Wikipedia:第3回秋の加筆コンクール/コメント

第3回秋の加筆コンクール
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第3回秋の加筆コンクール

ここは、第3回秋の加筆コンクールにエントリーされた記事について、審査員、加筆者、コメンテーターが自由闊達に意見を交換する空間です。12月18日から12月31日(日本時間)の間、積極的な意見交換を期待したいと思います。なお、本コンテストにおけるコメント付与期間が過ぎた以降についても、コメントを思い立ちましたら随時、遠慮なく、コメントを追加してくださっても結構です。そのほうが記事の充実につながると思います。サロン的な場所として、ご利用ください。

分野A[編集]

神戸連続児童殺傷事件[編集]

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  • (審査員コメント)文章量のある記事ながら、概要が簡潔にまとめられ、特異な当事件を把握する助けになっています。ただ、その特異性から「#事件の経緯」に焦点が注がれがちな傾向がみられます。「#5月24日」「#5月25日」の鮮明すぎる殺害関連記述は、百科事典記事としては少し過剰かと思いました。一方で、今回「#少年の更生#少年の現在」および「#世間の反応」について加筆されたのは注目に値します。事件を客観的、多面的にに捉えるうえで、有意義でありましょう。あえて述べれば、直接話法が数多くとられた記述に冗長さを感じます。「世間の反応」でも、アンケート結果を単に文章変換したような記述ではなく、より簡潔に編集した方が読者の理解を助けるものと思います。別に、「#被害者側の人権」文中の「土師守」という人物表記は、このままでいいでしょうか?また、#出典・脚注項は、挙げられている数種類の表示方式を統一させるべきでしょう。--もかめーる 2011年12月18日 (日) 04:39 (UTC)[返信]
    • (回答)コメントありがとうございます。とりあえず、出典・脚注項を「著者名(出版年)、p.~」に統一しました。少年Aの両親の手記の部分で出典不明記な部分があるので、学校で本を借り、調べて補いたいと思います(たまたま学校に本がありました)。また、個人的には事件の経緯説は削ったつもりですが、過剰なようでしたらさらに削減を検討したいと思います。「土師守」に関しては考え中です。人名を公表するのに問題はないと思いますが、わざわざ出す必要があるかどうかは微妙なラインです。光市母子殺害事件では被害者の夫の人名が公開されていますが、神戸事件に必要かどうかは微妙です。--Fumon1987a 2011年12月18日 (日) 15:30 (UTC)修正--Fumon1987a 2011年12月18日 (日) 15:37 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)執筆お疲れさまでした。事件から15年近くが経過したとはいえ、事件の性質上犯人に関する情報が伝わりにくいことや、事件が社会に与えた中長期的な影響の検証はまだ完全には終わっていないであろうことを考えると、相当に難しいテーマだったのではないかと思います。以下より具体的なコメントです。
  1. 表現について、犯人の視点に引きずられたのではないかと感じる表現が見受けられました。
    1. 「5月24日」節の「なかなか死んでくれない」という表現ですが、これは少年の主観であって、それを執筆者がそのまま記事に使うのは好ましくない気がします。
    2. 「5月25日」節に、「男児は少年の声を借りて、少年に対して、『よくも殺しやがって 苦しかったじゃないか』という文句をいった」という記述がありますが、執筆者の立場でこのように書くと少々オカルトめいてきます。「男児が少年の声を借りて、少年に対して、『よくも殺しやがって 苦しかったじゃないか』という文句をいったように感じられた」などとしてみてはいかがでしょう。
  2. 以下、内容や構成に関してです。
    1. 記事の冒頭で神戸連続児童殺傷事件は3つの事件からなることが示されていますが、第3の事件に比べ第1・第2の事件への言及が少ない気がします。たとえば、7月15日に第1・第2月の事件について犯人が再逮捕されていますが、どのような経緯で再逮捕に至ったのかや、犯人の供述の概要については言及が欲しいところです。
    2. 「5月24日」節で、「死んだかどうか分からなかった」犯人の認識が次の文で「死んだと思った」に変化していますが、この間がやや飛躍しているという印象を覚えました。呼吸音が止まっても死んだと確信できなかった犯人がなぜ死んだと思うようになったのか、加筆することは可能でしょうか?
    3. 「右利きと左利き」節で、犯人の利き腕に関する捜査段階での憶測について言及されている一方、事実犯人の利き腕がどちらであったかについては言及されておらず、「少年は冤罪か」でようやく「右利きの少年」という記述に行き当たります。よく読み返してみると「5月25日」節に「右手で首を切っていく」という記述があるのですが、「右利きと左利き」節を読んだ段階では意識に残っていませんでした。ここは「右利きと左利き」節にも右利きであったことを書くほうが理解しやすいと思います。
    4. 「事件の影響」節の「この事件を皮切りに当時の内閣が少年法改正に動く事にまで影響が及んでいる」という記述ですが、重大な社会的影響について断言する際には、脚注を使って出典を示し、検証可能性を担保することが重要だと思います。
    5. 実際に文献に目を通したわけではないのですが、加害者家族による『「少年A」この子を生んで』は、本来は法に守られている犯人の生育に関する情報が記されているという点で重要な文献だと推測できます。あくまでも個人的な感覚としてですが、もう少し活用する余地があるのではないかと気もしますがいかがでしょうか?
    6. これも実際に文献に目を通したわけではありませんが、この事件の審判を担当した井垣康弘氏には複数の著書があり、とりわけ『少年裁判官ノオト』日本評論社、2006年。ISBN 453551500X ではこの事件について言及している可能性が大です。おそらくこの本を参照すれば、司法側からみたこの事件について大幅な加筆が見込めると思います。井垣氏についてはこのような記事[2]も見つけましたのでよろしければご参照ください。
    7. 最後にこれは個人的な関心ですが、「被害者側の人権」節で、審判の過程において司法が被害者に配慮を示したことが述べられています。たしか日本において犯罪被害者の権利確立を訴える声が高まり、被害者への配慮を国が示すようになったのは1990年代後半に入ってからだったのではないかと記憶していますが、犯罪被害者の権利確立に向けた動きとこの事件との関連について、これまで参照された資料の中に言及はあったでしょうか?--Pastern 2011年12月26日 (月) 21:55 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)現在父方の祖母の家に帰省しており、パソコンがない環境で、編集やコメントの回答が出来ませんでした。現在もインターネットカフェで編集しています。期限が過ぎましたが、回答したいと思います。
1.1 「殺そうとするが死なない男児に対し」に表現を変更しました。
1.2 「、と供述している」を追加しました。
2.1 第一、第二の事件については詳細については私の方ではあまり分かりません。少なくとも、第一の事件に関しては、記事にあるように当初非公開で、少年の逮捕後発覚したもので、死者も出ていないため、ほとんど詳細について知ることは出来ないかと思います。第二の事件については、被害者の本に書いてあるかもしれませんが、私は読んでいないので分かりません。
2.2 供述調書を元に「ようやく死んだと思い、その後、」と表現を変更しました。
2.3 右利きであることを記載しました。
2.4 少年法改正の動きに関しては、詳しくは知らず、私が読んだ文献の中にも見当たりませんでした。したがって、現時点ではコメント出来ません。
2.5 例えば、「加害者(側)の意見」などの節を作って、そこに使用するのはありだと思いますが、事件の概要そのものに使用するのは私はよくないと思います。やはり本には個人的な心情が入っているので、事件を客観的に見るのには適していないと私は考えています。
2.6 機会があれば目を通したいと思います。
2.7 これまで参照してきた本のなかで犯罪被害者の権利確立について言及された記述は見当たりませんでした。もしかしたら、「淳」などに記述されているかも知れませんが、読んでいないので分かりません。なお、「淳」は現在出版社在庫切れで私の方では入手出来ません。
以上です。なお、この事件に限らずノンフィクション作品は売れないため、すぐに絶版になる傾向があり、参考文献の中にも絶版になっているものが多いです。そのため、資料を探すのは結構難しいです。--Fumon1987a 2012年1月1日 (日) 11:21 (UTC)[返信]

家庭経済学[編集]

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気になるところがあったので質問させていただきます。

  • Q1 出典は何でしょうか?見た感じでは独自研究ではなさそうですが、出典を明記していただけるとありがたいと思います。--Wikiemon - Talk - History 2011年12月18日 (日) 02:45 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)エントリー期間中の加筆が1回・1,600バイト程度行われたに過ぎず、エントリー終了時点における記事の規模も3,000バイトに達しておりませんので、残念ながら当記事は加筆途上にあると判断せざるを得ません。さて、少子化、高齢化が急速に進展するわが国において、結婚観や夫婦・親子関係などライフスタイルが多様化している今日、家庭環境は各人および各世帯で大きく異なります。家庭経済の仕組みに焦点を当てた記事が多くの方の目に留まることで、将来を見通しづらい今日には必須ともいえる、個々のライフプラン(金銭面を主体とした生活設計)を組み立てる一助になり得るでしょう。当記事を編集する上で参考になる書籍は数多く出版されており、記事発展の余地は大いに見込まれます。今後とも加筆編集をお進めくださることを期待いたしております。--もかめーる 2011年12月20日 (火) 09:49 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)ちょっとコンテスト終盤にかけて多忙と体調の不良で時間が割けなくなり、気がつくと「加筆コンクールの〆切だった」という情けない話で申し訳ございません。Wikiemonさんのご指摘の出典もまとめて明記する予定でおりましたが、このあたりはコンテストとは関係なく参考文献として追記致します。家庭経済の仕組みという者をまず基本的に分かりやすく解説することが重要と考え、なるべく専門的なことは避け、1,600バイトの加筆を行ったときに「果たしてこの(段落色の)表現で記事としてふさわしいのか」「もっと分かりやすい表現方法が無いのか」「でも図(画像)にしてしまうと可読性は深まるかも知れないけれども、ユーザビリティ(例えば目の不自由な方が音声合成ソフトを通じて読むetc)的や作成する時間的にどうか」などと様々な表現の手法を検討をしておりました。しかし、どうも上手く表現できなかったのが躓いた所です。もかめーるさん仰るとおり「家庭経営」「家庭経済」という問題は「ライフプランの問題」、「生活の価値や質の問題」、「お金と時間の問題」と諸問題があり、一度フタを開けると幾らでも記載する内容があります。今回は残念ながらうかつにも〆切を失念していたという大失態でしたが、是非時間を見つけ加筆をしていきたいと思いますし、もし、この加筆コンクールをご覧になられていて、「家政学の分野の記事の充実に貢献したい」という方がいらっしゃいましたら、ぜひ執筆(加筆)にご協力頂ければと存じます。とはいえ、「〆切を失念していた」という大失態はひとまずこの場でお詫び申しあげます。--御門桜 2011年12月20日 (火) 10:27 (UTC)[返信]

条約改正[編集]

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  • (ライバルコメント)歴史の記事を多く手掛けていらっしゃるChokorinさんによる加筆です。見事としか言いようがありません。早速、明治#明治年間の条約改正交渉年表に{{main|条約改正}}とつけさせていただきました。明治の外交史は明治のところの箇条書き列挙している岩倉具視寺島宗則井上馨大隈重信青木周蔵陸奥宗光小村壽太郎の内容をまず押さえたうえで、その上、歴史の表舞台になかなか出てこない、井上毅金子堅太郎等の活躍も書かれてあり見事言うしかありません。気になったのは一点だけ、大津事件に絡んで大審院児島惟謙が「司法権の独立」を守ったとありますが、対外的には守っても対内的には守っていないということが書かれてありません。条約改正全体には大きくからみはしないものの、司法権の独立については法学で基本的なところですので、憲法の入門書で脚注付記したほうがいいと思った次第です。--Wushi 2011年12月19日 (月) 11:15 (UTC)--Wushi 2011年12月19日 (月) 11:15 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)過分なお褒めの言葉を頂戴し、恐縮しています。自分なりに工夫したところを評価してくださって大変うれしく思っています。ありがとうございました。大津事件については、確かにゆきとどかない点があるやに存じます。自分でも探してみますが、もし、適切な憲法入門書を御存知でしたら、御教示いただければ幸いです。--Chokorin 2011年12月23日 (金) 05:33 (UTC)[返信]
    • (追記)Wushiさん御指摘の件ですが、大津事件における児島惟謙の行動は「司法権の独立」を守ったかもしれないが「裁判官の独立」は守っていないというということは夙に指摘されるところであり、そこは典拠にもとづき加筆しておきました。まだ不十分な点があったら教えてください。--Chokorin 2011年12月23日 (金) 23:45 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)多くの人間が関与し、対外折衝主体のみならず、国内世論や反対派をも相手とする難局面を潜り抜けて、条約改正を目指して尽力する様子が伝わってきます。「#影響と歴史的意義」項を読み、改めて全体を再読することで、記事の理解が深まりました。充実した注釈欄も素晴らしいもので、私たち編集に携わる者にとって勉強になります。さて
*西ヨーロッパ諸国は、…(中略)…条約システムに編入していった。(#条約システムの形成とアジア
  • 寺島のあとを受けて参議兼外務卿となった井上馨は、…(中略)…訓令を発した。(#井上馨と鹿鳴館外交
などの長いセンテンスは、それぞれ二文に分けた方がより読みやすくなると思いますが、いかがでしょう。ボリュームの大きな「#井上馨と鹿鳴館外交」、「#大隈重信の改正交渉とその蹉跌」の両項目についても、項目を分割してもよいかもしれません。また、些細なことですが、人物を示すにあたって「役職名+姓」と「姓+役職名」の混用が見られます(#寺島宗則の交渉と吉田・エヴァーツ条約ほか)。目下「良質な記事の選考/条約改正_20111211」にて複数の方がご指摘の通り、汎用的な語である「条約改正」という記事名を特に問題なしとするか、もしくは括弧つき記事名へ変更すべきかは議論のあるところでしょう。その他、新政府は明治元年に諸外国へ「将来的な条約改正の必要性について」通知していたにもかかわらず、その翌年にすべて列強側に有利に解釈し直された、「日墺修好通商航海条約」が結ばれるに至ったのはなぜなのか、より知りたくなりました。--もかめーる 2011年12月19日 (月) 13:02 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)過分なお褒めをいただき、恐縮です。また、たいへん丁寧にお読みいただいたこと、まことにありがたく存じております。御指摘はすべて「かゆい所」に行き届いたもので、記事をよりよくしていくうえで大いに参考になります。ありがとうございました。御指摘を踏まえて記事の改善を図っていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。--Chokorin 2011年12月23日 (金) 05:33 (UTC)[返信]
    • (追記)「条約改正」が「汎用的な語ではないか」という御指摘に関して自分の考えるところを申し述べれば、まず、日本史の話題で「条約改正」といえば明治の条約改正つまり本記事の内容に限定されることは『国史大辞典』その他で「条約改正」の見出しがあり、明治の条約改正に関する説明文が掲載されているので、そこは問題ないと思います。世界的、ないし世界史的にみればどうかということですが、百科事典に2,3点あたったところ、やはり「条約改正」の項目名で明治の条約改正の説明がなされているので、個人的には、あまり問題がないとは思っています。「条約の改正手続き」ということですが、それは、「国内法の改正手続き」とは少し様相を異にしていて、管見の限り、まったく新しく条約を結ぶ場合でも、現状の条約を改めて新しい内容の条約を結ぶ場合でも、署名、批准、加入、承認などの手続きを踏むことには変わりがなく、そういう意味では「条約改正」というのは、非常に特殊なことばだと考えます。これは、ある意味で世界史的にみても特殊日本的なタームではないかと考えます。要するに、「法律改正」という汎用的な用語にはそれに対応する「法律の改正手続き」ないし「法律の改正プロセス」という、説明すべき事象が存在しますが、「条約改正」という語に対しては、格別「条約の改正手続き」あるいは「条約の改正プロセス」という特別な内容があるわけではなく、条約を改定するということは、常に、新条約の調印というかたちをとるようです。しかし、明治の日本にとって「不平等条約の改正」は国家目標であり、スローガンであり、国民的課題だったわけですし、不平等条約は、当時の日本人にとって「『改正』しなくてはならないもの」だったわけです。そしてまた、非白人社会において、それが実際に実現できた稀有な例でもあったという意味でも、たいへん特殊な用語だったのではないかと愚考いたします。そのようなことから、あえて私は「条約改正」の記事名のままを推しますが、ただし、英語の"Treaty Revision"ということであれば、欧州諸国が欧州連合に加盟することにともなう"Treaty Revision"がネット検索などではヒットするようですので、そこの部分をどう日本語で表現するのか等については、あいにく事情に暗いものですから、その辺はお詳しい方の御教示も得ながら考えたいとは思っております。--Chokorin 2011年12月23日 (金) 10:49 (UTC)(加筆修正)--Chokorin 2011年12月23日 (金) 11:47 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)鎌倉仏教とあわせ、執筆お疲れさまでした。改正を巡る動き、とりわけ日本国内の政治の動きが非常にダイナミックで、またかつて執筆した神戸居留地と関連のあるテーマでもあり、興味深く読ませていただきました。素晴らしい力作だと思います。以下、詳細なコメントです。
  1. 「岩倉遣外使節団」節に「ところが、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングと駐米日本代表森有礼は副使の伊藤博文に対して、条約改正の本交渉に入ることを進言、伊藤もその旨を大使岩倉具視に提案した」という記述がありますが、動機は何でしょうか?とりわけ森や伊藤は、この段階で本交渉に入ることにはリスクがあることを当然承知していたのではないかと思うのですが…
  2. 「条約改正交渉の進展」節に「この条約案を『タイムズ』にひそかにリークしたのは外務省翻訳局長だった小村壽太郎だったともいわれる」とありますが、これは国粋主義者である小村が案の内容に不満を覚えていたためと考えて差し支えないでしょうか?
  3. 「政界の分裂と大隈遭難事件」節には大隈遭難事件によって「事態が急変」したとあり、記事の文脈からは事件と条約改正延期の決定との間に因果関係があったと読み取れるのですが、今日の研究からはそのように断定できると考えて差し支えないでしょうか?また、大隈遭難事件が、個人や一結社が単独で計画実行したテロリズムとは思い難いのですが、黒幕についていずれかの文献に言及はありますか?
  4. この記事にムハンマド・アリー朝が出てくるとは意外でした。ムハンマド・アリー朝における混合裁判制度とは、日本が行った改正交渉の中で浮上したような、裁判官の一部を外国人とする制度のことでしょうか?--Pastern 2012年1月3日 (火) 12:46 (UTC)[返信]
(執筆者コメント)丁寧にお読みくださり、ありがとうございました。遠出していたので、お返事が遅くなり、申し訳なく思います。
1.について。「国内体制が十分に整わないうちに改正交渉に臨めば結果的に従前より不利な方向での改訂が進められるおそれがあり、…」という説明文がいささか先走りすぎだったのかもしれません。時代はまだ明治4年、舞台は、南北戦争が終わってさほど時間を経ていない、「金ぴか時代」のアメリカが最初の訪問先だったのですが、デ・ロングは西部出身の弁護士で中央政界に打って出る機会をねらっており、外交上のライバル、パークス駐日英国公使と張りあっていたようです。森有礼は、当時はまだ弱冠26歳、積極的で率直な性格でアメリカ社会にとびこみ、フィッシュ国務長官にも可愛がられていて、政府筋からの受けもよかったようですが、いかんせん外交経験には乏しかったようです。デ・ロングにしてみれば「駄目モト」のところがあったと思いますし、森にいたっては「リスクを承知していた」とは言えないと思います。うまくいくと思っていたでしょう。当時の森は後世の国権主義者のイメージとは異なり、アメリカに感化された開化論者の急先鋒で、帰国後は明六社の中心となります。伊藤も当時はまだ32歳で、政府のなかでは若輩者です。使節団のなかで実力者といえば大久保(41歳)と木戸(38歳)であり、この2人が新政府のトップ2と言ってよいと思います。伊藤は条約改正にはたいへん意欲的でソルトレークシティで改正交渉についての意見書をまとめています。デ・ロング、森、伊藤はそれぞれ野心家で、そういうところで意気投合したのかもしれませんが、伊藤は2人の勧めにしたがって岩倉たちに本交渉入りを進言します。そうすると、岩倉、大久保、木戸らもアメリカ側の朝野におよぶ歓迎ぶりからして、ひょっとしたら本交渉に入ればうまくいくかもしれないと思ってしまったみたいなのです。そういう意味では、政府の実力者と言っても外国のことをよく知っているわけではないし、確たる見通しがあったというほどではないようです。実際、委任状のことを指摘されると、そのことを誰も知らず、結局、大久保と伊藤が東京までとりに帰るくらいですから、当時の日本人は、政府からして外交経験が浅く、試行錯誤の状態であり、そういう状態を経て少しずつわかってきたというのが実情ではないでしょうか。使節団は、在米中に時間ができれば、「せっかくだから米国憲法を訳そうじゃないか」みたいな感じで旅をしていますから、まあ、何というか。。。もっと、「手探り状態だったこと」が伝わるよう工夫して、表現を改めたいと思います。
2について。そう考えて間違いないと思います。
3について。黒幕についての言及は管見の限りはありませんでした。個人的には、単独で計画実行されたテロだと思っています。事件と交渉延期の因果関係は当然あると思います。大久保にしても、伊藤、森にしてもテロで命を落としていますし、その後も原敬、高橋是清、犬養毅など戦前には気骨のある、見識に優れた政治家の多くが暗殺されていますが、とても残念なことだと思います。大隈はその後も生き、片足を失いながら首相を2度務めたのですから、やはり並の人間じゃありません。
4について。出典には「ムハンマド・アリー朝」という名称ではなく、単に「エジプト」と記されていますが、「裁判官の一部を外国人とする制度」で間違いないです。
貴重な御指摘ばかりでありがとうございました。御指摘を踏まえ、記事の改善や補強に努めたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。--Chokorin 2012年1月6日 (金) 16:27 (UTC)[返信]

