Wikipedia:井戸端/subj/一つの出典が複数の文に掛かる場合の脚注の示し方
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一つの出典が複数の文に掛かる場合の脚注の示し方
[編集]皆様に教えていただければと思うのですが、久々にアンネのバラに追記しようと思ったら、脚注を全て句点の前に置くという編集をしてくださった方がいて、加筆できなくなってしまい悩んでいます。たとえで説明すると
以前の版 1959年、文章1。文章2。文章3。[7] 現在の版 1959年、文章1。文章2。文章3[7]。
となっていました。内容的に出典7は行頭の1959年から最後までの全てに掛かるのですが、現在の表記ですと、文章3のみが出典7に基づいた記述で、文章1と文章2は[要出典]のように見えます。
Help:脚注#スタイルと用法には「段落全体に対する脚注の注番号が、段落の最後(段落を構成する最後の文の句点の後)に置かれていることもあります[解説 6]。」とあるので、段落の最後の句点の後に脚注を置く方法もヘルプページにおいて認められた、すなわち選択可能な記法と思っていたのですが、私の理解が違っており、脚注は絶対に句点の前に前に置かなければいけないのでしょうか。
この点、以前の議論のWikipedia:井戸端/subj/脚注リンクの配置位置についてを見ますと、脚注リンクは句読点の前に置く、が正しいようで、それには従おうと思いますが、一つの出典が複数の文章に掛かる場合の脚注の示し方に関しては結論が出ていないようです。では記事を書く場合にどうしたら良いでしょうか。一つの出典が複数の文に掛かる事を明確にするために
1959年[7]、文章1[7]。文章2[7]。文章3[7]。
とするのか、それとも「句点を打つから出典の範囲が不明確になるのだ」と
1959年文章1文章2文章3[7]。
のように句点を(場合によっては区切りも)使わずに書かないといけませんか。前者ですと正直、偏執的な気がしますし出典が複数あると見た目が悲惨な事になります。一方、後者ですと小学校で国語を習えと言われそうです。--118.21.20.12 2015年9月22日 (火) 07:13 (UTC)
- コメント 脚注を入れる箇所は必ず句読点の前でなければならない、という訳ではありません。ご質問のようなケースでは、
- 読点が間に入っていても内容的にひとつの事柄(そして同じ出典)であれば問題はないので、最後の句点の前におく。
- 言及している内容が複数あり、それぞれについて明示的に出典をつける必要があるなら、それぞれの箇所(読点の位置とは関係なく)におく。
- 個人的にはあまり推奨しませんが、文や段落の一番最後(句点よりも後ろ)におき、念のためコメント文 <!-- --> で他の編集者が分かるように書いておく。
- 使える場面が限られますが、脚注形式をやめて、本文の中で出典を明記するやり方もあります。その範囲を明らかにする工夫も要りますが。
- という感じでしょうか。--Hisagi(会話) 2015年9月22日 (火) 08:32 (UTC)
1959年、文章1[7]。文章2[7]。文章3[7]。
- これで足りますよね。その上で、私はこんな風にやってます。
1959年、文章1。文章2。文章3ここまで[7]。
- 生物の形態を説明する場合は一番説明が良さそうな図鑑を選んで、まずそれを参考に書いて、最初の文章のあとに、「以下、主として[1]」などとやっておき、他の本からの説明を入れるときにはその文に出典をつける、そんなこともやっています。--Keisotyo(会話) 2015年9月22日 (火) 11:04 (UTC)
文章1[7]。文章2[7]。文章3[7]。
- 文章1や文章2の後のマルに出典が明記されていない場合、文章1と文章2の間に文章4[出典8]を入れると、おかしい事になります。この話と同様に右側のテンプレ(人物など)で、まとめて[出典1]としている場合がありますが、追加する時困ります。--JapaneseA(会話) 2015年9月22日 (火) 12:41 (UTC)
- 見栄えが悪くなる、偏執的な感じがする、という印象は私も感じるのですが、それでも一文毎に出典を明記するのがベターだと考えます(もっといい方法があればいいけど思いつかない。)。ほかの方々は「偏執的」感には全く言及なさいませんでしたが、要するにそんなことは気にすることではないということだろうと思います。程度にもよりますが。
- 「検証可能性/出典によって信頼性の担保とする」「共同作業である」というウィキペディアの特性上、ある程度見栄えが損なわれるのはやむを得ないかなと。普通のセンスでいうとうざったい、読みにくいと感じるだろうと思いますけども、ウィキペディアに限ってはそれこそが品質の証と言うしかない。秀逸な記事を読んだり書いたりするような人たちからはきっと「真摯さの顕れ」とみなされるはず。別の案件での表現を借用すると、一文毎に出典をいれるのは、出典を示さないまま弄くられることへの「魔除け」効果もあるかなあと思います。(必ずしもそれが「いい効果」かはわかりませんが。)
