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Wikipedia:コメント依頼/Dr jimmy

利用者:Dr jimmy会話 / 投稿記録さんの編集方針とウィキのルールの解釈について、コメントを依頼します。--KAGEROU 2008年11月28日 (金) 13:32 (UTC)--[返信]


コメント依頼の理由[編集]

ノート:THE_BLUE_HEARTSを見てほしい。

「代表曲」の節について

「代表曲」の節の内容を見直し、最終的には「代表曲」節を無くす方向で整理していきたいと思います。 理由は、何を以って代表曲とするかという基準がなく、結局個人の主観によって無造作に追加されていくだけになっている。現在でも20曲にまでふくらんでしまっている。また、シングル・アルバムとも個別記事が全て作成されており、内容の重複見られ、無駄であるからです。 まずは、現在の「代表曲」節内の記事を大幅に整理し、根拠の無い主観に基づく評価や感想の類を排除し、次に必要と思われる記述を、シングル・アルバムの各記事に転記し、転記の終わった曲から除去して行こうと思います。--Dr.Jimmy 2008年1月25日 (金) 04:18 (UTC)

と代表曲をなくす方向で整理するという。しかし、代表曲はどの作曲家にも、歌手にもある。

彼は、編集方針として、利用者:Dr jimmyで、

ウィキペディアは何でないか、検証可能なことだけ書く、独自研究は載せないを遵守し、これにそぐわない、百科事典的で無い記事はどんどん修正・削除します。
基本的にあまり執筆は行わない。これに関して、たまに批判の声もあるが、百科事典としてふさわしくない記事を書き散らす人よりも、よっぽど貢献していると、確信している。

と宣言している。つまり確信犯だ。代表曲や代表作があることをご理解いただきたい。私にはドクターの称号はないが、これはどうかと思う。


依頼者のコメント[編集]

代表曲がないというノート:THE BLUE HEARTSでの編集方針が、一般的にも個別的にも誤りであると考えます。ここで問題となるのは、「何を以って代表曲とするかという基準がなく」の基準の存否が問題で、「結局個人の主観によって無造作に追加されていくだけになっている」部分ではありません。利用者:Dr jimmyさんの編集方針で通せば、極大的に音楽の項目が全て、ただの曲目リストになってしまうことを恐れます。代表曲や代表作の基準を探す作業をおっぽっての削除は単なる破壊行為だと思います。また、検証可能な資料さえも、評論はほとんどが何の根拠もない、抽象的な文章がほとんどであり、音楽記事から投稿者の主観を完全に消去するとなると、曲名と、演奏時間、売り上げのリストになってしまうでしょう。氏の方針は各所で発揮されている気がします。

せめて代表曲の基準を定律する努力や、その議論が先ずは必要だと考えますがいかがでしょうか?自分がルールだという態度もやがて大きな軋轢を生むでしょう。「根拠の無い主観に基づく評価や感想の類を排除し、次に必要と思われる記述を、シングル・アルバムの各記事に転記」する「必要」や「根拠」も氏の独自の主観的な精神作用によるものに他ならないことにお気づきください。--KAGEROU 2008年11月28日 (金) 15:39 (UTC)[返信]


(コメント追加)たくさんのコメントありがとうございます。

音楽は音を素材に感情や考えを時間の流れの中で表現することです。ここで厳密にWikipedia:検証可能性のルールを適用し投稿者の恣意や感情を一切排除するのが、利用者:Dr jimmyさんの編集方針であるなら、リスト以外に音楽記事として音楽の三方面のうち、どの方面のなにがどのようにどのような形で記事として成立するのか聞かせて下さいというのがコメント依頼の内容です。その方向でのコメントをお願いします。

音楽関係の記事を書かれている方の意見を、ぜひおねがいします。--KAGEROU 2008年12月5日 (金) 07:51 (UTC)[返信]


