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九鬼町

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九鬼町
九鬼集落と九鬼湾
九鬼町の位置(三重県内)
九鬼町
九鬼町
九鬼町の位置
北緯34度01分02.9秒 東経136度15分05.6秒 / 北緯34.017472度 東経136.251556度 / 34.017472; 136.251556
日本の旗 日本
都道府県 三重県
市町村 尾鷲市
地域 九鬼・早田地域[1]
地区 九鬼地区[1]
面積
 • 合計 13.6 km2
標高
2.2 m
人口
(2023年(令和5年)4月30日時点)[3]
 • 合計 368人
 • 密度 27人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
市外局番 0597(尾鷲MA[5]
ナンバープレート 三重
自動車登録住所コード 24 508 0080[6]
※座標・標高は九鬼コミュニティーセンター(九鬼町255)付近

九鬼町(くきちょう)は、三重県尾鷲市町名。かつては九木とも書かれた[7]太平洋熊野灘にある九鬼湾(九木湾)に面しており、ブリ定置網における「日本三大漁場」の一つとされていた[8][1]

地理

尾鷲市の南東部に位置する[8]。集落は熊野灘にある九鬼湾に南面し[8]、三方を山に囲まれている[9]。集落の北側には八鬼山山系の頂山などがある[7]。1975年(昭和50年)には集落を除く半島部分全域が吉野熊野国立公園に追加指定された[7]

九鬼湾の奥部にはJR紀勢本線九鬼駅があり、九鬼駅前を国道311号が通っている[8]

海洋
山岳
  • 八鬼山(647 m)[11]
  • 頂山(397.9 m)[10]
  • 谷ノ山

北は南浦・行野浦、南は早田町、西は名柄町と接する[13]

歴史

中世

九鬼水軍

鎌倉時代には志摩国荘園として九木荘があった[7]九鬼水軍で知られる九鬼氏の発祥地であり[7][14]、初代・藤原隆信は北朝の攻撃を受けて伊勢国佐倉(現・四日市市)から当地に移り、当地の地名を取って九鬼氏を名乗ったとする説がある[14]。隆信の代から九鬼水軍はあり、熊野灘で海賊行為をしていたが、3代・隆房の次男・隆良が波切(現・志摩市大王町波切)に進出し[14]城砦を築いた[7]戦国時代には九鬼嘉隆戦国大名に成長して鳥羽城主となった[7]

近世

江戸時代には紀伊国牟婁郡に属しており、紀州藩領の尾鷲組に区分されていた[7]。古くは九木村と呼ばれていたが、寛文年間(1661年 - 1673年)頃には九木浦に改称した[7]廻船の安全な航行や外国船の見張りを目的として、元和2年(1616年)頃には九木崎に灯明台が設置され、寛永12年(1635年)には遠見番所や狼煙場が設置された[7]

慶長6年(1601年)の検地帳における村高は47石余、『慶長高目録』における村高は46石余、『天保郷帳』や『旧高旧領』における村高は56石余である[7]。慶長6年(1601年)の戸数は43戸であり、寛政5年(1793年)の戸数は97、人口は521、船数は76艘、網数は34だった[7]。天和3年(1683年)には捕鯨を開始し、宝暦4年(1754年)には捕鯨が紀州藩営となったが、明和7年(1770年)に廃止されている[7]

九鬼漁港天然の良港であり、風待ちのために諸国の廻船が入港した[7]。天保10年(1839年)完成の『紀伊続風土記』には、「本国三の大湊ありて是其一なり。諸国廻船常に茲に停泊して最繁昌なり」と書かれている[7]。天明元年(1781年)から文久元年(1861年)までの間に、幕府領から江戸に送られる御城米船が214艘も九鬼漁港に入港しており、内海屋や播磨屋などの舟宿が17軒あった[7]

近代

九鬼漁港を出る大阪商船の定期船(1900年)

1869年(明治2年)の戸数は151戸、人口は557人、船数は30艘、網数は16だった[7]。1871年(明治4年)には度会県に属したが、1876年(明治9年)には三重県の所属で落ち着いた[7]。1879年(明治12年)には牟婁郡が分割されて北牟婁郡南牟婁郡が発足し、九鬼村は北牟婁郡に含まれた[7]