- 私の場合、ゼロから新記事を立ち上げる場合と、既存の記事に加筆する場合、最初から「良質な記事」水準を目指せるような場合と、どっちにしろ小さな記事、部分的な記述にとどまるような場合でも、なんとなーく使い分けて変えています。--柒月例祭(会話) 2015年9月22日 (火) 13:31 (UTC)
- 文章1や文章2の後のマルに出典が明記されていない場合、文章1と文章2の間に文章4[出典8]を入れると、おかしい事になります。この話と同様に右側のテンプレ(人物など)で、まとめて[出典1]としている場合がありますが、追加する時困ります。--JapaneseA(会話) 2015年9月22日 (火) 12:41 (UTC)
- コメント みなさん、御親切にアドバイスありがとうございました。おっしゃる通りに記事には句読点ごとに出典をつけました。内容的には「国際間の」を「日本航空の」にするだけだったのですが、出典の再確認などもした結果、ページ数を間違っていた所が見つかったりで1時間40分ぐらいかかりました。
- 複数の文章に脚注を付ける方法が無いのは個人的には困るなと思いましたし、Help:脚注#スタイルと用法の「段落全体に対する脚注の注番号が、段落の最後(段落を構成する最後の文の句点の後)に置かれていることもあります[解説 6]。」は、訂正が必要に感じました。「段落全体に対する脚注をつける手段は提供されていません。段落の最後(段落を構成する最後の文の句点の後)に脚注を置く事は認めません。脚注は絶対に句読点の前に書いてください。一つの出典が複数の文に掛かる場合は句点の数だけ脚注を繰り返して置いてください」のようにすべきではないでしょうか。
- 私などは、共同作業であるなら、加筆しようとする人は示されている出典は良く読んで記事全体を理解すべきだと思うのですが、出典を見て編集する人などいないのが実情なのでしょうが、出典など見ずに記事を弄る人のために句点ごとに出典をつけないといけないのかと思うと気が重いですが、段落全体に対する脚注は駄目という教訓は次の記事に生かしたいと思います。一方、以前に書いた記事に、脚注を全て句点の前に置く編集をされた場合は、出典を再調査して句点ごとに出典をつけ直すのは労多くして益少なしだったので、今後はその記事への追記は諦めます。共同作業なので、最初に書いたから「新たに書籍が出たので記事をアップデートしよう」と思う必要は無い筈ですので。--118.21.20.12 2015年9月23日 (水) 01:40 (UTC)
- コメント 私は記事を書かないので、なるべく執筆に関する部分には触らないようにしていますが、一言申し上げます。今回問題になった段落に対する脚注の付け方は、以前も議論になった上で現に認められている方法であり、一部の利用者が反する行為を行ったからと言って否定されるべきものではありません。誰が差し戻しても非難されるようなものではありません。そういう状況であるにも関わらず、貴方自身が「気が重い」とご発言されるような方法を本当にルールとして全利用者が守るべきであるとお考えなのでしょうか。ウィキペディアでは誰でも編集できるため様々なレベルの方が参加されていることは既にご存知だと思います。全ての利用者が全てのルールを把握しているわけでも有りませんし、全てのルールが全ての状況に矛盾なく適用できるわけでもありません。そうした中でより良い方法を模索しながらやってきたのがウィキペディアなのだと思っています。今回のコメントの中でどなたも、段落に対する脚注が文句無しに素晴らしいルールであるとも、忌むべき最低のやり方であるともご発言されていません。そうした微妙な塩梅を上手く調整していくことも大切なのではないでしょうか。--Frozen-mikan(会話) 2015年9月23日 (水) 06:45 (UTC)
間違った、というか困った方向で収束しそうになっているのですが。
例1 | 1959年、文章1。文章2。文章3。[7] |
例2 | 1959年、文章1。文章2。文章3[7]。 |
例3 | 1959年[7]、文章1[7]。文章2[7]。文章3[7]。 |
例4 | 1959年文章1文章2文章3[7]。 |
IPユーザさんの挙げた例をまとめて便宜上、例1~4としました。
まず前提として確認しておきたいのですが、例1のような書き方をした場合、注[7]で示された出典が「1959年、文章1。文章2。文章3」全体に係るのだ、という読み方は、そもそも何によって裏付けられているのでしょうか。そんな裏付けになるようなものがWikipedia名前空間やHelp名前空間や…にあるのでしょうか。仮にあったとして、それは一体日本語での文章技術としてどういう裏付けがあるのでしょうか。句読点の位置に対する前後関係で、特定の係り方をするのだ、というのは強いてそうした書き方をしているのだと明示的に決まりごとにしているのでもないかぎり、書き手の側の主観的な主張にすぎず、「複数の文に係っている」と読み手が受け取ると期待するのはそうとう無理があります。以前もどこかで言ったような気がするのですが、ウィキペディア日本語版は日本版ではないが日本語版です。日本語として異様な書法で書かないとダメだなどといって、日本語もどきのウィキペディア語がまかりとおっては困ります(したがって、当然例4も論外)。
