Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/寝殿造 20170711
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選考終了日時:2017年7月25日 (火) 00:07 (UTC)→2017年8月8日 (火) 00:07 (UTC)
- (自動推薦)2017年6月の月間強化記事賞受賞記事。--Trgbot(会話) 2017年7月11日 (火) 00:07 (UTC)
- コメント あまり重要でない事項が過剰に含まれている、とのテンプレートがつけられていますが、私自身長大な記事を書いていることもあって、この記事がそれほど過剰な執筆がされているとは思いませんでした。もちろん、記事の再構成や分割などを検討することを否定するものではありません。良質な記事としての評価で見ると、やや脚注形式の出典明記が不足していると感じます。また、記事の書き方に独特のものがあるように思いました。たとえば、「中門廊と中門」の節で、さらに小区分した節タイトルが「ただの廊下ではない中門廊」「宴会場にもなる中門廊」など、いささか違和感があります。本文の書き方もそういうところが見受けられるので、もう少し推敲が欲しいところです。--Tam0031(会話) 2017年7月18日 (火) 14:30 (UTC)
- 建設的なご意見有り難う御座います。ご指摘を参考により良い記事にしてゆこうと思います。そこでひとつ質問させて下さい。「やや脚注形式の出典明記が不足していると」は「『出典』が不足している」のか「『注記』に書いた(あるいは画像説明に書いた)文言の出典が不足している」のか、それともそれ以外なのか教えて頂けますか?
- 個人的な都合で『注記』の『出典』はなるべく外出しにしています。例えば「[出典][注記]」のように。これは『出典』(『参考文献』に挙げた史料)がちゃんと本文中で使われていることの確認容易性の為ですが、読む方にとっては不要な細工かもしれません。
- あとは長さ(容量)を気にして「これぐらいあれば良いだろう」とセーブした傾向もあります。後者であれば極力『出典』を明示するように致します。「東慶寺」のときだったか「この節に出典が無い」と指摘されたこともあったので出典明記については他力本願なところも多少はあったかと反省しています。
- "「中門廊と中門」の節で、さらに小区分した節タイトルが「ただの廊下ではない中門廊」「宴会場にもなる中門廊」など、いささか違和感があります"との件はまだUPはしていませんが、下書きの方では修正しました。
- "本文の書き方もそういうところが”とは例えば"カーテン(帳)による間仕切りからパネル(障子)による間仕切りへと変化する" というような表現でしょうか。判りやすい説明を心がけたつもりだったのですが、思い込みだったのかもしれません。本人にはなかなか気づけないところでもありますので、例えで良いですから具体的にご指摘頂けると助かります。--Ktmchi(会話) 2017年7月18日 (火) 20:43 (UTC)
- 出典の不足、というのは、かなり長い段落にわたって、1か所も脚注形式での出典明記がないところが見受けられる、ということです。たとえば、「内法長押」節は現状1か所、「下長押」節はまったくなしです。文ごとに完全に出典を付けるというのは要求事項ではないのですけど、せめて各段落に1か所くらいは欲しいです。
- 注釈に対する出典が外出しなのは、他ではあまり見受けないですね。注釈内にさらに入れ子に脚注を入れる方法として、Template:Refnestというテンプレートを使う方法があります。
- 書き方に対する違和感というのは、口語的な感じがするということです。たとえば「間面記法」の節で、「柱間寸法が解らなければ三間四面とか五間四面と言っても実際の広さは個々に差があるが、今日2DKとか3LDKと言うのと同じである」とあります。学校で教官が学生に講義をしているならこんな言い方をするかもしれませんが、文章にされると違和感があります。「柱間の寸法が決まらなければ、同じ間面であっても実際の大きさはわからないが、おおよその大きさをあらわす値である」くらいなら、まだ書面で使う文章になると思います。そういうところがかなり全般にあるように思います。--Tam0031(会話) 2017年7月19日 (水) 13:04 (UTC)