(コメント追加)コメントの追加をありがとうございます。ところで、本件は被依頼者へのコメント依頼から逸脱し「音楽に関する記事をどう書くべきか」になっていないでしょうか。について。ご指摘のことはコメントをされる方からみればたしかにそうです。おわびします。そこで少し詳しく書きます。
先ず方針があります。それは事実です。次に利用者:Dr jimmyさんの行ったことが事実としてあります。そしてその背景としてDr jimmyさんがそれを行う理由があります。
彼は、自分の編集方針として、利用者:Dr jimmyで、>ウィキペディアは何でないか、検証可能なことだけ書く、独自研究は載せないを遵守し、これにそぐわない、百科事典的で無い記事はどんどん修正・削除します。と言い切っています。ここで彼の宣言を文章どおりにとれば、検証可能なこと以外は削除するといってるわけです。その検証の方法はどこかの文書にあればよいという形式的な態度です。しかし、方針はよりよい辞典をつくるための方針で、方針を守るために編纂(投稿)があるわけではありません。とりあえず、常識的な判断をして(これがなければ、例えば、バンドなんかに国籍ってないですが(メンバーの国籍はあるが)、日本のバンドと書いてあった時、「日本のバンド」は独自研究ですといい得るわけです。)、疑問があれば、出典を求め、しばらく待って、理由を書いて削除というのが本筋でしょう。いきなり削除するのは、明らかな嘘を書いている場合だけではないでしょうか?「それはあまりにもリスキーな結果を残すものと思われます。」というのには同意しますが、リスクの管理が彼のイチゾンでやれるものか?という意味での疑問を私は持ちます。
まさに、これは以下にある「批判の声」です。
「基本的にあまり執筆は行わない。これに関して、たまに批判の声もあるが、百科事典としてふさわしくない記事を書き散らす人よりも、よっぽど貢献していると、確信している。」のくだりです。理由は簡単で、皆がこれやれば、このウィキペディアは消えませんか?むろん、不確かな記事は全て削除。そりゃ結構なんですけど、音楽記事は私程度の者が見ても小学生以下のや、あきらかな嘘記事がありましたし、まだまだあるでしょう。また出典があきらかに無いものでも、非常に良く書けている。すばらしい。だれが書いたんだ?と思える記事もあるわけです(A=B B=C という公知の事実があったとして、それは示さず、A=Cの記事を書く。そしてA=Cの出典は見つけるのは難しいという記事)。良く書けている記事まで、彼が彼の頭で「ふさわしくない」と考えただけで、削除してしまう。そりゃないんじゃないのか?「百科事典としてふさわしくない記事」を勝手に決めるか?ということです。要はモーメントを削除と加筆のどちらへ持ってゆくかです。少なくとも、直近や召集という言葉で彼が見せた語彙の範疇(哲学で使われる意味での範疇)に関する見識では、私は彼を全面的に信頼して、随意に削除することに賛成することができません。そして、代表曲というもの自体がそもそも存在しないと言い切り、それで削除をするというのはどうなんだろうということです。
つぎに、Dr jimmyさんの行いにまったく問題がないと考えた場合です。そうなると、検証ということばが問題になります。音楽の三方面への執筆は、私の考えでは検証は不可能だろうなということです。理由は評論はそれ自体が文学であり、作品の評価としては間接的ですらないから、独立して関係ないとも言える(その曲を聴いて書いたかの証明すらできない)からです。そうなると、クラッシック以外はほとんどリストしか書けないかな?ということなんです(それはそれで価値はある)。削除に執念燃やす前に、ひとつひとつのページに愛着もって書いていって欲しいモンです。彼が正しいと考える人には、音楽の三方面に関してどう書くかをききたいのですが、それは聞いても多分何か答えのあるひとはなさそうだし、第一コメント依頼からはずれているので特にいいです(もちろん、あればうれしい)。
要は、「「○○~で取り上げられた」「○○の条件をクリアした」など一定のラインを設け」ることが最初だろう!それをせずに、記事を消すことから先は違うだろう。ということです。既に彼を模倣する者もでてきています。対話すべきではないかというご意見は、もっともで、もし彼が活動中で対話のつもりのあるひとなら、ここになんか言ってきてるでしょう(ノートに通知済み)。被依頼者のコメントでもあれば閉めますが。彼とだけ話をしても全体の中での考えはわからない(彼が私に同意しても、私が彼に同意しても)彼のコメントが、まだないので、しばらくは空けておきますが、私の考えは以上です(長すぎ?)。
(個別の感想)高速通過者さんへ。私は、「ケンカ腰」なところ以外は、たぶん基本的な部分で意見的にはかわらないと思いますし、高速通過者さんの意見は私の同意できる内容です。菊地 英仁さんへ、非難ではなく批判です。UNIPUMAさんへ、ケンカ腰に見えますか。すみません。ZEROさんへ、双方極端的対立の中で全体での位置を知りたく思いました。凪海(Nami) さんへ、サザンは先に見ています。出典をここまでやるかという感じで(ページが以前、荒れてたんだろうなとは思いますが)、それもコメント依頼の動機です。新幹線さんへ、彼がルールに違反しているとは考えていません。みなさん、ご意見ありがとうございました。

