて頂きますので、作成した笹下城・間宮康俊公・間宮綱信公・間宮信繁公のページを小生に代わり御両名に削除の手続きを踏んで頂きます様依頼致します。
また本依頼を以て運営様への削除依頼ともさせて頂きます。
●以後の小生の処遇の依頼
小生は最近亡くなった間宮家の御子孫、御家臣の御子孫の思いも引き継いでいますので、現実の世界で出版物を無料で配布し、殿様達への畏怖と敬意と郷土の誇りを新たな住民達が感じてくれるように活動して参ります。
Wikipediaでは事故死者の件と開発責任者の件は別冊には出来ないので項目に箇条書きにしましたし、住居購入者様へは情報公開の意図も含んでいました。現実ではそうするべきなので
今後は現実の対応も、配布する顕彰文では、破壊の項目に関しては別冊にして破壊に携わった人物と役職と連絡先、自殺事件の場所と年代、事故死した関係者の記録等は関係先の神社仏閣で過去帳の様に記録として後世に子々孫々に伝える素材として保管して頂く事にしようと思います。
いずれ自殺事件の大量発生場所だと言う事実は知られて放って置いても住宅購入者と開発者はモメるとは思いますので、どちらが社会の為に成るかと言えば情報公開だとは思いますが、それはそれで消費者と企業がモメれば良いかなと考えを改めました。どうせ傾きマンションで悪名名高い三井不動産レジデンシャルと、浄願寺廃寺遺跡(上行寺東遺跡)を破壊し更に横浜市金沢区の金沢北条氏の邸址である称名寺や武家初の私設文庫である金沢文庫と言った重要史跡の景観を破壊し宅地化しよいうとした野村不動産ですし、事前説明無しに問題化すれば墓穴掘るだけですしね。
何故、小生がここまで文献も大切だが歴史事実と伝承に拘るのかは上行寺東遺跡の事と、最近発生した小倉城の松が枯れた一件を調べて頂ければ幸いです。そして御両人には学者にも政商の様な存在も居たり、現在のWikipediaの運営方針はあくまで寄付を募る意図から離れておらず事実と異なる書籍ですら引用され事実の様に掲載されている問題を御考え頂ければ幸いです。
小生は歴史事実より、鈴木かほるの様に出版物さへ有れば事実と異なる事を優先させかねない記載が可能なWikipediaを信頼するコンテンツとしては利用出来ません(敵意は無い)ので、アカウントの永久ブロックを行って頂ければ幸いです。
今後、投稿したページの情報提供中止と削除を確認出来次第、その様にして頂ければ幸いです。
●最後に
伊佐坂安物殿、松茸氏御両人へ
こうして喧嘩口上から始まった御縁では有りますが、伊佐坂安物殿、松茸氏にもいつか間宮家の関係史跡や神社仏閣を案内して回れる様な機会を頂ければ良いなとも思っております。
そして現物で小生の提供した情報が掲載されている書籍とページを御見せ出来ればなとも思います。もし御興味を持たれたらGoogleかライブドアのアカウントから小生へ連絡下さい。
仍件如 新暦 平成廿八年十二月十三日
謹白 久良岐のよし
伊佐坂安物殿、松茸氏ゑ
--久良岐のよし(会話) 2016年12月13日 (火) 05:01 (UTC)
伊佐坂安物殿
御無沙汰しておりました。
湖紫陽様
初めまして、コメント拝見しました。
返信が遅くなって申し訳有りませんでした。
【あいさつ】
伊佐坂安物殿、貴殿の迅速かつ適切な再編集に感謝致します。管理者として優秀でらっしゃる事を垣間見えました。ありがとうございます。
湖紫陽様も何やら積極的に確認に奔走して下さった様で、小生の主義に付き合わせてしまって仮に管理者が仕事だとしても申し訳ない(笑)。湖紫陽様が誠実な方なのは伝わりました。
【御指摘の野庭関城の件】
さて、野庭関城の件ですが日本城郭大系と港南道ばた風土記の内容と、臼居家の御子孫達との関わりの中で聞いている事を書いているので引用と皆さんの言われるところの独自研究に該当してしまう事が有ると思います。
引用については、どの程度まで書いて良いのかWikipediaさんに迷惑をかけない範囲と言うのが正直解りません。
そこで御手数ですが笹下城や間宮の殿様達の時のように、伊佐坂安物殿か湖紫陽様に適切な編集を依頼させて頂きたく存じます。御助力頂ければ幸いです。
手に余れば削除依頼で結構です。存在したのは事実ですので、きっと管理者様は書き残せる部分を再編集されると思っての依頼です。
【鈴木かほる氏の件】
信憑性の無い書籍が引用されるとして、表題の人物の書籍の信憑性を批判しましたが、個人攻撃としてではなく改めて、資料的な価値が無い事を証明する事が有りました。
Wikipediaとは離れた場所で場外戦を行いました。御足労ですが小生のブログを御覧頂ければ幸いです。