デンマークの歴史[編集]

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  • (審査員コメント)一国の歴史をまとめるにあたっては、どの時代や分野を強調したり添削したりするかの判断が欠かせません。今回は特に「#ヴァイキング時代」を「#中世」項に含めて強化され、かつ「#近世」、「#近代」の両項目にバランスよく加筆されました。平易に編集され、参考画像もさらに複数取り入れられたことから、実にすらすら読ませていただきました。さて
*クリストファ3世(クリストファ・ア・バイエルン)の死去により…(中略)…デンマークはスウェーデンとフィンランドを失った(カルマル同盟の崩壊。ヴァーサ王朝の成立)。(「#宗教改革と三十年戦争」項前段)
この段落はその内容の関連性から、前項「#カルマル同盟時代」に移されたほうが良いように思いました。また「#絶対王政の時代」は情報量が多いため、段落を区切ったり、複数の小項を設置されてはいかがでしょう。あわせて同項の
*また、ノルウェーには1687年に「ノルウェー法」が制定された。1688年には度量衡を統一し検地を実施し、それを元にした新土地税制を実施した。
  • 農繁期に若年の農民が民兵を嫌い逃亡したり…(中略)…地主は効率的な農地経営のために、若年農民を確保するのに躍起となった。
  • 1757年から1764年に発表された『経済雑誌』("Økonomisk Magasin")には農業経営の全般にわたる改革が必要だということを示していた。
これらの記述は、参考情報として「#脚注」項に「注釈」を新設し、そこに移されてもよいかもしれません。さらに、全体を通じて出典情報に濃淡を感じました。「絶対王政の時代」項の1661年以降の記述について出典の明記が充実している一方、ほとんどついていない項もあり、さらなる編集余地が見込まれます。別に、「#先史時代」項にて当記事に記述する必要性の薄い「#北欧石器時代」、「#北欧青銅器時代」の両小項はあえて不要と思われる半面
*デンマークには…(中略)…紀元前12000年頃から人が住み続けていると考えられている。農業は紀元前3000年頃始まったようだ。(デンマーク#歴史
  • スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの三国は…(中略)…ヴァイキングに敵意を持つ西欧人の記した記録、伝承記があるのみとなっている。(北欧史#北欧三国の成り立ち
  • デンマークではデーン人たちの建国したデーン王国(スキョル王朝)が伸張し、シェラン島に存在していた幾多もの国々を征服していた。…(中略)…北欧において最も勢威の強い王国となった。(同上)
他記事にあるこれらの歴史情報は、ぜひ当記事にカバーしていただきたく思います。--もかめーる 2011年12月21日 (水) 09:06 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)丁寧なコメントありがとうございます。もかめーるさんの指摘に対し、以下箇条書き列挙します。
  1. 第1のボックス:クリストファ3世~ヴァーサ王朝の成立。カルマル同盟の崩壊を念頭に入れると指摘通りでいいかもしれません。参考文献に使っている橋本編(1999)、百瀬・熊野・村井編(1998)の章構成もカルマル同盟の崩壊までを一つの区切りにして、その後の宗教改革を次の章にしているからです。検討の余地ありです。なお、個人的には、伯爵戦争の背景からデンマーク史に入っているので、王朝交代を一つの節目にした方が記事として書きやすかったのが現状の節構成となっています。
  2. 第2のボックス:絶対王政のところですが、絶対王政に必要な、王権の手足となる官僚制の整備とそれを補完する税制・経済政策を考えると、冗長なところはもう少し整理する必要はありますが、注記に記載という方法はとりたくないな考えています。とりわけ、コペンハーゲンにある記念碑の写真まで貼っている「土地緊縛制度」の廃止は、近代デンマーク経済の基盤となるところですのでその思いは強いです。
  3. 第2のボックス~第3のボックス:「全体を通じて出典情報に濃淡を感じました」のコメントですが、正直言って時間切れということもありますが、出典情報の濃淡の原因は以下の通りです。(1)先史時代は私の興味の範囲から外れているので今回手つかずです(先史時代は北欧史に振っていいかもしれません)。(2)近世の歴代デンマーク国王でクリスチャン4世の記述が薄いのは50年の治世にもかかわらず、デンマークを傾けた印象が強いから低評価していること(日本語が分かるデンマーク人がこれを読んだら怒るかもしれませんが。その分、クリスチャン3世フレゼリク3世クリスチャン5世の比重が高まっています)。(3)近代は、デンマーク黄金時代の代表であるニコライ・グルントヴィがデンマークの民主主義に与えた影響及びシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題(南ユラン問題)に絡むナショナルリベラルの動向、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争以後のデンマーク議会制民主主義におけるデンマークの政党の動向についてまで詳細把握には至らなかったこと、(4)20世紀以降はほぼ手つかず、個人的にはオイル・ショック以後の風力発電に舵を切ったデンマークについて書きたいところですが文献収集の段階で終わっています。
  4. 第3のボックス:出来れば考えておきます。先史時代はどこまで手をつけられるかは不明です。--Wushi 2011年12月22日 (木) 23:30 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)北欧の歴史についてはまともに勉強したことがありませんでしたが、とても楽しく読ませていただきました。読んでみて、西に北海、東にバルト海、北にスカンジナビア半島、南にヨーロッパ大陸という、ヨーロッパの北側の十字路のような位置にあることが、この国の歴史に強い影を落としていると感じました。中世における広大な版図と不安定性、それに対して、近世以後は一転、小国として国土復興につとめ、中立指向で英仏独露相互の対立からは相対的に距離を置く堅実ないき方にギャップがあっておもしろいと思いました。気になった点としては「「デーン人」という概念」というタイトルと書き出しが少し唐突に感じました。「デンマーク」という地名が「デーン人の国」だという説明が、それに先だって必要ではないかと思いました。2点目。「カルマル同盟」など特に古代・中世に関しては、もっと地図がほしいと思いました。それから、これは仕方のないことかもしれませんが、中世史・近世史は王家の事績中心で、もう少し貴族や一般庶民のようすなどデンマーク社会全般の情報を充実させていただきたいなと思いました。好き勝手申し上げましたが、知的好奇心をおおいに刺激され、さらにデンマークについて知りたいと思うよう工夫された記事だと思います。--Chokorin 2011年12月24日 (土) 21:37 (UTC)[返信]
(執筆者コメント)鋭い指摘ありがとうございます。Chokorinさんの指摘について、以下箇条書き回答いたします。
  1. 「デーン人」という概念…:先人が書いた内容をうまく編集しようとする域まで到達できませんでした。としか言いようがありません。何とか、ヴァイキング時代は英語版から必要な分は加筆したのですが、そこが結局浮いたままになってしまった状態です。今後の課題です。
  2. カルマル同盟」など特に古代・中世に関しては、もっと地図がほしい:クヌーズ大王と北海帝国の図は入れてくれたようでありがとうございます。古代に関してはそもそも記事の内容に見合う地図があるのかどうかというとよくわかりません。
  3. 貴族、一般庶民の様子:日本史のように風俗史の情報があればいいんでしょうけど、参考文献に使った橋本編(1999)、百瀬・熊野・村井編(1998)もやはり政治史中心なんですよね。絶対王政下で貴族は王権から遠ざけられ、かつ、荒涼な土地ですから貴族が優雅な生活を送っていたかどうかは怪しいところです(デンマーク王室が建てた宮殿は立派ですが)。近代史になると、上述したグルントヴィの思想が農民を中心に影響を与えたり、他の西欧諸国のように社会主義思想が流入したりというのまでは文献では押さえているのですが、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争やその後の福祉国家の建設との絡みがありますので、どう文章化するかは悩みの種です。
  4. 最後に、デンマークの地政学的位置から英仏独露()に左右されているのは仕方ないと思います。現代外交史になると、「デンマーク化」と言われながらも、NATOとソ連の間でしたたかに生き抜いていくかが記事の執筆の一テーマになるかと思いますが、これも今後の課題とさせていただきます。--Wushi 2011年12月26日 (月) 12:41 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)執筆おつかれさまでした。完成途上の部分もあるようですが、文章・構成としては全体に読みやすくまとめられていると感じました。以下はより具体的なコメントです。
  1. 1660年に選挙王制から世襲王制への制度変更が行われたということですが、それまでは伝統的に選挙王制だったということでしょうか?
  2. 「南ユラン問題(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題)」節にある「1864年、デンマークを取り巻く国際環境の変化により、オーストリア、プロイセンを巻き込んで第2次シュレースヴィヒ戦争が勃発した。」については第2次シュレースヴィヒ戦争が赤リンクであることもあり、詳細な説明が欲しいと感じました。同じ節にある「イギリスの酪農製品の需要の高まりに応じ産業構造を転換した」いう箇所も、私自身の知識が乏しいということもありますが意味するところが今一つ分かりませんでした。--Pastern 2011年12月29日 (木) 15:10 (UTC)[返信]
(執筆者コメント)Pasternさんのコメントに対し回答いたします。デンマークについては元来、貴族の勢力が強かったことから、選挙王政でした。デンマークの貴族は自分の権力を維持するために、王権を制限するために、憲章を制定させ、王権を縛っていました。スウェーデンとの抗争で貴族がまともに働かなったかたことことから、国王が貴族に黙らせる事ができたのです。経済に関しては、デンマークは穀物の生産が経済の基盤だったのですが、1880年代に米ロの台頭で国際競争に負けたので、イギリス向けに酪農で生き残りをかけたのです。現代デンマーク農業もその辺はあまり変わっていないです。第二次シュレースヴィヒ戦争については民族主義の動向を含めて執筆を考えている予定です。--Wushi 2011年12月30日 (金) 11:42 (UTC)[返信]

エイブラハム・リンカーン[編集]

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  • (審査員コメント)読み応えのある内容です。ただ翻訳による部分が多いのでしょうか、表現がこなれていない印象を与える個所があるのが残念です。--Bletilla 2011年12月21日 (水) 07:30 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)主軸となる「#大統領職」項を中心に、読み応えのある記事に仕上がっています。今回の加筆ではリンカーンの持つ価値観や人物評を中心に幅広く及び、その傑出した人となりについて一層整理された印象を持つことができました。さて、当記事に「リンカーンはどうして弁護士や政治家の道を志すようになったのか」、いわば職業選択に関する動機の記述が薄いように感じます。「エイブラハム・リンカーンの前半生#少年時代(1809年-1831年)」や「同#ニューセイラム(1831年-1837年)」に記述された下記の文章をカバーされてはいかがでしょう。
*父のトーマスが土地を購入してから3年後、…(中略)…これらの事情が動機になった可能性がある。
  • ニューセイラムでの最初の冬に、…(中略)…議員候補者になることを宣言した。
また、Bletillaさんも上記ご指摘なさっている通り、もう少しこなれた表現にしていただきたい箇所があります。
*リンカーンの性格は「すべて偏狭において彼の経験した、人としての鍛錬と切り離しては考え難い事柄である」と述べている。(#生い立ち
  • 奴隷制廃止論者のジョシュア・R・ギディングスとの共同提案で、コロンビア特別区では奴隷所有者に補償金を支払った後で奴隷制を廃止し、逃亡奴隷を捕らえることを強制し、この件について住民投票を行うという法案を起草した。(#国政への進出
  • リンカーンはポークに血が流された正確な地点を示し、そこがアメリカの大地であることを議会に示すよう要求した。議会はこの決議案を取り上げず議論すらしなかった。全国紙はこれを無視し、リンカーンはその選挙区での支持を無くす結果になった。(同上)
  • リンカーンは建国の父達が国民主権をほとんど使わず、奴隷制を制限することを繰り返し求めたと論じた。共和党の道徳の基礎は奴隷制に対する反対が必要であり、「正しいことと間違ったことの間の中間を模索すること」を拒否すると主張した。リンカーンの洗練されていない外貌にも拘わらず、聴衆の多くは彼が不恰好で醜いとすら考えた。(#リンカーン・ダグラス論争とクーパー・ユニオン演説
  • 戦争の遂行はリンカーンに対する打ち続く非難の源となり、彼の時間と注意を占領した。初めから戦争を成功に導くためには二大政党の支持が不可欠であり、共和党員と民主党員を北軍の指揮官に指名するときなどは、如何なる妥協も議会の両側にいる党派を疎遠にした。(#北軍の指揮
#リンカーンとインディアン」項に限っては、加筆をお進めになりながら、ご自身で {{要出典|date=2011年11月|}} を複数箇所付加なさっているのは、何かお考えがあってのことでしょうか[3]。別に、「アメリカ独立宣言の起草者は…(中略)…『全ての者は平等に生れ付いており、一定の奪うべからざる権利、そのうちに生命、自由および幸福の追求を含む権利』について平等であると考えたはずである」と主張した(「#奴隷制と"分かれたる家"」)リンカーンは、インディアンに対して常に徹底排除の姿勢で臨んだ側面があり、詳細がこの項にて説明されています。当記事を拝読することで、祖父が目前で襲撃に遭い、かつ師と仰いだヘンリー・クレイがインディアン排除論者であった影響を受けたものだと推測されます。ここに、事実に加え彼の心情を示す説明記述がさらにあれば、より人間考察に深みが出るように思いました。--もかめーる 2011年12月21日 (水) 09:16 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)丁寧なコメントを有難うございます。また「エイブラハム・リンカーンの前半生まで読んでいただき重ねて感謝です。少年時代の記事は工夫して追加してみたいと思います。Bletillaさんもご指摘の通り、訳がこなれていないのは私の読み返し不足ですね。ただし、もかめーるさんご指摘のところは全て訳出に困ったところばかりでして、まさに痛い所を突かれました。特に「外貌」と「醜い」のところは今もって判然としていません。もう一度読み直して前後から状況判断するつもりです。さて、インディアンのことですが、ここに集めたのは、私が編集する以前にIPユーザーが短期間に集中して書き込まれたもので、出典が明示されておらず、文献をあたってもその信憑性がはっきりしないものばかりです。書き込まれた方に出典を明示していただきたいという意図があります。また内容的にかなり偏見が入っているのではないかという懸念もありました。リンカーンへの書き込みと同時期にアメリカ合衆国初期の大統領数人の記事にも「大量虐殺」「民族浄化」をキーワードにした書き込みが多く見られたという事実があり、ここに書かれているようにインディアンの立場からのみの記述では読者に誤った観念を与えないか心配です。推測ですが、特にリンカーンを初めとする初期の大統領たちにインディアンのことまで配慮する精神的時間的余裕がなかったのではないかと思われます。入ってくる情報や要請に対し、何かを指示をしたのか、それ(徹底排除)が当時の通念だったのか、あるいは何もしない、指示しないことが、「虐殺を容認した」と解釈されたのか、たとえそれだけの責任がある立場の人とは言え、時代背景を考えれば酷ではないか、と考えた次第ですが、このあたりに言及する文献は見つけておりません。たとえインディアンの立場で書かれた文献であっても、やはり納得できる出典が欲しいと思います。--龍伯 2011年12月22日 (木) 11:19 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)執筆おつかれさまでした。日本語版の利用者の多くにとって最もなじみの深いアメリカ人の一人だと思いますし、重要度の高い項目を加筆されたことに敬意を表します。記事を読んだ印象としては、まず他の審査員も言及されていますが、表現上の問題から意味がとりづらい文がありました。とくに引用された発言の意味がとりにくいと、少なからず消化不良を感じてしまいます。たとえば「奴隷制と"分かれたる家"」節の「無関与を「宣言」しているが、奴隷制の拡大について秘密の「真の」情熱を考えなければならない。私はそれを憎まざるを得ない。奴隷制自体の巨大な不公正の故に私はそれを憎む。それが我々の共和制の世界に与える影響を奪うので私はそれを憎む。」、「最高裁判所判事」節の「我々は彼が行うであろうことを尋ねられない。また我々が尋ねたならば、彼は答えるべきである。我々はそのことで彼を軽蔑すべきである。それ故に我々はその意見が知られている者を選ばねばならない。」「リンカーン・ダグラス論争とクーパー・ユニオン演説」節の「第2のライバル(サーモン・チェイス)の忠誠者が用意したイベントで、第1のライバル(ウィリアム・スワード)の出身州に現れた予告無しの候補者のための最高の政治的動きだが、その演説中も2人のライバルの名前にすら触れなかった」といったあたりが難解に感じました。以下、それ以外の点についてコメントします。
  1. 「生い立ち」節で「ユーモアのセンスを豊かに持っていた」とありますが、具体的なエピソードについて加筆することは可能でしょうか?
  2. 同じく「生い立ち」節に、「後年は度々父から金を借りることがあった。リンカーンの父は無学だったこともあって、次第に父からは疎遠になっていった。」とありますが、疎遠だが金は度々借りられる関係というのはやや奇妙な感じがします。この点について現在記事に書かれている以上の情報はないでしょうか?
  3. 「イリノイ州議員」節で1832年に落選した原因について、「教育が無く、強力な友人と金が無かったことがその落選に結びついた可能性がある」とありますが、彼がその後どのような資金源や人脈を得て政治家として大成していったかについて、加筆することは可能でしょうか?記事の中ではドイツ語新聞買収に触れていますが、これだけでは弱い気がします。鉄道会社の弁護人を務めたことから、鉄道会社の支持があったのかなどと推測してみましたが…--Pastern 2011年12月30日 (金) 10:24 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)貴重なコメントを有難うございます。厳しいご指摘もあり、特に引用した発言はかなり言葉が省略されており、文脈からの判断が難しいところです。ユーモアの件と2回目以降の選挙の件は、直ぐにでも補えるところです。また少し長くなるかもしれませんが、加筆してみます。よろしくお願いします。--龍伯 2011年12月31日 (土) 04:08 (UTC)[返信]

鎌倉仏教[編集]

