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Wikipedia:執筆コンテスト/第五回執筆コンテスト/反省会

第五回執筆コンテスト
第五回執筆コンテスト
第五回執筆コンテスト
第五回執筆コンテスト
第五回執筆コンテスト

運営委員からのコメント

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皆様、2月のロングランにお付き合いいただきありがとうございました。運営委員よりまずは御礼申し上げます。お疲れ様でした。結果発表が遅れたことに関しては失礼いたしました。ただ、ほぼ、滞りなく、運営できたと自負しております。とりあえず、運営面からのコメントは今日のところは以上でございます。--Tantal 2009年5月28日 (木) 13:37 (UTC)[返信]

今回もTantalさんなどに準備の案内をしておきながら、途中で長期離脱してしまいました。誠に申し訳ございませんでした。なかなか3ヶ月以上もぶっ続けでwikipediaのプロジェクトを行うのは難しいです。今回は前回の加筆コンクールに比べてはスムーズにいけたと思います。次回はさらに上を目指しますのでご協力の方、よろしくお願いします。--ネプチューン 2009年5月30日 (土) 15:23 (UTC)[返信]

審査員からのコメント

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Tantalから

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運営委員兼任ですが、審査面からのコメントはこちらに記します。分野A・Cに限定する形になる点はご容赦ください。先日、講談社より『興亡の世界史20 人類はどこへ行くのか』が発刊されました。この本の「第1章 世界史はこれから」において、杉山正明・京都大学大学院文学研究科教授が寄稿しておりますが、杉山の言葉は、日本語版ウィキペディアにおいても同様のことが当てはまると思います。杉山は、日本における従来の「世界史」の視座は、以下の通りと記しています。

「西洋史は……(中略)……、現実には、「文明先進国たる」英・仏・独の西欧三ヵ国、ないしは必要に応じて、蘭・伊などをくわえた形での歴史とそこにおける研究を主軸とし、かつはヨーロッパの「原点」として、古代ギリシア・ローマをもうひとつの重点領域とするスタンスを基本にした。

そのさい、ギリシア・ローマはヨーロッパなのかとか、またそもそもヨーロッパは一体いつからヨーロッパなのかといった他者ならではの問いかけは、ひとまず棚上げにされた……(中略)……。そのいっぽう、イベリア半島、北欧、東欧、バルカン、そしてロシアを含めた旧ソ連諸国などについては、英・仏・独などでの文脈・まなざしを持って眺め扱う時期がかなり久しくつづいた……。[1]

とはいえ、高校卒業程度の世界史あるいは文学を知っている人にとって、分野Aのトーマス・マコーリーや分野Cのテーレポスやガブリエレ・ミュンターといった記事は当然のごとく初出であり、裏を返せば、日本語版でもこれだけ充実した記事が表現できるという研究の蓄積があったことの証左であり、まだまだ、日本語版ウィキペディアでも、研究が蓄積されている分野におい手も新規記事が開拓できるなあと感想を持ちました。

当然のことながら、今まで日本における研究において、蓄積が不十分と思われていた「Tantal流に話せば、ウォーラーステイン風だと半周縁と思われていた」、例えば、分野Aのユーゴスラビア王国あるいは分野Cのジルベルト・ジル(東欧、ラテンアメリカ)においても、むむっ、これはと気づかされる側面があり、更なる研究あるいは日本への紹介が行われれば、秀逸な記事へのステップアップが期待できると感じたのも事実です。

歴史や文化といった記事においては、日本の歴史研究(政治学研究も含めて)のお家芸の中国・韓国および古代ギリシア・ローマと近代イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカ合衆国はより進化した記事を今後も期待したいと思います。また、半周縁の内陸アジア、私のフィールドエリアである東南アジア・南アジア・中東、ラテンアメリカは新規に新規記事あるいは記事の加筆に参入してくださる方が登場して欲しいと思います(最近、インド関係の記事を書いてくださる方がいないので、悲鳴を上げているのも本音ですけど)。

オセアニア・アフリカに関連する記事は今回はエントリーがなかったので、我こそはと思う方は……。ぜひ、次回に。

長々と失礼しました。執筆、お疲れ様でした。--Tantal 2009年5月30日 (土) 00:36 (UTC)[返信]

  1. ^ 福井憲彦・杉山正明他 編『興亡の世界史20 人類はどこへ行くのか』講談社、2008年、p.41頁。ISBN 978-4-06-280720-3 

(追加)下にもコメントがついていますが、私個人のことなので、こちらで。採点基準を設けたのは、今までのコンテスト/コンクールの私の審査が結構抽象的だったという印象を自分で持っていたことから、あえて、自分に鞭を打つために、自らの採点基準を発表することで、今後の記事の発展の材料として、作成しました。自分が記事を執筆、あるいは加筆をするにあたり、この項目を満たすことが出来るかどうかを自らに今後、課すことがもともとの前提にあります。当然、採点基準は人それぞれですから、記事によっては厳しくなっているかもしれません。特に翻訳記事における情報の追加、画像を効果的に使用していることに関しては、日本のアウトサイダー・アートのような現代性が高い記事についてはハードルが高くなるのは仕方ないと思います。この尺度も十全ではないなとは思っています。今後も改善していくつもりです。--Tantal 2009年6月3日 (水) 13:33 (UTC)[返信]


Kanbunから

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皆様、おつかれさまです。とくに執筆者の皆様、すばらしい記事をありがとうございました。自分の反省点としては、今回はリアルで多忙であったこともあり、コメントや審査が気持ち的にやや後手に回った感じがありました。本当はいろいろコメントでお伝えしたいこともあったのですが、一部の記事にコメントが偏る気がしましたので、淡白に採点を示す形式にしてみました。審査員として公平性を実現しつつ、いかに記事を深く評価していくかが今後の課題です。コンテストに関わってくださった皆様に本当に感謝の気持ちでいっぱいです。反面、自分はちょっと今回はあまり貢献できなかった気もするので、また機会があれば想いを尽くしてがんばろうと思います。ありがとうございました。--Kanbun 2009年5月29日 (金) 14:42 (UTC)[返信]

(追記)皆様の反省会でのコメントを読んでいて、私の選考のポイントについては、たとえ一部の記事に偏ってもしっかり表明すべきであると思い、利用者:Kanbun/執筆コンテスト評価に詳しくコメントを書くことにしました。それが執筆者に対しての礼儀とも思いますし、執筆者の方々が本当に求めていることでもあるのだと思いました。一遍にとはいかないのですが、一週間後(2009/6/7)に終わることをめどに、順次コメントを加えさせていただきたいと思いますので、参照していただければと思います。改めてコンテスト後にも熱心に改善の努力を続けてくださっている皆様、ありがとうございます。--Kanbun 2009年5月30日 (土) 14:55 (UTC)[返信]

御門桜から

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皆様大変お疲れ様でした。今回初めて参加させていただきましたが(執筆者としてもですが)、ほかの方の記事に対してあまり否定的な意見を述べるより「この記事のこういうところがよいのではないか」というところに着目してみたところ、どの記事にも必ずいいところがありまして、特にC分野では甲乙つけがたいものがありました。できれば同一3位とかにしたい記事もありました。機会がありましたらもっと貢献できるようにがんばりたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。--御門桜 2009年5月30日 (土) 04:27 (UTC)[返信]

(追記)選考のポイントはしっかりすべきと思い、利用者:御門桜/第五回執筆コンテストに審査の際の感想を掲載致しましたのでそちらもご参照いただければと思います。「他人の悪い点はよく見えるが、良い点は見えにくい」という信条があるので、記事に対する悪い点を指摘をできるだけしておりません。いくら順位をつけたからといっても、その記事に対する良い点は必ずあると信じております。--御門桜 2009年5月31日 (日) 10:47 (UTC)[返信]

ネプチューンから

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今回もどれも質の高い記事が揃っていまして選考についてはえらい迷いました。同じ分野でも様々なタイプの記事があったもので同じ視点で審査するのに苦労しました。今回の審査基準は「興味を持って読める記事かどうか。」でしたが、これだけではいい記事といいきれない(文章が日本語的に正しいか。因果関係が成立しているか。)と投票してから悔やみました。次回は前もって皆さんに詳細な基準を発表したいと思います。最後になりましたが、エントリーしてくださった皆さんには多大な感謝の意を申し上げます。本当にありがとうございました。--ネプチューン 2009年5月30日 (土) 15:34 (UTC)[返信]

コメンテーターからのコメント

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コメンテーターとして参加させて頂きました、Arawodasです。自分のコメントについては、記事の成長の糧になってるといいなあと思いつつ、結局4記事しかコメントできなかったのが情けない。前回もそうだが、コメント期間後半になると集中力が途切れて活動が停滞するのが自分の悪癖です。要改善、自戒。部門Aの審査員が一人から増えなかったら自分が立候補しようか、などと考えていたのが今思い返すと恐ろしい。やめてよかった。後から審査員になってくれた方々、ありがとうございました。自分以外の審査員やコメンテーターのコメント、心なしか前回より厳しめのような気が。前回と顔ぶれが違うから当たり前かもしれませんが。最後になりましたが、本企画に欠かせない存在である運営委員と審査員の皆様に、深く感謝します。ありがとうございました。--Arawodas 2009年5月29日 (金) 00:02 (UTC)[返信]