小生の問題提起に対して先方から参考資料についての提示が有り、どこが問題か答えろと言う趣旨のコメントを頂いたので、現物の写真を掲載して間違いを指摘し決着しました。
この対話の仕方はWikipediaでの会話では写真が貼れず不可能だったので、先方が出て来るのを待っての事でした。結果的に言えば、独自研究に当たるのでしょうか?御子孫が守られている墓碑に書かれている事との比較による寛政重修系譜の誤り指摘と、杉田間宮家の間宮信次公に関しては寛政譜と寛政重修系譜の資料的価値が無い事を指摘した上で先方が、寛政重修系譜の編集者或いは記者が誤字を掲載している事に先方が気が付いていないまま「向井水軍とその周辺」という某人が間宮関連の編集で参考文献に引用した本を書いてしまっている事を墓石の刻文で止むを得ず証明しました。
よって、「向井水軍とその周辺」は今後も間宮信次公、或いは同一別名の信常/常信と言う人物の編集史料としては相応しくない事を御確認頂ければ幸いです。
※鈴木かほる氏の項目についても適正な内容か校閲して頂ければ幸いです。小生のブログへのコメントで、以前小生が先方本人の「評判」と言う項目に「間宮家の関係先への取材を行っておらず、系譜も間違えている。」と事実を記入した所、削除されていました。それが小生のブログでのやり取りで「本人が削除した」と自白しています。中立公正なページ編集がされているか御確かめ頂ければ幸いです。悪い人では無いとは思いますが、執筆に際して間宮家の事に関しては文献の内容の関係者への事実確認が行われていませんでした。
【Wikipediaの感想】
なかなか御立場と言うものが有り、管理者様達御自身も多分、不自由を御感じに成っていると御察し致します。
偽書も参考文献にされる事も有るでしょうし、寛政重修系譜等の二次三次的文献で誤りが多い物も引用される事も多いでしょう。自分の様に好きでやってる人間では無く、それらを必要が有って実際に確かめておられる御二人には敬服致しましたし、御二人のような管理人が多く成ればより素晴らしいコンテンツに成るだろうと思いました。
歴史に接する立場の相違で、御子孫の伝承を纏めたり顕彰活動としてあちこち回って聞いた事も含めて書く小生のスタンスとWikipediaは同居出来ない存在では有りますが、多くの人に歴史好きの調べ物の第一歩を踏んで貰う為の存在としてWikipediaはネット社会において大切な存在だと思います。
【御二人へ】
小生が土足で御隣のWikipediaさんの家に入ってしまった所、御二人の様な真面目で丁寧な対応をされる方に会えた事は嬉しく思います。
小生は、間宮家の顕彰活動を行い、それとは別に織田信長公の実質的な本妻だった生駒お類様の菩提寺の久昌寺を廃寺の危機から救う活動を行っていく所存です。それらを通じて経験を積み、後世へ神社仏閣歴史史跡を残す活動と偉人の事績を後世に伝える祭り等の創生による地域観光産業を興して行ける活動に繋げて行きたいと思っています。御覧の通りの人間なので強引な面も有ります。アプローチは違いますが、御二人が今後も先人の事績を伝える事に携わり続けて下さる事を祈ります。
【今後の事】
さて、まずWikipediaさんと小生の関係ですが、今後小生は、このコンテンツに関わる事も無いですし、和尚様宮司様達の協力で書いた間宮家の顕彰文を発行しますが、それについてもWikipediaさんとWeiboさんには引用及び転載禁止と明記させて頂くつもりです。
転載禁止についてはここで散々迷惑をかけながら主張していた、「興味を持った人に自分で歩き回らせ人と関わらせ調べて貰い先人に敬意を持って貰い、充実感も味わってもらい歴史を好きに成って貰い、結果日本文化を守る」様に誘導する事が目的です。ですからWikipediaをコピペする輩に利用されたくないんです。でも御二人の仕事を拝見し、コンテンツを守りながら情報を集積する運営も大変なんだなと感じるものがありました。ですから敵意からの引用及び転載禁止ではありません。無料で配布する予定なので非売品となり流通に乗せる事も無いと思いますが。
そもそも顕彰文なので例によって引用は示さず、文末に参考文献と取材先の羅列するだけなので資料的な価値は皆無でしょうし参考文献も載せずに、博物館と図書館と協力して下さった御子孫達の姓だけ羅列しようかとも思っています。入手した人が編集に使う事も有るかと思うので、その際は『「引用及び転載禁止」と書かれている」』と指摘して削除して下さい。もし御二人がWikipediaに携わり続けて、間宮関連のページを見る機会が有れば。
では!