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  • (審査員コメント)各宗派に関する情報が偏りなく、かつ多彩に盛り込まれています。「新仏教」各宗派の開宗からの歩みが、開祖の行動を軸にまとめられている一方、「#旧仏教の刷新」項にて南都六宗・平安二宗の変化にもスポットライトを向け、各識者による「#鎌倉仏教論」にて中世に各宗派が並立した意義についての分析が試みられています。当記事のカバーしうる範囲は実に広く、一本にまとめて構成し、編集を試みるのははなはだ難解だったのではないかと推察されますが、結果として素晴らしい模範的百科事典記事に仕上がりました。直截な表現ですが、私はこの記事がとても好きです。さて
*法然は自身を「乱想の凡夫」と自己規定し、それゆえ観念ではなく称念、観仏ではなく念仏に専修できると諄々と説いていった(#法然と浄土宗
この文章は分かりづらく、可能であれば「観念」「称念」・「観仏」「念仏」の差異についての説明をいただきたく思います。また
*松尾剛次は、鎌倉新仏教…(中略)…「真言律宗」教団を鎌倉新仏教の1つとする説を唱えた。(#「真言律宗」の扱い
この2文はセンテンスとして長く感じますので、適切に分割されるとより読みやすくなるのではないでしょうか。その他、「#栄西と臨済宗」項で、栄西が帰国して臨済宗を開いた後、数年で異端として迫害を加えられることになった経緯について、既存勢力との調和を図ろうとした栄西が疎まれたのは何故なのか、また
宋に渡って船が寧波の港に着き、積み荷のシイタケを買いに来た老僧との対話も、その後の道元の思想形成に強い影響をあたえることとなった。(#道元と曹洞宗
とあり、興味深いエピソードが続きますが、受けた衝撃から、道元が具体的にどんな行動を取るに至ったかなどの説明記述があれば、読者の興味を一層かき立てるのではないか、と期待されます。--もかめーる 2011年12月26日 (月) 09:00 (UTC)[返信]
(加筆者コメント)何より嬉しい言葉をいただきました。ありがとうございました。御指摘の点は、いずれも、正鵠を得たものと存じます。丁寧な、また、鋭い読みをなさってくださっており、その点でも感謝の気持ちでいっぱいです。加筆後にあたった文献で興味深いものもあったので、そこも加筆しながら、御指摘の点を改善したいと思います。ありがとうございました。--Chokorin 2011年12月26日 (月) 12:20 (UTC)[返信]
  • (コメント)執筆お疲れさまでした。力作であるうえ文章・構成とも読みやすく、興味深く拝読いたしました。以下、詳細なコメントです。
  1. 「承元の法難と信仰の自由」節に、「親鸞はここで、朝廷に対し『信仰の自由』を主張し」という記述がありますが、ここでは「信仰の自由」が信教の自由にリンクされています。しかし親鸞が当時主張した「信仰の自由」が、近代立憲主義思想における信教の自由と同内容であるとは到底思えず、このリンクには違和感を覚えました。
  2. 「旧仏教の刷新」節に、「新仏教各宗派が実際に社会を動かすような力を持つようになるのは室町時代から戦国時代にかけてのことである」という記述がありますが、「社会を動かす」とは具体的にどのようなことを指すのでしょうか?
  3. 「八宗体制論と顕蜜体制論」節に「荘園制を古代的制度ととらえる」、「荘園制を中世的制度ととらえる」という表現が出てきますが、ここでは何をもって古代的、中世的と判断しているのでしょうか。私の知識の不足によるものかもしれませんが、今一つピンとこないところがあります。
  4. 記事の中には専門的な用語も多く登場しますがきちんと説明が加えられており、難解という印象は覚えませんでした。ただ「親鸞と浄土真宗」節に出てくる「宿世の善根」という言葉には解説が欲しいと感じました。
  5. 「『新仏教』・『旧仏教』概念の提唱」節の「という指摘がなされた」、「『真言律宗』の扱い」節の「…とする見解もある」といった表現については、言葉を濁していると受け取られないよう、脚注を使って出典を示すほうがいいと思います。--Pastern 2012年1月3日 (火) 01:38 (UTC)[返信]
(執筆者コメント)コメントありがとうございます。
1.について。「信教の自由」という言葉を法律用語・憲法用語というふうに限定的にとらえるとしたら、確かに、おっしゃる通りだと思うのですが、「信教の自由」もまた歴史的につくられてきたものであり、もっと広くとらえてもよいのではないでしょうか。ヨーロッパにおいては、16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでは、農民戦争、三十年戦争、ユグノー戦争、清教徒革命など各地で血で血を洗う宗教戦争があり、フランスでは、ブルボン朝の始祖となったアンリ・ド・ナヴァルはカルヴァン派新教徒でしたが、アンリ4世として王位に就いた際、多数派であるカトリックに改宗したいっぽう、ナント勅令を発して信教の自由を認めて内戦を終結に導いたとされています。異教徒、新教徒は火あぶりが当たり前みたいな時代ですから、これは画期的なことです。とはいえ、ブルボン家の子孫のなかには新教徒を弾圧した王もいますし、自由権のひとつとして信教の自由が憲法上明記されるのは、欧米においても、もっと後の話になります。親鸞の場合は、これとは時代も国もシチュエーションも全然違うわけですが、13世紀の段階で、そのようなことを主張しているというのは、世界史にみても興味深く、あるいは特筆すべきことではないかと思い、あえてそのようにリンクしました。親鸞の先駆性や画期性などということを過大に言うつもりはないのですが、逆言すれば、そう主張せざるをえない情況があったのでしょう。かつて石母田正氏が鎌倉新仏教をルターやカルヴァンの宗教改革になぞらえたことがあります。それが妥当かどうかは別として、親鸞のはじめた宗教というのはインドで仏陀が説いた仏教からすれば相当異端に属することは間違いないだろうと思います。「信教の自由」という言葉は、案外、そういう異端に近いところから出てくるのではないでしょうか。個人的には、むしろ「信教の自由」の記事の歴史部分を充実させなくてはならないのではないかと考えます。
2.について。具体的には、多数の信者を獲得して一向一揆法華一揆を組織できるくらいにまでなるということをイメージしました。これは、いわゆる「旧仏教」(南都六宗、平安二宗)や臨済宗のなかでも五山などの勢力は、それ自体が権門であると同時に、従来、朝廷や幕府、あるいは有力守護大名といった権門からの保護も受けていたわけですが、戦国時代に入ると、そうした権門相互のつながりがなくなり、凋落してしまいます。替わって教勢をのばすのが、いわゆる「鎌倉新仏教」6宗です(臨済宗では五山以外の勢力が拡大します)。それゆえ、本当は「鎌倉新仏教」ではなく「戦国新仏教」という言葉の方が実態を反映するのではないかという指摘もあります。このあたりは、確かに言葉足らずなところがあり、加筆した方がよさそうです。
3.は、土地制度史の話題であり、研究姿勢につながる話題ですので、難しいです。わたし自身も、実はあまりピンと来ていないかもしれません。「古代的」「中世的」ということですが、近年では概説書などでも「中世のはじまり」が鎌倉時代になっておらず、院政期あるいはそれ以前の段階から「中世」が叙述されています。頼朝が鎌倉幕府をひらいたということ以上に、寄進地系荘園の広がりや国家や政治権力がそれを基盤に成立しているということの方に大きな画期を認める傾向が強まっているようです。1970年代くらいまでの研究では、中世イコール武士の時代で、武士というのは荘園を侵略・破壊してゆく新興勢力であって、侵略した土地は自分の領地として配下に分けることで封建制を形勢してゆくということだったんだろうと思いますが、最近では、武士だけで中世社会が成り立っているのではなく、公家や寺社も社会的にはきわめて大きな比重を占めており、また、武士なり封建制というのもまた、荘園を拠り所ないし母体にして生まれてきた勢力・制度であるという理解が広がっているということだろうと思います。詳しくは、こちらを御覧下さい(「中世史像の変化と鎌倉仏教(1)」平雅行 (PDF) )。定説がくつがえるということは、古代史や近世史にもおおいにあることだと思うのですが、中世に関しては、中世をどんな時代ととらえるか、中世史像の抜本的な見直しが各方面からなされているようです。
4.について。善処いたします。
5については、実は私が言葉を濁してしまいました。加筆前に出典なしで書かれていた内容ですが、削除するには惜しい情報であり、そのまま活かすことにしました。とはいえ、実際に典拠にあたっているわけではないので、断定はなるべく避けた方がよいのではないかと判断して、そのような表現にしました。実際に典拠にあたる機会があれば、もっと確実な表現に改めたいと思います。
深く読み込まれ、詳細なコメントをお寄せいただいたことに感謝します。ありがとうございました。--Chokorin 2012年1月7日 (土) 23:12 (UTC)[返信]

宮崎勤[編集]

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  • (審査員コメント)神戸連続児童殺傷事件とあわせて執筆お疲れさまです。主要な参考文献は一橋文哉氏と鈴木伸元氏の著書2冊で、他に佐木隆三氏の著書など参考にできそうな資料がまだいくつかあることを考えると、まだ加筆の余地はありそうだと感じる反面、現段階で集めた情報はよくまとめられているという印象を持ちました。疑問としては、この人物が起こした一連の犯罪について、この記事を読むだけでは概要すら把握できないというのはどうなのかという点があります。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件に詳細を委ねるにしても簡略化し過ぎている気がしますし、そもそも東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件のほうも出典がほとんどついていない状態の記事ですから、こちらの記事をどんどん加筆して、明らかに過剰な部分をあちらに転記するという方法もとりえたのではないかと思います。少年法に守られていない分、犯人に関する情報は多いでしょうし、今後記事の質が向上する可能性という点では神戸連続児童殺傷事件よりもこちらの方が高そうです。--Pastern 2011年12月26日 (月) 22:44 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)「宮崎勤」という名前を耳にすると、今なお背筋が寒く思われる方は多いでしょう。社会を震撼させた人物のひとりに焦点を絞られ、出典面を始めとした未整備箇所に適切な編集を加えられた意義は大きいものです。当記事を通じて、幼児期に適切なケアや温かな配慮を受けることができたなら、彼も一個の人間として普通に人生を歩めたのではないか、と考えてしまいます。一方、「#家族」項に記述された、事件後の彼の家族に対する厳しい風当たりは、「メディアスクラム」「私刑#メディア・リンチ」を想起させるもので、別の意味で深慮するに至りました。
さて、「#生い立ち」項を拝読するに、習い事や就職、家業の手伝いなどに当たり、彼に対する家族のサポートも少なからずあったように読みとれます。身体障害が彼の人生に暗い影を指したことは理解できるのですが、当記事の情報のみでは、極めて異常な事件を引き起こした彼の心理的背景がいまいち分かりづらく思われます。たとえば、「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件#動機」項には、「幼少の孤独が彼の精神を幼児期のまま停滞させたため、子供のような性格と性的嗜好を有していた」の記述があります。その根拠となる事象や、これに限らない彼の“人となり”に対する識者や第三者による複数の分析情報があれば、より多面的に彼の人間性を窺い知ることができるのでは、と感じました。
なお、エントリー記事「神戸連続児童殺傷事件」と同様に、#脚注・出典項について、挙げられている表示方式を統一いただければ、と思います。--もかめーる 2011年12月27日 (火) 06:21 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)出典項を統一しました。また、宮崎自身と事件のバランスが悪いのは分かっています。今後、改善していこうと思います。なお、この事件に関しても絶版になっている本が多く、一橋文哉氏の本も絶版です。書店に在庫があったので購入しましたが…。--Fumon1987a 2012年1月1日 (日) 11:40 (UTC)[返信]

シギショアラ歴史地区[編集]

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  • (ライバルコメント)世界遺産の記事を多く手掛けているSumaruさんの加筆です。ルーマニアの世界遺産ということですが、簡潔に要領よくまとめられていると思います。修正要望箇所が2か所。
  1. シギショアラ歴史地区#歴史の最終段落・・・「共産主義政権下においては……」と書いてありますが、完全に誤記です。ルーマニア社会主義共和国にしないといけません。
  2. 脚注3「ジョルジュ・カステラン (1993) 『ルーマニア史』 萩原直 訳、白水社〈文庫クセジュ〉、p.12」これだけ書籍情報が脚注に書いてあるので、他の脚注と同様、カステラン (1993) p.12と脚注に記入し、参考文献に書籍情報を書いてください。 --Wushi 2011年12月20日 (火) 12:58 (UTC)以上です。[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。さて、第1点目についてはおっしゃるとおりです。2008年に加筆したときに何か豪快な勘違いをしていたのだと思いますが、今回の加筆でも見落としていたのは我ながら間抜けというほかありません。
      ただ、第2点目については意図的にやったものです。カステランの文献はトランシルバニア・ザクセン人についての関連情報の出典として使ったものであり、その本には(私の記憶違いでない限り)シギショアラ固有の話は出てきません。書式を統一したほうが好ましいという観点はもちろん分かるのですが、記事の主題と直接かかわらず、なおかつ1箇所使っただけの文献をその記事の「参考文献」としてリストアップすることに、私は強い抵抗感を持っています。読者にとってもミスリードになるのではないかということと、参考文献の「水増し」と解釈されるのではないかといった気持ちがあるのです(なので、今回他分野でエントリーした記事にも同様の示し方をしている箇所が複数あります)。Wikipedia:出典を明記するでも「参考文献(書籍や論文、ウェブページなど)の一覧を用意してください」とある一方、「出典が参考文献の節(後述で説明)に記載されている文献である場合は」とあり、使った文献の全てを参考文献節にリストアップせよということになっているのか不明瞭ですし、この点の修正についてはひとまず棚上げとさせていただけたらと、個人的には思います。--Sumaru 2011年12月20日 (火) 14:32 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)「ルーマニアの宝石」と称えられる当地区について、城塞都市内外の建築物を中心に、分かりやすく丁寧にまとめられています。さて、私は「シギショアラの保存状態が良好であった」点が世界遺産登録の鍵となったように読みとりました。
タタール人やオスマン帝国の侵攻に備えた防衛拠点として、トランシルヴァニア地方に残る要塞聖堂が比較的良好に残っているのに対し、城塞都市にはあまり良好な形で残っているものがないためである。(#歴史
他方、同項にて当地区には「17世紀以降に相次ぐ災害に見舞われ、建物の損壊を蒙った」の記述があります。当地区にて建築物の保存状態を高めるためには、何かしらの工夫や努力が凝らされたのでしょうか。また、「1990年代以降、本格的な景観保存が検討されるようになった。(同)」との記述について、具体的にどのような施策が検討され、実施されたのでしょうか。例えば新規建築物の高さ規制や自動車の区域内進入禁止などが行われているのかどうか、このあたりは「#保存を巡る動き」項に、さらなる加筆される余地があるように感じました。--もかめーる 2011年12月28日 (水) 06:41 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)執筆おつかれさまでした。テーマについてわかりやすくまとめられており、スムーズに読み進むことができました。1点質問があります。中世的な景観を保持しているとのことで、具体的な建築様式としてゴシック様式、バロック様式、ルネサンス様式といった言葉が登場しますが、都市全体の構成としてはどの様式が多くみられるのでしょうか。1676年の大火によって都市の約75%が焼失したことから、あまり古い様式のものは残っていないのではないかとか、ドミニコ会修道院付属教会のように複数の様式がみられるケースも多いのではないかとか、色々と想像することは可能ですが、実際のところはどうでしょう?--Pastern 2011年12月28日 (水) 09:23 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。お二方に答えさせていただきますと、まず保護政策についてですが、この記事の場合、仰る通り、保存状態のよさがアピールポイントになっているわけですから、確かにもう少し記述すべきでした。確か、推薦書や評価書にもその辺の記述はあったと思いますので、今後加筆したいと思います。
    建築様式についてですが、適用された評価基準からするならば、おそらく建ち並ぶ民家は様々な様式の記念建造物群と異なり、ラテン文化とビザンティン文化の境界域のローカルな様式なのではないかと思います。民家の様式については評価書などでも言及されていたのですが、具体的なイメージがわかず、著作権侵害にならないように自分の言葉で平易に書き直すことが難しいと感じられたため、あえて触れず、ランドマーク群に叙述を絞っていました。それでも問題ないとの認識でしたが、それで都市景観の全体像が伝わるかといえば、問題があったと思います(ホッローケーのように、民家の様式についてある程度踏み込んでくれている日本語文献があれば、ありがたいのですけれど)。--Sumaru 2011年12月30日 (金) 11:26 (UTC)[返信]

プリンスルパート[編集]

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  • (ライバルコメント)カナダの一地方自治体について脚注付記をしてWP:Vの努力が垣間見れます。歴史の表舞台に出てくるような街ではないので、ネットを出典とした脚注付記になるのは致し方ないと思います。コメントとして、
  1. プリンスルパートに、グランドトランク太平洋鉄道が鉄道を引こうとしたのか本文のみでは分かりにくいです。カナダの太平洋岸がここにしかないからここに鉄道を敷設しようとしたと思いますが、その理由がはっきりするといいと思います。
  2. 赤リンクが多いので、出来れば{{仮リンク|グランドトランク太平洋鉄道|en|Grand Trunk Pacific Railway}}の形で文章を入れてください。そうすれば、グランドトランク太平洋鉄道英語と表示されるので、各言語間のリンクが容易となります。
  3. 本文とはほとんどまったく関係ないので、改良の余地は地理の記事よりアニメ主執筆者に任せたいのですが、アムロ・レイの出身地となっているそうです。このことは、『機動戦士ガンダム』の何らかの文献で言及されているのでしょうか?--Wushi 2011年12月18日 (日) 03:25 (UTC)[返信]
  • 返答 コメントありがとうございます。
  1. グランドトランク太平洋鉄道については、私が見た出典の中では、「なぜ鉄道を敷設したか」が全く書かれていませんでした。「カナダでアジア(日本)から一番近い町」のようなことは書いてありましたが、それを理由として掲載するとWP:SYNになるので掲載しませんでした。理由としてではなく、「地理」節に単体で掲載してもWP:JPOVに抵触するので、全く掲載しませんでした。英語版では「チャールズ・へイズは大型客船のための接岸設備や観光産業の発展などのアイデアを持っていた」のような事が書いてありますが、英語版では脚注がなく、出典が不明なため、ほとんど翻訳しませんでした。ただ、第二次世界大戦の頃は戦略上の理由で、人口が急増したようです。
  2. 赤リンクについてですが、今後改善していこうと思います。
  3. アムロ・レイの出身地についてですが、私は機動戦士ガンダムについての書籍は全く持っていないので、分かりませんでした。
以上で、Wushiさんの質問への返答は終わりです。--Wikiemon - Talk - History 2011年12月18日 (日) 03:58 (UTC)修正--Wikiemon - Talk - History 2011年12月18日 (日) 08:03 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)テーマを考えるとスタブ状態をここまで高めたのは素晴らしいことで、かなり力作だと思います。検証可能性もかなり高く、テーマ的に参考文献は他言語のものばかりだろうという先入観を持っていましたが、日本語の資料が予想外に多いのに驚きました。--Pastern 2011年12月26日 (月) 23:04 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)人口1万人強のカナダの地方都市ではありますが、「1967年6月、日本の練習船「海王丸」がプリンスルパートに寄港(「#プリンスルパート市誕生後」)」した縁で、尾鷲市と姉妹都市提携が結ばれるなど、わが国との関係も見られるのですね。さて、当記事右上のインフォボックスには、当市の人口が「12,815人」と記されています。
プリンスルパートは、1万年以上先住民が居住し、ツィムシアン族(英語)の伝統的な領地である。また、トゥシンシャン族とハイダ族(英語)の集落の中央に位置している。トーテムポールも多く設置され、市内や郊外で見ることができる。ギックサン族やニスガ族も生活していた。2011年現在、先住民は約1万人である。#先住民
という記述からは、先住民の居住区としての歴史を感じますが、現在においてもプリンスルパート市の人口の大半は先住民であると考えてよろしいでしょうか。なお、これらの先住民とプリンスルパートの町の関わり合いについて、例えば一定の権利や自治が保障されているのか、あるいは旧来からの漁業港、缶詰工場などと先住民の関わりなどにおいて、さらなる加筆が進むようであれば、記事に一層深みが出るように思いました。--もかめーる 2011年12月28日 (水) 06:07 (UTC)[返信]
  • 返答 コメントありがとうございます。
時事ドットコムの[4]には「彼らの現在の人口は、約1万人と推定されている」と書いてあります。英語版には先住民についての記述はありませんでした。しかしあまりにも「1万2815人中1万人が先住民」は多すぎるので、白人などとの混血も含んでいるのかもしれません。
私が目を通した文献の中には「自然や文化的な影響を最小限に抑えるために先住民の居住区域の入場制限を行っている[5]」と書いてありましたが、権利や自治、旧来からの漁業港、缶詰工場などと先住民の関わりについて書いてある文献はほとんどありませんでした。--Wikiemon - Talk - History 2011年12月28日 (水) 07:46 (UTC)[返信]

