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Wikipedia:コメント依頼/Ks 20100409

利用者:Ks会話 / 投稿記録さんの執筆における、出典に対する理解と独自研究について、コメント依頼を提出します。--海獺 2010年4月9日 (金) 13:23 (UTC)[返信]

経緯

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Ksさんは2004年12月から活動をしておられ、「新着記事」にも多数の記事を送り込んでいらっしゃる、非常に多くの実績があるユーザーです。反面、 依頼者である私を除いても、利用者‐会話:Ksに寄せられている出典や独自研究に関するコメント/指摘は、以下のように複数にわたっております。

今般、タツナミガイの初版において、利害という節の(当該版より引用いたします)

むしろ海での自然観察会で定番の人気者である。何しろボリュームがあるから、ぬめぬめ系の大物として本土の南部海岸ではニセクロナマコとタメを張る。持ち上げて参加者にさわらせようとすると大喜びになるか、逃げ回るかのどちらかである。掌に載せると腹面の足がもぞもぞ動くのが「なごむ」「癒し系」との声もある。

という記述について、私はコメントアウトした上で、ノート:タツナミガイでご意見を伺いました。ご返答頂きましたが、その内容はWikipedia:独自研究は載せないWikipedia:出典を明記するなどに関する、基本的なご理解をいただけていないか、あえて無視をしているのではないかと感じました。

これは2010年1月に利用者‐会話:Ks#出典の明記のお願いにて指摘させていただいたことと、ほぼ同様だと思います。その時の反応で印象的な「はっきり言ってウィキペディアの細かい方針なんかに興味はありません。この版より引用、という返答のスタンスともあまり変化がないのではないかと思いました(その時は「酩酊していた」[1]と言うことで、本意ではなかったかもしれません)。また、その後にこういったあまり問題点をご理解いただけていないのではないかという発言もありました。

その後「鳥人」という項目の初版から除去された箇所を[2]、出典になっていないリンクを貼った上で戻すなど[3]の編集がありましたので、指摘したところ、このときは今後は配慮いただけると言うお返事でした。

Ksさんが多く記事を執筆なさっている生物の分野は、日々発見もあり絶えず情報が新しくなっていく反面、学問としてある程度は確立されているジャンルであり、「それは誰によるどの文献で言及されていることなのか」という出典を明記することを、より求められるジャンルであると思います。Ksさんが現状よりも独自研究や出典に関する方針文書についてご理解をいただき、より充実した記事の成長を目指していただきたいと言う気持ちを込めて本コメント依頼を提出し、広くご意見を伺いたいと思います。--海獺 2010年4月9日 (金) 13:23 (UTC)[返信]


被依頼者からのコメント

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ここ、私が書くんですよね?

私は、確かに出典をつけないで書いてきた経歴が長いです。これは当初はその意味を把握していなかったこと、当時はそれが特にとがめられる雰囲気ではなかったことなどに依ります。もちろん、そういった雰囲気がよいものではないだろうし、実際ずいぶん変わってきたと思います。私自身も自分で学んだ部分も、他人から指摘された部分もありますが、参考文献を示し、場合によっては特定箇所に限定した出典もつけてます。そういう意味で、自分が起こした記事については昨年以降くらいのものはまず問題ないものと思っています。

また、他人の作った記事に追加する場合には、これは手元ですぐに資料を探せない場合もあるし、あっという間にリダイレクトにされたりする例もあり、出典無しで書き加えることがあります。それに、あちこちで言っていることですが、独自研究を全く排除する、というのは無理があるんですよ。様々な文献を当たってそれをとりまとめるには自分の頭の中でそれらを整理してつなぎ合わせる作業が必要です。それ自体がすでに独自研究の側面を持っています。生物記事の特徴の記載など出典はつけにくいし、つけても読みづらくなるだけです。図鑑の委細は限られた専門用語で簡潔にまとめるため、一般の人の簡単に理解できるようになっておらず、これを日常の語にするだけでもとのものとは変わります。

それはそれとして、今回の場合、確かに「ニセクロナマコとタメである」は調子に乗りすぎたと思っておりまして、それについては反省しています。しかし、例えばこれを「ニセクロナマコとともに大型のぬめぬめ感のある無脊椎動物」とかやったとしても、問題そのものには変わりはありません。こういう感覚とか自然観察会での動物の扱いなど書いてあるような参考書は思いつかなかったですね。でも、実際にはこの動物と普通の人の接点、というとこれかな、ということです。「癒し系」は私の感想でなく、ある観察会での小学生の感想を拾った物です。そういった事柄はこの項にあった方がよいと判断しました。もちろん独自研究だから排除せよ、といわれれば残念ですがその通りでしょう。