Ks aka 98です。情報源を示す事が当然のものとなり、翻訳記事でも日本語文献を使った加筆が行われるようになったというのは、とても素晴らしい。加筆ではなく執筆のコンテストということもあるでしょうが、全体的な質の水準が上がった一方で、量的に大きな記事が多くはなかったということも思います。以前は、やみくもに最善を尽くすというようなところがあったとも思うのですが、きちんとまとまりのある記事を目指し、その信頼性をどう得るか、どう書くか、何を書くか、というところにコンテストの意義が移ってきたように思いました。出来の優劣はありますが、誰でも編集できる、という注釈は付けないといけないとしても、百科事典の記事として閲覧者から求められるものをクリアするということは、多くのエントリがひとまずは達成していたのではないでしょうか。

そのようななかで、記事のわかりやすさの水準については、古くからウィキペディアに参加されているみなさん、コンテストに継続して参加している常連のみなさんが力を見せ付けたように思います。これは、同時に、コンテストに参加すること、ウィキペディアに参加することの意義が顕在化したということでもあると思います。

今回は、分野のばらつきも少なく、それぞれに、「まだ書かれていないあんな記事や意外となかったこんな記事」が、成長し、改善されていくという、執筆コンテストの主旨に沿う、多くのエントリがありました。記事が気合の入ったものだと、ある傾向や分野の記事を書くことの難しさや、それを回避するためのアイディアなど、新しく気付かされること、考えなければならないことが出てきます。それらは、ウィキペディアの発展のためには、とても大事なことですから、多くの人の参加に感謝します。それから、審査やコメント付けというのも、書くのとはまた違った点で、得るものは多いです。次回は審査・コメンテーターへの立候補もご検討いただければ。--Ks aka 98 2009年5月31日 (日) 13:25 (UTC)[返信]

執筆者からのコメント

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アイシング (冷却)神戸居留地競馬で参加した廉です。皆様お疲れ様でした。初めての執筆コンテストでしたが、大変楽しく参加できました。普段執筆しない分野の記事にも一定の評価を頂き、さらにこれまで気付かなかった執筆の癖を指摘して頂くこともできました。後者については記事の成長・発展という主旨とは別に、執筆者にとっては執筆スタイルの点検ができるという点でも意義のある催しだということを実感しました。次回もいい題材が見つかれば是非参加したいと思います。-- 2009年5月27日 (水) 23:32 (UTC)[返信]

性決定で参加いたしましたJanus01です。運営委員・審査委員・コメンテーター・他の執筆者の皆様、それぞれに様々なご尽力を頂いたことにお礼申し上げます。今回、同じB分野の付加体をはじめ、興味を持って読むことができる質の高い記事が、全分野に揃っていたと感じております。性決定について高い評価を頂いたことは大変光栄であると素直に喜んでおります。しかしながら、これは誰でも知っているようで知っていない身近なことに関連する題材が未執筆で取り残されていたこと、たまたま近年の研究成果に関する記事が3つの雑誌で特集を組まれていたこと、丁寧なアドバイスを下さる方がいらっしゃったこと、と執筆能力以外の要因も強く影響していたと考えております。改めて他の記事を振り返り、資料集めが難しいと思われるような項目でも丁寧に記事を作成していただいた他の執筆者の方々のご苦労に改めてお礼を申し上げたいと思っております。--Janus01 2009年5月28日 (木) 15:45 (UTC)[返信]

香川県立亀鶴公園で参加致しました御門桜です。皆様お疲れ様でございました。また初めて参加させていただきまして、何かと(特に「工事中」を貼るかどうかの議論を見落とした点)ご迷惑をおかけいたしました。どこまでをソース(出典)としていいのかという点で躊躇した点や、自分では充分に調べたつもりであっても抜けがあったり、コメントではじめて資料が足らないことが分かったりと、大変有意義な物となりました。他のA分野の記事を見ると「よく調べているな~」と感心致しました。次回機会がありましたら是非頑張りたいと思います。コメント等で指摘いただいた皆様、他の執筆者の皆様、記事を読んでいただいた皆様に改めて御礼申し上げます。--御門桜 2009年5月28日 (木) 17:24 (UTC)[返信]

ガブリエレ・ミュンターで参加しましたRisenjudasです。執筆者並びに運営委員、コメンテーターの皆様、本当にお疲れ様です。今回初めての春の執筆コンテスト参加となりましたが、自分にとって非常に有意義なものになったと思っています。というのは、コンテストとして締切が定められることで時間的目標を持って一定の記事に仕上げることができ、また記事への客観的なコメントが得られ、記事自体の質を高めていくことはもちろん、今後新たに執筆編集をしていく上でも重要な示唆を得ることができたと切に感じているからです。Wikipedia執筆歴はまだ若干半年のペイペイではありますが、こうしたイベント参加を目標に記事執筆のモチベーションとすることとができました。今後も積極的に参加してみたいと思っています。ありがとうございました。--Risenjudas 2009年5月28日 (木) 20:01 (UTC)[返信]

寺田宗有で参加しました、みっちです。これまでC分野で書いてきており、今回競争の激しいA分野に挑戦したわけですが、やはり壁は厚かった、というのが率直なところです。

「剣禅一如」という言葉もあるように、剣と禅は結びつきが深く、本記事もその典型例のひとつです。寺田がどのようにして禅と出会い、「天真」と号するようになったのか。個人的にもこのあたりをよく知りたいと思って、図書館で資料探しもやりましたが、不慣れなこともあり、不十分な結果に終わりました。とはいえ、関連する高柳又四郎平常無敵流の情報が入手でき、今回合わせて立項したことで「中西道場の三羽烏」が全員記事化できたのは収穫でした。選考で「文章が魅力的」と評価されたことはとくにうれしく、ありがたく思っています。

同じ分野の記事にコメントすることは中立性を欠く不安があり、これまで差し控えてきたのですが、今回は思い切ってやってみました。当たり障りのないことをいうより、同じ「書き手」として多少辛辣になっても率直に批判した方がよいと思い、厳しい注文ばかりならべてしまったかもしれません。この場を借りてお詫びします。また、個人の限界からA分野の全記事を読み込むには至りませんでした。この点、審査員のご苦労はいかばかりかとお察しします。しかし、執筆コンテストに記事をエントリする目的は、記事がどんな風に読まれるのかその感想を知りたい、また記事をより充実させるためのアドバイスをもらいたいということではないでしょうか。審査員を買って出たからには、執筆者のそういう期待に応えるためにも記事を育てる立場からも、エントリ記事へのコメントを、あえていえば採点より優先してもらいたいと思います。

新規項目はネタ切れで、エントリ参加はこれで最後になるかもしれませんが、意義のある催しであり、今後もなんらかの形でつながっていければと思います。コンテスト参加者のみなさん、お疲れ様でした。--みっち 2009年5月29日 (金) 09:49 (UTC)[返信]

トーマス・マコーリーS kitahashiです。最初に、昨年の件でおわび申し上げます。審査員をやると手を挙げておきながら逐電してしまいました。忙しかったことと思い出した時には終わっていたことが理由ですが、今更出て行きづらく、謝罪するタイミングを逸してしまいました。申しわけありませんでした。

点数はともあれ、コンテストは自分自身の書き方を他の人がどう受け取るかの擦り合わせの場と考えていました。いただいたコメントは、今後の投稿にも役立てようと思います。ありがとうございました。

今回のトーマス・マコーリーでは、以前から「こうしてみたらどうだろう」を実践してみました。箇条書きで書いてみます。

  • 翻訳時の脚註の区別:自分で史資料を見て入れた註と、英語版にもともとあっただけで読んでいない本の註は、区別したほうがより望ましいのではないかと思いました。で、註にはそれと分かるように明記しています。
  • 註の使い方:補足説明にしろ検証可能性を満たすためにしろ、全ての註に出典を入れるようにしました。補足説明のために註を使うことに賛否あるようですが、この方法で特に不都合はありませんでした。
  • 生涯からの抜き出し:記事の中には「概要」or「生涯」etcで大半の字数を使っているものが時々あって、抜き出したら分かりやすいんじゃないかと思っていました。「生涯」はさくっと終わらせて、以降の節でそれぞれを述べる形がいいのではと。しかしこれは、コメントでいただいた通り同じトピックを別の場所に書くことになる危険もあると認識させられました。
  • 自己バイト数制限:全体で30,000、註が多いなら本文のみで25,000バイトにおさめようとしました。周知の通り完全に失敗しています。バイト数制限をするのは経験上、全体を見通せて辻褄合わせがしやすいことと、読み手への負担軽減が期待できるというメリットがあります。当初倍以上あったのを削ったのが初版です。とはいっても削る作業はきついです。私の場合「これは書きたい」等の愛着や思い入れが強いと、いきおい長くなりがちです。そして削りきれなかったということです。
  • 固有名詞の排除:人名地名等はなるべく触れないようにしました。知らない人名地名が沢山出てくると読むのが大変だったりした覚えがあります。しかしこれも、うまくいったとは言えません。
  • JPOV対策:JPOVは間違っているとはいえない一方、海外のトピックを扱う場合に日本国内でどうなのかを説明してもいいんじゃないかとも思えました。そこで「日本では」じゃなく「日本語圏では」で説明する方法をひねり出しました。日本語版だから日本語圏の話をするのは、問題なしとは言わないまでもちょびっとだけでも緩和されるんじゃないかと、…まあ、へりくつですけど。