日本語として異常ではない範囲で、という当然の限定のもと、段落や複数文単位に係るなら、
- 文章1~3が論旨の上で一体であるという文脈をわからせる書き方をする
- 脚注内で(たとえば)「この段落は、だれそれ(2014: pp.12-14)による。」と書く
…といった様に、自然な日本語の範囲でできることはあります(後者の例として紀三井寺参詣曼荼羅 2015年8月2日 (日) 11:01 (UTC) 版の注10~12など)。そうしたことをせずに、「貴方自身が「気が重い」とご発言されるような方法を本当にルールとして全利用者が守るべき」(Frozen-mikanさん、2015年9月23日 (水) 06:45 (UTC))ものとするのは、忌むべき規則主義なり官僚化なりとして批判されるべきものです。ほんとに勘弁してほしい。--ikedat76(会話) 2015年9月24日 (木) 12:25 (UTC)
- コメント 「自然な日本語の範囲でできること」でしたら、私も既に他の記事で使える所では一部で使っていますが、まさか
- 高橋数樹『アンネ・フランクのバラ』 p.127 によると、1955年、ベルギーで数多くの品種を作り出した育種家のヒッポリテ・デルフォルヘは、母親が Rêve de Capri で父親が Chanteclerc からなる交配種を作出した[13]。
- 高橋数樹『アンネ・フランクのバラ』 p.124 によると、1959年、ヒッポリテはスイス旅行中にオットーと出会った。アンネの日記に感銘を受けていたヒッポリテは自分が作り出した交配種の中から最も美しいバラをアンネの形見として捧げる事を計画し、オットーの賛同を得た。家でバラを育てる事も提案したが、この時点ではオットーの自宅には庭がないため育てる事ができなかった[7]。
- と書けとおっしゃるのですか。この方法のどこが優れていますか。これでは百科事典として異常に思えます。複数の文を一つの出典で示す手段が無いのは、jawp における出典の示し方の重欠陥 (出典を示す事に厳格になりたくさんルールを決めた結果、句読点を打つのも不自由になったのでは長所とは言い難い) であって、その欠陥を何とか補うために「自然な日本語の範囲でできること」すなわち文章を工夫して回避しなければいけないのであれば記事を書く上できつい制約となりますし、その効能も万能ではなく限界があります。とりわけリストや表では無力です。このような、文章で問題を回避する書き方をルール化して全利用者が守るべき、としたいわけではないでしょう。
- 出典が段落に係る事に関しては、Help:脚注#スタイルと用法に
段落全体に対する脚注の注番号が、段落の最後(段落を構成する最後の文の句点の後)に置かれていることもあります。加筆や修正、書式の統一の際には注意してください。
- とありますが、現実問題としては、要するに例えばこうなっていた場合に
書式1 1955年、ベルギーで数多くの品種を作り出した育種家のヒッポリテ・デルフォルヘは、母親が Rêve de Capri で父親が Chanteclerc からなる交配種を作出した[13]。 1959年、ヒッポリテはスイス旅行中にオットーと出会った。アンネの日記に感銘を受けていたヒッポリテは自分が作り出した交配種の中から最も美しいバラをアンネの形見として捧げる事を計画し、オットーの賛同を得た。家でバラを育てる事も提案したが、この時点ではオットーの自宅には庭がないため育てる事ができなかった。[7]
- これを読んでも「1959年、」から「育てる事ができなかった。」までは、高橋数樹『アンネ・フランクのバラ』 p.124 という1つの出典として全体に係るのだ、と読み手が受け取ると期待することはできず、
書式2 1959年、ヒッポリテはスイス旅行中にオットーと出会った[7]。アンネの日記に感銘を受けていたヒッポリテは自分が作り出した交配種の中から最も美しいバラをアンネの形見として捧げる事を計画し、オットーの賛同を得た[7]。家でバラを育てる事も提案したが、この時点ではオットーの自宅には庭がないため育てる事ができなかった[7]。
- と句点毎に出典を書かなければ「要するに同じページを出典に、かいつまんで書いたんだな」と読み手が受け取るとは期待できないというのであれば仕方がありません。
- ところで、これは enwp における私論のようですが en:Wikipedia:Citation overkill#Needless repetition には
If one source alone supports consecutive sentences in the same paragraph, one citation of it at the end of the final sentence is sufficient. It is not necessary to include a citation for each individual consecutive sentence, as this is overkill.