--KAGEROU 2008年12月6日 (土) 05:30 (UTC)[返信]

ほぼ意見の書き込みがおわったと思えるので、しばらく後に閉じさせていただきます。せっかくの貴重な意見が目にふれにくくなるのは非常に残念ですが、みなさんありがとうございました。貴重な時間を費やしていただき感謝にたえません。--KAGEROU 2008年12月14日 (日) 10:13 (UTC)[返信]

被依頼者のコメント[編集]

コメントが遅くなりましてすみません。この機会に多くの方の意見を聞いておきたかったことと、週末は諸事情でほとんど見る暇がなかったため、遅くなりました。コメントをいただいた皆さん、ありがとうございました。私の考えていることは、ほとんど既にどなたかがコメントされていますので、掻い摘んで要点だけを述べさせていただきます。

  • 「代表曲」についてですが、「代表曲がない・代表曲を書いてはならない」などと主張した事は一度もありません。私が編集する前のこのページ[[1]]のような形で、根拠や基準もなく20曲も列挙され、単独記事とわかれていたり重複したりしている状況を、整理し、必要に応じて個別記事の方へ転記しています。
  • 他の方からも指摘がありますが、Wikipedia:検証可能性については、全ての編集者が守るべきものであり、この方針に対する反対意見を私個人へのコメント依頼で持ち出すのは少々場違いかと思います。
  • 「音楽の三方面」云々についてですが、依頼者がそのような考えを持っているということは認識いたしましたが、残念ながらWikipediaの基本方針とは相容れないものであると考えざるを得ません。依頼者が私の編集について「信頼できない」と言われていますが、同様に私も依頼者を信頼することはできません。しかし、それは誰もが匿名で編集に参加できるWikipediaの仕組み上しかたのないことです。だからこそ、各編集者が編集を行う際の指針として「公式方針」があり、また記事の内容の信頼性を確保するための方針としてWikipedia:検証可能性があるわけです。これを守らなくてもよい、という考えには賛同はできません。また、「他にもっと酷い記事がある」ことが、別の記事が検証可能性を満たさなくても良い理由にはなり得ません。

最初にコメント依頼を見た時は、私もえらくケンカ腰だな、と思いましたが、他の方とのやりとりを見たところ、依頼者には依頼者なりの信念があるということがわかりました。上で書いたように、その意見には賛同はできませんが、個人に対するコメント依頼などではなく、広くコミュニティの賛同を得られるよう、問題を提起されてはいかがでしょう。また、私の利用者ページの文言を、私が実際に行っている編集行為以上に拡大解釈し、記事破壊者だと思われている節がありますので、こちらについては書きなおしていこうと思います。--Dr.Jimmy 2008年12月8日 (月) 10:01 (UTC)[返信]

コメント[編集]

個別的な話を先にしておくと、ブルーハーツの代表曲・代表作を記述したいということでしたら、Googleで手っ取り早く探したところではこうしたものが見つかりましたので、情報源として使用してみてはいかがでしょうか[2][3]。まあ、ブルーハーツであれば、Web媒体よりもより相対的に信頼できる情報源はたくさんありそうですが、たぶんDr.Jimmyさんが言っているのは、現状において検証可能なものすらも除去していくという話ではないと思います。

それで、依頼者のKAGEROUさんと被依頼者のDr jimmyさんが今まで話し合われた形跡が見あたらないのですが、もう少し対話を継続してみてはいかがでしょうか。--ZERO 2008年11月29日 (土) 08:53 (UTC)[返信]

これはノート:THE BLUE HEARTSの方に書いちゃったんですけれども,代表曲(作)ってのは聞く人によって違いますよね.一著者が代表曲は~であると書いてしまうと,それは個人の主張を掲載する独自研究になってしまいます.これが例えば公式HP等で「代表曲は~である」みたいな記述があれば話は変わってくるのですが...それはさておき,Dr.Jimmyさんの主張は上記の代表曲の存否如何よりも,わざわざ代表曲という節を作って曲の解説をしているところが内容過剰ではないか?という所のほうが重いように見えるのですがいかがでしょうか.