しかし、その部分以外の、この記事全体としては出典に基づいたものであり、そういった部分は他にはまずないと思います。間違いがあればそれは別ですが。ですから、私は基本的には確実な情報に基づいて記事を書いています。それに関連して触れておいた方がいいと判断した部分は、出典があればもちろん書きますし、なければやむを得ず出典無しでも書きます。それと、出来れば楽しい文を書きたい、という希望もあります。いずれにせよ、その項目にあった方がいいと判断して書いています。独自研究的部分も、それなりに存在の有用性と妥当性はあると思って書いていますが、何度も言いますけどその存在させることにはこだわりません。そういう意味で、現時点では(過去はともかく、です。前は確かに怪しいのも混じってます。気づき次第修正中ですが)私の書き方に問題はないと思います。

むしろ問題なのは海獺氏のやり方だと思います。この記事で問題にされたところは、記事全体ではホンの尾ひれではないですか。しかも表現がまずかったのはともかく、嘘やでたらめではありません。彼は前回も(その件では私のやり方にも問題はありましたが)、のちに自分のノートで私について「あっちこっちで独自研究といわれてる人」だからと、つまり風評による思いこみがまずあって、そこへ私が問題のある行動をした、ということで飛びついたとしか思えません。今回も、それなりに量のある項目の、最後にある独自研究的表現を見つけてそこだけを取り上げ、私のノートに「基本的なご理解すら難しいのでしょうか?」などと極めて侮辱的なことを書いてくる有様です。この間、私は十本ほどの記事を作成しています。それを吹っ飛ばしてこの発言は異様です。こっちははっきり言って迷惑です。 --Ks 2010年4月10日 (土) 12:24 (UTC)[返信]
他人のことをあれこれ言う場ではなかったですね。お詫びして訂正いたします。--Ks 2010年4月11日 (日) 02:53 (UTC)[返信]

多くの方からご意見を寄せていただきました。私自身は先述の通り、少なくとも出典に確認しつつ記述しています。その上で、ご意見をかみしめつつ勧めたいと思います。

  • ただ、そういう中で感じたことを一つ。百科事典は、それほど厳格なものではないでしょう。そもそも、専門家には百科事典は不要です。百科事典は分野外の人のためにあります。ですから、専門書の要約は百科事典には向かないのです。というのは、私は生物分野を専門にしていますが、その記述の際の一つの指標が朝日の動物百科や植物百科なのですね。そういう本は、むしろ内容をかみ砕いて、また具体例などを取り込んで、読み物として楽しめることを目指しています。確かにWikipediaの性質上、そういった記述の存在が難しいのですが、そういう記述の役割が有用な面もあると思うんですね。
  • Moss様のおっしゃる、「美しい」などを排除する、というのも一つの定見とは思います。しかし、あまりにも禁欲的にすぎるのではないでしょうか。例えば極楽長の危機を説明するのにその「羽根が美しい」ことを書かずにすませるのは、不自然ではないかと思います。
  • 廉 様に関しては何と言っていいか…。「執筆者としての人格と深く結びつくほど重要なものである」なら、削除に反対しますよ。氷鷺 様の取り上げた「言う気がする」云々はカギカズラのそれですね。あれは実物を見ればそうなので、それを植物学者にぶつけたことがあるのですよ。答えがなかったのですが、面白い現象ですから、どこかに答えがあれば、それを加筆していただけるかも、という意図がありました。だからこそ、その部分が私見であることを強調したのですがね。実際、他の記事でも「この部分、出典をご存じの方、加筆願います」というのがあるではないですか。それと同じです。
  • Was a bee 様の指摘はそれまで考えたことがなかったものです。そういう観点があるのですね。—以上の署名の無いコメントは、Ks会話履歴)さんが 2010年4月14日 (水) 14:35 (UTC) に投稿したものです(による付記)。[返信]