- とありました。この後に This is also correct, but is overkill: として例が載っていました。前述の「書式1」は enwp では認められており、私が1時間40分かけて「書式2」に手直しした結果、英語版の私論では典型的な悪い例な記事にしたのかと思うともう笑うしかありませんが、くだんの私論は日本語版ではWikipedia:脚注過剰となっており、英語版の
1 Misuse to prove an obvious point 1 明らかな事実に対して注釈を付けること 2 Needless repetition 未訳 3 Reprints 未訳 4 Other views 未訳 5 How to trim excessive citations 2 どうやって過剰な脚注を整理するか
- と対応するようです。つまり、Needless repetition は訳されていません。これはどう解釈したらいいのでしょうか。仮に私が Needless repetition を訳してWikipedia:脚注過剰に追記すれば、私論ではあるが出典が段落に係る場合は同じ脚注を繰り返さなくて良いというそれなりの根拠になるのでしょうか、それとも「ここは jawp であって enwp は関係ない」となるのでしょうか。前者なら、何なら訳しても構いません。後者なら、無駄な事はしません。「ウィキペディア日本語版は日本版ではないが日本語版です」と言ったからといって、enwp では、私論としてではありますが認められている「同じソースが複数のセンテンスの出典となる場合は最後のセンテンスに脚注を置けばよく、センテンス毎に脚注を繰り返すのはやり過ぎです」という、ヒトなら母国語が違っていても理解できそうな事が jawp では幾度も熱い議論になって、未だ認められないというのはおかしいですね。「ウィキペディア日本語版は日本版ではないが日本語版です」と開き直っていないで、enwp の良い所は取り入れてはどうでしょうか。
- Help‐ノート:脚注#脚注リンクを句読点の後に置くことの是非も見ましたが、これほど多くの著名な利用者が、実質的に脚注リンクを句読点の後に置くことを絶対的な禁忌と考えているとは知りませんでした。幾つか目についた発言を紹介すると
- 原則的には句点の前とします。これは私の知り得る限り、相当のコンセンサスを得ているはずです。相応の強制力が有ると見てよいでしょう。(Help:脚注#スタイルと用法 にて、Hman さん)
- 日本語の脚注形式に合わせていただければと思います。(Help‐ノート:脚注#脚注リンクを句読点の後に置くことの是非 にて、Ks aka 98 さん)
- どっちでもいいのなら黙って主流派に従っていただきたいですね。(Help‐ノート:脚注#脚注リンクを句読点の後に置くことの是非 にて、Kojidoi さん)
- なんだか恫喝のように感じられる発言もあり、脚注リンクを句読点の後に置いて段落全体の出典としてもいいのではないかなどと口にしようものなら、絶対に認めないからな!とたちまち袋叩きに遭って無期限ブロックされそうですがあえて言いますと、en:Help:Footnotes#Footnotes: the basics にありますが、enwp では脚注はピリオドの後に置くとしたのに、enwp など関係無いとばかりに、日本語版では句点の前に脚注を置くと決めた事(より正確には句点の後に脚注を置く事が事実上の禁忌になっている)が重大な副作用、すなわち enwp では認められている、出典が段落に係る場合も許容する書き方を不可能にした、といえるでしょう。
- Frozen-mikan さん、脚注リンクが句読点の後に置かれていたからと、記事の中の脚注リンクの全てを句読点の前に置くだけの修正を、幾つもの記事に対して行っておられる人もいます。もしリバート合戦になれば不毛ですし、議論になれば、過去の議論を示され「合意にもとづくルール無視!」と言われてしまえば反論できなくなるのはこちらの方です。私がこのような方々の全員と話し合って納得させ考えを変えてもらう事は不可能です。前述の「書式2」なら、どのようなレベルの読者でも、1959年から最後までは全部、高橋数樹『アンネ・フランクのバラ』 p.124 からかいつまんで書いたんだな、と理解してもらえます。私は「ではこう書くより仕方ないか。これからの記事ではこうしよう。同じ脚注を句点ごとにコピーするだけだからさして苦にはならない。でもさすがに過去記事はやりたくないけれど」と思ったというだけでして、これをルール化するとか他の人もこうすべきと主張するものではありません。--118.21.20.12 2015年9月25日 (金) 03:56 (UTC)