1877年(明治10年)には九木学校が開校し、当初の児童数は男21人、女2人だった[7]。1889年(明治22年)には町村制の施行によって、行野浦(ゆくのうら)、九木浦(くきうら)、早田浦(はいだうら)が合併して北牟婁郡九鬼村が発足した[7]。九鬼村の大字として行野浦、九木浦、早田浦が設置されている[7]。1909年(明治42年)、行野浦は九鬼村から尾鷲町に編入し、九鬼村の大字は九木浦と早田浦の2つとなった[7]

ブリ大敷網による繁栄

1899年(明治32年)、九木崎の北側の毛尻湾に1号ブリ大敷網(定置網)を敷設し、1900年(明治33年)には7万6000円もの水揚げがあった[7]。1900年(明治33年)には1号の東側に2号ブリ大敷網を敷設し、4万尾もの水揚げがあった[7]

1900年(明治33年)に大阪商船大阪名古屋熱田を結ぶ定期船「熱田・大阪線」(後の「大阪・名古屋線」)を就航させると[7]、同年には九木漁港にも臨時に入港するようになり、1902年(明治35年)には北牟婁郡引本町の島勝漁港とともに正式な寄港地となっている[15]。1920年(大正9年)6月には2日に1便の寄港に減らされたが、陳情活動の結果として1924年(大正13年)からは再び毎日寄港するようになった[15]

1919年(大正8年)には九木電灯株式会社が設立され、初めて九鬼村に電灯がともされた[7]。1932年(昭和7年)には尾鷲町と九鬼村を結ぶ林道の建設が始まり、1937年(昭和12年)に林道が完成した[7]

最盛期には商店・銭湯のほか、映画館ビリヤード場も建ち並んだ[16]

現代

食堂「網干場」

1951年(昭和26年)には尾鷲町と九鬼村を結ぶ林道で国鉄バスの運行が開始された[7]。1954年(昭和29年)6月20日、北牟婁郡尾鷲町、九鬼村、須賀利村南牟婁郡南輪内村北輪内村の1町4村が合併して尾鷲市が発足し、町名として九鬼町が設置された[7]。1955年(昭和30年)、九鬼公民館が新築された[7]

1957年(昭和32年)1月12日、国鉄紀勢東線九鬼駅が開業した[17]。1961年(昭和36年)9月、九鬼町と早田町を結ぶ三重県道が開通し、三重交通バスによるバス路線が設置された[7]。1983年(昭和58年)時点の世帯数は457世帯、人口は1249人[8]

2005年(平成17年)、町内のすべての飲食店が閉店した[16]。その後、2014年(平成26年)9月に東京都出身の地域おこし協力隊員が着任すると、2015年(平成27年)5月2日にはこの地域おこし協力隊員によって、元・飲食店舗を改修した喫茶店・食堂「網干場」(あばば)が開店した[18][19][20]。土日は食堂として、水曜から金曜は喫茶店として営業している[19][20][21]。2016年(平成28年)3月には三重県立尾鷲高等学校プログレッシブコースの生徒によって、集落入口に網干場の看板が設置された[22]。2017年(平成29年)には網干場の開店に携わった地域おこし協力隊員が任期を終え、2019年(令和元年)には新たに設立されたNPO法人九鬼ABABA倶楽部が運営者となった[23]。2021年(令和3年)3月28日には「網干場」が食堂としての営業を終了し、4月中旬には喫茶店やワーケーション施設としての営業を開始した[24][23]

2018年(平成30年)7月には古民家を改装して古書店のトンガ坂文庫がオープンした[25][26][27]。2019年(令和元年)10月には新たな地域おこし協力隊員が着任し、2021年(令和3年)夏にはこの地域おこし協力隊員によって私設観光案内所「けいこの小さな山の家」がオープンした[28]。2023年(令和5年)1月17日から2月19日までの期間限定で、「網干場」にイタリア料理店「食堂アメイル」が出店した[29][30]

2021年(令和3年)制定の尾鷲市都市計画マスタープランでは、地域の将来像として「九鬼の歴史伝統文化の再生と地場産業の新たな展開による快適に暮らせるまちづくり」が掲げられた[1]

町名の由来

熊野灘沿岸には、市木・木本二木島・三木里などの付く地名が続いており、修験者番目に開いた修験道の地を意味するのではないかという説がある[1]