コメント

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  • コメント 中立性に難はなさそうですし、初版としては問題ない範囲のように思います。個人的にはあってよいと思います。しいて言うなら、「もぞもぞ動くのが『なごむ』『癒し系』との声もある」の箇所は書きすぎではないかと思います。「もぞもぞ動く姿がユーモラスである」ぐらいが適当では。--Freetrashbox 2010年4月9日 (金) 15:14 (UTC) (補記)「タツナミガイ」に関する記述に関してです。--Freetrashbox 2010年4月9日 (金) 15:17 (UTC)[返信]
  • タツナミガイのKsさんの文章は軽妙で理解しやすく、内容も興味深いものです。仮にKsさんがご自身でウェブサイトを作っておられるならば、私はすぐにブックマークに入れるでしょう。しかしながらウィキペディアにおいては、どちらかといえば異彩を放っている部類に属すものであり、あんまり百科事典ぽくないように感じられます。例えるなら新明解国語辞典のような感じでしょうか。その魅力が損なわれることになれば残念ですが、あまり方針から逸脱したような文章は、できれば控えめにしていただけたらと思います。--Calvero 2010年4月9日 (金) 15:35 (UTC)[返信]
  • コメント Ksさんの書く文章はときに雑誌のコラムのような場合があることは知っていますが、自分の書いた文章の表現にこだわりすぎる人でもないですし、変なところは黙って修正でいいのではないでしょうか。「タツナミガイ」のはKsさんの経験を書いたものらしいので、他に出典がなさそうなら除去するしかないと思いますが。NORは原則ですが、嘘やデタラメ、特定の偏見の助長を狙って書いているわけではないようなので、そこまで問題視する行為ではないと思います。Wikipedia:善意にとるべきでしょう。--Afaz 2010年4月9日 (金) 16:11 (UTC)[返信]
  • コメント 以下は、「検証可能性」方針を無視せよ、といっているのではないことをあらかじめお断りします。出典はないが、項目の説明の役に立つもので、自分の体験などから概ね妥当かつ共感も得られるだろうと判断できるものを書くことは、あってもいいと思います。ただしそれは、その記述を残すことにこだわらない限りにおいて、です。信頼できる情報源によって記述が改められ、より適切な説明や表現に取って代わられることが受け入れられないなら、書くべきではありません。そうやって、切磋琢磨や淘汰を受けながらよりよい記事に育てていくのがウィキペディアというプロジェクトでしょう。消したり戻したりというレベルで言い争ってもしょうがないんじゃないでしょうか。--みっち 2010年4月9日 (金) 23:58 (UTC)[返信]
  • コメント みっちさんのコメントに賛同します。ご提示頂いたノート:ケムシなどを読む限りにおいて記述を残すことにはこだわっておられないように見受けられます。ウィキペディアの方針にそぐわない記述を発見したら単純に除去するか、書き換えてあげれば良いのではないでしょうか。--R.Lucy 2010年4月10日 (土) 03:09 (UTC)[返信]
  • コメント生物関連の記事を執筆している立場から申し上げれば、個人的には上記の主観的な記述は行うべきではないと思います。例えばある鳥を「美しい鳥」という風に参考文献で紹介していてその文献を元に記事を執筆しても、少なくとも私は記事内に「美しい」という単語は入れません。(例外として学名がcalii-<美しい~の意>の種の場合は、名前の由来として説明すると思いますが)これは美しいなどの表現が主観的、すなわち「Wikipedia:記事を執筆する」での記事の題材に注意しましょう内の「独自の説の発表」、「中立的な観点から書く」に反していると考えているからです。またこうした表現は多角的で例えば誰かが美しいと感じた鳥でも、別の方にはけばけばしい、はたまた別の方には地味だと感じられるかもしれません。一方で「大きい」などの表現に関しては参考文献をもとに数値などで裏付けが取れる(事実、客観的な記述)のであれば併記すれば「~では最大、~の最大種」などという形で記述することは有用な情報になると考えております。付け加えるなら私は四足動物を主に執筆しているので貝類には詳しくありませんがホタテやハダカカメガイなどのように泳ぐ種もいるものの、多くの貝類が腹足を用いた移動すると思うのでもぞもぞ動くと思いますし、それを手に乗せれば気持ち悪いもしくは癒しといった感覚を得られるのかもしれません。--Moss 2010年4月10日 (土) 11:59 (UTC)[返信]
  • コメントWikipediaの方針に照らして違和感を覚える記述には編集で対応すればよいというご意見に同意します。ただ個人的に気がかりなのは、何故KsさんはWikipediaの方針にそぐわない記述を、方針にそぐわないと認識していてもなお(「もちろん独自研究だから排除せよ、といわれれば残念ですがその通りでしょう」というコメントからそのように判断いたしました)記事の中に織り込もうとされるのかということです。Ksさんは「この記事で問題にされたところは、記事全体ではホンの尾ひれではないですか。」と、問題視されている記述の量的な要素を強調し、このコメント依頼に反発されています。たしかに問題の記述を量的に捉えた場合には「ホンの尾ひれ」なのかもしれません。しかし質的に捉えた場合にはどうなのでしょうか。