- コメント 本件は段落(複数の文)に対する脚注に関する話題であるのに、各文に対する脚注の付け方に関するコメントを持ち出して否定的な発言をされていることに疑問を感じています。また「議論になれば……反論できなくなるのはこちらの方」とのことですが、本件冒頭でご提示の文面は、少なくとも過去の議論「Help‐ノート:脚注/過去ログ2#『脚注リンクは句点(。)の後でなく前に置きます。』の補完」において考慮されたものです。もちろん、注釈「解説6」の「句点の後ろに置くだけで、それが段落全体の注であると示せるわけではありません。」に留意してください。--Frozen-mikan(会話) 2015年9月26日 (土) 01:55 (UTC)
- コメント IPさんへ。アンネのバラで起きたことはアンネのバラの中で解決すれば済むのであって、そこから「全部の記事もそうするべき!」とか「英語版も含めて全言語版が!」みたいにする必要はないです。
- 私は直接出典を確認していませんからこれは仮説ですが、その方はご自身で出典を確認したうえで、『高橋数樹 p=124』には「1959年のスイスでオットーと出会った」なんて一切書かれていない、と確認し、出典の位置を変更したのかもしれません。あるいは、そんなこと何にもせず、何も考えず、機械的に「。[1]」を「[1]。」に置き換えただけなのかもしれません。どっちなのかはわからないので、尋ねて確認する。それで話し合って対応すれば済んだ話です。
- (B)Frozen-mikanさんもおっしゃっているとおり、<「複数の文(=パラグラフ)」に出典を明記する方法・「一文毎(=センテンス)」に示すべきか>と、<出典を示す位置は「。」の前か、後ろか>は、議論の性質はべつの話です。
- たとえば次のようにすると、「。」の後ろに表示しても、どの出典がどの記述をカバーするのか示すことができます。これはテクニカルな話です。
- 「文章1。[1] 文章2。[2] 文章3。[3]」とか
- 「文章1。[1] 文章2。[2] 文章3。文章4。[3]」
- 「文章1。 文章2。 文章3。 文章4。文章5。[1] [2] [3]」 こうすることさえできる。
- しかしまあこの方法は見栄えにもソースにもいろいろ問題が出るので、とても採用できない。
- パーフェクトかどうかは私はわからないけど、(A)のことを考えると、「主流」とされている「。の前」が、いろいろな観点では合理的(ラクで、シンプルで、見栄えもそれなりで、誤読が少ない)かなあと思います。
- (C)「。の前」と決めると、事実上「一文毎(センテンス)」に出典を明記する、というのに等しい、という感じもしますが、実はそうではありません。
- 記述と出典の対応や重要性しだいで、「、」や「,」や「which」などによってできる句(フレーズ)単位で出典を示したい場合もあります。細かい数字が問題になるときや、何かを列記するような場合には、もっと細かく出典を示すことだってありますよね。ちょっと英語版の「秀逸な記事」から1つ例示してみます。
en:Suffolk Punch(oldid=653554395)より |
Suffolk Punches generally stand 16.1 to 17.2 hands (65 to 70 inches, 165 to 178 cm),[† 1] weigh weigh 1,980 to 2,200 pounds (900 to 1,000 kg),[† 2] and are always chestnut in colour. (仮訳)サフォークパンチ種は一般的に、体高が16.1から17.2ハンド[1]、体重が1980ポンドから2200ポンド[2]、毛色は栗毛である。 |
見かけ上、「栗毛」の出典が示されていないような感じもしますが、重要なのは数値の裏付け、ということなんでしょう。 |
- ここで示したいのは、英語では出典の位置が記号「,(カンマ)」の後ろに来るということであり、センテンス毎に出典を示せという話ではない、ということです。
- 「。」の前後どちらがいいか、という議論は、「記号の前か、後か」の議論だとみなすこともできるでしょう。
- とくにウィキペディア特有のこととして、編集中のソースと、実際に表示される文章が違います。
- 「中学校からアンネのバラを育てたいとの要望があり、{{Sfn|小林桂三郎|1982|p=157}}合唱団が2度目の演奏旅行の折にオットーに依頼。{{Sfn|高橋数樹|2002|p=33}}「アンネと同年代の・・・」
- こういうソースをながめると「要望があり、{{Sfn|小林桂三郎|1982|p=157}}合唱団が」の出典部分は、なんだか見るからに、後ろがわの「合唱団」以下にくっついているっぽく見えちゃいます。だから、句読点の前にしたほうが、紛らわしくない。
- このへんは、「ウィキペディア特有のテクニカルな問題」であると同時に、「その言語での伝統的なスタイル」の問題でもあります。
- どうしてなのかは私も知りませんが、英語の文献では世の中の一般として昔から「I am a pen.1」というように「ピリオドの後に注番号をふる」ことになっているようです。理由は私も知りませんが、「I am a pen1.」とはあまりしないっぽい。