- 具体的なアドバイス有り難う御座います。
- 「出典の不足」の件了解しました。勉強し始めの頃に学んで今では常識と思っていて、争点にはならないと思っていた点については出典が薄いかもしれません。総数でこれぐらいあれば良いだろうと思っていた節は確かにあります。そういう点でもこまめに出典をつけるようにします。
- Template:Refnestというテンプレートは知りませんでした。そういう機能があれば良いのにと昔から思っていたんですが、あったんですね。勉強不足でした。
- 「2DKとか3LDKと言うのと同じ」という例えは石田潤一郎先生がまだ京大助手だった頃に書かれた『屋根のはなし』という本の例えで、この言い方は判りやすいと膝を叩いたのですが、なじみませんかね。たしかにこの本は難しいことをなるべく平易な文章で説明しようという本ですが。アドバイスを参考にさせて頂いて見直してみます。
- ただ既に1週間を切っていますので2週間延長させてください。手持ちの史料で十分なはずですがどこに書いてあったか探すのが大変なので。--Ktmchi(会話) 2017年7月19日 (水) 14:22 (UTC)
- 2週間の延長はしていますが、当初投票期限の25日になりましたので途中経過をアップしました。
- 目次に現れるタイトル83の内文章を伴わない大項目とかが7。残り76の内出典(注記含まず)の無いもの6に出典を追加しました。
- 次ぎに段落毎の出典・注記ですが、76の内63までは出典・注記を付けました。13タイトル(17%)については一部の段落に出典・注記がありません。主に掲載した画像の説明をしている段落です。根拠となる出典の重要性は十分理解しているつもりですが、このような記事については古記録の指図(図面)とか、現存古建築の資料画像も出典同様に信頼性の保証になるのではないでしょうか。少なくとも出典に挙げられた文献を取り寄せて確認するよりも即座に、かつ直感的に理解出来ると思います。まだ文面の改善で出典をつけてもおかしくないうように出来る部分も残ってはいますが、100%を目標にすると文章の変更が冗長になるようにも思います。
- 注記からの出典の外出しは止めました。注記の文章の根拠となる出典についてはまだ未着手です。
- 出典の数は36件(13%)増加しました。参考文献の増加は2~3に留まります。僅かですが出番が出来て良かったと思います。研究者にとっては参考文献に挙げられることは隠れた実績らしいですから。
- 以上EXCELで表を作ってカウントしていますが、数え間違いもあるかもしれません。
- 出典の洗い直しはまだ継続中ですが、正直に言うと最初は「なんて面倒くさい」と思いましたが、やってみると最初に原稿を書いていたときよりも腑に落ちることが沢山出てきました。出典は読む人への信頼性の保証が第一では有りますが、自分の検証用としても大きな意味を持ちます。
- 読んだのに忘れていたことに幾つか気づいて、今回の作業は私にとってもとても有意義だったと思っています。まだ作業中ですが。なお、記事冒頭のテンプレートは今回で削除します。--Ktmchi(会話) 2017年7月25日 (火) 00:07 (UTC)
- 2週間の延長はしていますが、当初投票期限の25日になりましたので途中経過をアップしました。
- 全章の表現を見直し、段落単位に「出典」ないしは「注記」を付けました。「出典」は26%(73件)アップ。ただし「参考文献」は108件から111件で3件の増加のみ。「注記」も2件追加のみです。ただ「4.3.1『類聚雑要抄』にある室礼」だけはひとつの出典「類聚雑要抄・巻2」にある東三条殿の指図(図面)の説明であることと、説明の都合上段落を細かく切っているため6つの段落の内2つには「出典」も「注記」もありません。しかし99%以上の段落はクリア出来たと思います。