イタリア統一運動[編集]

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  • (審査員コメント)群雄割拠した中世から、種々の闘争を経た近現代に至るイタリアについて、編集難度の高いポイントをいくつも抱えた記事であるにもかかわらず、精緻にまとめ上げられました。たいへん重厚な記事ではありますが、「イタリア統一の三傑」として知られる、革命家で急進民主派のリーダー「ジュゼッペ・マッツィーニ」、サルデーニャ王国首相「カミッロ・カヴール」、軍人で国民的英雄となった「ジュゼッペ・ガリバルディ」の3名に焦点を合わせることで、スルスルと読み込むことができました。通して読みつつ、記事の最初に全体を俯瞰した概要部分をその都度確認し、イタリア統一への流れについて深く勉強させていただきました。さて、2点お尋ねしたいところがあります。まず
ウィーン会議を主宰したオーストリア宰相クレメンス・メッテルニヒは「イタリアという言葉は地理上の表現以上のものではない」と言明している 。(#ウィーン体制
という表現がありました。アジアに置き換えれば、「インドシナ」に匹敵するようなものとして捉えられていたのか、と考えるのですが。「イタリア半島と、その付け根のアルプス以南の大陸部分と、サルデーニャやシチリアなどの島々#中世以降のイタリア)」をもって、ほぼ今日の姿である“一つのイタリア”と認識されるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。これについて関連する記述を抜粋いたしました。
*翌1815年に百日天下でナポレオンが復位するとミュラはナポレオンの側についてオーストリアに宣戦布告し、イタリアの自由主義者たちに外国勢力を駆逐してイタリア統一を成し遂げようと呼びかけた(#ナポレオン体制
  • 1830年にはイタリア統一を目指す革命の機運が蘇り、一連の蜂起によってイタリア半島に一つの国家を作り上げる基礎が形づくられた。(#中部イタリア革命
次に、ミニ国家「サンマリノ共和国」が今日までイタリア内の各国に併合されることなく、独立を維持し続けることができたのは何故なのか。つまり、周辺国との間にその都度硬軟交えた外交努力が行われたのかどうかについて、より知りたく思いました。
当記事は常に推敲と修正を繰り返されることで、完成度の高い、素晴らしい記事に磨きあげられています。編集者のこのご姿勢からも大いに学ぶべきところがある、そう一人の編集者として感じた次第です。--もかめーる 2011年12月27日 (火) 05:34 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)もともとローマ帝国の行政区分でイタリア本土 (古代ローマ)があり、島嶼部を除くと今のイタリアとほぼ同じ範囲です。中世以降での統一イタリア国家の提唱はルネサンス期のダンテやマキャベリーが代表的です。リソルジメントの起源をこの時代にまで遡るとする解釈もあるのですが、参考文献の筆者たちはいずれも遡りすぎと否定的で、18世紀の啓蒙主義か、ナポレオン体制が出発点とする解釈です。ちなみに、イタリア語版は古代のイタリア本土やルネサンス期から話を始めてます。
カルボナリなど初期の革命運動もイタリア統一という考えを含んでいたのですが、記事にあるとおりカルボナリや初期の秘密結社は政治目標が明確でなく、その活動は地域主義に留まって連帯を欠き、統一は具体的なものではありません。具体的にイタリア統一を標榜した社会運動はマッツィーニと考えていいと思います。ただし、これは一部の急進的な民主派の思想で、現実路線の穏健自由主義たちは、せいぜい連邦制を提案するぐらいで、統一イタリア国家なぞ夢想に過ぎないと考えていました。そもそもローマ帝国は遠い昔で、千年以上も複数の国が並び立っていたのですから。カヴールも北イタリア王国の樹立までしか考えておらず、国情も違うし、経済的にお荷物になる南イタリアはいらないと考えていました。ところが、ガリバルディがあっという間に両シチリア王国を崩壊に追い込んでしまって、もう時の勢いで統一したという流れのようです。
サンマリノが独立を守った経緯については参考文献には基本的に書かれていませんでした。イタリア語版のサンマリノの記事を目を通した限りでは、古くからサンマリノは亡命者のアジール的な場所だったらしく、1849年にローマ共和国が崩壊した際にガリバルディを庇護しています。その後も亡命者の保護や革命派の支援を続けており、怒った教皇とオーストリアが占領しようとしたのですが、ナポレオン3世に阻止されています。サンマリノは自由主義・民主主義擁護の立場で、南北戦争が起こったときにはリンカーンに同盟を結ぼうと提案してます。
英語版にあった記述によるとイタリア統一後にガリバルディがサンマリノの要望を口利きしたそうで、結局、伝統ある独立が尊重されて1862年に友好条約が締結されて独立が保障されたということらしいです。個人的な印象では、要は人口が少ないミニ国家ですし、経済的価値もなく、地理的な要衝でもないですし、革命期の行いも好印象なものだったので、イタリア王国にとっても形式的に独立していても構わなかったんでしょう。--野島崎沖 2011年12月27日 (火) 10:39 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)執筆おつかれさまでした。もかめーるさんもコメントされているように複雑なテーマについて上手くまとめられており、素晴らしい出来栄えだと思います。1点質問です。カミッロ・カヴールは経済的な理由から南部の統一を考えておらず、統一後実際に南北の格差問題が持ち上がったわけですが、北部の人々が南北統一をどのように考えてきたのかについて資料に言及はあるでしょうか?経済の問題があるにせよやはり統一したこと自体は歓迎されているのではないかと思う一方、「南部なんて統一しない方がよかった」という議論が一部で持ち上がったとしても不思議はないという気もするのですが…--Pastern 2011年12月31日 (土) 05:52 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)カブールら穏健派が南部が経済的な負担になり、産業発展の妨げになると考えていたことはマックス・ガロ 『イタリアか、死か―英雄ガリバルディの生涯』のpp.296-297にあります。統一後の南部の反乱(山賊大反乱)に関する『イタリア史』 北原敦(編)p.411には1860年の併合の時点で南部に対し「他者としてのイタリア」という認識が芽生えていたとあり、反乱を鎮圧した政治家や軍人は南部を未開と貧困の世界と表現していたそうです。
ただ、イタリア王国時代の具体的な南部無用論は私が読んだ2冊の通史には記憶がありません。個人的意見では実質的には南部はサルデーニャが「征服」した土地ですから、それを手放すという意見は当時の感覚としては出にくいと思います。それどころか第二次世界大戦までは未回収のイタリアを奪回せよとの領土拡大論の方が幅を利かせていましたから。具体的な南北切り離し論は冷戦後の北部同盟の登場以降の様です。--野島崎沖 2011年12月31日 (土) 06:53 (UTC)[返信]

陳朝[編集]

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  • (ライバルコメント)日・中・米・露・西欧主要国(英仏独墺西伊など)といった世界史で主に習う国以外であるヴェトナム史の王朝でここまで政治、外交、経済、文化の範囲まで充実した記事に成長できるのかと素晴らしいの一言です。ぜひ、陳朝の前後にある、李朝黎朝といった記事の充実もお願いしたいところです。気になったのは参考文献(50音順、ABC順)の整理くらいですので、可能ならば整理してください。--Wushi 2011年12月24日 (土) 08:17 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)執筆お疲れさまでした。文章・構成ともに読みやすく、内容の確認のために別の節へ飛んだり他の記事を参照するということがあまりありませんでした。以下は具体的なコメントです。
  1. 李朝末期、反乱の鎮圧を期に外戚であった陳氏が台頭していったとのことですが、力を頼られた際すでに陳氏は相当の実力を有していたのでしょうか?それとも、鎮圧を機に一気に台頭したという感じでしょうか?
  2. 陳朝と元朝との関係について、第一次侵攻と第三次侵攻の後、相手を撃退したにもかかわらず陳朝は元朝に臣従する姿勢をとっていますが、これは臣従の形をとってはいるが実際には「そう簡単に思い通りになると思うなよ」というメッセージが込められたもので、元朝が当初要求した内容の従属とは違いがあると考えて構わないでしょうか?(そうでないと、一体何のために戦ったのかという疑問が湧いてきますが…)
  3. 「医学」節の「儒学の社会的地位が高まり、それに伴って医学も発展の機会を多く得た」という一文が意味するところは、私の知識ではピンときませんでした。可能でしたら説明を加えて頂けるとありがたいです。
  4. 「元首等」に挙げられているのが太宗ら4人ですが、他の皇帝は何らかの理由で元首とみなされていないということでしょうか?--Pastern 2011年12月27日 (火) 02:49 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。
  1. 感覚的には後者が近いと思われます。執筆で参照した『東南アジア史1 大陸部』『中世大越国家の成立と変容』には、「地方の一勢力であった陳氏は内乱を勝ち抜いて勢力を築き上げた」旨の記述はありますが、「力を頼られた当時の陳氏が李朝において頭一つ抜けた勢力だった」と読み取れる旨の記述はありません。李朝末期の反乱の過程については期限後に水野白楓さんが加筆を行われていますが、私の方でも加筆を行っていきたいと思います。
  2. 第一次侵攻については、『モンゴル帝国史』2巻には「陳朝は降伏し、使節をモンゴルの宮廷に送った」という旨の記述がある一方で、『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』には「陳朝は奮闘の末にモンゴルを撃退した」と書かれているため、戦闘の勝敗について断言することを避けています。第三次侵攻については、お考えの通りです。元朝が当初要求した、陳朝の属州化とも言える条件(王子の差し出し、多額の貢納、陳朝に元朝から派遣された代官を常駐させるなど)は撤回され、代わりに名目的な君臣関係(冊封)が成立しています。注釈による第一次侵攻の補足、第三次侵攻の結果のフォローが必要だと感じさせられました。
  3. 大変申し訳ございません。誤訳です。辞書を引き直し、適切な文に書き直します。
  4. 誤解を招かせてしまい、申し訳ありません。全員元首と見なされています。記事で使用しているTemplate:基礎情報 過去の国の「元首等肩書」の項目を埋め、対処します。

コンクール後も引き続き、補足や修正が必要な箇所について加筆を行っていきたいと思っています。--オオミズナギドリ 2011年12月27日 (火) 15:18 (UTC)[返信]

  • (審査員コメント)一つの王朝国家「陳朝」について、人物・歴史面に留まらず、「#社会」項を始めとした国家の枠組みにまで細かく分析を入れられ編集されることで、奥行きの深い、読んで面白い記事に仕上がっています。完成度が非常に高く、構成上の指摘すべき事項は見い出せませんでした。あえて述べれば
*王朝成立前より陳氏の間では…(中略)…王族間の交差いとこ婚が頻繁に行われていた。(#王権
  • 官僚の選抜試験である科挙の受験…(中略)…官僚の子弟が資格を有しており(#教育
  • 陳朝の王侯貴族には采邑(タイアプ、所領)が与えられ、田庄(荘園)の所有が認められていた。(#田庄
  • 労務に従事する農奴、奴婢は地主の下で働く借田農民よりも酷使され、農奴、奴婢の子も主人の奴婢とされた。(同)
これらの文章から、陳朝においては身分制度が確立し、固定化されている旨が読みとれます。従いまして下記のような
[貴族](王侯>官僚)>[一般民衆](自作農>借田農民)>[奴婢](農奴、奴婢)
身分制度の簡単な図ないし説明があれば、読者の理解をより助けることができるかもしれません。お尋ねしたい点として
1396年に黎季犛が従来鋳造されていた銅貨に変えて紙幣を発行したことについて、銃火器の素材である銅の調達が背景にあったと推測した。(#兵器
これは、「銃火器の製造に銅が多用されたため、(紙幣を発行することで)貨幣としての銅の消費を抑えた」という理解でよろしいでしょうか。--もかめーる 2011年12月28日 (水) 03:13 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)評価とコメントありがとうございます。同時に、大変恥ずかしい誤字を直していただいたことに感謝しております。
  1. 身分の構成を補足するにあたっては、#田庄節の末で説明を行うことを考えています。
  2. おっしゃる通りのことを説明したかったのですが、もう一度文を読み返すと「銅の調達が背景にあること」の説明が無いために、文意が分かりにくくなっていますね。(汗 もうちょっと文を練り直してみます。--オオミズナギドリ 2011年12月28日 (水) 14:30 (UTC)[返信]

分野B[編集]

半金属[編集]

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  • (審査員コメント)元の記事がろくに説明のない状態だったところから大きく成長しており、加筆量としては高く評価できるものと思います。多くは翻訳に頼っているようですが、これに加えて和書で加筆修正を行っているので、信頼性的にも高い水準を確保できているものと思います。「分類」という節は、大体この手の節タイトルがあると、半金属の中をさらに細かく分類する基準が示されているのかと思ってしまうのですが、元素の中で半金属という分類について説明しているところなので、やや戸惑うところがあります。「定義」なのかもしれません。性質のところは、文章で全部説明してしまう手もあったと思いますが、表にまとめたことで一覧性がよくなったと感じます。この表でも、本来いくつもの元素を含んでいる「金属」「半金属」「非金属」という分類について一般的な説明をするのが難しいのはわかります。ただ、さまざまな指標について「高い」「低い」という言葉で性質を説明すると、それ以外の分類に比べて高いか低いかを表している相対的な評価ということになるのだと思いますが、「電気伝導度」のところなど「高く良好」「中程度に良好」「中程度に悪い」とあると、じゃあ非常に悪いという評価がないのか、ということに思えてしまいます。相対的な評価なら、一方の端は「良い」でもう一方の端は「悪い」ではないかと思えてしまうわけです。出典元にそう書いてあるのかもしれませんけど、熱伝導率などももっとも低くて「中程度」ってどういうことなんだろうと思えます。また、「半金属性の発現」の節は、半金属の性質の原因を説明しているところなので、「半金属とされる元素」の下に配置される節なのだろうかという疑問があります。「半定量的な特徴付け」についても同様に感じます。もう少し節全体の構成は工夫できる余地があるかなと考えました。ともあれ、説明の難しそうな「用途」も丁寧に書き込まれているようで、全体としてのできは高く評価できるものと思います。お疲れ様でした。--Tam0031 2011年12月22日 (木) 16:27 (UTC)[返信]
    • 非常に長い記事をお読みいただき、また評価、コメントいただきありがとうございます。分類節は、確かに定義などの方が分かりやすいかもしれませんね。半金属性の発現節に関しては、一般的に半金属とされる6元素に関しての説明ですのでこの位置になっています。一般的に半金属とされる6元素という枠組みが未説明なままでは書きにくく、また他の節との組み合わせもありどこに入れるか悩んだ結果の位置ですが、半定量的な特徴付け節とあわせて、まだまだ改良の余地はあろうかと思います。性質の表については、手持ちの資料では各元素の細かいところには詳しいものの、元素全体としてどうかといった総論的な部分を詳しく書いたものがあまりありませんで、英語版からの翻訳のままで中々手が付けられない状態となっています。ノートでMiya.Mさんからもご指摘いただいてますように、こちらも改善の余地は大きくあるものと思います。電気伝導度は、非金属元素の一部を占める気体元素でおおよそ10-18S・cm-1以下と非常に低いため、気体元素では悪いと書いてもいいかもしれません。全体としてブラッシュアップが必要な状態であるのは間違いないですし、いただいた助言を元に資料を探しながら改善していきたいと思います。--重陽 2011年12月30日 (金) 05:12 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)「#半金属とされる元素」節、元素各論と総論が入り混じっているので整理したほうがよい気がします。Tam0031 さんのコメントと重複しますが、「#半金属性の発現」節と「#半定量的な特徴付け」節は「#性質」節との関係を検討したほうがよいかもしれません。「#用途」節は良質な記事の選考でも話題になりましたが、私はこのくらいでよいと思います。半金属としての性質を使った用途があれば充分だと思うのです。あとスタイル的な問題ですが、斜体や言語表記のみの名前は使わないほうがよいように思います。引用は {{quotation}} を使うと、ちょっときれいな気がします。出典も整理が必要なような…これはなかなかしんどそうですが。あと、どうでもいいかもしれませんが Emsley はジョン・エムズリー (en:John Emsley) のことでしょう。--Calvero 2011年12月31日 (土) 14:40 (UTC)[返信]
    • コメントありがとうございます。半金属とされる元素節は節が長くなってしまっているのもありますし、確かに各論と総論に分けて整理した方がいいですね。言語表記のみの名前については、徐々には変えていっているのですが、ロシア語圏の人名などの日本語としての定訳がよくわからないものもあり、全てを日本語化するのはその言語に詳しい方の協力がいただけないと難しいかもしれません。引用部の斜体に関してはテンプレートを使ってすっきりさせた方が良さそうですね。ただ、引用が多すぎる感もあるので出来るだけ引用は削る方向で進めようかと思っています。出典の整備も出来る限りはやっていこうと思っています。エムズリーは反映させていただきます。--重陽 2012年1月2日 (月) 10:45 (UTC)[返信]

K-T境界[編集]

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  • (審査員コメント)恐竜絶滅の原因としてこういうイベントがあったという話は聞いたことがありましたが、詳細な説明がなされており、またその学説がどのように出てきたのかの説明もあって面白かったです。「隕石衝突時の状況」の節にある、「トランジェントクレーターの形状」とあるバリンジャークレーターの写真ですが、キャプションでもう少し修正が必要かもしれません。「バリンジャー・クレーター約5万年前」とつながってしまっているのは不自然に見えます。内容的には、隕石落下で地球規模での低温化、日照不足が生じて大規模な絶滅が起きたところまでは詳しく説明されていますが、その後生態系が回復していく様子がどうだったのかが、「大量絶滅」節に少しあるものの、もう少し詳しくわかればよいかなと思いました。--Tam0031 2011年12月23日 (金) 14:41 (UTC)[返信]
    • (お返事)Miya.Mです。Tam0031さん、ご指摘ありがとうございます。バリンジャークレーターのキャプションは修正しました。「生態系の回復」のこと、今回のコンクール期間で調べた範囲ではあまり記載されていませんでした、もうちょっと探してみます。なお「面白かったです」というお言葉は私にとって「大変うれしい」評価です。私にとって地学は「ものすごく面白い」分野ですので、できるだけその面白さを伝えられるように執筆しています。Miya.M 2011年12月25日 (日) 14:38 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)細かい点ですがいくつか。ほとんど校正・スタイル的な点で恐縮ですが。
    1. 冒頭部、「最新の」という表現は、この分野では普通なのかもしれませんが、古代に起こった事件についてこの語を使うのは、ちょっと違和感があるかなと思いました。
    2. 「大量絶滅」節、「中生代は大型爬虫類の時代であった(中略)海中では首長竜や魚竜などが繁栄していた」 - 次の「水中での状況」に「魚竜は白亜紀が終わる前に既に絶滅し、首長竜も減少していたが、K-T境界で完全に絶滅した」とあり、これは事実であって、詳細について解説するわけにもいかず、このように書くしかないのでしょうけれど、解説中の繁栄/絶滅の時期のずれに少し消化不良な感じがしました。
    3. 「水中での状況」 - 「魚類は被害は比較的少なかった」とのこと、彼らは何を食べていたのでしょうか?海洋性の植物でしょうか。プランクトンを主食とする魚も多いと思われますが、現代とはまた違ったのでしょうか。
    4. 「陸上での状況」節、出典(12番)は文頭に置くと落ち着きが悪いので、上の「広範な影響があった」につけてはいかがでしょうか。
    5. 「鳥類を除くすべての竜盤類と、鳥盤類が絶滅(現在 鳥類は竜盤類の中の小型獣脚類から派生したとされている)」 - この文なのですが、括弧内の注記を読んで、鳥類がいつごろ現れたのか混乱してしまいました。小型獣脚類のみが生き残り、そこから鳥類へと進化した、というようにも読めますが、実際のところどうなのでしょう。ここでいう鳥類とはどのようなものを指すのか、わかりづらいように思います。また、下の「鳥類は多様性を維持していた」とは順序を近接させたほうがよさそうに思います。
    6. それから、「シダスパイク」Fern spike は記事の作成を見越して {{仮リンク}} を使ってみてはどうでしょう。
    7. あと「当事の」→「当時の」では。
    8. 「大絶滅の原因をめぐる議論」節、Walter Alvarez と Luis Alvarez は記事もありますし、英語表記はいらないのではないかと。
    9. 同じく、「20 - 160倍ものきわめて高濃度の」は、単に「20–160倍の濃度の」でよいのでは。
    10. 「約6分の一」→「約6分の1」?
    11. 「大絶滅の原因をめぐる議論」節、イリジウムが隕石衝突説の端緒を開いたわけですが、クレーターからは隕石の成分、つまりイリジウムは検出されなかったのでしょうか。
    12. 「顕生代の内訳のグラフ」は、もっと記事の前のほう、たとえば「名称」節のあたりにあると、地質時代に詳しくない読者(私もですが)も概観を把握しやすいのではないかと思います。SVG画像を作ってもよいかもしれません。
  • 以上、ご検討いただければと思います。--Calvero 2011年12月26日 (月) 17:07 (UTC)[返信]
  • (お返事)Calveroさん、丁寧にお読みいただきありがとうございます。2番目の項などは「アイタッ、やっぱりそう感じますよね」です。本文の内容はご指摘に沿って修正しますが、ここでお答えできる内容について報告します。「水中での状況」魚類について、参考図書のひとつ「生命進化の物語」のP240にはこうあります。「・・・試練に耐える休止期を持つ珪藻類が、深海にすむ多くの魚類や、腐食性のオウムガイ類などとともに生き残った。」K-T境界を生き残った魚は深海性で、(言い換えれば)水面近くの植物性プランクトンを食べていたわけではないようです。「鳥類を除くすべての竜盤類と・・・」について、リンク先の鳥類竜盤類の項目を見ていただくと恐竜の中での鳥類の位置づけがお分かりいただけます。執筆者側からすれば「リンク先も読んでね」ですが、多様な読者に対してそういうわけにも行かないでしょうからもう少し表現を工夫します。「大絶滅の原因をめぐる議論」について、落下した隕石自体は全部が爆発して飛散してしまったので、衝突クレーターに関してイリジウム濃度は手がかりにはならなかったようです。Miya.M 2011年12月27日 (火) 17:00 (UTC)[返信]