私は海獺さんからの度重なる諫言をものともせずに「ホンの尾ひれ」を記述し続けるKsさんの姿勢に一種の執念のようなものを感じます。そしてそれはその「ホンの尾ひれ」が、Ksさんにとって質的には非常に大きな意味を持っているからではないかと思うのですが違うでしょうか?おそらく海獺さんはKsさんの内にある、この強烈な信念に関心を寄せており、ゆえにもはや看過できないという思いを抱き、このコメント依頼を出すに至ったのだと推察します(したがって、記事の抱える問題点が共同作業の中で改変可能であるかどうかという観点からのコメントや量的に「ホンの尾ひれ」であることを強調するコメントとは当然、焦点にズレが生じるでしょう)。まずKsさんは、量的に「ホンのの尾ひれ」である独自研究的記述が質的には執筆者としての人格と深く結びつくほど重要なものであるということを素直にお認めになった上で、(量的な観点に逃げずに)質的な観点からコメントをされてはいかがでしょうか。そうしないと議論がまったく噛み合わないと思います。-- 2010年4月10日 (土) 16:36 (UTC)(加筆)-- 2010年4月10日 (土) 16:41 (UTC)[返信]
    • コメントKsさんの2010年4月14日 (水) 14:35 (UTC)のコメントを受けてコメントします。「『執筆者としての人格と深く結びつくほど重要なものである』なら、削除に反対しますよ。」とのことですが、書いた後のことに執着しないということイコール書くこと自体に執着しないということだとは思いません。私としてはこのコメント依頼が進行するにつれ、Ksさんの執着は「(楽しい文を書くために)とにかく独自研究を書きたい、一度でも書けさえすれば後はどうなってもいいから」という内容のものではないかと思い始めています。また氷鷺さんのコメントと関連しますが、Ksさんは独自研究を書くことを制御できない方なのではないかとも感じ始めています。Ksさんは記事全体に占める独自研究的な記述がごくわずかであることを強調されますが、「わずかでも書かないでおこう」とは思われないのでしょうか。独自研究的な記述は控えるべきというのは、つまるところわずかでも書くなという要求に他なりません。わずかでも書かないということを守れるのか守れないのか、どちらでしょうか。-- 2010年4月15日 (木) 08:45 (UTC)(補足)-- 2010年4月15日 (木) 08:46 (UTC)[返信]
  • コメント Ksさんが執筆された記事のようなものは、他所でやれば良いと思います。新明解国語辞典のノリで書かれた「事典風のエッセイ」は、それなりに人気が出ることでしょう。私自身「新明解」は好きですし、Ksさんの「エッセイ」そのものに対する嫌悪感は特にありませんが、しかし、それはウィキペディアでやるものではないと考えます。主観的な文章を書き散らかし、時には堂々と『……と言う気がする<ref>私見である。修正求む。</ref>。』などと書いてしまう、そう書かずにはいられないような方は、きっと基本的な方針の理解さえ「できていない」のだと思います。『ホンの尾ひれ 』などと言っていますが、そういう主観的・独自研究的な表現を記事に含ませずにはいられない、そういうところが問題なのです。Ksさんがこれまで滅茶苦茶なことをずっとやってきたのは誰の思い込みでもなく事実であり、「タメである」についてのみ反省したと言いつつ、自身の執筆方針を改めるつもりは全くないようですし、『むしろ問題なのは海獺氏のやり方だと思います。』などと言っているようでは、もうどうしようもないでしょう。--氷鷺 2010年4月10日 (土) 21:53 (UTC)[返信]
  • コメント まだ jawp に参加して二年の若輩者で、エイプリルフールで下らないネタを投下した私が言っても何の説得力も無いでしょうからこのコメント依頼はスルーするつもりだったのですが、Ks さんのコメントを見て敢えて書かせていただきます。以前から独自研究というかエッセイのような表現には強い違和感を感じていました。おかしな表現があったら他の方が修正すればいいだけという他の方々のコメントはもっともで、不特定多数の利用者が協力して記事を仕上げていくという wp の理念にも則ったものだと思います。しかしながら Ks さんの場合はいわば古参の利用者であり、過去に何度も独自研究の指摘をされているにも関わらず一向にその執筆姿勢を改めようとはされていません。「風評による思いこみ」とお書きですが、少なくとも私にとっては風評などではなく実際に Ks さんの記事を読ませていただいた上で独自研究であると考えます。独自研究は wp には掲載不可という指針がある以上そのような書き込みは今後控えていただければと思います。--光舟 2010年4月11日 (日) 02:50 (UTC)[返信]
  • コメントいろんな意見が出てるけどKsさんは今のままで何の問題もないと考えます。どこまでの表現なら許容範囲なのかは微妙だと思うのです、もちろん四角四面に叩き出したら切りがないとも思うし百科事典を読む側からしても少し味気ないかなぁと感じてたりするのでは無いでしょうか・・・。まぁ個人差もあるから許容範囲も自ずと違うだろうしどこまでが許容範囲なのかは微妙ではあるけど、そこは他の人が言ってるように編集しつつコミュニティとしての合意を得て行くということに尽きるかと思います。そしてその合意は時代の変化や編集人の構成の変遷と共に常に変化するものだと思います。あと、Ksさんが愚痴を零してその後訂正された心境は良く分かります。人は人ですから多少の愚痴を零したくなるのもこれまた人の性であり私としては許容範囲であります。何と云いますか、人としての温か味が不足しがちな世情になりつつあることを憂う今日この頃ですね。--LedLine (^o^)/ Orz 2010年4月11日 (日) 03:26 (UTC)[返信]