- 「注釈に対する出典が外出し」はそれほどは多くは無かったですが止めました。「注釈内にさらに入れ子に脚注を入れる方法」については注釈文をnameで外だししている私のやり方ではエラーになるようであきらめます。
- 2つの問題についてはまだ適切な「出典」を見付けられていません。当時の製材技術と。庶民住宅の様相や農家に縁側が出来た時期などです。脇のそのまた脇の情報ですが。--Ktmchi(会話) 2017年7月26日 (水) 15:02 (UTC) 追記--Ktmchi(会話) 2017年7月26日 (水) 17:08 (UTC)
- 賛成 :良質な記事の水準には達しているように思います。--鈴玉(会話) 2017年7月25日 (火) 12:30 (UTC)
- 有り難う御座います。1票でも賛成票がつくとそれだけでも十分に報われ、元気が出ます。--Ktmchi(会話) 2017年7月26日 (水) 15:02 (UTC)
- 賛成 :建築分野は完全に門外漢ですが、一般的な水準からすれば十分に網羅的であり出典もきちんとしていると思うので賛成します。ちょっと議論になっている(いた?)ようですが、特に内容過剰とは思いません。その上で1点だけどうしても気になるのは、概要節があまり役割を果たしていない感じで、読んでも概略のイメージがちょっと掴みづらいです。「平安時代の貴族らは屋敷の中心となる建物を寝殿と呼んではいたが、「寝殿造」という呼び方はその時代には無かった。~寝殿及び寝殿造りの名称のもとに古来より称せられしものは其形は諸種甚だ変化あるものである。~だだしこの当時の内裏は、11世紀以降に明らかになる寝殿造とはそうとうに異なっている」となっていて、概略節の最初を読んでも、「寝殿」と言う言葉が複雑な経緯を辿っていることはわかりますが、結局「寝殿造」って何なの?という大雑把なイメージが頭の中に出来上がりません。そのまま「寝殿造の建築構成」と進んで行くため、何と言うか全体写真が無い状態で、細部のクローズアップ写真がダダダッと並べられてるような印象を受けます(多分あらかじめ寝殿造のイメージをぼやっと持っている人と全く知らない人で、記事から受ける印象はかなり違うんじゃないでしょうか)。記事が「過剰な内容」に見えてしまうのはこの辺じゃないかなあと言うのが感想です。ただ、上記の点に改善の余地はあると思いますが基準は満たしているように思います。--TEN(会話) 2017年8月1日 (火) 14:22 (UTC)
- 専門バカになりかけていたところを「読む者の視点」に引き戻して頂き、有り難う御座います。本来の専門(?)は日本中世史で、決して建築史ではないのですが、中世史での個人テーマに関係するので、ここ2~3年古代中世建築史にはまっていました。にわか専門バカなので広い視点が抜け落ちていたかもしれません。いや、そうなのでしょう。ただ、急に方向転換すると交通事故を起こしかねないので、この課題は「秀逸立候補までの課題」とさせて下さい。--Ktmchi(会話) 2017年8月1日 (火) 16:08 (UTC)
- コメント 内容は非常に充実していると思うのですが、やはり口語的な箇所や百科事典的でない表現が目立ちます。執筆者の方がお書きになった記事をいくつか拝見致しましたが、全体的に独特の文体であると感じました。非常に申し訳ないのですが、他の記事のお手本となることを考えたら文章という面ではGAとすることには賛同できかねます。--霧星小根(会話) 2017年8月2日 (水) 06:49 (UTC)
- ご指摘有り難う御座います。過去の長文記事については、表現上の問題は自分でも認識しているつもりで、今回もこの間、軽めの言い回しなどは極力削除したつもりでしたが、書いている本人には気づきにくい点でもあります。「小説」ではないので「独特の文体」は売りにはならず、あくまで客観的に正しい、あるいは現時点での研究者の見解はこう、ということを読む方に抵抗なく理解してもらうということがゴールですので、「百科事典的でない表現」「独特の文体」と云う「抵抗」お感じになった箇所をいくつか具体的に御教示頂ければとてもありがたいです。今回の選考には間に合わないかもしれませんが、次ぎへのブラッシュアップの参考とさせて頂きます。--Ktmchi(会話) 2017年8月2日 (水) 15:42 (UTC)