景観[編集]

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  • (ライバルコメント)景観という単語はごく一般的な語であると思っていましたので、各研究領域でより精緻に定義づけされてきたということに驚くとともに、勉強になりました。さて、その上で疑問点として
    (1)#自然景観と文化景観が今ひとつつかみづらいと感じました。唐突にそこで自然景観、文化景観の語が出てきていますが、その定義がないまま、シュリューターの規定と矛盾していると言われても、具体的にどのような定義と矛盾しているのか分かりづらいです。文脈からすれば、「文化景観とは自然から截然と切り離された景観である」といった認識がかつてあったのかなとも思えますが、現状の文化景観文化的景観へのリダイレクトであり、その定義とシュリューターの規定は矛盾していません(文化的景観の記事を立てたのは私ですが、その定義は世界遺産委員会の定義に従ったものです)。シュリューターがいつの時期の人物なのか、記事からは分からないため、バークレー学派との時系列的な関係が分からなかったということもあります。
    また、バークレー学派の分類が今でも広く受け入れられているのかどうか(そうでないのなら、すぐ上の節などに研究史として組み込めないのでしょうか)や、世界遺産で規定されている文化的景観の定義は現代の地理学者からどのように受け止められているのか、といったことも気になりました。
    (2)#景観を巡り議論となった事例危機遺産全体が含まれていますが、密猟などを理由に登録されている自然遺産も複数ありますし、一括して「景観を巡り議論となった」と位置づけられることに抵抗があります。代表的な例示であればドレスデン・エルベ渓谷だけで十分に思えますし、逆に危機遺産全体をこうした事例に含めている文献があるのならば、検証可能性を担保する意味でも挙げていただく方が好ましいと思いました。
    重箱の隅をつつくような疑問点で恐縮ですし、なにぶん大きなテーマの記事だけに、私が全体をつかみかねて的外れなことを言っているだけなのかもしれませんが、以上です。--Sumaru 2011年12月23日 (金) 12:04 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)非常にあいまいで広い範囲の用語を主題とする記事だけに、まとめるのは大変だったと思います。ただ、「学術用語としての景観」の節がまとまりを欠いている感があります。誰それはこう言った、誰それはこう主張した、という紹介にとどまっているようです。「景観調査」の節は、景観に関する調査方法の説明をしている節のようですが、これは「学術用語としての景観」の下に入るべきものなのでしょうか。また、加筆前からある部分なのですが「日本の景観に対する規定」の節以降は、脚注による出典明示がまったく行われていないことも気になります。日本以外の規定についても気になり、まだ完成していない感があります。--Tam0031 2011年12月23日 (金) 16:45 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)文献に基づいて作られた内容が帰納的で、しかし「景観とはxxだ」という結論に欠ける構成が気になりました。以前井戸端でも書いたことですが、概念の外縁が見えづらい主題であるからこそ、定義付けに力を入れて欲しいと思います。その意味でも「景観を巡り議論となった事例」「景観の経済効果」節の内容や必要性は、検討の余地があると思います。一方で幅広い文献が参照され、様々な分野における内容が言及されているので、わざわざ Wikipedia で「景観」が検索され読まれる事態を想定するならば、この記事は非常に有用なのかも知れないとも思いました。- NEON 2011年12月25日 (日) 15:20 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)「#日常語としての景観」が「#学術用語としての景観」から分離されていますが、これらは必ずしも弁別されるべき区分けとはならないように感じられます。国語辞典での解説は、学術用語としての意味も持ち合わせているように思われます。また、ほとんど引用のみからなる節は、厳密な定義がなされている用語については妥当なものですが、曖昧な概念の解説にはそぐわないようにも思います。また節立てについて、「景観」という観点から種々の学術分野において研究が行われてきたようですが、それらの発展・派生の具合をみつつ、順序立てを決めるとまとまりがでてくるように思われます。「#建築学・都市計画」節はもっと上にあってもよい気がします。「建築学・都市計画」は日本の記述が多いですが、個人的には日本よりもヨーロッパなどの町並みが美しいという印象を持っているので、むしろそれらの国の都市計画などについて解説が欲しいところです。日本についていうならば、京都・江戸/東京の比較のような記述や新興地での事例など、計画性の度合いや背景事情など、景観に及ぼした要素と現実の解説も可能ではないでしょうか。「#景観の経済効果」節に事例がありますが、具体性に少々かけているように思われます。出典がないのも、ちょっと不安です。--Calvero 2011年12月31日 (土) 14:16 (UTC)[返信]

イトカワ (小惑星)[編集]

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  • (審査員コメント)元が「はやぶさ」による観測と物理的な性質だけだったところを、地形的・地質的特徴などを中心に大幅に加筆されているようで、記事の出来が大きく改善したものと思います。YORP効果について、加筆前の版では確認されたと断定しているのに対して、確認されなかったという主張を見つけてきて両論併記に直しているところなど、とても丁寧で好ましく思いました。この天体について人類が知り得ていることは、「はやぶさ」の観測に基づくものがほとんどなので、「はやぶさ」の記事との役割分担が非常に難しいのではないかと思いますが、大体現在のように、探査の対象とされた経緯や現地での探査活動を中心にこちらにも記載する形であれば、うまく分担できているように思います。細かいところですが、「EDVEGAの採用」の節に、「こうして2007年7月の宇宙開発委員会で、MUSES-Cは第三の候補である1998 SF36を目指すことが決定された」とありますが、2007年に決定だと打ち上げより後に(それどころか現地到着より後に)決定されたことになってしまいます。おそらく単純ミスではないでしょうか。また節タイトルとしては、EDVEGAの採用だけではなく1998SF36が最終的な到達目標として選ばれたことも含めるべきではないでしょうか。「振動による地形変化」の節、「これは他の小天体が小惑星に落下することによって表面が破砕されて形成されたレゴリスが、重力が小さい小惑星では形成されたレゴリスが表面全体にばら撒かれたためと考えられている」「形成されたレゴリスが」という言葉が2回でてくるのが気になります。全体としての完成度は非常に高くなっているものと思います。「はやぶさ」の方もこちらと連動するように補筆されればと期待したいところです。--Tam0031 2011年12月24日 (土) 04:28 (UTC)[返信]
(執筆者コメント)いつも丁寧に読んでいただき、また今回の加筆について評価していただき、本当にどうもありがとうございます。まずご指摘の通り宇宙開発委員会は2000年を2007年と誤記しており、早速訂正いたしました。当該節のタイトルについてもご指摘の通り、1998 SF36がはやぶさの最終目的地に選定されたことが明記されたものの方が望ましいと考えますので修正いたしました。また「形成されたレゴリス」が繰り返される文章についても訂正を行ないました。
また執筆者として当記事の加筆で頭を悩ませた点は、まずはやぶさとの記事内容の住み分けです。はやぶさによる探査についてあまり触れない加筆も検討してみたのですが、参考文献を一通り目を通した段階で、はやぶさの探査は言うなれば「精一杯背伸びをしてようやく指先が届いた目的地(イトカワ)から、爪の先に砂粒を着けて何とか帰ってきた」という状況であり、予定通りにいかなかった様々な困難が発生したこともあって、イトカワ探査の結果に限界が生じた点について触れざるを得ないと判断し、はやぶさのイトカワ探査についてかなりの分量を割くことにしました。今後、Tam0031さんのおっしゃるようにはやぶさの方にも加筆を検討したいと思います。
もう一点、イトカワ物質の分析はまだ始まったばかりであるため、どうしても速報的な記述になってしまった点があることが気になっています。分析についての論文を読んだ印象でも、まだまだ新たな事実が判明する可能性と共に、これまでに行なわれた分析結果の評価も十分に行なわれていない面も感じられ、これから様々な研究結果が出され、整理されて行く中で再加筆や構成の見直しを行なって行きたいと考えております。--のりまき 2011年12月24日 (土) 13:28 (UTC)文章修正--のりまき 2011年12月24日 (土) 13:34 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)スタイル的な話ですが、半角括弧の前後にはスペースを入れたほうがよいと思います。以下、文章について、少し推敲を加えるとより理解しやすくなるのではないかと思われる箇所などを挙げさせていただきます。
    • #概要」節
      (現)「イトカワは普通コンドライトの中のLL4、LL5、LL6というタイプの隕石と同様の物質であり…」だと主語・述語の関係が「イトカワは……物質であり」となってしまうので、
      (案)「イトカワは普通コンドライトのうちLL4、LL5、LL6というタイプの隕石と同様の物質で構成されること、…」のような表現のほうがよいように思われます。
    • #発見とはやぶさの目的地に選定」節、「発見と探査目標への選定」のような、もう少しシンプルな名称にすると、項目の主題であるイトカワに焦点が合うように思われます。また、ここで現れる名称はそれぞれ当時のものを使っているようですが、同一の物に対して複数の呼び方があるとわかりづらいので、「イトカワ」と命名されたのはいつかだけでも、後段の繰り返しでもよいので節冒頭にも書くのがよさそうに思います。
    • #第三の候補」節、推敲してみます。事象の関連や因果関係を明らかしつつ、主語と述語を近接させ、修飾句はそれらに挟まれないようにとやってみましたが、いかがでしょうか。よさそうな部分があれば、取り入れていただけますと幸いです。これでも「困難となった」が2回使われているので、もう一工夫いるかもしれません。

      (現)
      しかし2000年2月10日、M-Vロケット4号機の打ち上げが失敗した。宇宙科学研究所の科学衛星用ロケットであるM-Vロケットの打ち上げ失敗原因を分析し、対策を講じていく中で、当初2002年7月に打ち上げ予定であったMUSES-Cは、予定通りに打ち上げを行なうことが不可能であることが明らかとなった。この時点でMUSES-Cの目標天体であった1989 MLは、2002年7月の機会を逃すと次回打ち上げが可能となるのが5年後の2007年となる。打ち上げが大きく延期されることにより、これまでMUSES-C計画を進めていくに際してアメリカと締結していた協力関係の維持が困難となり、アメリカが独自に小惑星探査機を打ち上げる方針に転換することも考えられ、1989 MLをMUSES-Cの目標天体とすることは困難となった。そこで改めて候補天体を検討した結果、第三の候補として1998 SF36が、2002年11月から12月ないしは2003年5月の打ち上げでMUSES-Cが到達可能な小惑星として浮上してきた。

      (案)
      ところが2000年2月10日、宇宙科学研究所の科学衛星用ロケットであるM-Vロケットの打ち上げが失敗すると、その原因の分析と対策の検討の中で、MUSES-Cは、予定通りに打ち上げを行なうことが不可能なことが明らかとなった。MUSES-Cの目標天体は 1989 ML であったが、2002年7月の機会を逃すと、次回打ち上げが可能となるのが5年後の2007年と大きく延期されることになる。その場合MUSES-C計画に際してアメリカと締結していた協力関係の維持が困難となり、アメリカが独自に小惑星探査機を打ち上げる方針に転換することも考えられることから、1989 ML をMUSES-Cの目標天体とすることは困難となった。そこで改めて2002年11月から12月ないし2003年5月の打ち上げでMUSES-Cが到達可能な候補天体を検討した結果、第三の候補として 1998 SF36 が選ばれた。

    • #EDVEGAの採用によりMUSES-Cの目標天体となる」節、タイトルはもう少し簡潔なほうがよさそうな気がします。アクロニムの固有名詞を含んでいて、何が解説されようとしているのかわかりづらいという面もあります。文章について、

      (現)
      1998 SF36がMUSES-Cの第三の目標天体として浮上してきたが、そこで難題が持ち上がった。既にMUSES-Cの製作はかなり進行しており、推進剤タンクの製作も終了していたのだ。MUSES-Cの目標天体であった1989 MLは1998 SF36と比べて到達に必要なエネルギー量が低く、1989 ML用に完成していたMUSES-Cの推進剤タンクの能力では1998 SF36に到達することが不可能であった。

    • ですが、魅力的な文章ではあるものの、1文目で問題の提示(「難題が持ち上がった」)、そして解説があとの3文目で示される(「不可能であった」)形になっており、2文目(「製作も終了していたのだ」)の理解がやや難しくなっているような気がします。雰囲気を盛り上げているとはいえ百科事典としては抑揚が多少ありすぎるように感じられる言い回しもありますし、さらなる推敲を試みられてはいかがでしょう。
    • 途中で申し訳ないですが、とりあえずこのあたりで。--Calvero 2011年12月30日 (金) 05:54 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)私から見てもわかりにくいと思った部分について、ざっと文章を推敲してみました。まだ分かりにくい部分が残っていると思いますがいかがでしょうか?--のりまき 2011年12月31日 (土) 12:05 (UTC)[返信]

発芽[編集]

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  • (ライバルコメント)菌類関連の項だけに偏ったコメント、ご寛恕いただきたいと存じます。


>いわゆるキノコを生産する担子菌類の胞子は~二次菌糸となる。

「一次菌糸」と「二次菌糸」という用語も、菌類研究者以外にはあまりなじみがないかと思います。一般向けのテキストでは、「有性胞子が発芽して形成された菌糸」を前者の意味に用い、「一次菌糸同士が接合した菌糸」を後者の意味で使っている場合が多いようです。多くの他の生物群と異なり、菌類の場合は、一個の有性胞子が必ず単相(n)だとは限らず、ハタケキノコ(Agrocybe semiorbicularis)などは、一個の有性胞子(=担子胞子)の発芽によって形成された菌糸は、すでに重相(n+n)となっており、他の菌糸と接合することなく生長し、正常な子実体・正常な有性胞子(担子胞子)を作ります(二次的ホモタリズム)。
このセンテンス(および、次の「この二次菌糸が成長し、条件が整うと子実体(キノコなど)を作るが、その子実体が形成される機構はほとんど明らかになっていない」の部分)は、主題である『発芽』とは直接には関連しないかと思いますし、上記のような例外も多々あることですので、省いたほうが無難かもしれないとも感じます。


>菌根菌の胞子は、共生関係にあるマツなどの樹木と一緒に播くことや…

「樹木といっしょに播く」という表現は、日本語としてはあいまいです。「樹木の種子といっしょに播く」のか、「樹木の根の周辺に播く」のか、「樹木の身体を構成する成分(抽出物・あるいはホルモンなど?)を加えて播く」のか、あるいはそれらをすべて含んださまざまな状態で播くのか、明記したほうがよいのではないでしょうか。


 >(菌根菌の胞子は)酪酸を加えた培地に播くことで、ある程度発芽率が上昇することが知られている。
菌根菌に限らず、化学物質によって発芽が誘引される例はいくつかあります。有名なところでは、草食動物の糞上に発生する腐生子嚢菌(たとえばスイライカビなど)の有性胞子(子嚢胞子)は、ごく低濃度のフェノールなどの存在によって飛躍的に発芽率が高まります。また、尿素などを散布した場所・あるいは動物の死体が分解した跡地などに出現する「アンモニア菌群(これには、菌根菌も腐生菌も包含されますが)」のうち、ヒトヨタケ類などでは、尿素・アンモニア水などの存在により、胞子発芽が誘引されます。子嚢菌類のホネタケ(Onygena)では、有性胞子は、人工胃液処理などによって発芽が開始します。したがって「菌根菌の胞子は…」と、限定的な表現は避けたほうがよいかと考えます。


>しかし、採取された胞子は乾燥に非常に弱く、乾燥条件で放置すると数時間で発芽能を失う。

このセンテンスにこそ「菌根菌の多くのものでは」と、限定的表現を加えておくべきかと感じます。暗色かつ厚壁な有性胞子を形成するヒトヨタケ類、あるいは細胞壁が複数の層から構成されているマンネンタケなどでは、子実体から採取された有性胞子は、年単位の寿命を持っています(後者は、むしろしばらくの休眠期間を経ないと発芽しないともいいます)。


>農作物や昆虫の天敵となる種を含む糸状菌は、菌糸から無性的に生じる分生胞子をもち、これが発芽することによって増殖する。

「糸状菌」という単語自体の定義があいまいなせいもありますが、糸状菌であるアオカビやコウジカビなどは、確かに通常は無性胞子(分生子もしくは分生胞子)を作って繁殖するものの、まれには有性胞子を形成します。上記の表現では「糸状菌は、種による例外なく(!)、常に(!)、菌糸から無性的に生じる分生胞子を持ち、これが発芽することによって増える」生物群であり、「それ以外に、糸状菌の繁殖方式は存在しない」と、誤解される恐れがあるかと危惧しました。


なお、ヒイロチャワンタケの有性胞子(子嚢胞子)は、-5℃程度の低温下に置くことで発芽率が有意に上昇するとされています。また、焚き火跡などに発生するいわゆる「焼け跡菌(たとえばツチクラゲなど)」では、逆に有性胞子を高温に晒さないと発芽しないといいます(自然界では、山火事などによって発芽すると考えられています)。マユハキタケ(近縁種には、非常に低い水分ポテンシャルの下で生育するカワキコウジカビ群が知られている)も、やはり高温刺激(胞子懸濁液を入れた容器を、熱湯の中に数秒間浸す)によって発芽がスタートします。

可能であれば、「菌類の胞子の発芽を誘引する因子(化学物質・温度変化・紫外線・動物による胞子の摂食など)」について、いくつか具体的に例示すると、さらに理解しやすくなるのではないかと考えています。水凪唯維 2011年12月18日 (日) 16:03 (UTC)[返信]