他のエントリ項目にコメントしなかったのは、精読するところまでできなかったためです。その点がいささか心残りです。--S kitahashi(Plé) 2009年5月29日 (金) 11:06 (UTC)[返信]

国鉄マニ36形客車で参加しました福11です。今回はエントリ時のコメントにもあるように「分散して見づらくなっている記事はまとめてしまおう」ということで起筆してみましたが、実物が存在しないものをどう解説するかや参照した文献(専門書)の記事はどう噛み砕くかという点で課題を指摘されてしまいました。コンテストはこれで終了しましたが内容の改善や拡充は「終点のない列車」のごとく細々とでも継続していこうと思います。本コンテストに携わられた皆様、お疲れ様でした。--福11 2009年5月29日 (金) 11:21 (UTC)[返信]

ジルベルト・ジルで参加しましたIkespiritです。皆様、お疲れ様でした。非英語圏のポピュラー音楽に関しては、今後も日本語版の課題と言えるでしょう。私は、日本語以外は、英語が読み書き・日常会話を一通りできる程度で、ポルトガル語は辞書なしでは全く読めないにもかかわらず、ブラジル音楽が好きな一心から頑張ってみました。ポルトガル語をもう少し勉強していれば、本国の文献やウェブサイトも参考に、より日本語の記事として深みのあるものができたかもしれませんが、それは私自身にとって今後の課題としていきます。--Ikespirit 2009年5月29日 (金) 18:34 (UTC)[返信]

アメリカ合衆国の経済史で参加した龍伯です。運営や審査・コメントにあたって頂いた方々お疲れ様でした。執筆コンテストの方は今回初めての参加でしたし、テーマもさることながら、母体にした英語版が大きかったので最終的にどのような形になるのか構想ができていないままの参加になりました。思わぬ伏兵(失礼!)Wushiさんの加筆も頂いて、初稿から5割増しという大きさになり、体裁については色々とコメント頂いたように課題を残してはいますが、内容的にはかなりのものが盛り込めたなと思っております。執筆期間が2ヶ月ありましたので、周辺記事を補いながら走り抜けて勉強(私の場合は研究領域まで踏み込めてはいません)できました。この期間設定は適当だったと思います。集団エントリーについては、テーマ次第で自然発生的に集団となったわけで、Wikipediaの記事作成のあり方としても望ましいのではないかと思います。成果を残せた一つの形として評価して頂けたらと思っております。他の記事や執筆者コメントにも参考になるものが多々あり、今後の執筆に活かしてまいります。--龍伯2009年5月29日 (金) 23:23 (UTC)[返信]

ハイデルベルク城で参加した汲平です。執筆コンテストには第壱回から参加しておりますが、今回は躊躇しました。第一に当初運営委員の方でコンテストの趣旨を勘違い、あるいはねじ曲げようとなさっておられた方がいらっしゃった点。この点については、ご当人が辞任なされ、その後無期限ブロックで審査員も解任されたのですが、当初は参加をためらう原因の一つでありました。第二に翻訳記事での参加があまり歓迎されていないのではないかという点。翻訳記事は「ただ訳しているだけじゃないか」という感想を抱いている方が多いようで、実際にそう言われたこともあるのですが、紹介するに値する記事を探し、外国語を読み解き、その国では当たり前で説明が省かれている部分を補い、関連する他の記事にも目を通して、その言語では独立記事になっているものの日本語版ではそこまでのエピソードではないと判断した場合にはその記事からも翻訳して記事に差し込み、冗長な部分を削り、自然な日本語として提供する、というプロセスは、いくつかの文献を見渡し、取捨選択してまとまった記事にする通常の記事の作業と労力において何ら違いのない作業です。常々、翻訳記事が軽く見られがちな傾向にあることに少し疎外感を抱いていたのですが、今回分野Cで高い評価を戴いたことで報われたように思います。この記事に審査員の方から高い評点をいただけたこと、評点を戴けなかった審査員の方からも「内容面だけでいえば、圧倒的にハイデルベルク城だったのですが」とのコメントを頂戴できたことは大きな励みです。引用についてのディスカッションがありましたが、私は参考文献がきちんと挙げられているのであれば、特別なトピックについては別として、そうではない内容の一つ一つにまで<ref>を記して行く必要はないという考えを持っています。あと、Kanbunさんが上で「本当はいろいろコメントでお伝えしたいこともあったのですが、一部の記事にコメントが偏る気がしましたので」と書かれていらっしゃいますが、一部の記事に偏ろうともコメントをいただけた方が、当該記事のブラッシュアップにも、当該執筆者(に限らずそれを読んだ他の人達も)の今後の執筆に際しても有意義なのですから、ぜひコメントをご発表下さいますようお願いします。長々と書いてしまいましたが、最後に運営委員の方々、審査員の方々、執筆者の方々、それから特に私がドイツ語版Heidelberger Schlossの巨大さに諦めかけていたところを激励下さった方々に深く感謝致します。 -- 汲平 2009年5月30日 (土) 04:17 (UTC)[返信]

テーレポスで参加した月下薄氷です。運営委員の方々をはじめ皆様お疲れさまでした。テーレポスは初参加で執筆するにしては異伝が多く、まとめるのが困難であったため、期限ぎりぎりまでエントリーするか悩みました。そのため酷評されることは覚悟していましたが、いくつか前向きなコメントをいただけたことは幸いでした。また疑問点や改善点も示してくださり、記事の改善とともに自分の説明不足あるいは省略癖という問題点をはっきり自覚でき、勉強になりました。最後まで文献の調査が進まずに未執筆に終わったものとして神話的類型などがあるのですが、今後の調査で補っていけたら、と思います。なお、Kanbunさんから高く評価していただいたことは全く望外のことで、大きな喜びでした。貴重な時間を拙稿に目を通すのに割いてくださった方々には本当に感謝の念が絶えません。ありがとうございまいた。--月下薄氷 2009年5月30日 (土) 05:34 (UTC)[返信]

こんばんは、付加体で参加したMiya.mです。第ゼロ回執筆コンテストかふしまつり以来、執筆・加筆コンテスト皆勤です。このようなコンテストは「良い記事を増やそう」という楽しいお祭りと考えています。ですので今回はB分野においてもたくさんの執筆者が参加されて有意義なコンテストになったと思います。個人的には「Interesting」な記事を目指しています。これからも「おもしろい」「好奇心を満足させる」記事を執筆したいと考えています。コンテストも楽しい雰囲気が続くことを望みます。最後に全ての関係者の皆さんお疲れ様でした&ご参加ありがとうございました。Miya.m 2009年5月30日 (土) 16:30 (UTC)[返信]

皆様本当にお疲れ様でした。審査員の方もさぞ大変だったでしょう。

私は私事でブレイクしてしまい、書き途中で放棄するという最低の事態で終わりました。ある意味いたずらに等しく見えたかもしれません。私は途中まで頑張りましたが、勢場ヶ原の戦いを放棄したり、後から記事を追加したりして、落ち着かず、皆さんから酷評されるもんだと思っていました。しかし、予想通りだった面もありますが前向きコメントもあり、とてもよかったです。コンテスト事は初めてで、どうなるのか知りませんでした。 これから頑張りますので、どうぞ宜しくお願いします。私は何に関してもコメント大歓迎です。--蚯蚓 2009年5月31日 (日) 08:41 (UTC)[返信]

Mobnoboka です。日本のアウトサイダー・アートという記事で、参加いたしました。今回ちょっと困つたことがありまして、それは、画像がすくないという指摘です。一番いいのは、それぞれの作品、作家の画像を適宜つけていくことですが、それがかなり難しいことはコメントの場で申した通りです。それで、画像の提供もあって(Freetrashbox さん、ありがとう)、記事に関連する機関の建物の写真をつけたのですが……、本来ならこれは、記事の質を必ずしも向上させるものではありません。ただ、華やぎの助けとなるだけです。記事の見た目だけの話です。これは、記事の欠陥なのでしょうか。わたしは、画像が少なかつたことは、仕方のないことだつたと思いますが、そこを評価するときの要素にいれられるかたがみえたのを見て、困惑した次第です。

とまれ、有意義な指摘もたくさん出てきましたし、今回も参加できてよかったです。宣伝ですが、{{第五回執筆コンテストエントリ記事}}を使って、是非記事へのコメントをコンテストに興味がない執筆者の方にも知らせてください。最後に、Nopira さんとのりまきさん、特にのりまきさんには大変お世話になりました、そしてこれからもお世話になることがあるかもしれません、よろしくおねがいいたします、って、ここで言うのもあれですけれど。--Mobnoboka 2009年5月31日 (日) 11:07 (UTC)[返信]