  • コメント 個人的にはKsさんの文章は分かりやすく、着眼点も面白いなと思うことも多々あります。継続的に投稿していただいていることに感謝しております。ですが、Ksさんのようなベテラン執筆者の方の執筆姿勢が周囲に与える影響について、もう少し考慮していただきたく思います。ノート:退化#表現方法についてでも申し上げましたが、Wikipediaには不特定多数の利用者が参加しています。これだけ大きなコミュニティになれば、虚偽投稿など悪意ある編集や自説の発表・プロパガンダの場として利用しようとする人のことも、残念ながら想定しなければなりません。そのようなことを少しでも考えれば、「質も量も史上最高の百科事典」を目指すWikipediaでなぜ「独自研究」が許されていないのか、お分かりいただけるのではと思います。私はKsさんは善意で参加されている方だと信じていますが、もしKsさんの前に「自分の体験談」として嘘や自説の宣伝を書こうとする利用者が次から次へと現れたら、どうなさいますか?そのような事態が各所で蔓延すれば、除去や修正もおぼつかなくなります。Wikipediaではなぜ独自研究が認められていないのか、その理由について改めてお考えいただきたく思います。
    Ksさんの基本的なお考えはおそらく、「要するに私自身はウィキペディアの大方針を支持し、その下では原則も支持します。その上で楽しく執筆をしたい。行き過ぎがあった場合はどんどん訂正してください。まずいとの判断があれば引っ込める、あるいは消されることはやぶさかではありません[4]というご発言に表れているのかなと思います。僭越ではありますが、私はKsさんに「楽しく」活動を続けていただきたいと願っております。たまに「行き過ぎ」てしまうことは誰にでもあることです。ですが「故意に行き過ぎている」と他の利用者に思われないよう、注意して行動していただきたいと思います。--Penn Station 2010年4月11日 (日) 09:37 (UTC) 微修正:Penn Station 2010年4月12日 (月) 05:43 (UTC)[返信]
  • コメントKsさんの執筆が専門的見地から見てどうなのかは僕にはわからないので、旧来「エッセイ的」と指摘されてきたような記述以外は問題の無い、そこにさえ目をつぶるなら執筆者として有能な方だという前提で考えてみました。一般論として人には書き癖がありますし思い込みや思い入れもあります。文章を一から書きおこすときにどこからどこまでが出典に基づいた中立的で正確な記述かということをいちいち検証しながら書くというのは、多くの人にとってかなりしんどい作業なのだろうと思います。Wikipediaに投稿する文章を作成するときに、常にWikipediaの方針に合致した完全な完成稿として投稿するなどということはほぼ不可能でしょうし、仮に可能であってもそのための努力がモチベーションを下げたり執筆速度を極端に低下させたりすることにつながるのならば、有害なこだわりでしかないと考えます。では、Wikipedia上の記述をどうやって方針に合致したものにしていくのかというと、複数の人がひとつの項目に対して、情報を持ち寄り、意見を交換し、記述を書き換えていくという方法以外にはありえません。多くの人に公開するための文章を作成する際に複数のひとの目と手を経るというのは、Wikipedia上だけではなくあらゆる場所で当たり前に行われていることです。このような考えから、Wikipediaの方針にそぐわない文章を投稿する人は他の場所でやるべきだとは僕は思いません。執筆内容が基本的には有用なものであるという場合には、むしろ積極的にWikipediaに投稿してもらって、それを後からWikipediaの方針に合致するように書き換えるほうが建設的だと思います。執筆者がWikipediaにおける古参利用者であるとかそういうことは関係ありません。ここまでに「問題がある部分は気がついた人が除去すればよい」という意見が上がっています。あまり多くの記事を見たわけではありませんが、素人意見としてはKsさんの書く文章というのは比較的そうした処理がやりやすい書き方に元からなっているのではないかと思います。ここでまず問題とされるべきなのはKsさんの人間性や行動様式ではなく、Ksさんの書く文章がそうした作業を行ううえでのたたき台として有用なのかどうかということです。たたき台として利用不可能なものならばKsさんには執筆内容を変えてもらうかお引取り願うしかないわけです。生物分野の執筆者の方から見てKsさんの書く文章はどのように映っているのでしょう。ただ、Ksさんがそのような記事をよりよくするための作業を妨害するような人かどうかという点も考えなければなりません。基本的にはKsさんは文章の内容や表現に対して不必要なこだわりを見せるような方ではないと思います。しかし、上記の非依頼者コメント等を見ていて、他者とのコミュニケーションにおいて、不用意に相手を煽るような傾向があるのかもしれないとは思いました。項目への執筆においても、後から見返してやりすぎだったと感じることもあるようですし、今後はWikipediaに投稿する前に、冷静になって自分の書いた文章を見直すようにすれば、だいぶ変わるのではないでしょうか。yhr 2010年4月11日 (日) 11:57 (UTC)[返信]