水凪唯維さん、ご指摘ありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。私は菌類は専門ではなく、菌類の節については限られた文献のみで執筆を進めたため、私自身も修正や加筆が必要と思っておりました。そのため、菌類について専門的な知識をお持ちの水凪唯維さんにこのような詳細なコメントを頂けたことを、非常にありがたく思っております。
ご指摘の点については、先程少し加筆修正を加えてみました。「一次菌糸」「二次菌糸」は、菌類の発芽を記述する際に前提として知っていたほうが理解が進むかと思い書き加えていましたが、見返すとそこまで必要性がないと感じたため除去しました。「樹木といっしょに播く」については、私の誤読があったため出典の記述に基づいて修正しました。化学物質、乾燥耐性、糸状菌の記述についてはより正確な表現と思われる記述に修正しました。また、最初の段落に発芽を誘引する条件をもう少し具体的に書き加えました。
とはいえ、加筆に使える時間があまりなく、また良い文献を持ち合わせていないこともあって、まだ不十分な記述にとどまっていると思います。特に「菌類の胞子の発芽を誘引する因子」の例示や、お示しいただいた研究例についての文献が見当たらなかったため、おおまかな内容を網羅できているとはまだ言えない状態かと思います。私も加筆を試みたいと思いますが、もし可能であれば、水凪唯維さんにもご協力していただければ幸いです。私としても大変心強いですし、より質の高い記事に近づくのではないかと思っております(気づいた点をご指摘・修正して頂くだけでもありがたいです)。非常に図々しい話で大変恐縮ですが、よろしくお願いします。--蒋龍 2011年12月23日 (金) 13:18 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)上でこれだけ詳しい方が査読しているのに、素人がコメントするのもなんですが…。良質な記事の選考でも読ませていただき、とても高い水準になっているものと感心しております。特に本文に対応した画像を用意できており、発芽の様子を高速再生した動画もあるというのがポイントが高いです。専門家の方から査読をもらっているわけですし、秀逸な記事への応募をお勧めします。--Tam0031 2011年12月24日 (土) 15:34 (UTC)[返信]
    • Tam0031さん、過分なお褒めの言葉をいただき、恐縮しております。ありがとうございます。下でNEONさんにもご指摘いただきましたが、まだ加筆を要する点が残っていそうだと感じていましたので、私から提出するのはすこしためらいがあるところでした。残っている生理学的な面や胞子発芽についての記述は、可能であれば加筆したいと思おいますが、私の手に余るところもあるかもしれませんので、他の方からのご協力やさらなる査読をいただきつつ、記述を充実できれば理想的かと思います。--蒋龍 2011年12月29日 (木) 08:35 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)生態的・外部環境的な内容が詳述されている分、発芽の生理学的および細胞構造学的メカニズムがやや手薄であるように感じました。前者に関して言えば、例えば発芽とアブシジン酸とは非常に深い関係があります。アブシジン酸のみ、あるいは関連する植物ホルモンも加えた内容で一節設けても良いのではないかと思いました。一方後者に関して、植物の成長における発芽の最大の特徴は、あまり細胞分裂を伴わず、既に存在する細胞の伸長成長によるプロセスであることが挙げられます。「発芽」というキーワードに特化した文献だけでなく、植物生理学全般を扱った教科書を数冊用いると、全体の流れがより良くなるとともに言及漏れも減るものと期待されます。今後の加筆の参考にしていただければ幸いです。なお上で菌類に関する意見がある通り、菌類や藻類の「発芽」は用語こそ共有しているものの、高等植物のそれとは様々な点で異なった現象です。厳密に書き分けるか、もしくは別記事に分離するのも選択肢の一つだと思います。- NEON 2011年12月25日 (日) 15:20 (UTC)[返信]
    • NEONさん、ご指摘ありがとうございます。なにぶん説明すべき内容が多岐に亘り、私の知識が不足する分野については記述が手薄になってしまったと自分でも感じていたため、実に痛いところを突かれたという感じです。あまり植物生理学のテキストを持ち合わせていないので、すぐにというわけには行きませんが、今後の課題として検討したいと思います。胞子の発芽については、たしかに「胞子発芽」などとして分けて立項する必要もあるかもしれませんね。他言語版にはないようですし、まとまった分量の記事とするにはそれなりの知識と文献が要求されそうですが、可能であればそうすべきかと思います。独力でどこまでできるかはわかりませんので、もしかするとまたご意見等をお願いすることがあるかもしれませんが、何卒よろしくお願いします。--蒋龍 2011年12月29日 (木) 08:35 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)NEONさまが指摘されておられるように、種子の発芽と胞子の発芽とは、用語こそ同じではありますが、その内容については相当に異なった点があります。また、胞子の発芽と一口にいっても、シダ類や蘚苔類の胞子の発芽と菌類のそれとはまた、おおいに異なる点がありますし、菌類に限っても、クロホ菌類やサビ菌類の胞子発芽はその他の菌類の胞子とは別の観点から捉えなくてはならないようです。同一の菌であってさえ、有性胞子と無性胞子との間で、発芽時のふるまいが異なる場合があるとの指摘もあります。「胞子発芽」という項目が改めて立てられたおりには、いささかのお手伝いはさせていただけるかもしれませんが、小生自らそれに踏み切るのにはいささか力不足を感じている次第です。水凪唯維 2011年12月31日 (土) 11:34 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)卒業論文・修士論文が出典として使われていることが気になっていました。これらは、できれば論文や書籍で置き換えられればよいように思います。--Calvero 2011年12月31日 (土) 14:42 (UTC)[返信]
    • Calveroさん、お返事が遅くなって申し訳ありません。たしかに卒業論文や修士論文は、出典とするにはあまり好ましくはないですね。なかなか他の文献で記述が見つからないといった所で使用していますが、今後新たな文献が見つかれば順次置き換えていきたいと思います。Wikipediaのルールで卒業論文などの使用がどう扱われているかは知らないのですが、それ以前に科学的な文脈ではなるべく引用しないというのが、やはり基本ですね。--蒋龍 2012年1月9日 (月) 04:30 (UTC)[返信]

ギャンブル依存症[編集]

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  • (審査員コメント)ギャンブル依存症について順を追ってうまく説明された、よく構成の考えられた記事だと思います。前へ戻って読み直す必要があまりなく、説明としてよくできているものと思います。「配偶者・子供」の節にギャンブル依存症100人中、65人に配偶者がいて、そのうち6人が精神疾患とありますが、これは多いと言えるのでしょうか。世の中、意外と精神疾患を抱えている人は多いという印象を抱いていて、調べたら結構な割合になりそうだと思うのですが、ギャンブル依存症と配偶者の精神疾患に関係があると言えるためには、世の中一般の割合に比べて優位に多いと言える必要があると思います。たとえば遺伝的要因があると説明しているところだと、人口全体に占めるギャンブル依存症患者数の推定が前に示されていたので、家族にギャンブル依存者がいるとその人も依存しやすいという傾向が確かに有意にあるようだということがすぐわかるわけなので、そういう感じで精神疾患についても何か言えることは無いでしょうか。「共依存」の節で、「ギャンブル依存は、結局は本人の問題であって、家族の…問題ではない」とありますが、この三点リーダは引用文で中略をしているという意味でしょうか。本文中ではアメリカやイギリスの事情にも触れているのですけど、文献は日本の物に頼っているようなので、できればあちらの研究も参照できればと思います。英語版では、ウェブで参照できる文献を使っているようですし。ともあれ、2分野でコンテストに参加してこれだけの内容を用意できるというのは敬服いたします。--Tam0031 2011年12月25日 (日) 13:18 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。まず精神病患者の割合についての世間一般とギャンブル依存者の配偶者との比較についてですが、文献を読み返したところ、65人中10人が医療機関に通院中で、うち6人がうつ病とのことでしたので、訂正するとともに、平成20年の時点で323万人が精神疾患が原因で医療機関に通院・入院中というデータ[6]を参照できるようにしておきました。以下は独自研究なので記載できませんが、統計局の公表によると平成20年10月の日本の総人口は1億2769万2千人[7]ですので、総人口に占める精神疾患が原因で医療機関に通院・入院中の人々の割合は約2.5%と計算できます。となると、ギャンブル依存者の配偶者のうちでうつ病で通院中の配偶者の割合だけを見ても、日本の総人口に占める精神疾患が原因で通院・入院中の人々の割合の約3.6倍ということになるかと思います(この手の計算はあまり得意ではないので、誤りがありましたらご指摘ください)。三点リーダについては、その通りです。英語の文献については、いずれ参照できればと思うのですが現状の私では…欧米とりわけアメリカでの研究・対策は日本よりもかなり進んでいると思われますので、加筆の余地はまだまだあると思います。--Pastern 2011年12月28日 (水) 04:22 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)細かいことで、申し訳ないです。
    1. 「歴史」節、画像のキャプションは単に「サイコロ」だと何のことかわからないので、もう少し解説がほしいところです。古いもののようですが、文章中で触れられている事例に関連する物品なのでしょうか。
    2. 「ギャンブル依存者数」節、「という結果が出ている」→「と報告されている」のほうが、個人的にはよいのではないかという気がします。調査結果、のようにも言いますが、語感としてすこし強すぎるといいますか。
    3. 同じ節、[8] が読めると、もう少し情報が得られそうです。
    4. 「ギャンブル種目が持つ性質」節、挙げられているのは発症の要因というのかが、少しわかりにくいように感じられました。これは発症の機会が増加したということで、それも要因の一つでしょうけれども、発症に「関与する」というのか。
    5. 「ギャンブル依存症がもたらす問題 」節、日常的な、といいますかフィクションの話でありがちな情景が記述されており、こうして出典付きで書かれると、とても納得のゆくものです。ところで「ギャンブル依存者による犯罪」節はアメリカ合衆国の、それ以外の節は日本のイメージが浮かんでくるのですが、これらは他の国においても同様なのでしょうか。
  • 以上、よろしくお願いいたします。--Calvero 2011年12月26日 (月) 17:56 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。順番に回答していきます
      • サイコロの画像については、使えそうな画像があまりなくて寂しい感じがしたので、『マハーバーラタ』の逸話もあるしサイコロはギャンブルに使われることが多いものだから載せてみようかという動機からです。改めて考えてみると意図が伝わりにくい気もしますので、別の画像を冒頭部に置いてみることにしました。
      • たしかに、「と報告されている」の方がいいような気がします。改変しました。
      • 専門的な論文については、今回は手が回りませんでした。英語の文献と並んで今後の課題とさせてください。
      • たしかにそうですね…「関与する」→「影響を及ぼす」と改めました。
      • まず、今回参照した文献の多くが日本在住者向けの内容で、「ギャンブル依存症がもたらす問題 」節の内容が全体的に日本に偏りがちなのは否めません。「ギャンブル依存者による犯罪」については、まず日本では国による実態調査が始まったばかりでデータに乏しく、日本国外の国がアメリカに偏っているのは参考文献における傾向の影響からです。論文や英語の資料などより多くの文献を参照することで偏りがより改善できるかもしれませんが、現状ではこれが精一杯です。--Pastern 2011年12月28日 (水) 05:28 (UTC)[返信]

ル・コルビュジエの建築と都市計画[編集]

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  • (審査員コメント)建築と都市計画というから、そういう工学的側面を取り上げた記事なのかなと思ったら、世界遺産の候補の記事で文化的な内容について触れていたのでちょっと驚きました。これなら、分野Cに入れた方が良かった気がします。もう分野変更の提案期間は過ぎているのでしょうけど。いろいろな建築の価値を説明してくれているのですが、やはり写真や図面をうまく併用しないと理解が難しいです。加筆コンクールの締め切り間際にコモンズで大量の写真削除があって、この記事の審査対象版でも画像が大量に赤リンクになってしまっているのは本当に不運だと思います。「ユニテ・ダビタシオン」で、表を使って立体的な構造を説明しているのですけど、やはりこれは図を描いて示した方がよかったのではないでしょうか。これが何を意味しているのか、しばらく考えてしまいました。「ル・コルビュジエ」の記事、あるいは個々の建築物の記事との分担が難しく、世界遺産としての推薦や評価のポイントなどに重点を置いて書かなければならないのでしょうが、「構成資産」の節は建築そのものの説明が多いようで、なぜこの建物を構成資産に含めたのか、世界遺産の委員会はどのように評したのかをもっと強化しなければならないのではないかと感じました。--Tam0031 2011年12月25日 (日) 14:32 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)最初の文章からで申し訳ないのですが、「ラーメンとは昇龍軒のメニューの一つである」と説明されたような違和感を受けました。確かにこの定義に誤りは無いのですが、一意ではあるが後天的な定義ではなく、少々曖昧でも本質的な説明の文章を最初に持ってきた方が良いのではないかと思います。これは加筆でどう改善されるか(勝手に)期待していた箇所でもあり、少々残念でした。またこれも個人的な感覚ですが、本件の本質たる「構成資産」節を序盤に置いて欲しかったと思います。その上で、各地に散在するル・コルビュジエの建築が、世界遺産の単位と連続性の概念に関して物議を醸したことを述べると、本件の特異性や重要性が伝わりやすいのではないかと思います。「構成資産」節は既に秀逸な一覧レベルに達していると思いますので、他の方の意見も伺った上で、構成の再考を期待します。- NEON 2011年12月25日 (日) 15:20 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。お二方に答えさせていただきますと、まず分野について異論が出てくるのは覚悟の上でした。ただ、私一人のエントリーがC分野の半分(以上)を占めかねない状況だったのでそれを避けたかったのと、過去のコンテストで必ずしも工学的トピックが前面に出ているわけではないイスラーム建築がBにエントリーしていたので(勿論その完成度は比ぶるべくもありませんが)、許容されるのではという判断がありました。この判断に審査を混乱させる側面があったのだとしたらお詫びします。
    個別資産の評価の加筆については、その重要性は私も認識していますが、現状では不可能に近いと思います。世界遺産の推薦書や諮問機関の評価書は原則として正式登録後のみ、公表されるからです(実際、6月に登録された平泉は最終版の推薦書の公表が10月、評価書は11月でしたが、過去の登録延期になったときの推薦書は公表されていないのではないでしょうか)。国立西洋美術館の評価だけ記せたのは、ごく断片的な評価の要約がプレスリリースに反映されていたおかげです。ネットで調べた範囲では、フランス官公庁が同様のプレスリリースを行なっているかは分かりませんでした。
    なお、それだけにNEONさんから秀逸な一覧レベルと評していただけたことは予想外の喜びでもありましたが、構成案についてはなるほどと思う一方、できれば他の方々のご意見も伺えたらと思います。現状の構成は世界遺産に正式登録されている物件でGAになっている記事の構成をほぼそのまま踏襲したものですが、今後どういう形で落着するか分からない暫定リストでどのような構成にすることが、記事の読みやすさや発展可能性に資するのかは私にも掴みかねているところがあるからで、今後の暫定リスト記事の叩き台にもできたらと考えました。
    次に定義文についてですが、これはもう純粋に私の手落ちです。期間限定で異常に多忙なため1月第2週以降になるとは思いますし、十分な修正になるかは分かりませんが、修正してみたいと思います。--Sumaru 2011年12月26日 (月) 14:34 (UTC)[返信]

イカタケ [1][編集]

  • (審査員コメント)協賛参加ということのようですが、コメントさせていただきます。上の「発芽」でコメントしているところから見て明らかにこの分野の専門の方のようなので、私のような素人が内容についてどうこう言うのは無理でしょうから、外形的なところについてです。形態のところにいろいろ詳しく記載されていますが、やはり写真がないと理解が難しいです。記事のスタイルについて、cmとかmgとかを1文字で表示したものを使っていましたが、アルファベットの組で表示するのが標準的です。また本文中で<br>タグを使うのは避けられています。こちらで気づいたところは直しておきました。幅広い文献を参照しているようで、よくここまで調べたものだと感心します。--Tam0031 2011年12月25日 (日) 15:37 (UTC)[返信]
    • 逆に申し上げますと、菌類分野以外では「役立たず」かと自覚しています(苦笑)。「クギタケ属」についても指摘をちょうだいしておりますが、きのこに限らず菌類関係では、自分でよい画像を作成してコモンズに集積していくことに、さらに重点を置かなくてはならないかと考えています。「cm」ほか、単位の表記では、出版方面で、できるだけ字数を節約することを求められるのに対処するクセが出てしまったのですが、以後は留意していきたく存じます。<br>タグについても、もう少し慎重にしなくてはならないこと、ご指摘のとおりですね(修正ありがたく存じます)。文献については、「このきのこについて執筆したい!」という方々への多少のお手伝いができる程度にはございますので、逆にお問い合わせをいただければ、可能な限り、執筆の裏方としてお応えしたいと思っております。ありがとうございました。水凪唯維 2011年12月25日 (日) 17:57 (UTC)[返信]

クギタケ属[編集]

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  • (審査員コメント)全体的に生物図鑑的な記述である印象を受けました。「形態」節の表現には形容詞・形容動詞・副詞が多用されていますが、Wikipedia の読者には分かりにくいのではないかと思います。書籍体の生物図鑑では、これらの修飾語の言わんとするところは写真・図解と文章との突き合わせによって、あるいは同著者が記した他種の説明文との相対的な差によって読者に伝わります。しかし執筆者がバラバラで図表も限られる Wikipedia では、表現の一般性と具体性に関する配慮が必要になってきます。実際に生物図鑑の表現をそのまま持ち込んで議論になった例もあります(ノート:カモ科)。「成分」節は、真菌や細菌の分類において産生する物質が分類形質の一つになっていることを知らないと、何故ゼロコミン酸(キセルコム酸)のような微量物質がここで言及されているのか理解できないと思います。また「食・毒性」「名称」節のように、参考文献が不十分であったり、文献の使い方に疑問がある(ノート:クギタケ属)節が残っているので、これらの加筆修正を期待します。- NEON 2011年12月25日 (日) 15:20 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)詳しいNEONさんのコメントでだいぶ言及されているようですが、やはり私のような素人にはわかりづらいところが多々ありました。「形態」を読んでもなかなかどういう構造なのかを想像することが難しいです。一番良いのは、断面図などを作成してそこに番号を付して、番号で参照しながら説明することなのですが、かなり要求難易度は高いことではあると思います。出典の付与などについてもNEONさんの言及の通りだと思います。--Tam0031 2011年12月25日 (日) 16:02 (UTC)[返信]
    • 非常に「自覚症状」があるコメントを賜りました。きのこ図鑑の執筆や監修などにもタッチしておりますので、その影響は大きなものがあるようです。「写真」や「図解」が乏しくては、「図鑑」としての実用的価値が大幅に目減りしてしまうというご指摘は、ほんとうに的を射ており、重いものがあると受け止めます。コモンズにも、菌類関係分野で使えそうなよい写真や図解は決して多くはないので、自分で作るしかないと考えており、以降の記事作成上での課題として力を入れたいと思います。そもそも、「シスチジア」とか「子実層脚」とかいった菌類分類学用語自体についての項目も、まだ到底完成してはいない段階ですから、そちらの充実にももっと力を入れなくてはいけないかと感じました。「成分」の節に関しては、「なぜ、ひだがあるきのこなのにイグチに近いと考えられるのか?」という質問が、従来から多々寄せられておりましたのと、最近の分子系統解析による分類体系の変更が、どこか説得力に乏しい(「遺伝子の塩基配列が近いから、近縁なのだ!」で終わっていて、小学生を納得させられない)ように思え、「形態では類縁関係はわかりにくいから、分子系統解析を行う。分子系統解析だけでは納得しにくいから、化学成分あるいは酵素系の類似性や、もしくは菌根の形態などの生態的観点からも調査する必要がある」という、いわば「分類学に対する多角的視点の必要性」の一例として挙げたのですが、確かにWikipedia の読者の中には、「なぜここで、こんなに詳しく化学成分について言及するのか?」という違和感を覚える人がいらっしゃるのは確かであろう、と感じています。「食・毒性」や「名称」については、生物学的な説明だけでなく、人とのかかわりについても触れておかなくてはならないかと感じるところがあり、特に、すでに作られた項目への加筆の際には、従来の文章をできるだけ生かしておきたいという思いもあり、可能な限り加えておくようにしていますが、こちら方面の資料は、手元へのストック量がいささか心もとありません。今後は、もっと積極的に収集しておきたいと考えています。水凪唯維 2011年12月25日 (日) 17:46 (UTC)[返信]

石淵ダム[編集]