(コメント)審査員ではありませんがコメントします。まず、画像が充実しているかどうかを評価の一要素とすることは別に問題ないと思います(今回、画像がないから評価に値しない、という極端なスタンスで選考をされた審査員はおられなかったと思います)。また、日本のアウトサイダー・アートで扱われている芸術は専ら視覚に訴えるものを指すように思えます。主題との関わりから、著作権の問題が絡んでいるとはいえ画像が少ないということが「改良の余地を残している」と評価されるのはやむを得ないことではないでしょうか。ちなみに過去には画像が全くない記事が入賞したこともあります。-- 2009年5月31日 (日) 12:10 (UTC)[返信]
画像について、その難度はジャンルによるのではないでしょうか。西洋史の分野だと現地の方々等に頼らざるを得ず、自力で画像をどうにかするのはほぼ不可能です。努力の余地が実質上ないところで改善の余地ありとされるのは厳しいものがあります。--S kitahashi(Plé) 2009年5月31日 (日) 13:01 (UTC)[返信]
審査の対象は執筆者ではなくあくまでも記事ですから、「記事に改良の余地あり」とすることは別段問題ないのではないでしょうか。-- 2009年5月31日 (日) 13:14 (UTC)[返信]
すいません、「審査の対象は執筆者ではなく」とは何のことでしょうか??いずれにしても、commonsにあれば画像は使いますが、ないものはどうしようもないのが実状なのではないかと、私などは思ってしまいます。commonsで活動されている方々の成果と、記事のコンテストの採点基準は別物というのが私の考えですが、これはおそらくどこまでいっても平行線ぽいですね。--S kitahashi(Plé) 2009年5月31日 (日) 13:23 (UTC)[返信]
(コメント)図版は華やかさだけではなく、具体的な様態を示し、あるいは、そのものではなくとも、時代やその空気を伝えるものだと思いますよ。作品そのものは難しいとしても、同時代的なものであればflickrで(日本ものは少ないけど)、著作権切れの時代なら図版を多めにあしらった資料からスキャンして、という手はあります。使える図版探しというのは、それはそれでなかなか楽しい(エントリがまったく間に合わなかった前回加筆コンテストの準備で経験しました)。「執筆」というと、本文のことと捉えがちですが、「記事」というならば、使える写真を探すこと、適切な図版を作ること、その配置なども含まれるでしょう。コンテストの方向付けを考えるということは、検討してもいいのかもしれません。今のコンテストは、記事すべてが判断の対象となる方向にありますが、文章の執筆に限定したり、以前あったように写真や画像の部門を作ることもできる。あるいは、分担し協力することを期待して、今の路線を続けることもできる。--Ks aka 98 2009年5月31日 (日) 13:27 (UTC)[返信]
さて、「本来ならこれは」の「これ」は、「記事に関連する機関の建物の写真」を指すことを補足しておきます。ただ、他の記事においてきれいな写真、画像のあることへの讃辞が多くみられたため、以上のコメントを載せました。少なくともこの記事では、画像によって質を向上させることが難しくありまして(Ks aka 98 さんの同時代的というのはヒントになりそうです)、画像がないことが±0 ならいいんですが、点数が辛く付いたこと(名指ししないことは逆に失礼ですね、Tantal さんとKanbun さんです。というか、おふた方が採点基準を公表されたことは、称賛に値すると思います)について、どうも難しいな、と。でも、選んだ題材の所為だ、ということで諦めることにします。--Mobnoboka 2009年5月31日 (日) 13:41 (UTC)[返信]
(インデントを戻します)皆様お疲れ様です。Kanbunです。名指しでコメントを頂いたので返答いたします。Mobnobokaさんのおっしゃっていることは全く私にもわかるので、その点についてはもしかすると理不尽な要求に見られてしまったかなと思って、自分の迂闊さに気づきました。私が思っていたことはこういうことです。同時代の画像が少ない場合、多少記事の本筋から外れるように見えても、記事内の関係人物や関係作品、関係する時代状況の分かる写真や絵などにまで手を広げて載せてみてはどうでしょう(川端康成の写真を載せてしまうとか、現在の大丸の写真を載せてしまうとか)。あとは画像の大きさを大きくしてみるとか。これがウィキペディア的にスタンダードな手法ってわけでもないでしょうし、画像の大きさについては議論のあるところですから、それがいいとは必ずしも言えないんですけれど、記事として見た時にそういう工夫がほしいかなと思ったのが本音です。これは求めすぎといわれても仕方がないレベルなのですが、しかし採点をしているときに差を付けていく時、一方で粗探しに似た視点にもなってしまって、その時気になったというのが私の事情です。それから題材についてですが、私は今回、実質的にA分野で題材によって差を付けたということもあり、また「新規記事」を考えた時に題材というのは一方で抜けない問題でもあることは事実です。しかしそれでも題材は評価の一部であり、評価の全てにはしていません。なので、題材によって全てが決まってしまったわけではないということだけ、どうかご理解ください。内容だけ見れば日本のアウトサイダー・アートは秀逸記事と比べても遜色ないと私も思いますし、多くの人が思っているはずです。目次構成も工夫されていますし、外部リンクで絵画についても実際にアウトラインが確認できるよう配慮されていますし。あと私がテーレポスを高評価にしたのは画像の量ではなくて、むしろその使い方で高めにしたということもお伝えしたいです。たとえばアメリカ合衆国の経済史は画像も多く、その質も素晴らしいのですが、画像配置ですこし難を感じたので評価を低くしました。こういった評価姿勢へのご憤懣についてはよく理解できます。でもそれでも自分はそういった面も評価に加えたいと思っているということを、少しでも理解していただければと思います。--Kanbun 2009年5月31日 (日) 14:42 (UTC)[返信]

富山の売薬を執筆しました。途中で忙しくなって長期間にわたってウィキブレイクせざるをえなくなり、かじりの部分しかかけませんでした。文献は前回の秋の加筆コンテストと同じものを使ったのですが、内容をマニアックすぎて必要な文章とそうでないのを分けるのに時間がかかりました。また、画像は地元の製薬工場を見学して関連物を撮影しようとしたのですが、家から遠くて実現しませんでした。あと、他の薬に関する記事と内容が違う部分もある事に気付かなかったことは反省すべき点でした。不完全燃焼なので次回の加筆コンクールもこの記事でいきたいです。--ネプチューン 2009年5月31日 (日) 12:19 (UTC)[返信]

公示地価で参加しました。まず、類似の項目の例が見当たらず、ほぼ一から立ち上げることの難しさを思い知らされました。この記事の今後の課題としては、コメントでも指摘のあった地価公示法との「分担」が第一となると思っています。次に分野に疎い方にもわかるまとめ方ということもさらに考えていきます。他の参加項目では、日韓通信業務合同が、出典提示の粗さや「弱冠30歳」とかの表現が残るという点を差し引いてもまとまっており、今後の成長の可能性も感じます。こうして執筆の結果を他の方の批評にさらすというのは貴重な機会です。私は特に忙しかったわけではないですが、コンテスト期間中時間を確保することの困難さも直接「経験」しましたが、次の機会も参加させていただきたいと思います。--O fudo 2009年5月31日 (日) 12:29 (UTC)[返信]

悪魔を憐れむ歌をエントリーした者です。関わられた皆様に御礼申し上げます。特にこの執筆コンテストは忌憚無いご意見を賜れる場として、今回も多くの糧を戴きました。なお、下の「次回のコンテスト/コンクール開催における改善案>翻訳記事の扱いについて」で意見交換が為されているご様子。今回のエントリー記事も基本的には翻訳記事ですが、少々変わった事をしていますので、ご興味があれば履歴をご参照下さい。翻訳という範疇に限らないある意図を持っていますが言及するまでには至りませんので、何らかの参考程度にでもなれば幸いです。--Babi Hijau 2009年6月6日 (土) 21:53 (UTC)[返信]

次回のコンテスト/コンクール開催における改善案

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皆様お疲れ様でした。2点申し上げます。

  • 結果的にはほぼ全ての選考が期間内になされたものの、選考期間がやや短かったように感じました。コメント期間(特に短すぎるとも長すぎるとも感じませんでした)が11日で土日が2回含まれていたのに比べ、選考期間は7日・土日1回です。次回は選考期間も土日を2回含むようにするのはいかがでしょうか。
  • C分野において、コメント期間中にコメント付与を行わず、さらに選考においてもコメントをつけずに採点(順位付け)だけ行った審査員がおられたようです。審査をされる以上は、せめて選考時に上位に順位付けした記事について評価できた点を述べるくらいのことは行うべきではないでしょうか。根拠が全く不明である審査には説得力がなく、場合によっては審査結果全体の説得力をも損ないかねないと思います。個人的には今後、コメント期間中にも選考時にもまったくコメントをつけない審査員の採点は無効というルールの導入を検討して頂きたいです。-- 2009年5月27日 (水) 23:32 (UTC)[返信]
  • さんと同じく、選考期間が(個人的にはコメント期間も)短いと感じました。次回からはコメント及び審査期間を調整願いたいです(期間を長くして「だらだらやればいい」という意味ではありません)。--御門桜 2009年5月28日 (木) 17:05 (UTC)[返信]