後ZEROさんも上で仰ってますが,対話もなしにえらく喧嘩腰ですけど何か理由があるんですかね?--UNIPUMA 2008年12月1日 (月) 15:36 (UTC)[返信]

「代表曲や代表作の基準を探す作業をおっぽっての削除は単なる破壊行為だと思います。」とのことですが、そもそも出典を示す責任は掲載を希望する側にあると定められていますし、「代表曲」節の整理・削除の前にノートに提案していたようなので(告知が不十分だったかもしれませんが…)、Dr jimmyさんの行為に大きな問題があるとは思えません。

あと、『「根拠の無い主観に基づく評価や感想の類を排除し、次に必要と思われる記述を、シングル・アルバムの各記事に転記」する「必要」や「根拠」も氏の独自の主観的な精神作用によるものに他ならないことにお気づきください。』とのことですが、ウィキペディアは私たちの考えで作られるものですから、そんなことは当たり前です。それに対して反対意見が今まで出なかった以上、それを実行したことには問題ないと考えるのが筋でしょう。--新幹線 2008年12月2日 (火) 05:36 (UTC)[返信]

◆「せめて代表曲の基準を定律する努力や、その議論が先ずは必要だと考えます」と仰っておられますが、それ以前に公式方針Wikipedia:検証可能性に従い、出典を明記することが先決だと思います。代表曲の選定基準の定律議論は検証可能性を満たしてからでも十分ではないかと。少なくとも被依頼者の発言「根拠の無い主観に基づく評価や感想の類を排除」とは、Wikipedia:検証可能性#方針に従っているもので、問題はないと思います。

また、依頼者は被依頼者の利用者ページの「宣言」を「確信犯」と断定していらっしゃいますが、文中リンクをクリックして頂けるとお解りのようにその1行目の3つは全てWikipediaの全ての利用者が従うべきと考えられている正式なWikipedia公式方針であり、何ら問題ないと思います(例えば同じ日本のバンドのサザンオールスターズ#出典・参考文献と比較すると、いかに現状でのTHE BLUE HEARTSの情報源が少なく主観的かご理解頂けるかと思います)。--凪海(Nami)会話 / 投稿記録2008年12月2日 (火) 20:08 (UTC)[返信]

(コメント)少々無粋な横槍かもしれませんが、本件は被依頼者へのコメント依頼から逸脱し「音楽に関する記事をどう書くべきか」になっていないでしょうか。
(コメント2)また、当初の議題に関してですが、当該会話ページ、依頼者コメントならびにこちらのコメントを読ませていただきました。まず、私も他の方々が仰られるように、「出展はありきで記載すべき」、もしくはそれが難しいというのであれば、「ガイドラインや合意事項を決める」という手順は無かったという感想をもっており、被依頼者に問題があるとは感じられません。依頼者が今回のコメント追加で「投稿者の恣意や感情を一切排除するのが~」というくだりを述べておられますが、もし、各投稿者気持ちや感情を持って代表曲を編集すれば、あっという間に無用な軋轢を生むでしょう。代表曲にあらずとも、楽曲の記事を感情的に書いても同様でしょう。そうなれば、それはあまりにもリスキーな結果を残すものと思われます。既に、依頼者が当該会話ページでおっしゃっていますが、合意事項として、「○○~で取り上げられた」「○○の条件をクリアした」など一定のラインを設け、それを元に記載するようにすれば良いのではないでしょうか。しがない一編集者として、今回はコメント依頼を続行する前に、別の切り口を見つけ、対話すべきではないかと考えます。--高速通過者 2008年12月5日 (金) 08:20 (UTC)[返信]