- 反対 :>なお前期後期とも寝殿造の遺構は残ってはおらずとあるが、発掘されている[1]。遺跡として完全な形では残っていないという意味には、>同時代の古文書と絵巻が研究の主な対象となっている。からは取れない文章である。>京都が灰燼と化すまで続く上層住宅の建築様式である。これも京都が灰燼に帰したのは一般に応仁の乱とされ、その当時は書院造に変遷しているようである[2]。冒頭からこのような疑問が浮かぶ。>論者により温度差がある、等の表現はその判別の定義であり温度差とは意味が不明である。以後逐一あげることはしないが表現なども不適切なところがあり、残念ながら賛成できない。--T34-76(会話) 2017年8月2日 (水) 17:12 (UTC)
- 京都リサーチパーク遺跡については存じておりますが、寝殿造の時代区分にも書いた通り、それを寝殿造とするかどうかは微妙なところで、それが寝殿造なら平安京右京一条三坊九町(山城高校遺跡、8c末~9c初)も寝殿造に含めなければなりません。もちろんそういう見解の学者さんがいらっしゃることは知っていますし記事中で紹介もしています。外部リンクにある「寝殿造成立前夜の貴族邸宅-右京の邸宅遺跡から」(京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館)の中の「右京六条一坊五町」がそれです。
- しかしそれは京都市埋蔵文化財研究所が書いているように「寝殿造成立前夜」というのが現在の研究者の一般的な見解です。京都リサーチパーク遺跡も含めて寝殿造を考えなければいけないのではないかと仰ったのはたしか飯淵康一先生だったと思いますが、それは一般的な寝殿造イメージベースではありません(これについては飯淵康一先生の文章を確認の上修正するかもしれません)。反対は反対で構いませんが、上記の点についてはお答えを願います。この議論はとても楽しみにしております。書院造についてはまた改めてコメントします。--Ktmchi(会話) 2017年8月2日 (水) 21:57 (UTC)
- 一瞬論争モードになりかけましたが、ウィキペディアですので一般にどう認識されているかを整理する方が良いと思います。まず寝殿造は10世紀以降の上層住宅を指すというのが一般的な意見です。具体的には藤田勝也先生が『平安京の住まい』収録の「寝殿造と斎王邸跡」 の中でまとめていますが、福山敏男先生は「十世紀の末ごろには完成」。飯淵康一先生も「東西対屋の南庇、同孫庇の存在はすでに10世紀の前期には知られ、東西孫庇は10世紀末にはみることができる。これを備えた大規模な対屋は11世紀には極く標準的になったものと考えられる」としています。総じて10世紀頃です。藤田勝也先生は「寝殿造の準備期」に書いたように6つの発掘調査の情報と文献史料から知られる2つの屋敷の計8件を比較して、寝殿造は徐々に出来上がっていったと云うよりも、ある屋敷から急に広まった可能性を指摘しています。『平安京の住まい』p.77です。京都市埋蔵文化財研究所は2013年10月の「寝殿造成立前夜の貴族邸宅-右京の邸宅遺跡から」でも「代々、平安京に住む貴族たちが自らの都市文化を育み、寝殿造という建物と庭園が一体化する住宅様式を成立させるのは10世紀以降のようです。」とあります。
- T34-76さんが示された発掘調査報告書『平安京右京六条一坊 -平安時代前期邸宅跡の調査-』はその京都市埋蔵文化財研究所の1992年のものであり、確かに冒頭に「寝殿造復元模型」と書かれているので京都市埋蔵文化財研究所は2013年10月の「寝殿造成立前夜の貴族邸宅-右京の邸宅遺跡から」までの間に見解がぶれていたのかとも思いましたが、ぶれてはいませんでした。報告書本文の最後(p.113)を「発掘したこの邸宅は、それにいたらないまでの先(プレ)寝殿造りというべきか」と結んでいます。