普段は英語版に投稿していますが、とても気になったので書き込みします。依頼者の態度に強い懸念を表明します。誰かの編集スタイルにとやかく言うのはまずやめたほうがいいです。投稿者はいつも依頼者のような方の嫌味に耐えなければならないというのであれば、喧嘩するのが楽しい人と辛抱強い人以外ウィキペディアからいなくなってしまいます。

まず、Ks氏の投稿自体は許容すべきです。誰でも自由に修正できるのだから、海獺氏が好きなように修正すればいいでしょう。海獺氏の修正した版が以前の版よりずっと質が高いと皆が分かれば、Ks氏だって納得するでしょう。たいして品質が違わないのに失礼な態度をとれば、当然相手が腹を立てることもあるでしょう。そうやって改善を積み重ねていくのが嫌で、最初からまっとうな記事をうまく書くことを他人に要求したいのなら、ウィキペディアではなく自身のサイトで認定された会員だけが書き込めるウィキを立ち上げたほうがうまくいくはずです。

海獺氏が本来あるべき姿に記事を修正したのに争いになり、さらに論理的な説得に失敗したなら、海獺氏より説明能力がある人がかわりに説得してくれることを期待してコメント依頼をだせばいいし、ただ感情的にしつこく粘着してくるというならそのことを排斥すればいいですよね?それが本来のコメント依頼の機能です。『依頼者である私を除いても、利用者‐会話:Ksに寄せられている出典や独自研究に関するコメント/指摘は、以下のように複数にわたっております。』なんていう依頼者自身の会話ページにだって非常に沢山のコメント・指摘がみられます。平和に問題を解決できない人は次から次へと似たような喧嘩をふっかける前に自分自身の中に原因がないか考えるべきです。今後は気に入らないと思っている人物が複数いるぞ!と喧伝して、似たようなコメントを集め、相手に思い知らせてやろうという2chの匿名さん達みたいな態度はやめて下さい。編集の楽しめるウィキペディアにしましょう。--210.147.227.4 2010年4月12日 (月) 03:44 (UTC)[返信]

  • コメント依頼者です。上記210.147.227.4さんのコメントに対しては、ノートに記載しました。さて、皆さんの意見を読んで思ったのですが、記事空間に独自研究と思われてしまうような記述をしたいが、出典がすぐに示せない場合は、その記事のノートページを活用するというのは、いかがでしょうか。ノート:タツナミガイに書いたように、私は今回、「臨場感のある文章であるとは思いますが、生物系の百科事典の項目には出典がないままではそぐわない」と思い、当該記述をコメントアウトした上で、ノートに引用という形で記載しました。これはWikipedia:検証可能性の「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。しかし、もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートページに移動するとよいでしょう」という文章に基づくものです。個人的にはKsさんには「書くけど消されても文句は言わない」というスタンスから「この記述は記事にとって有用なものだけど、主観が入っているし、出典もないので、まずノートに書いて他の人の協力を待つ」というスタンスに変わってくださるといいのではないかと思います。視点を変えてみて下さい。初版から完全な記事を書く必要はないからこそ、記事の執筆を急ぐ必要はないからこそ、もっとノートを活用していただきたいと思っています。記事空間に投稿されたことは「ウィキペディアにはこう書いてあった」と広く認識されることが多くなっていると思われますので、Ksさんの書きたい要素をノートに記載することで、すぐではないでしょうけれど、より有意義に反映されることだろうと思います。--海獺 2010年4月12日 (月) 05:25 (UTC)[返信]

依頼者の海獺さんは、コメント依頼をだした以上、落としどころをみつけるのは第三者に任せたほうがいいですよ。「ウィキペディアにはこう書いてあった」と誰かが言うことがとても気になっているようですが、その潔癖主義が、他人にとって不快な態度につながり、結局問題を大きくしてしまったように見えます。そういう失敗を繰り返していませんか?海獺さんはしばらく落ち着いて、ご自身のどのような態度が他人に不快感を与えたのか分かるまで考えてみてください。

「書くけど消されても文句は言わない」という態度での投稿は、誰かがそれより良い文章を書く叩き台となりえます。Ks氏が善意に従って執筆しているならば、百科事典としてまったく良くできていて主観なんかいれなくても充実した秀逸な記事に、わざわざ自分の意見を書き込むような真似はしないでしょう。記事が不完全だからこそ、善意をもってしても主観が入り込むし、出典のない記述が入り込むのです。善意にとるというウィキペディアの基本原理に従うならば、気に入らないならより優れた文章で更新するというのが正しい態度です。そうすれば確実にウィキペディアはよりよいものになるでしょう。

海獺氏は「ウィキペディアにはこう書いてあった」と誰かが言うことがとても気にするようですが、それを気にすることがウィキペディアにとってどれほど価値があって、どれくらいの方が実際に防ぎたいと思っているのかが問題ですね。少なくとも私は、ウィキペディアが多くの方にとっていごこちのよいもので、自由に編集できるという雰囲気があり、ウィキペディアが成長を続けていくことのほうが、はるかに大切だと思います。もし、将来にわたって参加者に「ご理解」させることができるというのなら、その方法が知りたいものです。その方法が継続的に参加者にストレスを与えるようなものなら、優先する理由はないでしょう。その点で、依頼者がよかれとおもってしていたことが、ウィキペディアにとって害になってしまっている可能性を指摘します。このコメント依頼を機会に改善してほしいですね♪ --210.147.227.4 2010年4月12日 (月) 07:24 (UTC)[返信]

コメント 依頼者への文句はその辺にしておいてください。あなたが海獺さんに対して言っている『ご自身のどのような態度が他人に不快感を与えたのか分かるまで考えてみてください 』だとか、『よかれとおもってしていたことが、ウィキペディアにとって害になってしまっている 』『このコメント依頼を機会に改善してほしいですね 』は、むしろKsさんに求められることのように思います。--氷鷺 2010年4月12日 (月) 16:02 (UTC)[返信]