- 英語の特性として、関係詞をやたらと多用したりして、「ピリオド」がなかなか来ないという事が起きます。そういう場合に「ピリオドのあと」に出典があっても、出典を検証してみると最後の関係節部分の出典にしかなっていない、なんてことが時々ありますね。これは出典を「フレーズ単位」にするか、「センテンス単位」にするかの話であって、「ピリオドの前後どちらがいいか」でも解決しないことです。
- 複数の関係節(フレーズ)をずらりと引き連れているような英文(センテンス)を、自然な日本語に翻訳しようとすると「。」でわかれた複数の文章(複数のセンテンス=パラグラフ)にしたほうがトオリがよくなる、ということがあります。そして日本語では細分化されたセンテンスの順番を入れ替えたり、SVOの順番を入れ替えたり省略しても問題なく意味が通る。英語版がパラグラフでいいよというのと、日本語版がセンテンス毎にほしい、というのは、そこらへんの言語の構造の違いにも遠因があるんじゃないかなあ、という気もします。--柒月例祭(会話) 2015年9月26日 (土) 05:38 (UTC)
- コメントWikipedia:脚注過剰に追記しました。一石を投じる事になるのか、無視されるか、よくもこんな物を訳したなと怒りを招くか分かりませんが。ところで ikedat76 さんにお伺いしたいのですが、
原子力規制局(Office for Nuclear Regulation, ONR)はイギリスにおける民間核産業に安全規制を担当する[1]独立行政法人(statutory corporation)。法人の予算は原子力産業の負担金によってまかなわれている。エネルギー・気候変動省とも密接に協力して活動しているが、原子力規制局は労働・年金省に報告している[2]。
- 原子力規制局は statutory corporation だというのは、要出典という事でしょうか。
- 「法人の予算は原子力産業の負担金によってまかなわれている」という文章は、要出典という事でしょうか。それとも、出典2がこの文章にも係るのでしょうか。
- もちろん、私は出典1と出典2は読んだ上でお聞きしています。
- Frozen-mikan さん、私としては記事は修正済みなのですが、 貴方自身が「気が重い」とご発言されるような方法を本当にルールとして全利用者が守るべきであるとお考えなのでしょうか、とのことで、ではもうちょっとなんとかいい方法を、と思ったら、こんどは 柒月例祭さんから「全部の記事もそうするべき!」とか言ったみたいに言われてるんですけど、、とにかく Help‐ノート:脚注/過去ログ2#『脚注リンクは句点(。)の後でなく前に置きます。』の補完の事を教えてくださり、ありがとうございました。読み切れていませんが、途中で既に絶句しています。
- 柒月例祭さん、
- アンネのバラで起きたことはアンネのバラの中で解決すれば済む
- 他の記事でも同じ事が起きているので、特定の記事で特定の利用者と合意してローカルルールを決めれば済む、とはいかないと思います。ところで私としては、Wikipedia:脚注過剰を部分訳した事もあり、英語と日本語の構造というより、enwp と japw に集まる人の性質の違いではないかと思いが深まりました。
enwp 気質 jawp 気質 出典には記事より詳しく書いてある。詳しく知りたければ出典を見ればよい。 出典なんか誰も読むわけないだろう。 出典は飾りではなく、実際に調査する場合のもの。 虚偽を書いていない事のお守りであり、単なる飾りである。 ひとつの出典が複数のセンテンスの裏付けとなる書き方を許容 「出典によると、」のような物を除き、実質許容していない。 出典がどこまで包括しているのか記事を見てわからないなら、出典を見れな済むよね? 出典など誰も見ないから、記事を見さえすればどこまで出典が包括しているのか分かるように書くことを要求。 追記するからには記事に示された出典は当然、良く読むよね? ひとつの出典が複数のセンテンスに係る事もあるから、そのど真ん中に他の出典からのセンテンスを入れないように注意してね。 自分は極めて優れているので、出典など読まなくても追記を修正して改善できる。だから立項者は、後で他の利用者が出典など何一つ見ずに記事を修正しても破綻しないように書く責務があり、これを強く要求する。
- の方が大きいと思います。個人的には、私が立項した記事で、何か出典を見て編集してくれたという人は記憶がありません。それにしても、ikedat76 さんは、脚注が段落に係るのには反対のようなご意見ですが、柒月例祭さんだと、句点の前に脚注があっても段落に係ることも可能、という趣旨のご意見のようですね。 --118.21.20.12 2015年9月28日 (月) 09:37 (UTC)