御迷惑(笑)おかけ致しました。小生のアカウントはロックして頂ければ幸いです。敵意はありませんが区切りとして。
今後ともWikipediaが歴史好きの入口に入って来た人に役立つコンテンツであります様に。
--久良岐のよし(会話) 2016年12月19日 (月) 20:10 (UTC)
第三者のコメント
[編集]- 笹下城での編集をお見かけし、コメントアウトを行いました。歴史的価値のある城跡を保存することは大切なことだとお考えになるのはよく分かるのですが、Wikipediaは「行政や不動産屋は歴史的価値のあるものを破壊した」などと持論を述べる場ではありません。ご自身のブログをお持ちのようですので(こちらの記事にて、笹下城の記事の作成者であると表明されています)上手く住み分けを行っていただきたく思います。神奈川の歴史的な建造物に関する知識が豊富なご様子なので、私としてはこれからも記事の執筆にご協力していただきたいのですが。--Fusianasan1350(会話) 2016年12月12日 (月) 12:37 (UTC)
- 被依頼者はすでに「人間の屑」「アンタ等も気を付けろよ。明日怪我したりしてな?」「オマエ目の前にいたら絶対になかしてやるわ」「テメーは感覚マヒしたキチガイ」など4度にわたる長文の個人攻撃を行っています。警告後も改善が見られません。また、「次の休みに自殺の項目復活させるわ。開発者は資料現物の写真晒すわ。」と、編集の強行を予告しています。「ノート:笹下城」での発言と合わせて考えますと、「民間人の個人名」が掲載された写真をアップロードする可能性も否定できません。ある歴史研究家に対する中傷ととられかねない発言も行っています。笹下城の記事の編集姿勢については、参考文献リストから推察するに記述内容のかなりの部分が独自研究なのではないかと思われます。私としても久良岐のよしさんには引き続き記事を執筆していただきたいと思うのですが、個人攻撃と編集の強行が継続するようでしたら、長期間のブロックもやむをえないのではないでしょうか。--伊佐坂安物(会話) 2016年12月12日 (月) 15:59 (UTC)
- 何やらふざけているのか本気なのかわからないような被依頼者コメントが出てますが、このケースでは記事の削除は不可です。WP:DPに該当するケースがありません。初版投稿者以外に有意義な編集を行った利用者がいることから、初版投稿者の依頼による削除はできません。--Fusianasan1350(会話) 2016年12月13日 (火) 05:35 (UTC)
- 笹下城での編集のみ、確認しましたが、ウィキペディアの内容に関する三大方針である、検証可能性を賄うだけの出典の明記がないと思われます。また、ノートによる記述を確認するところ二次資料の明記、一次資料の提示がないため情報の信頼性がひくく独自研究は載せないに抵触する可能性を見る方も少なくはないはずです。また、中立的観点からの記述とは言い難いものがあります。
- ご個人のブログは削除されていたのでアーカイブにてブログを確認してみましたが、神奈川県の歴史に対す関心の高さ・知識があることは理解できます。したがって、立項された記事にたいしては、ウィキペディアの内容に関する三大方針に基づく記事内容へ変更させて頂ければよいのではと思う所です。
- 被依頼者のノート内における発言等については、私からの意見は控えさせていただきます。--湖紫陽(会話) 2016年12月14日 (水) 00:37 (UTC)
- 削除の代わりとして、とりあえず笹下城については既存の文章を使わず改稿しました。これで久良岐のよしさんにもご納得いただけるでしょうか。なお、久良岐のよしさんは、本件に関連してFusianasan1350さんの会話ページにコメントされていますが、議論の拡散を防ぐため今後はこのコメント依頼にご意見をお書きください。--伊佐坂安物(会話) 2016年12月14日 (水) 07:30 (UTC)
- 久良岐のよしさんは、野庭関城の初版において文献の「ほぼ丸写し」で記事を作成した旨を述べています([1])。文字通りの意味だとしますと、これは著作権侵害にあたるのではないでしょうか。また、同じ文献を用いて作成・加筆した記事が複数あり、それらにも同様の疑いがあることを指摘しておきます。--伊佐坂安物(会話) 2016年12月14日 (水) 10:48 (UTC)