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  • (審査員コメント)元からそれなりに充実していた記事であったところをかなり加筆されているようで、さすがという他はないです。水没住民への補償でこれほどひどい例があったというのは初めて知りました。「地理」の節で、地名の語源などについて説明しているところは、あるいは別に節を設けた方がよいかもしれません。「再開発への経緯」の節、取水制限の頻発が1984年以降と説明されている一方で、地元からの再開発要望が1967年からというのは因果関係が逆転してしまうので、もちろん取水制限が頻発していることは重要な情報なので残さなければならないのですが、それ以前から給水量が問題であったということがわかるように、うまく文を再構成できないものでしょうか。「水没へ」の節、ドキュメント的になっているのは面白いのですが、ウィキペディアの記事としてみるとどうでしょうか。特に「あと2年足らずでダムとしての歴史に幕を閉じる」というのは、いかにも「すぐに古くなる表現」の気がします。「石淵湖」の節も、文章表現としてはよいのでしょうが、やや観光ガイド的で、「ダム管理業務が終了すると撤去工事が開始されるためダム本体に近づくことは不可能となるので注意」という文章は特にいかにも見学ガイドになってしまっていると思います。内容的には大変充実していると思いますが、今のこの位置がダムサイトとして選定された理由など、記述できませんでしょうか。ダム建設に適する地質がここだったのか、水没範囲の考慮からなのか、そういう視点があるのではないかと思います。現地の写真がよく用意されており、またほかの北上川水系主要ダムとの諸元の比較表を用意するなど、文章以外の点でもよくできた記事だと思いました。--Tam0031 2011年12月25日 (日) 16:47 (UTC)[返信]
(回答)折角コメント頂いたにもかかわらず、仕事多忙に付きなかなか回答出来ず、仕事納めでようやく回答する始末となり申し訳ありません。補償のひどい例については石淵ダムだけでなく、香川県の内場ダムでは立ち退きを拒む住民がいるにもかかわらず湛水を強行したり、神奈川県の相模ダムでは荒木貞夫や杉山元など陸軍首脳が閲兵式をわざわざ予定地付近で実施して反対住民に圧力を掛けるなど、当時は住民無視に近いことが行われておりました。今なら八ッ場ダムの比ではない社会問題となっていたでしょう。さて、ご指摘の件について回答させていただきます。
  1. 「再開発への経緯」の節での主客逆転について、時系列にて文章を修正し整合性を取るようにしてみました。
  2. 「水没へ」の節について。意図してドキュメント的に書いた訳ではないのですが、胆沢ダムに継承する事実を時系列的に書くとなるとどうしてもドキュメント的になってしまいます。ただ節末の古くなる表現については除去しましたが如何でしょうか。
  3. 「石淵湖」の節について、アクセスの部分は独立させ、その他ダム至近以外の部分における観光ガイド的な表現は除去しました。
  4. ダムサイト選定理由についてですが、ご指摘頂きありがとうございます。肝心な項目がそっくり抜け落ちていました・・・。「施工」節冒頭部に選定理由を出典付きで加筆しました。仰せの通り、ダム建設に適する地質・地形が現ダムサイト地点しかなかったのが理由です。
以上、回答とさせていただきます。他にもご指摘の点がありましたら是非宜しくお願いいたします。--河川一等兵 2011年12月29日 (木) 15:03 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)写真が豊富にあって、外観の認識・把握が非常に容易になっているものの、地形図は日本全図を使ったおおまかな場所を示すもの1点です。ダム近辺の地形図、とくに、胆沢川やその流域におけるダムの正確な位置や、建設により水没する区域、などを示す図がほしいところです。難しい注文かもしれませんが…。--Calvero 2011年12月31日 (土) 13:22 (UTC)[返信]
(回答)コメント有難うございます。地図につきましては本当に課題でありまして、出来ることなら挿入したいのですが胆沢川流域、ダム周辺流域の細かい地図となると作るノウハウがない私としてはお手上げな所が正直な感想です。北上川流域なら利根川水系図を参考にして作ることは出来るかもしれませんが。何れにしても直ぐには出来ませんのでご容赦下さい。--河川一等兵 2012年1月4日 (水) 05:35 (UTC)[返信]
  • 横から失礼致します。周辺地図ではありませんが、ダム湖周辺の空中写真ファイルをコモンズにアップしてみました。コモンズのCategory:Ishibuchi Damの中のFile:Ishibuchi Dam Aerial Photograph.jpgがファイル名です。使用できそうであれば御検討ください。--さかおり 2012年1月4日 (水) 06:14 (UTC)[返信]
  • さかおりさん。誠にありがとうございます。実は私も国土航空写真を利用した解説付きダム周辺位置図をコモンズにアップロードしてしまいまして、何だかさかおりさんの折角のご好意を無にしてしまったような気がして心苦しく思います。ですがさかおりさんのものと見比べて見ると、私の画像はトリミングが下手糞です。ですから適宜修正頂いて構いません。なお、英文表記ではありますが胆沢川で使われている地図もありましたので合わせて追加させて頂きました。白地図を始め使えそうな地図は残念ながら存在せず、グーグル地図が最も良さそうだったのですが二次使用は難しそうなので諦めました。ですから現状では位置関係を示しうる画像はこれが精一杯です。Calveroさん、如何でしょうか。--河川一等兵 2012年1月5日 (木) 12:36 (UTC)[返信]
  • 河川一等兵さん、コメントが遅くなってすみません、さかおりです。河川一等兵さんが作成された写真上に解説を加えた画像のほうが、ダム湖周辺の位置関係が良く分かり、この記事に適していると思います。こちらこそ逆にお気遣い頂くようなことになってしまい申し訳ありませんでした。今後ともよろしくお願いします。--さかおり 2012年1月9日 (月) 02:05 (UTC)[返信]

ガイドウェイバス[編集]

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  • (審査員コメント)最初にまず、自分が好きな分野なので評価が厳しくなってしまうことをお許しください。「特徴」の節、「日本においては新交通システムによる輸送では乗客数が少なく」とありますが、これは要するに新交通システムを導入するには想定輸送量が少ないということを言っているわけですよね。ちょっと意味が分かりづらかったです。またもう少し構造面について突っ込めないでしょうか。専用路ではバスは案内輪で走行するわけですが、ミニ四駆のようにガイドで強制的に向きを変えられているわけでは必ずしもなく、案内輪に働く圧力でハンドルを切る仕組みがあるはずです。それをきちんと説明できていないと、工学的な側面がとても弱くなってしまいます。各国の導入事例とその事情はとても興味深く面白いです。特に豊富な写真が素晴らしく、理解を助けています。記事としては、先にあげたところを補足できれば、ほぼでき上がりだと思います。--Tam0031 2011年12月25日 (日) 17:11 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)ご意見ありがとうございます。輸送量の件については少し修正しました。構造面についてですが、手持ちの文献には日本のガイドウェイバスについての記述はあるのですが、本文の中で説明されているように、日本のガイドウェイバスは構造的にもやや特殊な部分があり、他の国はどうなっているのか…例えば、ご指摘の案内輪の圧力によるステアリング機構については「カーブがきわめて緩い場合は省略されているのではないか」という疑問もありましたので、確認したうえで記述しようと考えていました。エントリー後に私事のほうがばたばたし始めたので、結局そのままになっています。私事が落ち着いたら引き続き調査の上、本文に反映させたいと思っています。導入事例の画像については、それぞれの地域の特徴が出ていると思しきものを探しましたが、「理解を助ける画像」と認識されたのは大変うれしく思います。今後もいろいろと調べていきたいと思います。Cassiopeia-Sweet 2011年12月26日 (月) 12:14 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)「#歴史」節、起源となったイギリスの特許について、もう少し詳しく書くことはできませんでしょうか。それがそのまま普及しなかった原因は、おそらく現代におけるガイドウェイバスの利点を、他のシステムより有利となるほど、当時は持ち合わせていなかったためと考えられます。それでもくだんの特許文書中には、何らかの優れた点を主張する部分があったのではないかと思われます。そういった内容を、現代の状況と比べながら見てみると、これは読者にとって興味深いものとなるように思われます。また「#特徴」節の画像について、案内輪が拡大されたFile:MB O 405 N MVV274 guide wheel detail.jpeg がコモンズにあり(英語版で使われています)、これもあわせて掲示すると構造がよりわかりやすくなるように思います(バス車体の全体像は File:MB O 405 N MVV274.jpeg です)。それから「#導入事例」節、発祥であるドイツの事例よりオーストラリアの事例を先に持ってきているのは何か理由があると思いますが、通称 "O-Bahn" について、ドイツを先に置いてそこで軽く説明し(Oは何を意味するのかとか、Bahnはドイツ語でどういう意味なのかとか)、次にオーストラリアを持ってくると、その由来について理解がいくらか円滑になるように思われます。--Calvero 2011年12月31日 (土) 13:42 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)ご意見ありがとうございます。イギリスの特許については、手持ち文献でもあまり詳しく書かれていなかったのですが、「同時期には既に馬車鉄道が運行されていて、その後1881年以降に路面電車の普及が始まったことから、それ以上普及が進まなかった」旨の記述があります。このあたりは今後詳細を調べていきたいと思います。構造については、手持ち文献の中に出ていた原理を描いた図の作成も含めて、現在どのようにするか考えていますが、今後構造部分について加筆の際には、ご紹介いただいた画像も是非使用したいと思います(ドイツ語版にはもっと分かりやすい画像もあるのですが、コモンズへ移動してからでないと日本語版では利用できませんね…日本独特の収納式の案内輪も、まだ画像が出ていないのでそのうち撮影しないといけないのですが…。オーストラリアの事例が先頭にあるのは、最初か最後に日本の事例が来ると目立ってしまうかもしれないと思い、「日本の事例を最初にも最後にもしない」並び順ということで、国名コード2文字 (ISO 3166-1 alpha-2)での順番にしたのですが、これはご指摘の点を考えるとあまりいい方法ではなかったかもしれませんね。通称 "O-Bahn" の件についてはドイツ語版の記事で "Omnibus-Bahn" と書かれているので、これの略称のようですが、そちらも確認して、節の順番ともども対応したいと思います。Cassiopeia-Sweet 2011年12月31日 (土) 14:55 (UTC)[返信]

分野C[編集]

ハイセイコー[編集]

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  • (審査員コメント)競走馬、種牡馬としての時系列的記述を軸に、好敵手の存在、彼の資質や多面的な評価から活躍した時代背景に至るまで奥行き深く盛り込まれ、読み応えある記事に仕上がっています。「#概要」項を新設され、ハイセイコーについて一層理解しやすくなりました。この記事を通じて「彼の中央競馬への移籍がもう少し早かったら…」と感じたのは私だけではないはずです。さて、「#弥生賞・スプリングステークス」項にて
この現象について増沢は、「長いことこの商売やってるけど、あんなこと後にも先にも二度とないんじゃないかな」と語っている。
唐突に「増沢」の名が出ています。「増沢とは誰なのか?」私のような不案内な読者のために、移籍後より長くハイセイコーの主戦騎手を務めた増沢末夫に関する説明を、まずいただきたく思いました。あわせて、スプリングステークスのレース展開について、より踏み込んだ詳細も知りたいところです。「スプリングステークスの後、専門家の間でもハイセイコーに対する評価は二分した。#弥生賞・スプリングステークス)」とあります。増沢騎手を始めとする陣営の当時抱いた不安げな気持ちを、読者もより共感できるものと期待されます。もう一点、「#種牡馬時代」項本文中のテーブルが横長なので、PC環境(解像度1024x768など)によっては閲覧しづらい懸念があります。例えば、下記のような形式ではいかがでしょうか。
年度別の種付け頭数および誕生産駒数
年度 1975 '76 '77 '78 '79 '80 '81 '82 '83 '84 '85 '86 '87 '88 '89 '90 '91 '92 '93 '94 '95 '96
種付け頭数 72 44 38 29 65 64 71 70 50 75 63 61 57 57 37 45 40 43 17 3 1 -
誕生産駒数 - 57 32 26 19 40 48 58 45 34 54 51 41 46 36 24 34 29 19 9 1 0
「1頭の競走馬がなぜそこまで熱視を浴びたか」(#ブーム形成の要因・背景)について、当記事を読みながら考えています。まるで人間のように長短併せ持ち、栄光と挫折を経験し、しかしひたむきに走り続ける彼の姿に、私たちは一つの生き様を見い出しているのかもしれません。--もかめーる 2011年12月20日 (火) 09:45 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。何故ハイセイコーがここまで熱狂的な支持を得たかについては様々な分析がされていますがそれでも未解明の部分があり、私自身も「これだ」という考えを持つには至っていません。記事からこの馬についてそこまで深く考察して頂けたことは執筆者として本当にうれしいことです。ご指摘頂いたポイントについてですが、「種付け頭数および誕生産駒数」の表についてはアドバイスに従って改変しました。増沢については、たしかに登場が唐突です。最低限の加筆を行いましたが、スプリングステークスのレース内容も含め、もう少し書き加える余地がないかどうか改めて資料にあたってみます。--Pastern 2011年12月22日 (木) 14:44 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)競馬に関する知識がほとんどない私でも、ハイセイコーの名前は子供の頃から良く聞いて知っておりましたが、この記事を読んで始めて、多くの人々に愛された名馬の生涯を詳しく知ることが出来ました。加筆前と比較して、全体的な説明の肉付けは勿論のこと、要所要所にエピソードを交え、読み手の興味を惹きつける加筆がされたと感じました。特に、特徴・評価節での加筆は、馬でありながら知能精神面についての言及がされていて非常に興味深いものでした。

全体を通して感じたのは、ハイセイコーという名馬自体の素晴らしさはさることながら、ハイセイコーを取り巻く、馬を愛する人々の心まで記事から読み取れたことです。脚注によって丁寧に出典付けされていますが、多数の文献が存在するというのは、それほどまでにハイセイコーが多くの人々に愛されていたことの証のようにも思えます。

これは個人的に感じたことなのですが、冒頭の概要節の中で、

このブームは、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされる。

と、2大競馬ブームという言葉が出てきますが、競馬に詳しくない読者にとって、それが何を指すのかピンと来ないのではないでしょうか。

このブームは、後年1990年前後に起こった武豊オグリキャップの活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされる。

やや説明的過ぎるかもしれませんが、このような記述にしたほうが、ハイセイコーは知らなくてもオグリキャップなら聞いたことがあると思われる、比較的若い読者でもイメージしやすいかも知れません。--さかおり 2011年12月24日 (土) 03:30 (UTC)[返信]

(執筆者コメント)コメントありがとうございます。この記事からそこまで深く読み取って頂き、本当にありがたく思います。第二次競馬ブームに関するご指摘はおっしゃる通りです。なるべくわかりやすく記述しようと心掛けていても、自分にある程度の知識があると知らず知らずのうちに「当然のこと」として説明を省略してしまうことがあります。--Pastern 2011年12月27日 (火) 03:07 (UTC)[返信]

ニュルンベルクのマイスタージンガー[編集]

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  • (審査員コメント)この演劇に今まで接したことはなかったのですが、頭の中で(私の好きな)宝塚歌劇の芝居に置き換えて空想しながら、興行を味わいました。ありがたいことに、この時期に放送されるので[9]、当記事で培った知識を基に当作品を味わってまいります。
さて、私のような未知の読者のために、まず「#構成」にてストーリーの把握を促した上で、背景の説明として「#作曲の経緯」が続いてもよかったのではないかと思いました。全体を通して平易に記されていますが、時に私にとって解釈し難い箇所が見受けられました。
*「ラ・スペツィアの幻影」(『ラインの黄金』序奏)や「聖金曜日の奇蹟」(『パルジファル』)など、ワーグナーには作品の端緒を創作神話のように語る傾向があり、この回想についても同様の韜晦である可能性がある(#ヴェネツィア旅行)。
  • 前奏曲中の「ダヴィデ王の動機」(「組合の動機」とも)はマイスター旋律「ハインリヒ・ミュクリングの長い調べ」から採られており、この素材はウィーン帰着後のヴァーゲンザイル研究まで待たねばならない(#自己理論からの逸脱)。
その他、第2幕第5場・第6場でのザックスの行動について、もう少し噛み砕いて記していただけたら、一層理解が進むのではないかと感じます。このような素晴らしい作品中に、ワーグナーの(重苦しい)政治的な主義が隠されていることを知ったのは衝撃的で、別の意味でも大いに考えさせられました。--もかめーる 2011年12月18日 (日) 04:17 (UTC)[返信]
    • (加筆者コメント) 長い記事を読んでいただいて感謝します。加筆の大きな柱の一つである、ワーグナーの政治的な主張まで問題意識を持っていただけたことは、出たばかりの新刊書まで当たったかいがありました。私自身も今回の加筆を通じて作品への受け止め方が変わったように思います。さて、ご指摘をいただいた点について、お答えします。
    • クラシックの楽曲記事の組み立てについては、私の認識としてはガイドラインのようなものが存在せず、過去からの積み重ねで現状に至っています。本記事もこれまでの延長線上で考えたもので、まず作曲過程など事実経過が先で、ストーリーはもっと下の「構成」を読まないとわからないというのはその通りです。オペラ記事の場合、どんなストーリーなのかの紹介が上にあった方がよいというご意見を、過去にもコンテストでいただいたことを思い出しました。とくに今回、作曲過程にかなりの分量を割いたことから、ストーリーまでなかなか行き着かない印象を持たれたかな、とも。ここがもっと短ければ、また違った結果になったかもしれません。これについては、1. ご指摘どおり「作曲の経緯」節を「構成」節の下に配置する。2. 「概要」節あたりに新たに物語のダイジェスト版を書き起こす。3. 楽曲記事のスタイルとしては間違っていないので割り切ってこのままとする。という3つの選択肢があると考えます。1. の方法では、「作曲の経緯」と「初演」は時系列・記述的につながりがあるので、セットにして移動でしょうか。この方が読みやすいようなら、やってみましょうか。実は、ストーリー自体もかなり詳細にしたため長くなっており、2つめの方法をちらっと考えたこともあるのですが、あらすじのあらすじのために、現状でも長い記事をよけいに長くしてもなあ、という思いもあり、踏み切れませんでした。
    • 作曲の過程で「解釈し難い箇所」を2点挙げられました。いずれも、出典とした文献の記述を平たくしつつ、内容についてはかけ離れないようにどう書くか、苦心したところです。が、結果に結びついていないようで。もっと平たく言えばひとつめは、「ワーグナーの回想は自分に都合よいように、いかにもそれっぽく脚色して語っていることが多い」、二つ目は「素材を見たのはウィーンに戻ってからで、その前の時点でこの動機を着想できたはずがない」ということなんですが、見ようによってはやや気取った書きぶりで、ワーグナーばりの韜晦になったかもしれませんf^^;。
    • 第2幕第5場・第6場でのザックスの行動については、具体的な行動そのものは書いていますが、その意図や、背景が見えないということでしょうか? 第4場のやりとりでエファとヴァルターの関係を確信したザックスは、第5場で二人の会話を聞き、「駆け落ち」を阻止しようとします。ベックメッサーがやってきたことに気づいたザックスは一計を案じ、夜なべ仕事にかこつけて二人の行く手を明るく照らし出し、大声で歌って自分の存在を誇示するわけです。ただ、この時点でどんな成算があったかはわかりません。同時に、ザックス自身にもエファへの思慕があり、靴仕事の歌にエファへの当てつけを込めたことにそれが現れています。というようなことなのですが、第5場のザックスの行動を少し補足してみました。--みっち 2011年12月19日 (月) 10:12 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント) 加筆前と加筆後を比較する加筆コンクールの意味を考えた場合、当記事の充実度は格段に向上したものと思います。4時間20分にも及ぶ上演時間を要する大作が、作曲者自身の実体験や、読んだ書物からインスピレーションを受け、20年余りの期間を経て作られていった経緯は、詳細に記述されていて興味深く読むことが出来ました。また、ルートヴィヒ2世による追放や和解、更には反ユダヤ主義への言及など、高名な作曲家ワーグナーの知られざる一面を知ることが出来ました。全体的な記事の節構成、順番についてですが、私は現状のままでも可読性に問題は無いように思いました。所々にやや難しい記述がありますが、オペラ、歌劇といった記事は読み手の事前知識がある程度要求される分野でありますし、特に出典とした文献を元に記述する部分では仕方のないことではないかと思います。当記事では要所要所で内部リンク、あるいは補足的な説明がされていて、専門知識のない読者でも、この楽劇の概要をおおまかにつかむことが出来ると思います。--さかおり 2011年12月27日 (火) 06:53 (UTC)[返信]
    • (加筆者コメント)コメントありがとうございます。興味深く読んでいただけたことは、率直にうれしい思いです。エントリでも述べましたが、本項目と深く関連するハンス・ザックスマイスタージンガーの項目を事前に整備していたことで、内容の切り分けがうまくいったように感じます。ワーグナーの創作は、自身の生活や音楽面だけにとどまらず文学、歴史、政治まで広範な知識に裏付けられていますが、歴史ドラマの体裁を取っているこの作品では、とくにそうした関わりについて分量を割いて記述できたのではないかと思っています。同時に、排外主義や反ユダヤ性といった陰の面については、現代でも演出上のポイントとしてスキャンダルにも発展する原因であり、いまなお評価途上にあるように感じています。なお、節構成については、今後もご意見をいただきながら考えてみたいと思います。--みっち 2011年12月28日 (水) 10:09 (UTC)[返信]