つまり平安京右京六条一坊、一般に京都リサーチパーク遺跡と呼ばれるものは9世紀中頃で、2013年10月の京都市埋蔵文化財研究所のリーフレットのタイトルにあるように「寝殿造成立前夜の貴族邸宅」であって寝殿造そのものではありません。上記の先生方はみなさん丹念に読んで、その上で寝殿造は10世紀以降とされています。京都リサーチパーク遺跡が「遺跡として完全な形では残っていないという意味」からではありません。発掘調査としてはあれ以上のものはありませんので。また飯淵康一先生も書きになっていますが、寝殿造へ至る過程としてはとても注目されています。その理由は、報告書 p.110の節タイトルがその注目度を現していますが、内裏以外で始めて建物を繋ぐ廊が出てきたことです。 9世紀初頭の「右京一条三坊九町の邸宅」通常「山城高校遺跡」と呼ばれる遺跡には建物を繋ぐ廊はありませんでしたので。
- 「寝殿造成立前夜」については有益な発掘調査が何件もあるのに、なぜ「寝殿造の時代」にはそうした発掘調査が無いのかと疑問に思われるかもしれません。それは「都市の成熟と里内裏」に書いたように寝殿造成立期での「左京北半分への人家密集」です。平安京というと朱雀大路を真ん中にして左京、右京ともに碁盤の目というのが一般的なイメージですが、10世紀頃から右京は廃れ、人家は左京に集中します。右京は湿地が多かった為だそうです。寝殿造もほとんど左京に集中します。ところがその左京は平安時代から現在に至るまで人口密集地で家やビルが建ち並んでいます。仮に発掘出来たとしても平安時代の地層のほとんどはとうに壊されているでしょう。この先も期待薄です。「寝殿造成立前夜の貴族邸宅-右京の邸宅遺跡から」にある遺跡がみな右京のものであるのは、長いあいだ田畠であったために平安時代の地層が比較的残っていたからです。左京でも僅かに発掘調査出来たものもあります。大寝殿造で有名な堀河殿ですが、しかし発掘が一部に止まったため、検出出来たのは池の跡の一部だけです。以上ご納得頂けましたでしょうか。--Ktmchi(会話) 2017年8月3日 (木) 15:22 (UTC)
- 京都市情報館サイトの「寝殿造から書院造へ」の寝殿造の図についてはツッコミ処満載ですがそれは置いといて、このページの書院造の解説については異存はありません。「京都が灰燼と化すまで続く上層住宅の建築様式である。これも京都が灰燼に帰したのは一般に応仁の乱とされ、その当時は書院造に変遷しているようである」とはこのページのどの部分を根拠とされているのでしょうか。
- このページには「以上のような寝殿造の様式は鎌倉時代以降も受け継がれ,社会の移り変わりや日常生活の変化に対応しながら発展していきました。そうした流れのなか,室町時代後期から江戸時代初期にかけて書院造(しょいんづくり)が成立していくことになります」とあります。そして書院造の例としてあげられているのは二条城二の丸御殿平面図です。このページの”書院の内部構造と「座敷飾」”で説明されている内容が出そろうのは「聚楽第」で、それが園城寺の光浄院客殿や二条城二の丸御殿へとつながります。応仁の乱の頃までは寝殿造は有ります。川上貢先生の『日本中世住宅の研究』をお読み下さい。--Ktmchi(会話) 2017年8月3日 (木) 16:07 (UTC)
- 質問の体をなさない質問をされるなど、議論は全くかみ合っていない。>「なお前期後期とも寝殿造の遺構は残ってはおらず」について>「もちろんそういう見解の学者さんがいらっしゃることは知っていますし記事中で紹介もしています。」ならば「残っておらず」は正しい表現とは言えない。>「京都が灰燼と化すまで続く上層住宅の建築様式である(化の字義からは誤りだが慣習としては使用されているので問題とはしない)」は、寝殿造の消滅の理由が京都(京都全体)の火災という趣旨にもとれるが、藤原氏の政治力の衰退と社会の変化が原因でなければ、単にそれまでの大火から焼け残った家屋の焼棄が原因ともとれる。結局前記の指摘の文章に「疑義が生ずる」との指摘が誤りであるとの反証はなく、前記の文章が不正確であるとの指摘を覆す理由の記載もない。文献研究が中心で発掘資料はないなどと言っているのなら、歴史考古学的証明が当該寝殿造については無いとの議論にさえなりかねない。Ktmchi氏は「宇治市街遺跡発掘調査説明会 当日資料 pdf宇治市街遺跡 現地説明会資料 」の「(1) 今回見つかった遺跡の要素は、平安時代に成立した貴族の邸宅である寝殿造(しんでんづくり)のあり方にとてもよく合致します」も否定するわけだろうか?TEN氏の意見を再度熟読されることを希望する。--T34-76(会話) 2017年8月6日 (日) 00:23 (UTC)--T34-76(会話) 2017年8月6日 (日) 02:45 (UTC)