運営委員、審査員の皆様、お疲れ様でした。今回は大きなトラブルもなく、滞りなくコンテストを終了できたと思います。以下何点か申し上げさせていただきます。

  1. wikipediaメインページ(トップページ?)での告知が不親切であると感じています。運営審査コメンテーター参加が少ない、というのはコンテストの根幹に係わる切実な問題だと思いますが、参加者を増やす第一歩は敷居を低くすることだと思います。
  2. 現状のままの運営委員数・審査員数では今回くらいの数の記事エントリーを審査するのが精一杯限界だと思います。コンテストの敷居を低くすることは大事だと思いますが、運営委員、特に審査員を増やすことが必要ではないでしょうか。
  3. しかしただ審査員を増やせば済む問題でもありません。上で廉さんも指摘しておられますが、審査員である以上、たとえ一言でも各々の審査分野エントリー記事へのコメントは欲しいです。多くの記事にコメントを付けること、審査をすることが非常に大変な事は承知しているつもりです。しかし、コメント付与期間も終わって審査期間最終日になって突然審査員コメントを付けて頂いても改善を検討できませんし、ましてや決められた審査期間が終了した後に何のコメントもなしにのこのこ点数を付けるような審査には何の意味もないと思っています。前回の加筆コンでコメンテーターとして与えられた投票権を棄権してしまった自分の言うことではないとは思いますが、重みを持って審査に参加できないようであれば、まだ棄権された方がよいと思います。現実生活が忙しいのは誰しも同じです。今回、自分は前回の反省を生かし無理のない参加をしたつもりです。審査員の方には「一日一記事にコメント」など、無理せず計画的に、しかし確実に参加していただきたいです。…と、こんなことを書くと更に審査員立候補への敷居が上がってしまいますね。無礼な言葉をお許し下さい。
  4. コンテスト自体、善意の有志のお祭りごとである、とは一応理解しています。しかし完全な内輪イベントではなく、wikipediaメインページで長期に渡って不特定多数の利用者全体に告知している現状、ある程度公的性格を帯びているのも確かです。その意味では、ABC-0123さんの指摘もあながち間違ってないかなとも思います。(彼の行動を擁護しているわけではありませんよ。)期日に対して分単位で対応せよ、とは言いませんが、日程について非常になあなあです。今回特に腑に落ちなかったのは、審査期間が終了しているにも関わらず投票された審査に関して、なんの議論もなく結果に反映されたことです。理念からすれば、繰り入れてもいいのかもしれませんが、それでは何の為のルールなのでしょうか? 運営委員間にもその点に議論があったようにも見えないことに驚いています。3位を付ける、という点も突然でした。
  5. 4.で自分が言いたいのは、「ある程度公的性格を帯びたイベント」なのですから「ルールに従う形で」運営がなされるべきだということです。柔軟な姿勢を失うべきではないとも思いますが…兼ね合いが難しいところです。
以上です。ところどころの無礼をご容赦ください。コンテストが更によいものになっていくことを一参加者として願っております。関係諸氏の皆様には感謝しております。お疲れ様でした。--Risenjudas 2009年5月28日 (木) 20:56 (UTC)[返信]
  • 審査期間が終了しているにも関わらず投票された審査が結果に反映された件についてですが、幸い(?)なことにそのような投票がB分野でもC分野でも入賞した記事の組み合わせに影響を与えなかったことから、どうしようか迷ったのですが何も言いませんでした。しかしC分野について言えば、1位と2位が入れ替わったことは事実です。今後のためにここではっきりさせておいた方がいいかもしれません。Wikipedia‐ノート:執筆コンテスト/第五回執筆コンテストで提起してみます。-- 2009年5月28日 (木) 22:07 (UTC)[返信]

運営に関して、いくつか。

  1. まず苦情を申し上げなければなりません。魚津城の戦いの参加資格について、議論が終結していない(運営委員の意見さえ集約されていない)段階で参加を謝絶するメッセージを送り、その後の議論で「賛助参加」扱いとする結論が出てからもそのことは報告せず、結果として執筆者さんには「参加を断られた」以上の情報は何も伝わっていませんでした。一歩譲って謝絶メッセージを送ることが当時妥当だったとしても、Miya.mさんの提案が出た時点で議論が継続中であることを伝えるべきでした。このことと当該執筆者さんの活動停止の因果関係を論じる気はありませんが、一般論として申し上げると、今回のような対応は執筆者の意欲を削ぐに十分です。本件の存在がある以上、今回の運営がトラブルなく順調であったとする見方には賛同しかねます。次回以降は、参加資格のような重要な事項は慎重に、かつ緊密に連絡して頂きたいと思います。
  2. ライバルコメントの及ぶ範囲について。執筆者の中には他部門の記事にコメントするためにわざわざコメンテーター登録した方がいらっしゃる一方で、部門を飛び越えてライバルコメントを寄せている方が複数おられ、それについて運営委員からは何ら意見は出ていません。今回はともかく、次回以降のルールをどうされるおつもりでしょうか。私論を申し上げますと、「ライバルコメントは全部門に対して可能」にするか、次項のようにコメンテーターの登録自体を廃止してしまった方がいいと思います。ライバルコメントを同一部門のみとするならば、部門を飛び越えたライバルコメントに対しては運営委員が逐一注意を与えて禁止を周知するべきですが、おそらくそんなことをしても誰の利益にもならず、運営委員の負担が増えるだけでしょうから。
  3. コメンテーターの登録制について。今回は却下されましたが、改めて登録制廃止を提案します。審査に参加しないなら問題ないはずです。前項ライバルコメントの問題もこれで一挙に解決できます。
  4. 審査員(登録制を維持する場合はコメンテーターも)の登録期限について。今回は記事エントリー締め切りと同時に立候補を締め切りましたが、前回以前はコメント期間終了時が期限でした。これは前回以前に戻した方がいいと思います。というのも、今回の期限だと参加記事数が確定していない、各記事も審査対象版が確定していない段階で審査員をやるかやらないかを決断しなければならないからです。「参加記事数が少ないから忙しいけど審査できると思って引き受けたら、駆け込みエントリーが続出して地獄を見る」とか、コメンテーターなら「コメントしたい記事がないと思って参加を見送ったら、期限ぎりぎりの編集で大成長した記事を見つけたけど登録期限を過ぎているので見送るしかない」みたいなことが起きたら、それは不幸なことだと思うのです。
  5. 二回続けてコメンテーター登録しながら何一つ発言していない某氏について。迷惑にもほどがあります。
  6. 賛助参加について。これは今回だけの特例でしょうか。それとも次回以降も継続されるのでしょうか。
あ.今回のみ。次回以降は資格外は門前払いする。
い.建前上は資格外はお断りとするが、今回のような勘違いエントリーが発生したら適用する可能性はある。
う.制度として盛り込み、最初から「賛助参加として」参加することを可能にする。
私論としては「い」です。
一部私情が混じりましたが、以上です。--Arawodas 2009年5月29日 (金) 00:02 (UTC)[返信]

運営委員より、以下の問題が常にコンテスト/コンクールに付きまとってくるので、節を分節化して次回につなげたいと思います。他に、改善点があれば、適宜、新しい節を設けてください。また、それぞれの意見は、それぞれの下の節でお願いします。話の見通しがすっきりいたしますゆえ、ご協力お願いします。--Tantal 2009年5月30日 (土) 00:48 (UTC)[返信]

期間について

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  • コメント付与期間、選考期間がやや短めだという指摘がありました。カレンダーとにらめっこしながらになりますが、土日を2回含む14日程度が適切であるという意見ですね。--Tantal 2009年5月30日 (土) 00:48 (UTC)[返信]
  • 選考期間についてですが、本来の期限を過ぎた後の審査を認めてよいのかどうかが問題になっています。なるべく多くの審査がなされた方がよいという考え方もあるでしょうが、執筆者からすれば期限を守れない審査員の審査を快く受け入れがたい(厳正な審査とみなしにくい)面があるというのもまた事実だと思います。対策を2つ考えつきました。1つは期限を過ぎた審査は無効と厳格に運用する案、もう1つは期間の終了を「○月×日以降、運営委員が終了を宣言するまで」と予め曖昧にするという案です。-- 2009年5月30日 (土) 02:19 (UTC)[返信]
  • 具体的な日数を言えば、土日を2回含む15日程度なら、コメント期間+審査期間でおおよそ1ヶ月程度になるかと思います。いずれにせよ期限をのばしていただければありがたいなと思います。さんが書かれている「○月×日以降、運営委員が終了を宣言するまで」でも良いですが、○月×日以降の部分を余裕のある日程にできればそれはそれでありがたい話です。Wikipedia‐ノート:執筆コンテスト/第五回執筆コンテスト#選考期間が経過した後の審査の有効性についてに審査期間についてのコメントを記載させていただきましたので併せてお伝え致します。--御門桜 2009年5月30日 (土) 05:08 (UTC)[返信]
  • Wikipedia‐ノート:執筆コンテスト/第五回執筆コンテスト#選考期間が経過した後の審査の有効性についての方に書こうかと思ったのですがこちらに書きます。まず最初に、今更決定した審査結果を差し戻せとか言うつもりは毛頭ないことを申し上げます。次回から延長などのスケジュール変更等、執筆コンテストに関係する連絡事項は告知していただければと思います。--御門桜 2009年5月30日 (土) 17:32 (UTC)[返信]
  • 今回、問題を起こしたので強くは言えないのですが、審査とコメントはともに2週間欲しいです。コメントも審査もはなるべく細かいところまでやりたいのですが、土日ぐらいしかまともにできないので土日1回では限度があります。次回以降はそのようにしていただければありがたいです。--ネプチューン 2009年5月31日 (日) 12:25 (UTC)[返信]
  • 審査もしたことあるという立場で。コメントを付け切ることさえできれば、選考はそれほど時間がなくてもできるような。今回から執筆の期間が延びたこともあるので、全体の進行として長期化してもいいのではないかという空気が漂っているのかな。それはそれで、よいと思います。選考期間後の審査については、期間中に延長申請または状況説明して、運営委員が判断、でもいいと思います。あと一日…とかなら、まあいいやと思うし、断りもなくということなら審査員エントリ無効ということで。--Ks aka 98 2009年5月31日 (日) 13:39 (UTC)[返信]
  • せめて土日を2回含む14~15日間ということでお願いできればと思います。ただし「ただ期間を延ばしてだらだらやっても良い」というのは除きます。--御門桜 2009年5月31日 (日) 13:52 (UTC)[返信]