経済

2020年(令和2年)の国勢調査による15歳以上の就業者数は119人で、産業別では多い順に漁業(28人・23.5%)、卸売業小売業(26人・21.8%)、医療福祉(14人・11.8%)、製造業(10人・8.4%)、建設業(8人・6.7%)となっている[31]2016年(平成28年)の経済センサスによると、全事業所数は30事業所、従業者数は126人である[32]。具体的には多い順に、卸売業・小売業が9、農林漁業が4、製造業、建設業、宿泊業・飲食サービス業、サービス業(政治・経済・文化団体、宗教)が各3、水運業、協働組織金融業、洗濯理容美容浴場業、医療業、郵便局が各1事業所となっている[32][33]。全30事業所のうち、20事業所が個人経営で、22事業所が従業員4人以下の小規模事業所である[34]

2015年(平成27年)の農林業センサスによると、九鬼町の農林業経営体数は1経営体(林業経営体のみ)[35]、農家数は0戸[36]、田はなく、畑が1 haある[37]

漁業

九鬼漁港

九木漁港太平洋熊野灘に面する九鬼湾(九木湾)に位置し、三方を山に囲まれているため水域は穏やかである[38]。熊野灘地区は地形が急峻で天然礁が少ないため、沖合漁業(近海漁業)の比重が高く、相対的に漁船規模も大きい[39]黒潮の影響で回遊魚が来遊するため、ブリを主とする大型定置網が設置されている[39]。明治から昭和にかけて[1]、九鬼はブリ定置網における「日本三大漁場」の一つとされていた[8]

2018年(平成30年)の漁業センサスによると、九鬼の漁業経営体数は23経営体であり、うち21経営体が個人経営体で、残る2経営体は会社経営である[40]。2経営体が大型定置網、7経営体が小型定置網を主に営む[41]。漁業就業者数は35人でうち21人が自営漁家、11人が被雇用者、残る3人は漁業経営役員である[42]

1980年代には揚繰網、刺し網、一本釣りなどの沿岸漁業タイアジなどの養殖業も盛んであり、海産物加工場も有する[8]。2018年(平成30年)の主要漁法は小型定置網(12経営体)と刺し網(10経営体)で、養殖業はマダイ養殖の1経営体のみとなった[43]。2017年(平成29年)の水産物陸揚量は、属人陸揚量・属地陸揚量ともに1252トン、陸揚金額が4億8600万円だった[44]。主な魚種はブリ類、サバ類、マアジカタクチイワシだった[44]。陸揚量・陸揚金額ともに、尾鷲市域と熊野市域の漁港としては三木浦漁港に次いで高かった[44]

九鬼町には九鬼漁業協同組合があった[45]が、県内12漁協の広域合併により[46]2010年(平成22年)2月1日に三重外湾漁業協同組合が発足した[47]。2022年(令和4年)4月現在、三重外湾漁協紀州地区尾鷲事業所九鬼が所管する[48]

教育

小学校

尾鷲市立九鬼小学校

1874年(明治7年)10月25日、三重県北牟婁郡の九木浦と早田浦を学区とする九木学校として創立し[49]、1877年(明治10年)に正式に認可された[49][50]。当初の真巌寺を借用して授業を行っていたが、1883年(明治16年)には九木漁港近くに移転し[51][52]、1901年(明治34年)10月には九木神社の北側の高台の現在地に移転した[53][52]

1954年(昭和29年)6月20日には尾鷲市の発足によって尾鷲市立九鬼小学校に改称したが、校名が九木小学校から九鬼小学校となったのはこの際である[52]。ピークの1959年(昭和34年)には407人の児童が在籍していたが[54]、1980年(昭和55年)には児童数が100人を下回り、1987年(昭和62年)には尾鷲市立早田小学校を統合した。

2010年(平成22年)3月に閉校し、尾鷲市立賀田小学校に統合された[55][56]。1938年(昭和13年)頃竣工の木造講堂や1953年(昭和28年)頃竣工の木造校舎[56]が現存している。

中学校

尾鷲市立九鬼中学校

1947年(昭和22年)には九鬼村立九鬼中学校が創立され、1954年(昭和29年)6月20日には尾鷲市の発足によって尾鷲市立九鬼中学校に改称した。ソフトテニス部は三重県でも有数の強豪校であり[57]、2002年(平成14年)には三重県中学校ソフトテニス大会の男子学校対抗で9年ぶり8度目の優勝を果たした[58]