音楽分野を主に執筆している者として、私も音楽関係の項目が「曲名と、演奏時間、売り上げのリストになってしまう」ことには反対です。しかしWikipediaのような共同作業のプロジェクトで参加者がそれぞれ自分の主観で音楽評論をやらかしてしまったら収拾のつかない状態になるであろうことは容易にお察しいただけると思います。単なるデータリストではない、音楽の中身について記述したければ、何らかの検証可能な資料に基づいて行う必要があります。例えば代表曲について記載したいなら、記載を望む側がそのアーティストの代表曲が何であるかを示す検証可能な資料を提示するべきです。

WP:Vを教条主義的に振りかざして強引な削除や出典要求を行い、他の利用者とのトラブルを頻発させた挙げ句に投稿ブロックになった利用者はこれまでにもいました。しかしDr jimmyさんがそのような利用者とは一線を画す方であることはWikipedia:投稿ブロック依頼/利用者:Dr jimmyWikipedia:投稿ブロック依頼/Dr.jimmyに反対票が集中したことからもおわかりいただけると思います。

私もWikipediaに参加し始めた当初は正直Dr jimmyさんの利用者ページの文言にはかなりの違和感を覚えました。しかし経験を積むうちにそれが当を得たものであるということがわかるようになってきました。ウォッチリストをチェックしながら「これリバートしたいな…」と思いつつ小心者ゆえにできずにいたケースでDr jimmyさんが代わりにやって下さったというようなこともこれまでに度々ありました。

確かにWP:Vなどの方針に従いながら音楽関係の項目を執筆するのはなかなか大変なことで、クラシック音楽以外では特にそうです。でも私自身は主にポピュラー音楽に関係する項目の編集に参加することが多いですが、紙の文献資料が豊富に揃っているクラシック音楽よりもむしろやりがいを感じて取り組んでいます。百科事典の編集なんて元々とても難しい作業なのですから、その難しさ自体を楽しむくらいの心がけでやっていくのが望ましいのではないでしょうか。--sergei 2008年12月6日 (土) 09:56 (UTC)[返信]


さらに追加のコメントありがとうございます。今回、追加いただきました内容について返答させていただきます。

  • 方針について

まず、物事には手順があると思います。 先述のとおり、他の方々が利用者:Dr jimmy氏を支持されているように、 Dr jimmy氏が従う「方針」というものは明文化されています。 つまり、これに従ったか従っていないかは明確であり、 Wikipediaとして推奨されているかも明確です。 しかし、KAGEROUさんの仰る内容は私個人として賛同できても、 集合体であるWikipediaとして容認できるかは別問題です。 つまり、上手い表現が浮かびませんが「防御する手段を前もって準備しましょう」ということです。 前回の投稿で申しましたとおり、何らかの議論を経て「こういった議論を元に基準を作った」ということさえ事実として存在すれば 、一方的に削除された際に議論として成り立ちます。 しかし、今回は「基準」がないのです。 もし、今回のこの議題が何らかのプロジェクトとして議論されて成立したり、改善されれば素晴らしいと思うのですが、まだ成されていません。 簡単な図式にすれば

1.今議題の代表曲についての議論開始
2.編集者が「方針を元に削除を宣言」
3.代表曲を記載すべきと思う人間が「残す必要性、残す際の基準を提言、議論」
4.議論結果を元に総意・方針として2.での方針への異論を展開

この手順であれば問題ないと思います。 ただ、今回は

1.今議題の代表曲についての議論開始
2.編集者が「方針を元に削除を宣言」
3.編集者の方針のみに従う編集傾向に異論を唱える

これでは、方針が方針として機能しませんし、建設的な議論ではないと思います。 この手順については、どうお考えでしょうか。

  • 国籍の記載について(別例題)

また、揚足を取るようで申し訳ないのですが、バンドの国籍といった問題を別例として挙げられていますが たとえば、それを記載するのであれば「特筆性」「冗長的な内容」としての問題も含んでしまいますし、 それもどうしても記載したいのであれば「メンバーのどれぐらいがどの国籍なのか」や「事務所をどこにおいている」「活動拠点はどこ」など 、判定に当たって主義主張が多岐にわたりますので、やはり議論すべき課題になると思います。 もし、議論なく互いの意見が食い違い、互いに主張を押し付ければ編集合戦や、せっかくの有用な情報が消滅してしまう危惧を持っております。