コメンテーター制度について

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  • 選考に携わらないとはいえ、この方のコメントが今後の記事の改善につながる点を考慮すると、次回以降は廃止が適切ではないかという意見です。--Tantal 2009年5月30日 (土) 00:48 (UTC)[返信]
  • コメンテーターについてですが、記事を読んでコメントしていただけるぐらいであれば、どの記事がよかったか順位をつけられる程度には読まれているのでしょうね。としたらできるだけ審査に加わってもらえた方がよいのではないか、とも考えます。しかし、突然何かのアクシデントで審査できないこともあると思いますので、その場合は何らかの形で告知するか、審査されない場合は棄権したものと見なすのか、柔軟な対応ができればと思うのですが、いかがでしょうか。ぱっと思いつきで書いたので的外れならすみません。--御門桜 2009年5月30日 (土) 04:48 (UTC)[返信]
    • コメンテーターの場合、全部の記事を読めるかどうかわからないがコメントを付与したいと考えて参加される方もおられると思うのですが、原則審査に加えるというのは全部記事を読めと言っているに等しいので、そういう方を萎縮させてしまう(コメンテーターの敷居が高くなってしまう)かもしれません。一方今回のコンテストを振り返ってみて、審査にも加わって頂きたいと思うほど積極的にコメントを付与されていたコメンテーターがおられました。そういう方が自ら希望される場合には審査に加わって頂いたほうが審査の質(執筆者から見た場合、審査に対する信頼性)は確実に向上すると思います。例えばコメント期間中に一定以上(例えばその分野のエントリー記事の半分以上)のコメントをつけたコメンテーターがコメント期間終了までに希望すれば、審査員になることができるといった制度は可能であれば導入して頂きたいです。-- 2009年5月30日 (土) 05:15 (UTC)[返信]
    • 確かにすべてを読めというのは厳しいかもしれません。ですので、 さんの「例えばの案」(長いのでこう記載させていただきます)について賛同いたします。その場合の課題が、せっかく熱心にコメントをしていただいたにもかかわらず、
  1. 2009/3/1 0:00までにユーザー登録が行われている。
  2. 2009/3/1 0:00までの全名前記事空間での編集回数が100回以上。
  3. 2009/3/1 0:00までの記事空間編集回数が50回以上。
という条件を満たす事ができなく、審査員になれなかったという事態が発生する可能性があります。この点をどうするかについては、もし、次回この「例えばの案」が採用されるならば編集回数条件と「例えばの案」の兼ね合いを議論し、「コメンテーターと審査員の制度」をもう一度見直すべきだと思います。--御門桜 2009年5月30日 (土) 09:17 (UTC)[返信]
    • 権限の調整が難しい役割ですが、軽くコメントしたい方から重箱の隅をつつくぐらい辛口でコメントしたい方までいらっしゃるので廉さんの案が最適ではないかと思います。--ネプチューン 2009年5月31日 (日) 12:29 (UTC)[返信]
  • 「全部の記事を読めるかどうかわからないが」という理由でコメンテーター参加でした。過去にはエントリ可能な期間は気付かなかったとか、人が足りないで声をかけたとかいうこともあったかと記憶します。半分とか2/3とかに対してコメントをつけたら審査資格ありというのは、以前も似た案が挙がってたはず。編集回数や参加期間で制限があるのはしょうがない。いきなりやってきて、状況読めないままたくさんコメントつけた人をどうするか、という話にもなりますし。過去のコンテストで上位入賞してたら例外的にOKとか、条件付けはいろいろ考えられると思います。点数配分を変えるとか。--Ks aka 98 2009年5月31日 (日) 13:46 (UTC)[返信]
  • 執筆コンテストの根幹に抵触するかも知れませんので戯言と捉えて下さい。審査に関わらないのならばコメンテーター制度を止めてしまう(またはエントリー期間を審査直前まで伸ばすという)のも一手段ではと考えます。御門桜さんがご提示されたようなある条件を満たせば誰でもコメント可能といったあたりで、いわばライトな査読依頼のような場として、よくご存知な方からは突っ込んだ、初めて知ったというような方からは読んで感じた素直な、そのような窓口の広い読者の感想を得るステージとしてもいいのではと思います。本来各記事のノートがこの役割を担うはずですが、正直敷居が高い。思ってもみなかった視点を戴け反映できれば、Wikipediaの活性にも役立つのではと思います。--Babi Hijau 2009年6月6日 (土) 21:53 (UTC)[返信]

賛助項目について

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  • これは運営委員の落ち度を指摘されても否定できません。私の意見は今回はあくまでも特例であり、次回以降は一切の特例を設けない形にした方がよいと思います。要約、運営の枠組みが固まってきた過渡期間の最後の事例だと考えています。--Tantal 2009年5月30日 (土) 00:48 (UTC)[返信]
    • 私の軽率な行為で、皆様、特に魚津城の戦いの執筆者の方にはご迷惑をおかけし、不愉快な思いもさせてしまいました。今となっては手遅れかもしれませんが、後ほど執筆者の方にはお詫びをしたいと思います。申し訳ありませんでした。--Freetrashbox 2009年5月30日 (土) 01:38 (UTC)[返信]
  • (賛助項目は残すべし)参加資格のルールについては今後もドンドン変わってゆくと思います。ルールについて理解できない方、あるいは(例えば)「3001バイトの記事を大幅加筆したから読んで下さい」という人も出るかもしれません。今の時点で一律却下などと決められないと思います。Miya.m 2009年5月30日 (土) 15:59 (UTC)[返信]
    • (コメント)一律却下してしまうことは残念ではあります。しかしどこかに何らかの形で線は引かねばならないと思います。スパッと切るか、もしくは「xx byte弱までとし、運営委員の合議(または裁量)で決める」というのもありかもしれません。自分は、曖昧な点は少ない方がいい、と思いますが、そのあたりどうでしょうか?加えて一点、「ルールについて理解できない方」とはどういう意味でしょうか? --Risenjudas 2009年5月30日 (土) 16:38 (UTC)[返信]
    • (コメント)たとえエントリーの要件を満たさない場合でも、記事について評価を望むユーザーを尊重すべきだというご意見だと思います。記事を批評する場としてはWikipedia:査読依頼がありますので、要件を満たさない記事については運営委員が当事者に説明をした上で査読依頼へ誘導すれば賛助項目としてコンテストの中で評価をしなくとも当事者の要望に応えることができるのではないでしょうか。-- 2009年5月30日 (土) 17:02 (UTC)[返信]
      • (お返事)Miya.mです。「ルールについて理解できない方」たとえばエントリー基準がいろいろありますが、コンテスト開始時点でのバイト制限を見逃す方は以前からいらっしゃいます。過去の例では第1回目のコンテストではバイト規制で6項目が、非ログインユーザーによる参加で1項目が「協賛項目」扱いとなりました。また参加者に関するルールも短い期間にいろいろ変遷があります。例えば1回目の加筆コンテストでは、「過去3回の執筆コンテストにおいて、1位入賞者は、今回はご遠慮ください」がありました。審査員を増やしたいと言う発想から来たルールですので、当時「1位は無いけどコンテストベテラン」の私としては、結構「正式参加」にするか「協賛」で参加しようか悩みました。というわけで、今ここで賛助参加や協賛だけを抜き出してルールを固定するのは問題がある と考えます。Miya.m 2009年5月31日 (日) 03:59 (UTC)[返信]
    • (オープン参加というのは?)これは私個人の考えですが、「オープン参加部門」を設定しエントリー基準外の記事(データ量ならエントリー基準よりやや大きめ、おおむね3k - 4KByte程度のものを想定。しきい値は要検討)はこちらへ誘導するのも一案だと思います。「一律カット」してしまうのは何だか惜しい気がしまして。--福11 2009年5月31日 (日) 09:31 (UTC)[返信]
    • (コメント)3000byte以下と断定するのではなく3000byte前後と多少のオーバーを許すのはどうでしょうか。もし、微妙なエントリーがあったら運営委員と執筆者との話し合いで両者が納得できる同意を目指すのがいいと思います。--ネプチューン 2009年5月31日 (日) 12:40 (UTC)[返信]
    • (コメント)経緯からすると、当初は新規とかリダイレクトから立ち上げとかでやってたので(Wikipedia‐ノート:執筆コンテスト/第弐回執筆コンテスト#記事のサイズ)、「テンプレートが貼られていたりすると1000byteなんてすぐ超えてしまいます。また最近散見されるリストを並べたような記事も同様です。何が何してどうなったのかがきちんと記述されていない、百科事典に相応しくないそういう記事こそ加筆して救うべきものだと思います」という提案があって、Wikipedia‐ノート:執筆コンテスト/第四回執筆コンテスト#エントリ基準緩和の提案で3000以下、事情は斟酌ということになった。「未執筆の記事や、スタブ程度の記事を…」という主旨のコンテストですから、書いたから読んで、てのは、ちと困るように思います。加筆コンクールもできたことですし、そっちか、査読依頼で、ということにしませんか。3000ちょい超え、あるいは元記事の内容がリストやテンプレ中心ということなら、審査に含めるかどうかを検討する。--Ks aka 98 2009年5月31日 (日) 14:04 (UTC)[返信]