- 個人的な経験では、私は自分が書いた記事を他の方が出典を使って加筆してくれたという経験がたくさんあるもんですから、見ている世界が違うのかもしれませんね。私は短くまとめるのが下手なので、発言の意図が伝わらないのは私が悪いのですが、私の「意見の趣旨」は「ルールでガチガチに縛るのではなく、いろいろな場面で、いろいろな状況ごとにいろいろ考えてやってくれ」「相手がいる時、わからない時は質問したり確認したり相談したりすればいい。ノートページや会話ページはそのためにある」です。--柒月例祭(会話) 2015年9月28日 (月) 11:21 (UTC)
- コメントいろいろ混乱してると思う。
- 句点の後ろに注番号の話は、和文の論文の書き方として、そういう規則はほぼ記憶にないので、そういう事例が現実にあると、何か例をしめしていただけますか。たとえば和文に対してもAPAをかなりそのまま適用させる例[2]みたいなことがないわけではないですが、アメリカ史研究[3]、イタリア学会[4]、社会学会[5]、法社会学会[6]、土木学会論文集[7]、情報処理学会[8]、歴史地理学[9]、行動経済学[10]、SIST[11]から「付図2 付図1のレイアウトに準じて作成された学会誌の例」として機械学会[12]など、句読点の前が圧倒的に多いです。
- 「絶対的な禁忌」とは思わないけど、句読点の後ろに注番号を付けるとしている例を、ウィキペディアの外でほとんど見かけたことがないんですよ。これは何故かを考えるのもいいけれど、とにかく和文論文ではそれが慣行となってるんですね。欧文はピリオドの後ろが慣行だから、後ろ。和文は前が慣行だから前。だから慣行に合わせましょう。慣行を超えて、てことなら、強力なメリットがあることを示して、合意を得て、ウィキペディアではこうだ、と決めてしまうしかないと思う。
- 句点の後ろに注番号を置くことによって、段落まるごとを意味するというのは、ほんとに記憶にないです。
- 「段落全体に対する脚注の注番号が、段落の最後(段落を構成する最後の文の句点の後)に置かれていることもあります[解説 6]。」ていうのは、そういうふうに書く人がいるので、「加筆や修正、書式の統一の際には注意してください。」ってことです。単純に注番号と句点を入れ替えるような修正では、書き手が意図していたことを損ね、情報量を失うこともあるから、少なくとも段落末に句点の後ろに注番号があり、それが意図的なものと思えるなら、できれば出典を参照して段落全体に対応しているかどうかを確認し、その対応関係が読者に伝わるように書き換えてくれ、ということ。注釈内で「この段落全体についてほげほげ」にするか、文末ごと注番号にするか、そのまま句点と注番号を入れ替えても文脈から読み取れるとしつつ要約欄やコメントアウトやノートに注意書きを残すか、それは修正する人に委ねられるけれども。
- Wikipedia:脚注過剰のところ、「同一パラグラフ内で、連続する文については、まとめて注を付ける」の是非は、ちゃんと考えた方がいいことだと思う。ただそこで、注番号と句点の関係とか、句点の後ろに注番号を置くことで段落まるごとを示すとかいう話を持ち出すと混乱します。それらと、注をどれくらい細かく付けるかとは切り離して話をしませんか。
- 句点の後ろに注番号の話は、和文の論文の書き方として、そういう規則はほぼ記憶にないので、そういう事例が現実にあると、何か例をしめしていただけますか。たとえば和文に対してもAPAをかなりそのまま適用させる例[2]みたいなことがないわけではないですが、アメリカ史研究[3]、イタリア学会[4]、社会学会[5]、法社会学会[6]、土木学会論文集[7]、情報処理学会[8]、歴史地理学[9]、行動経済学[10]、SIST[11]から「付図2 付図1のレイアウトに準じて作成された学会誌の例」として機械学会[12]など、句読点の前が圧倒的に多いです。
- そこで脚注過剰の話題に戻すと、これは常識的には、まとめて注を付けていいと思うんですね。つまり、ぼくは句点の後ろに脚注番号を置いて段落の出典とすることに反対しますが、段落の最後の文の句点の前に注番号を置いて段落全体についての出典を示すことには、強くは反対しない。
- 強くは反対しない、というのは、その「連続する」ってのが、示されている情報源に含まれているだろうというような連続性であるなら、あるいは、文脈上十分連続性が理解できる限りは、という制限は付くと思うからです。同じ段落内で書かれるようなことでも視点が違うものや、事実や意見の列挙のような形で複数の文が連なっている場合だと、段落末尾にあるのが総説論文の類でないと、かなり疑わしく見えるだろう。形式的に「文末に脚注で出典が示されていない文の中身は常に出典が示されていないものと扱うので、すべての文末に出典を繰り返しつけなければならない」とは思わない。同様に、形式的に「段落末尾にある注番号から辿れる脚注に出典があれば、それが段落全体の出典となる」ことが明らかとも思わないし、思うべきではない、ということです。