エルヴィン・シュルホフ[編集]

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (審査員コメント)加筆に先立ちエントリー者さんが、こんな作曲家もいるのか、と興味を持っていただける記事にしたいと思います。と仰られたとおり、非常に興味深く読ませていただきました。ヨーロッパの音楽界がロマン派音楽から新古典主義音楽現代音楽へと移り行く過渡期にあって、そこにナショナリズムが加わり、最期は強制収容所で死を迎えるという、まさに時代に翻弄されたとでも言うべき作曲家の生涯が、加筆されたことによって良く理解できるようになったと感じました。
    • 細かいところですが、気になった点を2点
      • 加筆前の版では、1928年にラジオ放送用に行ったピアノ協奏曲を含む自作自演の録音が残されており、CD化もされている。とありましたが、加筆後でこの部分への言及がありません。作曲者本人の演奏した録音が残され、かつCD化しているという情報は興味深いところなのですが、検証可能な出典は無かった、ということでしょうか?
      • 没地の地名の記述はありますが、施設は単に強制収容所とだけです。強制収容所の具体的な名称は確認できますでしょうか?この記事の主題は人物の記事ですし、強制収容所で亡くなったというのは特筆されることなので、可能であれば没地(施設名)の正確な名称があったほうが良いと思いました。--さかおり 2011年12月19日 (月) 14:48 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)さかおりさん、お読みいただきありがとうございます。興味深く呼んでいただけたということで、目標の一つは達成できたかなと安堵しております。
    • さて、ご指摘の点についてですが、「1928年のラジオ放送用の自作自演音源」については、そのCDが存在することは確認できていたのですが、執筆時にそれについて記述できる出典がなかったため、とりあえず保留にしていました。今になって当該CDのライナーノーツが確認できたため、先ほど出典を追記して加筆しました。
    • また、もう一点の強制収容所の名前ですが、どの文献を見ても「ヴュルツブルクの強制収容所」とあり、具体的な名称まで触れている文献にとうとう当たれませんでした。さらに、このヴュルツブルクに当時強制収容所があったのかどうかについても確認できる資料が見当たらなかったため、結局具体的な施設名は記述できませんでした。
    • とりあえずご指摘の件については以上です。もし今後新たな資料に当たれるようでしたら、加筆を行うかもしれません。ご指摘ありがとうございました。--蒋龍 2011年12月23日 (金) 14:06 (UTC)[返信]
      • 横からコメントです。de:Erwin Schulhoffによると、シュルホフが収容された収容所は、この記事からのリンク先であるヴュルツブルク(Würzburg)ではなくヴァイセンブルク・イン・バイエルンという小都市の近くにある山城のヴュルツブルク城 (Wülzburg)であるようです。de:Wülzburgで見る限りでは堅牢で立派な要塞です。この記事には、「第二次世界大戦中、ヴュルツブルク城は収容所として利用された。このため Fallgarten 前にいわゆる「ロシア人墓地」があり、約40基の商船乗組員の墓の他に、プラハの作曲家エルヴィン・シュルホフの墓がある。」と書かれています。引用元として http://wugwiki.de/index.php/Russischer_Friedhof が書かれています。参考までに。--汲平 2011年12月28日 (水) 12:14 (UTC)[返信]
        • 汲平さん、コメントありがとうございます。たしかに文献でもWülzburgとなっていましたので、ご指摘の通りヴュルツブルク城のことのようです。綴りが似て、かつ同じバイエルンにあるヴュルツブルク(Würzburg)と混同していたとは気づきませんでした。ご指摘にそって本文も修正致しました。ありがとうございます。--蒋龍 2011年12月29日 (木) 07:35 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)上記『ニュルンベルクのマイスタージンガー』でワーグナーの反ユダヤ主義に触れた者としては、避けて通れない記事だと思い拝読しました。それにしても、才能ある作曲家がこんな形で葬られてしまったことは、痛恨事です。内容については、1930年代以降、迫害を受けはじめてからの言及が少なめになってしまうのはやむを得ないとはいえ、やはりそのあたりの事情をもう少し詳しく知りたいと感じます。とくに「迫害と死」節で、「作品内容も共産主義への傾斜が顕著となっていき」という点について、作品リストを見ると、この時期に「共産党宣言による交唱曲」(1932-1933)が書かれているのがそれに当たると思われますが、むしろ交響曲の「量産」傾向がより顕著であり、第3番から第6番まで完成、未完ながら第7番、第8番まで着手していたというのは特筆に値します。これも共産主義あるいは社会主義リアリズムへの傾斜(例えばショスタコーヴィチへの接近?)ということなのか、それともほかに理由があるのか、このあたりのシュルホフの作風変化は重要ではないでしょうか。いずれにしろ、今後解明や作品評価がすすむことにより、さらに加筆いただけるのではないかと期待します。--みっち 2011年12月20日 (火) 11:12 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)みっちさん、ご感想とご指摘ありがとうございます。私としても、時代に葬られるには惜しい作曲家だと何度も思いながら、執筆を進めておりました。
    • 1930年代以降については、全体的に資料が残っていないせいなのか、どの文献でも記述が少なめであったため、なかなかその頃の作風や心境の変化まで、踏み込んだ記述ができませんでした。またご指摘にあった交響曲の量産傾向についてですが、私のあたった文献ではそれに関する考察が見つからず、気になる所ではありましたが加筆するには至りませんでした。日本どころか世界的にもまだまだ無名な作曲家であり、これから本格的に研究が進むことを期待しています。日本語でも良い文献がでてくれるといいのですが、高望みかもしれませんね。--蒋龍 2011年12月23日 (金) 14:06 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)とても読みやすく編集・構成された記事で、難なく一気に読み通しました。また、ニコニコ動画で彼の曲を実際に聴いてみました[10]。ライプツィヒ音楽院の教授として、わずか1年しか就いていなかったマックス・レーガーに師事できたのも、音楽家としての基礎を完成させる時期に第一次世界大戦に遭遇したのも、彼の運命ということになるのでしょうか。しかし、個人的には、「ヨーロッパ各地で行われた演奏会では、例外なく成功を収め(「#反戦主義からダダイズムへ」)」る一方で、「作品内容も共産主義への傾斜が顕著となっていき、チェコスロバキア政府からも危険視された(「#迫害と死」)」ほどの彼なら、どうしてもっと早くに国外に脱出する意思を持たなかったのか、と私は考えてしまいます。
さて、「シュルホフの音楽的な特徴は、大きく分けて第一次世界大戦前と大戦後に分けられ#作風)」とあります。さらに言えば、彼の人生の方向すら大きく変わった印象を、読者として強く受けました。彼に対する一層の研究進展と、そのカギを握る「#反戦主義からダダイズムへ」項を中心とする当記事の加筆充実を望むばかりです。ユダヤ人として強制収容所での迫害を受けて死亡しながら、ドイツ南部に彼の墓が造られ、今日に残存しているのも興味深いところです。ところで
*シュルホフは旧習を否定するために前衛的な試みを支持していたが、実験のための実験には反対する立場をとっていた。十二音音楽を推し進めたシェーンベルクにも度々言及しているが、自ら十二音技法を作曲に用いることはなかった。(#ダダから前衛へ
正直に申して、私にはこの部分がいまいち分かりづらかったのですが、それは私が音楽の基礎知識を欠いているからなのかも知れません。一方、同項後半の「シュルホフは音楽におけるリズムの重要性を強調しており、リズムを通した肉体的な至福感や、そこから得られる恍惚感を重視していた。」は、よく理解できました。これら当記事にて得た情報を踏まえ、改めて彼の作品におけるリズミカルさを味わってまいります。--もかめーる 2011年12月25日 (日) 06:34 (UTC)[返信]
    • もかめーるさん、コメントありがとうございます。おっしゃるとおり、時代の変化などによる作風や人生観の変化についても興味深い所でしたので、もっと掘り下げて書きたいところでしたが、筆力不足と文献不足のため最低限の言及にとどまってしまったかと思っています。総論的な文献(ドイツ語)があることはあるようなのですが、入手が難しく、仮に手に入っても読み解けないということで、加筆には使えませんでした。
ご指摘の節については、確かに色々な内容が混ざってわかりづらい文章になっていたので、修正を行いました。文献の読み違えもあったようですので、いろいろと訂正も同時に行いました。ご指摘感謝いたします。審査は大変かと思いますが、何卒よろしくお願いします。--蒋龍 2011年12月29日 (木) 07:35 (UTC)[返信]

ミラビリス・リベル[編集]

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (審査員コメント)『ミラビリス・リベル』を主題とする研究が極めて少ない(「#研究史」)中において、平易な文章で読者にその内容を伝えている、当記事の果たす役割は大きいものと思われます。特に、旧約聖書や欧州史に関する基礎知識をお持ちの方にとって、この予言書の存在を知る意義は十分にあるでしょう。勉強不足の私は、何度も読み返しつつ、複数の関連項目を参照しながら、何とかしてこの書物の価値を理解しようと努めました。「書物の内容・構成」を軸に据えた記事であり、レイアウト、注釈を含めた説明文、多彩な画像ともどもよく整理され、百科事典記事として文句のない出来栄えにあると感じます。ただ
*ルロワによれば、ジョームの兄弟で予言的エピソードを持つのは弟のピエールのみだというが、それ自体、高齢の婦人が懐妊しているかを賭けて勝ったというだけでしかない。(#編者
この文章はいまいち掴みづらく感じました。また、下記文章の下線部について、間違いがないかご確認を賜りたく存じます。
*その内容は、牛が教会で鳴くのを聞くときに教会が跛行するようになり、さらに鷲と蛇が結びついたり、2頭目の牛が教会で鳴くようになると、苦難が訪れると説き起こしている。(#第1部 第14章)
  • これが第68葉の残りを占めるとともに、第1章の締めくくりとなっている。(同 第23章)
神聖ローマ皇帝選挙立候補を支援する目的で作成された(「#概要」)『ミラビリス・リベル』が、「未来に関する記述内容が的中している」と、時を経て注目されるに至りました。それだけ、将来に対する不安を抱いていた人々が多かったのかもしれません。一方で、著名な予言者や占星術師に影響を与えたにもかかわらず、どうして1986年のブリトネルとスタッブスによる論文発表まで、近現代に研究対象としてほとんど注目を浴びなかったのか、気にかかるところであります。--もかめーる 2011年12月22日 (木) 08:46 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。ヨーロッパ精神史の裏街道を突っ走るような主題な上に、各章に関連性がないため、どれだけ平易に書けているかに不安もありましたので、細部まで読み込んで頂いたことにも御礼申し上げます。
    ご指摘いただいた点のうち、まず予言的エピソードについて。私個人が外部で運営しているサイトにリンクを張るのは宣伝めいていて気が引けるのですが、エピソードの概要はこんな感じです。で、それをできるだけ簡潔に要約したつもりだったのですが、確かに予言と賭けのつながりが分かりづらくなっているので、概要は端折って、しょぼいエピソードと見なされているという「評価」に力点を置くように微調整しました(この記事でエピソードの詳細を書くような話でもないと思いますので)。
    68葉云々の箇所について。これは明らかに「第1部」の誤記です。見落としておりました。
    「跛行」について。これはブリコンの仏語訳 l'Eglise commencera à clocher (Bricon (1831) p.195) のほぼ直訳です(この clocher は名詞でなく動詞です)。該当箇所はラメジャラーの英訳でも the Church shall start to go lame (Lemesurier (2003) p.222) となっています。おそらくは教会がまっすぐ正しい道を進めなくなるというような意味と思いましたが、この第14章については解釈例を一切見出せなかったため、足の不自由な方への差別と取られかねないそういう意訳を、先行する訳・解釈の裏付けなしには出来ず、オリジナルの隠喩そのままに要約しました。意味不明な象徴語の多い予言書の要約は難しいと、改めて認識させられます。
    さて、なぜ長らく注目されなかったのかは、私にもよく分かりません。ただ、#参考文献のラインナップそれ自体が答えのヒントを含んでいるように思います。つまり、ヨアキム主義や世界最終皇帝についての研究の場合、メトディウスやシビュラといったオリジナル文書の分析は研究が積み重ねられてきた一方で、それらをまとめたアンソロジーは二次的、三次的な対象として重視されなかったのではないでしょうか。他方で、伝統的なノストラダムス信奉者の多くは、その卓越した予言能力を誉めそやすことに勤しんでいたため、元ネタの探求などは稀でしたし、例外的な指摘もほとんど無視されていました(実証的な研究が進んだのは1980年代以降のことで、それとの関連でミラビリス・リベルが注目されるようになったのは90年代半ば以降です)。そういう意味では、以前は2つの潮流を橋渡しする研究が出てきづらかったのではないかと思います。--Sumaru 2011年12月22日 (木) 13:27 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)加筆により目覚しく質が向上しており、記事の素晴らしい出来栄えに感服しております。特に記事を総括する冒頭の文章は、この記事が何を解説したものであるのかを過不足無く的確に表現した素晴らしい一文ですし、全体の構成、出典の付け方、それらを平易な文章に噛み砕いてまとめられる執筆者の手腕に敬意を表します。全33章に及ぶ内容を詳細に解説した「ミラビリス・リベルの構成」節は圧巻でした。また、出版の詳細な刊行リスト、後世に与えた影響なども詳しく説明がされていて、百科事典として記載されるべきことは、ほぼ網羅されているものと思います。ただ、最後の「研究史」節だけは他の節と比較すると説明不足で少々分かりにくく感じました。ジェニファー・ブリトネルとデレク・スタッブスとは、どのような人物であるのか?マージョリ・リーヴスの著書とフランソワ・スクレの論文、ジャック・アルブロンの博士なども、簡単でいいので補足的な説明が欲しいところです。--さかおり 2011年12月28日 (水) 04:10 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。上にも書いた理由から、審査員お二方から、文章の平易さについてご評価いただけたことに安堵しています。さて、アルブロンの博士論文は、本文の中で触れた解像度の問題で、残念ながら中身を見ていません(かろうじて判読できた目次の構成から、一定の分量が割かれていることだけ確認できたため、その旨加筆しました)。ただ、リーヴスの場合は日本語訳が存在し、現にそれを参考文献として使ったわけですから、確かにもう少し膨らませようはあるかもしれません。検討してみます。--Sumaru 2011年12月30日 (金) 11:26 (UTC)[返信]

ノストラダムス[編集]

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (審査員コメント)加筆前の版にてFA記事であり、すでに多くの方による査読がなされています。したがって、今回は特に差分から、注釈を含めた加筆箇所について重点的に目を通させていただきました。加筆前の版では後から付け足したようにも思えた「#名前の表記について」「#信仰について」が、より適切に思われる箇所に移動され、かつ彼自身を取り巻く、あるいは予言に関する伝説やエピソードがさらに挿入されたことで、当記事より彼自身を一層深く窺い知れるように感じました。ただ、こうしたエピソードが史実か創作なのかは、今もって不明なところが多いのですね。
かつては比較的単純なアルバム形式だった「#ノストラダムスの肖像画」が、今回装い新たに「#ノストラダムスの肖像」として、彼の姿を映した画像が、その背景説明とともに並べられたのも面白い工夫です。さて、お尋ねしたい点として
*在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球の回転について』の内容を20年以上先取りするかの如くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はあるが、裏付けとなる史料はなく、むしろノストラダムスの宇宙観はプトレマイオス的なものであるとも指摘されている。(#少年時代および遊学期
この下線部は、つまりクラウディオス・プトレマイオスの唱えた「天動説」をベースとしている、ということでしょうか。それとも、「惑星は完全な円軌道を描く」とした(「ニコラウス・コペルニクス#人物伝」)従来の天動説と同様の考え方を指すのでしょうか。プトレマイオス人名の曖昧さ回避のためのページに飛びますので、この部分にもう一段の加筆をお願いしたいところです。また、ノストラダムスは、予言者として後世に大きな影響を与えたところから、少なからず「偽者」「便乗犯」を生み出すことともなりました。これについても当記事にて触れられていて良いかもしれません。
ノストラダムスが予言者としての成功した要素の一つに、父方の曾祖父と祖父による、ユダヤ教からキリスト教への改宗を見過ごすことはできません。『ミラビリス・リベル』の編者がノストラダムスの父ジョーム・ド・ノートルダムである可能性も否定できない中(「ミラビリス・リベル#編者」「ジョーム・ド・ノートルダム#予言」)、ノストラダムス一族を併せて拝読し、彼の出自についても興味深く勉強させていただきました。--もかめーる 2011年12月25日 (日) 03:24 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)上の記事に続き、コメントありがとうございます。ノストラダムスの実像を知ってほしい、ということが一番最初のウィキペディア参加動機だった身としては、関連記事までお読みいただけたことが何よりも嬉しいです。さて、プトレマイオスについては、私は単純に「天動説的」と同じ意味に受け取っていました。ただ、出典の叙述が簡素なので、改めてその理解でよいのか確認をとった上でより正確に加筆したいと思います。
    偽者については、ノストラダムス現象をまとめて別記事に分割したという過去の経緯から、今回の加筆では特に考慮していなかったのですが、年表だけでなく、本文にも何か組み込めないか検討してみたいと思います。ただ、多忙につき、おそらく加筆するとしても1月第2週以降になると思います。--Sumaru 2011年12月26日 (月) 14:34 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)既にFAである当記事を加筆されるということで、どのような編集が行われるのか興味深く拝見させて頂きました。ノストラダムスと言えば、一般的には『ノストラダムスの大予言』を連想される方がほとんどですが、当記事はノストラダムスその人の人物像、生涯をテーマにしたものですから、今回新たに編集された、晩年から墓にかけての加筆、画像を効果的に使われた肖像画についての加筆、出典の追加などによって、より記事の質が向上したと思います。しかしそれ以上に私が感じたのは、執筆者さんによるもうひとつのエントリー記事であるミラビリス・リベルとのノストラダムスの関係性です。ミラビリス・リベルがノストラダムスの活動に大きな影響を与えたことは加筆前にも述べられていたことなのですが、今回のミラビリス・リベルの飛躍的な加筆によって、このノストラダムスの記事への理解度が非常に深まったと思います。ノストラダムスほどの人物になると、そこから派生した事象やら関連人物などを一つの記事内に記述するのは不可能でしょう。執筆者さんが以前、ノストラダムス現象を別記事に分割したのは当然のことと思います。今後も関連する記事のメンテナンスや加筆などに期待しております。--さかおり 2011年12月29日 (木) 03:05 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。私自身、ミラビリス・リベルの加筆と、その前提となる参考文献の再検討を通じて、ノストラダムスへの理解が深まったように感じていたため、お読みいただいた方に同じような手応えを共有していただけたことは嬉しいです。ノストラダムスについては外部の私的サイトでやっているように、いくらでもマニアックに書ける自信はありますが(苦笑)、ウィキペディア上では「百科事典としての記述」から踏み外すことがないようにという心がけを保ちつつ、今後とも加筆していきたいと考えています。--Sumaru 2011年12月30日 (金) 11:26 (UTC)[返信]

脚注[編集]

  1. ^ 初版[1]が「2011年11月26日 (土)」であり、実施要綱#エントリー要件を満たさないため、選考対象外の「協賛参加」扱いとさせていただきます。他のエントリー記事同様に、記事改善のためのコメントを賜りますようお願い申し上げます。--もかめーる 2011年12月3日 (土) 20:09 (UTC)