  • 三方面の記載について

音楽の三方面に関してどう書くかですが、私は音楽記事を編集しないようにしているのですが。もし編集するのであればやはり出展を行います。 たとえば、私が今議題の代表曲とされる一つに対して「三方面の一つの演奏が素晴らしい」と感じても 「私の感想」です。 同時に、どのような編集者が書いても感想でしょう。 たとえ、自分は著名な評論家であるとする編集者がいても同様でしょう。 では、三方面が書けないのかとなれば、私はそう考えていません。 たとえばですが、「○○という評価がある。(出展部分:○月○日発行の○○○社出版の○○○○記事)」 ということであれば、自己の意思の代弁として書くことが出来ますし、同様に反論する意見があれば そちらも出展を出し、もし、意見が相違すれば「○○という評価の一方、××という評価もある」 とすることで、閲覧する第三者は「なるほど、この楽曲にはこういう経緯があるのか」と理解することが出来ると思われます。 私の個人的な考え方かもしれませんが「編集者」はプロや評論家、技術家、各専門家を名乗って記載することは 「客観性」「論述性」を排他できなくなってしまうと考えています。 ただ、もちろん意見は持っておりますし、書きたい内容もありますので、それは「自己の意見を投影する媒体」を用意し 記載すべきと思っております。 究極的に言えばですが、本当に自分が音楽論評のプロであるならば、音楽関連の記事に出演し意見を述べ、それを出展とすることもありなのではないかと思っております。(もちろん、宣伝行為となるものは論外ですので引用の際には一層の注意が必要だと思います。)

  • 記事の消滅について

たしかに、全員が「削除」よりの記載であれば消滅しますが 「記載」よりの人間ばかりであれば冗長的になったり無秩序になります。 であれば、どうすべきか 結論は「互いに議論すること」これに尽きると思います。 削除に特化しすぎ、自己を見失えば指摘されますし 過度なマルチポストや無用な追記を連続すれば指摘されます バランス、というと聞こえがいいですが どちらが「普遍的に良い」ということはないと思います。 私の場合は「確実に不確かな記事しか削除はしないが、無用で冗長的な表現は消したり、不親切(不足)なものには継ぎ足す」 が方針ですが、これも一つです。 「たら・れば」で話してしまうと、議論の方向は次々に予想の範疇でしかなくなってしまいます。 そして、最終的に全てが仮定で話が終結するのです。 それは、あまりにも議論の労力がもったいないです。 幸いWikipediaには差し戻しの機能もあります。 もし、KAGEROUさんが「事実としてこのままこの傾向が続けばいずれ記事が全て削除されてしまう」という疑念を抱いたときには 一編集者へではなく、全体に呼びかけるべきであると思います。 どうでしょうか、現在のWikipediaは消滅に向かっているでしょうか。 私の感想でしかありませんが、現状そのような問題は見えてきていない、そう思っております。

  • 代表曲削除について

確かにKAGEROUさんの仰ることは私も同感なのですが、それであれば「代表曲とはこういう方針で策定されたものである」という基準を作ってはいかがでしょうか。 もちろん、これを作るのであれば多数の意見を取りまとめる必要があると思います。 (先述のとおり、主義主張が多岐にわたるため) また、Dr jimmy氏が「代表曲というもの自体がそもそも存在しない」という内容に疑念を持たれているようですが これは、Dr jimmy氏の一つの「意見」であると思います。 と、同時にKAGEROUさんの「代表曲は存在する」という内容も一つの「意見」です。 こうなってしまいますと、双方ともに意見ですし、当人同士にはお互いの意見が「正」です。 相反する「正」があれば、互いを「誤」としてしまうのが人間です。 では、この状態のままでいれば、いずれ意見の相違から編集合戦や編集強行に走ってしまうでしょう。 そして、Dr jimmy氏はすでに「方針」というものを持ち出しました。 KAGEROUさんは「意見」はありますが「方針」や「総意」を持っていません。 そうなると、第三者的に見るとどうしてもDr jimmy氏に問題はない、となってしまいます。 しかし、KAGEROUさんの「意見」はもちろん変わらないと思います。 では、相手を否定するまえに「方針」を作れば良いのです。 もちろん、KAGEROUさんの「意見」にWikipediaの総意として「正」とするかはわかりません。 しかし、「正」と認められればDr jimmy氏が「代表曲など存在しない」と意見したところで 「○○の経緯で○○という基準に沿うものは代表曲として認められている」と反論できます。 そうであれば、第三者が見た際に意見は変わりますし議論としても成り立つと思われます。