- おそらく、野庭関城の一つの出典となるのは、横浜市港南区の歴史の散歩道 ~こうなん道ばたの風土記四 野庭の関城(せきしろ)跡となるものと思われます。こちらの出典と初版を確認する限り、一文「( 和田義盛が)材木座で討死御も20日間の籠城の末、落城した。」以外は特に不思議に思うところはありませんでした。ただ、『日本城郭体系』については所有していないため確認できませんでした。(出典が示されていないため、何に基づく記事なのかわからないところが大半を占めているとは思いますが・・・)--湖紫陽(会話) 2016年12月14日 (水) 12:24 (UTC)
- 情報ありがとうございます。『こうなん道ばたの風土記』については丸写しとまでは言えなさそうですね。『日本城郭大系』については図書館に行ったときに確認してみます。--伊佐坂安物(会話) 2016年12月14日 (水) 12:39 (UTC)インデント修正--伊佐坂安物(会話) 2016年12月14日 (水) 12:41 (UTC)
- おそらく、野庭関城の一つの出典となるのは、横浜市港南区の歴史の散歩道 ~こうなん道ばたの風土記四 野庭の関城(せきしろ)跡となるものと思われます。こちらの出典と初版を確認する限り、一文「( 和田義盛が)材木座で討死御も20日間の籠城の末、落城した。」以外は特に不思議に思うところはありませんでした。ただ、『日本城郭体系』については所有していないため確認できませんでした。(出典が示されていないため、何に基づく記事なのかわからないところが大半を占めているとは思いますが・・・)--湖紫陽(会話) 2016年12月14日 (水) 12:24 (UTC)
- 改稿、無出典加筆・独自研究の除去などによって、久良岐のよしさんが書き込んだ情報をほぼすべて削除したことをお知らせします。あとは久良岐のよしさんにご同意いただければと思います。--伊佐坂安物(会話) 2016年12月14日 (水) 15:20 (UTC)
コメントを確認しましたので、いくつか返答あるいは投稿をさせていただきます。始めに私は管理人ではなく、単なる参加者にすぎません。
- :口承伝聞について。:民俗学(含郷土史学)において口承伝聞は重要な一次資料です。しかし、記録とはされません。したがって、音声や紙面により記録・発表されたものが必要であり、そうでない場合は、出典として扱えるかと言えば、理解してもらうことは困難だと思います。
- :写真による説明について。:これは、石塔、墓誌(1次資料)にて記録されていることを示せば問題ないと思います。所在・寺名などを加えれば信頼性は高いと思います。写真による提示は必要なく、一次資料なのであれば、その所在、所有者、記述を示せば基本問題ないと思います。
- :歴史と出典について。:文献史学では、文献、文書によってその記述の違いなどが見られることが少なくなく、実際はどうなっているのか判断しかねる場合があります。出典により提示されている記述については、原典を確認し誤認があるとみられない限り、間違えているということは難しく、○○によると記載がある。あるいは○○には記録がないと判断するにとどめています。
- :笹下城、野庭関城について。:笹下城、野庭関城の加筆はかまわないのですが、できれば、両者がどの郡、領、村に当たるのか教えて頂くとやりやすいところです。私は「新編武蔵風土記稿」から資料を探すのが好きだからです。--湖紫陽(会話) 2016年12月19日 (月) 22:14 (UTC)―誤字訂正、湖紫陽(会話) 2016年12月19日 (月) 22:49 (UTC)
- (久良岐のよしさんへ) ご理解いただきありがとうございます。ウィキペディアを引退される旨等、承知しました。アカウントをロックすることは方針上できないと思いますが、かわりに引退されたことを利用者ページに記載しておきます。もしウィキペディアに復帰されることがあれば、上記の湖紫陽さんのコメントを念頭においていただければと思います。よろしくお願いいたします。なお、私も「管理者」ではないことを附記しておきます。--伊佐坂安物(会話) 2016年12月20日 (火) 05:24 (UTC)
まとめ
[編集]一連の問題について、解決をみたと判断し、これにてしめくくりとさせていただきます。
久良岐のよしさんも理性的に振舞われ、冷静に議論をもってくださり、ありがとうございました。Wikipediaの理念と相容れず、活動引退となったことは残念ではありますが、顕彰活動などご自分のフィールドでの今後のご活躍をお祈り申し上げます。
記事の改編・検証作業、コメントをいただいた伊佐坂安物さん、湖紫陽さん、Fusianasan1350さん、時間と労力を割いていただきありがとうございました。--松茸(会話) 2016年12月20日 (火) 12:04 (UTC)