- 反対 :「概要節があまり役割を果たしていない感じ」というTEN様の意見に賛成で、百科事典の記事でそこに問題があるのはどうかなと感じます。一番大切なことと思っていました。百科事典の記事は専門書ではなく、あらかじめその題材のイメージを持っている人向けのものじゃないと思います。(私自身は寝殿造のイメージはぼんやりでも持っていますが、記事自体を見るときは、自分の知識で補って読まないように気を付けています)「何が寝殿造かという点でも『家屋雑考』、太田静六、堀口捨己など、論者により温度差がある。」とかも、出典もないし、いろいろな本を読んでそう思ったから書いたのだとしたら、独自研究です。誰かそう書いている人がいて、出典があるなら「○○は~と述べている」という形にして、出典を付けてください。他にも気になるところはいろいろありますが、どっちにしても概要の問題が解決して、構成が整理されないと賛成できません。記事を読む人の心を折らない目次の数、分量に整理することも、大切なことです。Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)や、他の良質な記事とかも読んでみてください。記事を寝殿造と中世の寝殿造に分けた根拠もよくわかりません。--ジャム・パンナ(会話) 2017年8月6日 (日) 10:11 (UTC)
- 「概要の問題が解決して」以下の部分了解しました。ただし残りあと二日なので対処は今回の選考終了後にさせて下さい。ノート(2017年6月29日 (木) 03:32 (UTC))では「引用エラー: <references>・・・」で気が動転してしまいましたが、記事をより良いものにするためのご意見ということは理解しております。ktnsさんのご指摘にあったように、若干熱くなってしまった点についてはお詫び申します。
- 記事を「寝殿造」と「中世の寝殿造」に分けたのは元々迷っていたこともあります。後者は寝殿造が書院造へと近づく過程ですので。かといって「寝殿造から書院造への遷移」では百科辞典のタイトルにならないし、タイトルは悩ましいところではありますが、でも寝殿造はその後どうなったんだ?という疑問には答えられるかと。それに、分けたので随分と書きやすくなりました。あと細かいことですが「家屋雑考」で「『家屋雑考』の評価 (作業中)」をコメントアウトして頂いたことは感謝しております。ネタはあるのですが未だに手が廻りません。--Ktmchi(会話) 2017年8月6日 (日) 13:22 (UTC)
- 書きやすい書きやすくないではなくて、百科事典の記事として「寝殿造」と「中世の寝殿造」に分ける適当な根拠はあるのか、その名称に出典はあるのか、一般的な用語なのかが問題です。個人サイトなら、書きやすいかどうかで記事を分けて、好きなタイトルを付けても全然問題ないですが、ここは百科事典で、記事名にも根拠が必要です。それに、今の記事では、来た人の多くがほとんど読まないでブラウザバックになりかねないと心配しています。概要で全体が大体つかめているならともかく、もやもやの状態でこの量を読む・・・しかも節が整理されていなくて多い・・・つらいです。読者は歴史オタクとは限りませんし、そう思って書いてはダメと思います。ウィキペディアの記事として良質かという選考ですので、寝殿造について書きたいことを書くのではなくて、百科事典の目的、ウィキペディアのルールやスタイル、読者に合わせて整理してください。T34-76様のご指摘の点も、わたしも同意見なので、改善よろしくお願いします。選考が終わっても、他の方の意見も記事に生かしてください。--ジャム・パンナ(会話) 2017年8月7日 (月) 15:35 (UTC)