  • Dr jimmy氏個人への意見ではなく、音楽関連へのアプローチの薦め

ちょうど、○○の~のくだりを再度出しましたので、ここも補足です。 先に存在しているのは「Wikipedia:検証可能性」なのです。 そして「消す基準」の策定を求めるのはあまり建設的でないと思います。 (消す基準を多様に作れば作るほど、KAGEROUさんの仰る記事の消滅に近づくと思われます。) 確かに、削除する前にアクションがあったほうがいいのはいいと思いますが 編集者も人間であり、各自の方針があります。 そして、その方針を強制することはできません。 また、Dr jimmy氏の削除方針はKAGEROUさんが危惧されているように 一辺倒な機械的削除ではなく 判断をもって実行されていると、現段階では問題ないという事を判断されています。 では、どうしようもないのかという話になりますが 私の中で、KAGEROUさんが見出すべきは個人へのアプローチよりもさらに広いところではないかと思っております。 今回の「代表曲」という問題は過去議論されていない(見つけられていないだけかもしれませんが)議題です。 であれば、削除を見たKAGEROUさんが「疑念」を感じられたことを全体に確認するチャンスを得たことになります。 これは非常に大変な道のりになりますが しかし、これはKAGEROUさんが仰る内容を今後に生かすためになるのです。 今回議論し、それがKAGEROUさんの仰るような形で策定されれば、今度は削除を申し出る側が 「新たな削除の論拠」を出さなければいけません。 今回は「検証可能性」が消す論拠として存在し、残す論拠が存在しないのです。 非常にわずらわしく感じると思いますが、生む努力、してみませんか。 PJ:音楽や当該ノートでもいいと思います。 ある意味KAGEROUさんは良い機会に恵まれたし、良い目をもたれているのだと思います。 今まで問題と誰も捉えなかったことに問題だと感じ、改善したいと感じたならば Wikipediaの一つの方針の先駆者として立てる権利をもたれたのだと思います。 言い方が悪いかもしれませんし、表現力の不足が悔しいですが、 万が一、現段階で代表曲を消されたとしても 音楽記事作成の基準を改めて作り、それを基に再度記載し、自己の意見が正しかったと思うのもよいと思います。 (ただし、あくまでも流れの中でですので「誰かが間違っていた」と思うのは間違いで、議論前まではと、議論後は、というだけの事実であると捉える冷静な心が必要だと思います。) ただ、先述のとおり非常に険しい道になると思います。 ひょっとすれば「代表曲の記載はいらない」という全体の意思を確認してしまうだけになるかもしれません。 ただ、どうなるかは誰にもわかりませんし、行動しないと結果はでません。 認められれば、一つの自信として(過信はいけませんが) 否定されれば、何かアプローチがまずかったのか、それとも自己の基準がおかしいのかを見つめなおす機会 そう捕らえて、Dr jimmy氏個人への意見ではなく広い視野を持って行動していただければ、そう思っております。

  • 最後に

どうにも長文になりすぎる性格のため編集を抑えているのですが、今回も非常に冗長的な文章、繰り返しの多い文章でご迷惑をおかけします。どうか、一つ、読むだけでも読んでいただいて、私の意見の少しでも考えていただければ幸いに思います。 --高速通過者 2008年12月6日 (土) 10:55 (UTC)[返信]

◆(コメント)個別にわざわざ返答ありがとうございます。さて、あまり冗長になるのも何ですので依頼者の言葉に対する返答として短く纏めました後にコメントをさせて頂きました。