私はそのように思いません。何も説明を加えずにそっくりそのまま言葉を返してやるという態度はまるで子供の口げんかみたいですね。

改めて述べますが、私はKs氏の記述に一定の有益性があることを認めています。有益な部分を取り込んで、そうでない部分を修正できることがウィキの利点です。善意にとればKs氏は少なくともその原理を理解し、その原理の中でウィキペディアが発展していくことを願っていると解釈できます。一方、「スタンス」を変えろと他人に迫るならば説得力のある説明です。さらに、そのような行為を複数の人物に対して繰り返し行おうとするならば、他人に不快感を与えることなく問題解決する方法を習得するべきでしょう。私は、コメント依頼の趣旨に賛同しませんし、賛同できないという意見も公平に取り扱われるべきだと思います。というわけで、なんで賛同できないのかもう少し説明しましょう。


もつ煮 2008年9月13日 (土) 15:42; 海獺による版 において海獺氏は記述しています。

もつ煮とは豚または牛の内臓を煮込んだ料理の総称である。表記や呼称は「もつ煮込み」「もつ煮込」などがあり、モツをカタカナ表記する場合もある。またより料理として親しみやすく、食欲をそそりやすい印象を持たせるためか、単に「煮込み」と呼び、臓物(ぞうもつ)= 内臓を表す「もつ」という語句を省くことがある。この項では主にその歴史的な成り立ちと日本の関東地方で食されるもつ煮を中心に記述する。
居酒屋のメニューとして、また定食のおかずとしても知られている料理ではあるが、料理レシピをネット検索した結果によれば[1]、下茹でした豚または牛の小腸と生姜を臭みが取れるまでさらに茹で、具材に大根、人参、牛蒡などの根菜類とコンニャクや豆腐などを加え、醤油および味噌で味付けし、盛り付けの際に長ネギを粗みじん切りにしたものを乗せたものが一般的なイメージになっているといえる料理である。しかしながらラーメンなどと同様に、料理は民間伝承で材料も味付けも時期や地域によって差が生じるものであり、根幹となる「もつを煮込む」以外の枝葉の部分は枚挙に暇がない。

この文章には明らかな独自研究が含まれています。やがてその記事は現在のように変化していくということを海獺氏自身は経験しているわけです。海獺氏がこのテキストをウィキペディアに投稿しなかったらもつ煮の項目は長い間生まれなかったかもしれません。そういう意味で、海獺氏の提供した叩き台は有益だったと言えます。この記事成長のプロセスを楽しく経験することで執筆者自身も成長していきます。このプロセスを他人に嫌味を言うことで省略できると考えるならば、大きな誤りです。もし、その貴重な機会がストレスに満ち溢れたものであれば、記事の成長が止まるばかりか、その執筆者は他の執筆者にも同様の意地悪ばかり言うようになるでしょう。

単に嫌味を言って他人が品質の低い記述が成長していく過程を経験する貴重なチャンスを奪い取ることになるのか、上手に他人にアドバイスをして、品質の高い記事のかける執筆者を育てることになるのかは紙一重です。

前者のような結果になるくらいなら、何もしないほうがマシですよね。うまく伝わらないから相手が悪いことを責めようっていう態度じゃ、記事も執筆者も成長するチャンスを奪われてまるでいいことがありません。海獺さんが、自分には上手に他人にアドバイスをして品質の高い記事のかける執筆者を育てる能力があると思っているなら、それは過大評価というものです。その差は、海獺氏の心意気や、方針文書の内容で決まるものではなく、相手がどのように受け取るのかに依存したデリケートな問題です。残念なことに、海獺氏は相手の受け取り方を想像することよりも方針文書の内容を伝えることに一生懸命になってしまう傾向があります。ウィキには、説得や議論以外にも、編集で見本を示し、共同作業のすばらしさを伝える方法がいくらでもあるんだから別の建設的な方法を学んでいただきたいものです。--210.147.227.4 2010年4月13日 (火) 01:11 (UTC)[返信]