- "「寝殿造」と「中世の寝殿造」に分ける適当な根拠はあるのか、その名称に出典はあるのか"という点に限ってお答えします。
- 「寝殿造」は川本重雄先生の『寝殿造の空間と儀式』と飯淵康一先生の『平安時代貴族住宅の研究』 の範囲。
- 「中世の寝殿造」は川上貢先生の『日本中世住宅の研究』、及び藤田盟児先生の「主殿の成立過程とその意義」『中世的空間と儀礼』の対象範囲です。
- この先生方に前期(古代)・後期(中世)の両方にまたがる藤田勝也先生の『日本古代中世住宅史論』を合わせれば現在の寝殿造研究に関わる主要な論客の全てになります。太田静六先生を出さないのは研究史史上で大変な功績をあげた先生ではありますが、現在では既に旧説となっているからです。
- 「中世の寝殿造」というタイトルですが、川上貢先生の『日本中世住宅の研究』の「結論」の出だしに「中世における寝殿平面の発展過程を論じて本研究の結論としたい」とあります。「日本中世住宅」と云っても史料的な問題から「上層住宅」で下層住宅は含みませんから「結論」の出だしにあるように「中世の寝殿の発展過程」です。それを「日本中世上層住宅」とすると正確は正確ですが、それだと「寝殿造」を「日本古代上層住宅」としなければなりません。また鎌倉時代初期の閑院内裏や藤原定家の屋敷は寝殿造ではないのかという問題が生じます。川上貢先生の云われる「中世における寝殿平面の発展過程」とは近世の書院造への接近の過程です。
- 藤田盟児先生はあえて「主殿造」と言う言葉は用いますが、それによって「寝殿造」から「書院造」への変化の過程を際立たせようというのが真意で、「寝殿造」でも「書院造」でもないそれらと対等な建築様式として「主殿造」を主張している訳ではありません。従って「中世の寝殿造」を「主殿造」に置き換える訳にはいきません。そもそも「主殿造」は一度死語にもなったことのある学術用語で、それとは別に平井聖先生は一般に初期書院造と云われるものを「主殿造」をされているのでなおさらです。藤田盟児先生の「主殿」とは「中世の寝殿造」の中の寝殿以外の部分です。
- 「百科事典の記事」はその記事の範囲を専門に研究する学会のその時点の常識と乖離してはならないはずです。かつ「一般的な用語なのか」という点では「日本中世上層住宅」は使えません。建築様式論に厳密な堀口捨己先生に従えば寝殿造と書院造の間には独自の建築様式など無いということですので、ここは川上先生の言を生かして「中世の寝殿造」とするしかありません。それが一番妥当だと考えます。
- 発展過程、あるいは変化の過程としてはひとつの流れですので、まだ中門(中門廊)や公卿間、蔀に妻戸などの寝殿造の遺制を残す聚楽第や園城寺の光浄院客殿までは説明しますが、二条城の書院造や、平井聖先生の云う書院造、つまり「書院」という名称が広まる明暦の大火以降の「書院造」については対象外にしています。従って「書院造」の記事とは別物です。以上ご理解頂けましたでしょうか。--Ktmchi(会話) 2017年8月7日 (月) 18:03 (UTC) 一字訂正--Ktmchi(会話) 2017年8月8日 (火) 00:03 (UTC)
- 「それが一番妥当だと考えます。」・・・資料を読み込んでご自分で判断したということなら、独自研究ではないですか?Ktmchi様のご説明だと、「寝殿造」と「中世の寝殿造」に分ける必然性は特になくて、「中世の寝殿造」は一般的な用語でもないとしか読めません。「中世の寝殿造」って、ウェブでも全然引っかからないですし・・・。私がご意見しても意味ないかもしれませんが、「中世の寝殿造」は「寝殿造」に統合して、跡地は削除した方がいいと思います。ウィキペディアに、資料を読み込んで自分で判断したことを入れてはダメです。Wikipedia:独自研究は載せないをぜひ一度読んでください。--ジャム・パンナ(会話) 2017年8月8日 (火) 11:33 (UTC)
選考終了時点で賛成2票・反対2票のため、今回は見送りとなります。--Yapparina(会話) 2017年8月8日 (火) 13:08 (UTC)