  1. 「検証可能なこと以外は削除するといってるわけです」
    繰り返しますが、ウィキペディアンとしてWikipedia上で記事を執筆編集する上で公式方針Wikipedia:検証可能性に従うのはどんな理由があろうとも当然のことです。個人的にこの公式方針そのものに異論があるのでしたらWikipedia‐ノート:検証可能性で議論を立ち上げるべきでしょう。
    音楽記事に限っては検証可能性に従えないことでも特別に記載していても構わない、とする編集方針があるのでしたらそもそもWikipediaから去るべきでしょう。何故ならば、Wikipediaで記事を執筆編集する上で全ての利用者が従うべきと考えられている公式方針を是としない、と公言しているも同然なわけで、Wikipediaの公式方針には従えないがWikipediaに記事は書きたい、というのは非常に個人的な我が侭であるとしか私には思えません。Wikipedia上で明確な公式方針が存在する以上これに従うのはいち利用者として当然、従えないならWikipediaではなく別の個人wikiなり個人ブログなり、個人の裁量で自由に書ける場所でお好きなように書けば良い、と思います。
  2. 「あきらかな嘘記事がありましたし、まだまだあるでしょう」
    嘘であるとする出典を明記し、自己の主張の検証可能性を満たした上で書き換えて下さい。そうでなければ個人的な主張のぶつかり合い、という泥試合になると思いませんか?
  3. 「代表曲というもの自体がそもそも存在しないと言い切り、それで削除をするというのはどうなんだろうということです」
    代表曲があるとする出典を明記し検証可能性を満たして下さい。個人的にそう思うから、という理由でWikipedia上に記述を残すことは出来ません。
  4. 「私の考えでは検証は不可能だろう」
    世の中には音楽評論家や音楽雑誌という出典明示可能な媒体がございますので、これを典拠に記事中に出典として明示した上で評論家の言を書けば出典検証可能な記述が出来上がります。どこの誰とも判らぬ匿名編集者の出典明示不能な感情論よりよほど信頼性に足る記述となること明白と考えますし、実際そのようにして検証可能性を満たした音楽記事もございます。サザンをご覧頂いて冗長と感じたということですが、私は小池徹平(出典40個弱)でも未だ不十分と考えます。
  5. 「記事を消すことから先は違うだろう」
    Wikipedia:検証可能性を満たすWikipedia:出典を明記するを明確に否定し、Wikipedia:独自研究は載せないに抵抗なさっておられる時点でWikipedia:削除の方針#ケース E: 百科事典的でない記事独自の研究結果の発表」に該当します。もう一度Wikipedia:検証可能性をお読み下さい。Wikipediaでは事実であっても検証出来ない記述は記事として信頼に値しない記述となりますので記載出来ません。Wikipedia:編集方針#他の人が書いた情報(意味内容)は保存するよう努めてくださいですら「検証不可能な内容」の削除・排除を認めています。検証可能性を満たしていないのですから、対話があろうとなかろうと明確な出典の明示を行わないままで記述を残すことは方針に従って不可能です。

最後に、このコメント依頼の推移を考えるに、そもそものコメント依頼理由というのが、依頼者の考える検証可能性と被依頼者の考える検証可能性という公式方針についての理解度の違い、という点に尽きると思います。私や被依頼者を含む他の多くの編集者の方々は公式方針である以上絶対に従った上で編集を行うのが筋、と考えてコメントしていることに対し、依頼者は検証が出来ないが事実であるならば記述があるのが当然、とお考えではないのかと。

つまり、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべき」を依頼者が理解されておられないか、またはこれを明確に拒絶している、という点に尽きるかと。そうであれば、たまたま被依頼者が依頼者の視界に入ったのでコメント依頼を立ち上げてコメントを求めているが、本当に依頼者が問題としたいのは被依頼者の行為そのものではなく被依頼者の行動原理となっている公式方針の在り方と編集者の個人の判断でそれに従わないでも許されるのか、という質問でもあるわけで、それは音楽記事のみならずWikipedia上に存在する全ての記事が成り立っている公式方針に対する問題提起に匹敵する疑問でもありますからいち個人に対するコメント依頼ではなく、当該公式方針ノートなり井戸端なりで全編集者に質疑するような方法がより適切であると思います。少なくとも、依頼者も既に被依頼者の行動がルール違反ではない、と同意している以上このコメント依頼は終了して然るべきではないでしょうか?--凪海(Nami)会話 / 投稿記録2008年12月7日 (日) 13:31 (UTC)[返信]