告知について

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  • 運営側からすると、マルチポストを回避しなければならないという宿命を背負っている以上、あちこちに開催中であることを張り回るわけにも行かないため、Wikipedia:お知らせとメインページのテンプレートのみを使用しました。他に妙案があれば……。--Tantal 2009年5月30日 (土) 00:48 (UTC)[返信]
    • 新しい節を作っていただき、お手数掛けましてすみません。メインページについて少し意見を整理してみます。
  1. 誰のための告知なのか - 告知を見ているのは誰なのでしょうか?また、誰に見てほしいのでしょうか?たとえば「エントリーされた記事に対してのコメント付与期間は5月7日から5月17日までとなります。」という文言がありましたが、今回コメントができるのは取り決めの上ではコメンテーター、審査員、執筆者(ライバルコメント)だけです。つまりごく少数の関係者の為の掲示ですが、その少数の人間の為だけにメインページの目立つ所にこの情報を提示しておく必要があるのでしょうか。この文言に限らずコンテスト期間を通して、不特定多数の人間が目にする空間には少なくとも必要ない内容の掲示が多かったのではないかと思っています。
    たくさんの人に興味を持ってもらって、あわよくば「エントリー記事や審査員、コメントを増やしてコンテストを盛り上げたい」と思っている人が自分一人でないなら、せっかくのメインページど真ん中のお知らせは、コンテストを知らない人のためのものであるべきです。
  2. 何の為の告知なのか - 関係者へのお知らせなら、必要な関連ページをいくつも運営委員さんが作ってくださっています。少数の関係者のみにしか有用でない情報をメインページに乗せる必要は無いばかりか、私的利用にほかなりません。それならない方がいい。せっかくお知らせするのですから、コンテストを知らない人がエントリー記事や記事に寄せられたコメントへたどり着きやすい誘導にすべきではないでしょうか?
と、つらつら書かせていただきました。少し具体的な内容についてはWikipedia‐ノート:執筆コンテスト/第五回執筆コンテスト#トップページでの告知についての提案も見ていただけたらと思います。しかし決して、今までメインページのお知らせを更新してくれていた方を批判したいのではありません。自分がこうしたコンテストの存在を知ったのはメインページのお知らせからでしたが、はじめはどこで何をしているのかよく分からず、内輪のコミュニティで入りづらい印象でした。「参加者を増やす」必要があるなら、今後変わるべき点として、お知らせの存在は重要だと思っています。もっとも、入りにくさが不本意な参加者を弾く関門なのだ、という意見もあるかもしれませんが…。現状の規模で十分だから「お知らせ」も変わらなくていい、という考えもあるかもしれません。また、あちこちでコンテストを触れまわることはいろいろ抵触するでしょうし、そのような必要もないと思います。--Risenjudas 2009年5月30日 (土) 08:35 (UTC)[返信]
  • (コメント)少しだけ意見を述べさせていただきますと、メインページの告知は「コンテストをやっている」とか「コンテストのエントリーを受け付けている」旨を掲載すれば、興味がある方はリンクをたどってきそうな気もします。そして、Wikipedia‐ノート:執筆コンテスト/第五回執筆コンテストには、別件であげた審査期間の告知などをもれなくしっかりと告知していただければ、事が足りそうな気がします。好奇心旺盛な方は見てくれるだろうと思います。--御門桜 2009年5月31日 (日) 11:02 (UTC)[返信]

審査員について

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  • 2点申し上げます。
  1. 上に書いたことの繰り返しになりますが、コメント期間中にも選考においてもコメントを一切付けない審査は無効にして頂きたいです。根拠が全く不明である審査には説得力がなく、場合によっては審査結果全体の説得力をも損ないかねないと思うからです。
  2. 登録期限について、今回は記事エントリー締め切りと同時ではなくコメント期間終了時にしたほうがいいという意見がありますが、私は反対です。なぜならばコメント期間終了後の登録を認めると、コメントをつけなくても審査だけすればいいという誤った認識を審査員候補に抱かせる可能性があるからです。ただ、「参加記事数が確定してからのほうが審査員をやるかやらないかを決断しやすい」という意見には同意します。折衷案として、記事エントリー締め切りとコメント期間終了の中間に審査員の登録期限を設ける(コメント期間を2週間とするならば1週間経過時点)というのはいかがでしょうか?-- 2009年5月30日 (土) 02:19 (UTC)[返信]

翻訳記事の扱いについて

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執筆者コメントで汲平さんから問題提起をいただいた翻訳記事の扱いですが、結論は出ないことかもしれないと思っています。ただ、この件はコンテスト・審査のあり方とも関わっており、ある程度のすり合わせというか、共通認識があった方がよいとも感じますので、日ごろもやもやしていることを以下に述べます。なお、私自身は翻訳をしない(できない)ため、無知ゆえの的外れな指摘になるかもしれません。認識不足があればこの機会にあらためたいと思っています。また、心ならずも汲平さんに反論する形になることをお許しいただきたいと思います。

  1. 翻訳記事を手がけるプロセスが書き下ろし記事の作業と労力において違いがない、という点については、私は同等以上のこともあるだろうがそうでない場合も多いのではないか、という認識です。汲平さんが最初にいわれている、「紹介するに値する記事を探し」という点からして、書き下ろしとの違いを意識せざるを得ません。つまり、翻訳記事は最初から「形」がすでにできあがっているものを選べる点でアドバンテージがあるのではないでしょうか。これに対し、書き下ろし記事は、通常資料読み・収集から始まります。分量や構成がどの程度になるか、使える画像があるかどうか、ある程度の目安を立てられる場合もありますが、ほとんどはやってみなければわかりません。
  2. 「ただ訳しているだけじゃないか」という点については、これは記事にもよるのではないかと思いますが、仮に訳すだけのことであっても、読みやすい日本語にする作業そのものが大変な困難を伴うことかもしれないと考えます。しかし、書き下ろし記事は、資料に当たらなければ書けないだけでなく、資料にある記述を(部分的な引用は別として)丸ごとそのまま掲載すれば著作権との絡みで削除対象になるため、趣旨を生かしながらも構成や表現を選ばねばなりません。このあたりは、元あるものをそのまま使おうと思えば使える翻訳とは決定的に違うのではないかと思います。
  3. 翻訳記事の場合、翻訳自体の精度というか、翻訳元の文章の意味を違えたりねじ曲げたりしていないか、という判断はしなくてよいのでしょうか。これは私の外国語能力の問題もありますが、このことは裏返せば、外国語ができなければ翻訳記事の審査はできない、ということにもつながりかねないことだと思います。英語のように、かなりの利用者が読み書きできる外国語もありますが、例えばアラビア語だったらどうなのか、もっと希少な言語ならどうなるのか、私にはよくわかりません。
  4. もうひとつ気になっているのが、「検証可能性」との関係です。翻訳記事の出典は当然外国語の文献になります。書き下ろし記事は、資料を読み込んだ上で記事に反映させるわけですが、翻訳記事はどうなのでしょうか。これらの出典元まで精査された上でエントリされる記事であれば書き下ろしと同じプロセスといっても構わないかもしれませんが、実態としてそこまで求められてはいない印象があります。しかし、出典の記述をどのように記事に生かしているか未確認でも、翻訳なのだから外形的に示されていれば十分といえるでしょうか。また、仮に出典をめぐって疑義が出された場合などの対応は、書き下ろし記事より難しくなるのではないかとも思います。

以上からすると、もし私がコンテストの審査員になった場合、翻訳記事を書き下ろし記事と同列に評価できるかといえば、できないだろうと思います。これは翻訳が書き下ろしより上とか下とかいうことではなく、審査の内容や観点が違うのではないか、同じ土俵で審査すること自体に無理があるのではないかということです。ではどう区別するかということでは、よい案は持っていません。例えば、各分野別で書き下ろし・翻訳の2本立てとし、それぞれ分けて審査するという方法もあると思いますが、翻訳を元にしつつ別途日本語文献から加筆された例も実際にありますし、逆に書き下ろしから翻訳分を加筆する場合もあるでしょうから、線引きが難しく、うまくいかない気がします。

翻訳も書き下ろしも記事という点では変わらないのだから、プロセスは考えず、できあがった記事の内容・出来映えのみで判断すればよい、というご意見もあるでしょう。というか、実際問題としてほぼそうなっているし、うまく「棲み分け」できなければそうするしかないかもしれません。そうはいっても、審査方法・採点は審査員の自主性に任されており、これにしばりをかけるべきではないでしょう。人それぞれの評価を否定すれば、コンテストは成り立たなくなってしまいます。この点、現状で、翻訳記事が疎外されている印象があったとすると、こうした私の考えもその一翼を担っているようで心苦しいです。しかし、「執筆コンテスト」の審査は秀逸選考とは違って相対評価なので、極端な例として挙げれば、外国語版の秀逸記事などである意味「内容保証」されたものは当然有利ですし、こうした記事が日本語版のコンテストでも表彰されたり、上位を占めるようなことがつづけば、今度は逆に書き下ろし記事でエントリしようとする方の執筆意欲にも関わるような気がします。どっちに転んでも、残念なことではないでしょうか。

ここまで書いて、浮かんできた思いつきで締めくくりたいのですが、コンテスト審査を審査員による採点だけでなく、「人気投票」的要素を取り入れるというのはいかがでしょう。専門的に細かく評価・採点するのも必要でしょう。一方で、単純に「この記事がすごい。気に入った!」という選び方も、コンテストの「お祭り」要素を考えれば、盛り上げる方法として有効だし、これなら翻訳・書き下ろしの区別を取り立てて考える必要もなくなるように思います。--みっち 2009年6月3日 (水) 10:29 (UTC)[返信]