コメント 依頼者に対するコメントについては、ノートをご覧下さい。こちらでは可能な限り控えるようにお願いします。--Tsop9 2010年4月13日 (火) 01:34 (UTC)[返信]
  • コメント僕はKsさんの書く記事は好きですし、新着場に出てくる記事も楽しみです。読者にどうやって興味を持ってもらうか、面白く読んでもらうか、という点での工夫として頑張っておられるのだろうと思います。身近な話題を提供することで興味を持ってもらう、というのは、とても素晴らしいことだと思います。とはいえ書き方に関しては、わざわざラフな語調を使ってやる必要はないと思います^^;。一部に怒る人がいるのは書き方そのものよりも、それをあえてやってる(ように思えてしまう)所だろうと思います。この文は釣り針として仕込んだのか、みたいな・・・。あとこれはネット上のどっかで見たウィキペディアの読み手の一言ですが、僕自身 反省的な気持ちで読んだコメントです。うろ覚えですがこんなのです。「ただちょっと情報を調べたいだけなのに、ひとつひとつの記事から個人・書き手が見えると何かイヤになる」みたいな意見がありました。こういうことは僕は考えたことが無かったので、うーん、そうか・・・と思いましたが、属人的な書き方、を嫌う、という所があるんだなぁ、というのは確かにそうかもしれない、と思いました。読者にどうやって興味を持ってもらうか、面白く読んでもらうか、という点での工夫と、他の方針や制約、その間で出てくる葛藤・競争、といった所の問題なんだろう、と思います。--Was a bee 2010年4月13日 (火) 02:00 (UTC)[返信]
  • コメント 被依頼者に対するコメントとしては海獺さんや氷鷺さんに近いです。緊急避難的に出典なしで記載することが「やむを得ない」場合も多々あろうかと思いますが、少なくともある程度の分量の加筆なり新規執筆なりをする際には、最初から各種方針を出来るだけ遵守した記載を心がけるべきだと思うからです。被依頼者の気持ちも分かるし私自身は結構面白く拝読しておりますが、出来ましたら、各種方針が緩い縛りでしかなく無から百科事典らしき形態にまで育て上げた時代の感覚だけではなく、量的にはかなり大きくなり新規利用者も多くなった現状において、より質の面に重きを置いた執筆を心がけて頂きたく思います。--ろう(Law soma) D C 2010年4月14日 (水) 06:00 (UTC)[返信]
  • コメント 被依頼者と関わりました。被依頼者はある数千の手紙等の中で「天皇の戦争犯罪」を支持する意見が多かった事を持って、「(そう考える)日本国民は少なくない」との結論を記載しておりました。編集者の意見となっているため、その部分についての出典要求をしましたところ、「当たり前のこと」とのことで出典要求タグを何度かリバートによって剥がされました[5]。手紙の数で国民全体の考えが「多い」か「少ない」かわかるはずもなく「当たり前」でないことは誰の目にも明らかだと思います。利用者‐会話:Ks#天皇の戦争責任についてにおいて説明をさせていただき、結果的に指定箇所を除去していただけましたが[6]、「事実から導き出される単純な推論まではOK」であり、この記述もそうであると主張しておりました[7](ならばなぜ自ら指摘箇所を除去したのか意味不明)。「事実から導き出される単純な推論まではOK」との根拠は不明ですし、その「推論」が事実から「飛躍しすぎて」導き出していることにお気づきになっておらず、「事実から導き出される単純な推論まではOK」との考えから出典から飛躍しすぎて自身の考え・感覚を記載してしまう面がある方というのが素直な感想です。--清涼里588 2010年4月16日 (金) 15:26 (UTC)[返信]
  • コメント 被依頼者の動植物関連に多く投稿しているのを高頻度で見かけます。それだけに貢献度も高いと思いますが、ここで指摘されているとおり、ずばり被依頼者の欠かれる文章はエッセイ的だと以前より感じていました。動植物関連の項目は科学的でなければならないのに、Ksさんの表現は無駄に形容詞や詩的表現や誇張が入っていたり、ご本人の独自研究というか思い込みが多いですね。なんの種が特定出来ない写真からも、自己判断で断言してしまったり。被依頼者が生物学に興味を持って編集に参加されるのは素晴らしいことですが、被依頼者より知識豊富な人や、真面目に出典を調べて来るレベルの高い編集者とたびたび衝突されてはウィキペディアにとってマイナス貢献です。また被依頼者は利用者:Mariemonと衝突しており、このMariemonさんにも大いに問題はあるようですが、被依頼者の問題行動も見過ごせません。具体的には、Ksさんが侮辱煽り発言を繰り返す、そのくせMariemonさんからの呼びかけには完全無視の対話拒否。またMariemonさんの問題点を指摘するのに、Ksさん自らの言葉を持って諭すのでは無く、2ちゃんねるに書き込まれたMariemonさんのに対する罵詈雑言リンク先を見せつけて、「あなたは世間でこう思われているんですよ。」とMariemonさんのノートに書かれた[8]。ウィキペディアの編集の仕方を話しあうのに匿名掲示板に書かれた無責任な中傷誹謗を持ち出すのは、あまりも非常識では無いでしょうか?もしKsさんが2ちゃんねるの評価に左右されて、ウィキペディアの活動を行っているなら、編集に参加しないで頂きたい。もし2ちゃんねるの評価は正当ではないと考えているなら、Mariemonさんを牽制するためだけにご当人を傷つける書き込みを見せつけたので、これはモラルやマナーに違反した行動です。この件だけだけではなく、Ksさんは他人と対話を心がけ、歩み寄りの姿勢を見せるようにし、「ウィキペディアの細かい方針なんかに興味はない」などと言わず、編集方針を尊重した態度で編集に望んでほしいです。--ホオズキ 2010年6月23日 (水) 09:20 (UTC)[返信]