- 他方で、将来の加筆や文や句の挿入を想定するなら、細かく付けておくほうが混乱を避けることができる。そこで、将来の編集者が出典を確認すれば、それは杞憂に終わる、と言うこともできる。ところが、使われている情報源が、信頼できる、定番のようなものであるなら、そんなものも読まずにと言っていいと思うれど(「日本国憲法」の記事で、芦部憲法使うみたいな)、啓蒙のための本、新書、雑誌記事などだと、検証が難しくなったり、割に合わなかったりする。分野によってはそういうのがないこともありますし、とりあえずは新書や雑誌記事で情報を増やすってこともウィキペディアでは認められるはず。一人では読み切れない、入手しきれない出典を、みんなで寄せ集めるってのは、共同執筆の利点。
- enwp気質とjawp気質として指摘されてるような違いは確かにあると思う。ただ、これはenwp気質/jawp気質っていうよりは、「情報流通とか論文作法とか知ってる人」と、「ウィキペディアの検証可能性ほかを素朴に真に受けて原理主義者的にふるまってる人」の違いとしたほうがよさそうで、英語版のほうはそれなりの数で前者が参加しているけど、日本語版はその層がとても少ない。これはつまり、記事を書く人は記事の内容についてある程度詳しかったり情報源を探したり読んだりしているのと同じように、出典の扱いや記事の内容との関係に口を出すなら、出典の扱い方や示し方、多少は記事の主題や分野の中身や傾向について一定の知識を持ってないとあかんよね、ってことだと思うんです。
- 細かめの注と、まとめての注を考えるときは、そういうせめぎあいがあると思うんですね。--Ks aka 98(会話) 2015年9月28日 (月) 15:17 (UTC)
- コメント みなさま、沢山のアドバイスを頂き感謝しています。またIPが変わったので、これにて失礼致しますが、
- 『原子力規制局』は、出典も確認した上で、私なりなので劣っている所もあろうかと思いますが、ikedat76 さんが理想と考える脚注の示し方を参考に修正などをさせて頂きました。ノート:原子力規制局をご笑覧願います。力量が不足しているせいか何日もかかり、自分が新規立項する記事に適用するのは困難だと感じました。
- 柒月例祭さん、気分を害させてしまったようで済みません。見ている世界が違うというよりはスタンスの違いだと思うのですが、例えば和書が高々4冊しか出ていなかったマイナーなテーマで、図書館にリクエストして借りられる本は全て読んで、記事の構成を考えて、過不足なく書籍を出典にしたつもりで立項すれば、他の方は、マイナーな修正ならともかく出典を使って加筆するというのはほぼ不可能です。他の記事も立項時には頑張ってから投稿していますが、もちろん共同作業という利点を活用するのも大いにありだと思います。それから、話し合いもしましたが…何といいますか…共同作業である以上、色々な考え方を認めなければと思います。
- Ks aka 98 さん、良いまとめをありがとうございます。唯一最大の問題は「Wikipedia の参加者全てが Ks aka 98 さんのように考えてくれるわけではない」です。最初はここに質問させていただいて、もう少しWikipedia全体としても良くできる方法は無いかと思ったこともありましたが、今ではそういうのは断念しました。太陽が燃え尽きるより前に脚注の示し方で合意が得られる事はないでしょう。そこで教わった結果を元に、あくまで私としてはこれからこうします、というのを述べさせて頂きます。
- 新規に記事を書く場合は、利用者百人が見たとしても百人共が確実に、出典[7]は、文章1と文章2と文章3に係る事を理解してくれて誤解を生じる恐れの無い書き方として、自分もイマイチに思うしご批判もあろうかと思いますが、
- 文章1[7]。文章2[7]。文章3[7]。
- とするより他にありません。いちいち脚注の示し方で解釈の違いを生じノートで延々と議論がしたいわけではありませんので、単純かつトラブルを避けられる書き方ですし、出典を調べずに記事を編集する人がいてもある程度はセーフになる点でも有利です。
- 既に立項されている記事を加筆・修正する場合は、どのようなスタイルで脚注が示されているかはいっさい考慮せず、示された出典をよく読み、出典の内容がどのように文章の裏付けとなっているかで係り方を判断します。出典を良く読んで理解する事が出来ない場合は、加筆・修正は遠慮します。(微細な誤字修正やリンク切れに伴うURL変更などは別) また、脚注の示し方があまりキッチリしていないなと思っても、そのような些末な事は何ら記事の有用性を減じるものではないと考え、いちいち自分の好み・流儀に合わせて修正したりする事は慎みます。
- つまり自分が新規に書く場合は「文章1[7]。文章2[7]。文章3[7]。」だけを用い、他の利用者が書く分にはどのような記法も許容しあくまで出典を見て判断する所存です。以上ですが、時間を割いてアドバイスをくださった皆さんには感謝致します。--210.163.56.189 2015年10月4日 (日) 09:43 (UTC)