コメントどうも。以前から論点となっていたことなので、ちょっと書いてみます。ひょっとしたら、むかし言ってたことと矛盾があるかもしれませんが、今は、翻訳記事というものなどないのだ、と思っています。
GFDLで利用できるから著作権のことを気にせずに利用できるというのは、一つの利点でしょうけれど、他言語版の記事も一つの参照できる情報源に過ぎないはずです。
ある事柄を主題にしたいい資料が見つかったから書こう、というのと、いい他言語版の記事が見つかったから書こう、というのとでは、それほどの差はないと思います。翻訳元との齟齬についての検証は他の資料の記述との齟齬との検証と同じですし、記事に出てくる情報源をきちんと参照しているかどうか、というのは、使っている資料いずれにも言えることです。情報の由来という意味では、その国の事柄はその国でもっとも研究されているでしょうから、他言語版の情報を使うことは、他国の事柄を翻訳でない日本語文献で書き下ろすよりも妥当といえる面もあります。複数の資料から文章をまとめるのも大変ですが、翻訳できちんと意味をとって、こなれた日本語にすることも大変でしょう。多くは他言語版の記事を参考に出来るとしても、その他の資料はあたるべきですし、読者の便を考えれば関連する日本語文献を加えたり、他言語版で用いられている書籍で邦訳があるものはその書誌情報を加えたほうがいい。他言語版の記事に頼らないとしても、紙の百科事典などを参考にすることはできるし、日本独自のものでなければ、重要な他言語の資料があるはずで、それを参考にするにこしたことはない。
翻訳のほうがそこそこ見栄えのいい記事にはなるとしても、そこから先は苦労が大きいというところもあると思うのですね。日本語の資料が手に入りにくい、洋書を探して読むのは大変。そういったことは、まっとうな研究がある分野と、あまり先行研究がない分野の違いと、そう変わらないように思います。審査する側には、「そこそこ見栄えのいい」というところだけで高く評価しすぎないということは、求められるでしょう。そう考えると、TantalさんやKanbunさんが今回は審査基準を明示してくれているので、それぞれの分野の事情なども踏まえて、審査基準のすりあわせや、盲点となっているところはないかということを考えるのがいいのかもしれません。--Ks aka 98 2009年6月3日 (水) 17:51 (UTC)[返信]
コメント 上で指摘されている問題について、私感を述べてみます。
  1. 労力面の差異について。差はあると実感しています。しかし多少参考になるという程度の場合からプロットをおおむね流用できる場合まで、ケースによって書き下ろしとの違いはないも同然だったり、ただ訳すればいいプラスアルファだったりというのが現状でしょう。
  2. 精度の問題について。これについてはあまり心配していません。経験上、根幹に関わる部分で読み違えが起きた場合、途中で「あり?」と思うものです。読み違えた解釈で話を進めると無理・矛盾が生じてきて、気づく場合がほとんどです。信じがたいことかもしれませんが、これは日本語文献でも起こりうることであり、翻訳だけの問題とも言い切れません。いずれにしても資料がひとつだけ、ネタ本が一冊だけのときに起こりうることであり、複数の資料を突き合わせれば回避できることであろうと感じています。
  3. 検証可能性について。他言語版も玉石混淆なのは同じであり、やばい記述は判別できるし、翻訳にあたってそこを回避するのは難しい問題ではありません。
翻訳もので、日本語で資料が揃っているものとの(私の主観での)一番の違いは、外国語文献が必要なために図書館を利用できない場合があるということです。本を買うしか選択肢がないことが往々にしてあり、今回人物記事でエントリした理由の一つに「安上がりだから」というのもあります。論文複写の代金込みでも、人物記事なら数千円程度で済ませられてしまうからです。より一般的なトピックの場合、手持ちの資料があっても桁がひとつ上がってしまうのと準備の手間が膨大になるのがあって、そうそう手が出せないのが現状です。--S kitahashi(Plé) 2009年6月7日 (日) 00:39 (UTC)[返信]
コメント 今回は書き下ろしで参加いたしましたが、翻訳も一部手がけるものとして一言コメントいたします。汲平さんが問題提起なさった「翻訳記事への評価かたより」といった感覚がWikipedia日本語版にあることは、私も感じております。そして、同じく汲平さんが述べていらっしゃる「翻訳に伴う様々な努力」が、目立たない形で払われている翻訳記事も多いということも共感を持っております(但し私が手がけたものでは 汲平さんほど入念には手を入れておりませんが)。
確かに題材選びなどは翻訳と書下ろしでは違うといわれればそうでしょうが、それは翻訳記事作成に限った話ではないと思います。それぞれの執筆者の知識背景が異なるのですから、「百科辞典としてふさわしい題材」として何を取り上げるかは、その執筆者の知識の範囲で判断するしかありません。今回私が取り上げた性決定も生物学分野以外の人では必要性に気づかない記事であったろうし(だからこそ現時点まで記事が存在していなかったと思います)、逆にドイツ語版があるからといって私ではハイデルベルク城の記事は作成できません。
また執筆期間は平等であるといっても、元になる資料の多寡、それを見つけるのに使える労力、さらには実生活・仕事との兼ね合いといった面を考えると、全ての執筆者が完全に同条件にあるかと問えば、否定せざるを得ないでしょう。それが翻訳記事作成だけが有利であるとして、割を食うのは少々おかしいような気がします。もちろん、単純翻訳だけを行う場合は手抜きができるかもしれませんが、結局それは記事の質にも影響してきますので、そこを見て判断していただければと考えるものです。逆に言うならば、翻訳記事・書き下ろし記事を問わずに、執筆までの労力と作成された記事の質を含めた判断いただければ、執筆者は納得するのではないでしょうか。
最後に、以前のコメントと重なりますが、今回のコンテスト執筆者の皆様のご努力と、運営委員および関係各位に深くお礼申し上げます。--Janus01 2009年6月7日 (日) 05:59 (UTC)[返信]
コメントありがとうございました。参考になります。とくに、実際に翻訳を手がけておられる方からの見解は説得力を感じました。いただいたコメントを通じて、翻訳と書き下ろしでは、プロセス上の違いは多少なりともあるということ、しかし、その「違い」は、翻訳、書き下ろしそれぞれに見られる、記事内容のばらつきや違いと比べれば大したことではない、ということかと受け止めています。言い換えれば、記事として質の高いものに仕上がれば、翻訳か書き下ろしかの区別の問題はほとんど、あるいは全く生じないということではないかと思います。見栄えの点での翻訳の有利性は残りますが、書き下ろしでも外国語版やコモンズから画像を持ってこれるものはありますし、このことは、ひとりでがんばるだけでなく、いろんな意味での協力・共同者を得ることの重要性を示していると思います。この点、翻訳は翻訳前にすでに執筆者がいるわけで、事実上の複数体制になっていることが強みとして働いている、と考えればいろいろ納得いく気がしました。この件がどう生かされるかは今後におまかせしたいと思いますが、個人的にはずいぶんすっきりしました。--みっち 2009年6月8日 (月) 09:59 (UTC)[返信]

オフラインミーティングとの兼ね合い

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Wikipedia:オフラインミーティング/東京/Wikimedia Conference Japan 2009が11月に東京で開催されるそうです。Ks aka 98さんが詳しいことを知っていらっしゃるので、私からの説明は割愛したいと思いますけど、時期的に第3回秋の加筆コンクールが開催される時期とバッティングするのではないかと思っています。オフラインミーティングを巻き込む形でのコンクールをやるというのは、時期的な問題としていかがなものでしょうか?ミーティングに参加される方が多いのであれば、共催でやってみる価値はあると思うのですが(九州人の私は行けるかどうかはわかりませんけど)。--Tantal 2009年6月3日 (水) 13:26 (UTC) えーと。リンク先のようなことを、今企画中なのです。で、せっかくなので、それにあわせて、現地だけじゃなくて、ウィキペディア(あるいは他のプロジェクトでもいいんですが)で盛り上がれる企画はないか、とか、会場とウィキペディアでリンクしてできる企画はないかとか、執筆者が会場で集まってできること、やりたいこと、やってほしいこと、などなど、ご意見を募りたいのです。[返信]

加筆コンクールを大掛かりなものにするとか、ここに集まっているような方々で、重要な項目に徹底的に手を加えてみるとか。それを当日壁に掲示するとか。いっそ秀逸な記事を並べるのもいいけど、ちょっと多いから、加筆込みでベスト20くらいを選んでみるとか。当日集まって、何か執筆の指針とか、テキストブックを作ってみるとか、自分がこれまでに得たノウハウを発表したいとか、こういう立場の人の話を聞いてみたいとか。
コンテスト/コンクールの企画なら、ここでもいいですし、リンク先のページのノートなどを使っていただいてもよいです。去年のウィキマニア報告会の後から、有志で話を進めていて、metaにページを作っていたのです。これまでのところ、会場を押さえて、誰に話してもらえるか、といったことを中心に話していたので、参加希望者によるメーリングリストを使っていたのですが(あそこは飯がまずいから使いたくない、というような話になりかねない話題を、公開の場でGFDLで配布することはない)、ある程度目鼻が付いてきたので出張所を作った、というわけです。メーリングリストへの参加も是非に。--Ks aka 98 2009年6月3日 (水) 18:01 (UTC)[返信]