九鬼中学校出身のソフトテニス選手として神崎公宏がいる。

2009年(平成21年)3月に閉校となり、尾鷲市立輪内中学校に統合された[59]。同年3月10日に行われた最後の卒業式では送辞としてアンジェラ・アキからのビデオレターが放送された[60]。同年3月27日には閉校式が行われ、2人の卒業生によって獅子舞の九鬼神楽が披露された[61]

交通

陸路

九鬼駅
集落内の通路
鉄道
九鬼駅は九鬼集落の西端にある[1]。集落の中心部まで1キロメートルほど離れており、徒歩15分程度である[62]
路線バス
九鬼町には、九鬼町・漁業組合前・診療所前・中学校前・梅の輪・九鬼駅の6つのバス停がある[63]
道路
集落の内部には漁村特有の階段状の通路が見られる[1]。集落の奥には登山道が続く[1]

海路

明治時代後半には紀伊半島の各港に大阪商船の定期船が出入港していた[65]鉄道網の発達とともに海上交通の重要性が薄れていき、1929年(昭和4年)には「大阪・名古屋線」が摂陽商船に引き継がれて貨物専用船となると、太平洋戦争後には路線そのものが廃止された[65]

名所・旧跡・祭事

九木神社樹叢

オハイ

オハイは、九木崎にある岩場の景勝地[75]。漢字では「大配」と書き、大きな崖・淵を意味する[75]。元々は、好漁場として知る人ぞ知る場所であった[76]

オハイの奥まで日光が差し込むと、海面が深い青色(エメラルドグリーン[76])に輝き、この様子が2020年(令和2年)頃から「オハイブルー」と呼ばれてSNSで注目され始め[75]NHKの『あさイチ』でも取り上げられた[76]。これに対して、地元では有志がオハイまでの道を整備し[76]、2022年(令和4年)8月から業者がオハイでのクルージングを開始した[75]。また、三重県立熊野古道センターが2022年(令和4年)12月に実施したオハイへのツアーには、定員の2倍の応募があった[75]。三重県観光連盟は「行けば必ず感動するスポット」と紹介している[76]

陸路でオハイに行くには、九鬼町の集落から往復約3時間の山道を越える必要がある[75]。このことを知らず、軽装で山に入る人もいる[75]。山道の途中にも集落内にもトイレはなく、水分補給を十分に行わない訪問者が熱中症になるケースが多い[75]。山中での捻挫や滑落[75]、迷子など[77]で救助が必要な状態に陥ったり、無断駐車をしたり[75]、岸壁でクライミングをして金具を残していったりなど、トラブルや迷惑行為が増加してきたことから、2023年(令和5年)に尾鷲市は住民などが参加する会議を設け、対策に乗り出すこととなった[77]

銘菓

錦花堂

九鬼水軍 虎の巻

町内にある和菓子店である錦花堂が生産する菓子[78]。九鬼水軍の戦法を記した虎の巻をイメージした菓子で、カステラ生地であんこを巻いたものである[9][78]。(あんこの代わりにクリームが入ったものもある[78]。)柔らかな食感とやさしい甘さが特徴である[9][78]

商品名は「虎の巻」であるが、地域住民からは「とらまき」と呼ばれている[9][78]。虎の巻は長さ20センチメートルで、食べやすい形にした「クリームとらちゃん」という派生商品もある[78]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j (3)九鬼・早田地域”. 尾鷲市都市計画マスタープラン 第3章 地域別構想. 尾鷲市 (2021年10月). 2023年6月16日閲覧。
  2. ^ 三重県尾鷲市の町丁・字一覧”. 人口統計ラボ. 2023年5月22日閲覧。
  3. ^ 人口・世帯数” (PDF). 尾鷲市 (2023年5月8日). 2023年5月22日閲覧。
  4. ^ 九鬼町の郵便番号”. 日本郵便. 2023年5月22日閲覧。
  5. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  6. ^ 住所コード検索”. 自動車登録関係コード検索システム. 国土交通省. 2023年6月16日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 24 三重県』角川書店、1983年、422-423頁。 
  8. ^ a b c d e f g 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 24 三重県』角川書店、1983年、1189頁。 
  9. ^ a b c d 佐々木 2020, p. 135.
  10. ^ a b c 昭文社 2020, p. 77.
  11. ^ 昭文社 2020, p. 75.
  12. ^ a b c d TEKUTEKU OWASE旅―九鬼町散策編―”. 尾鷲市観光サイト おわたび. 尾鷲市商工観光課観光交流係 (2022年10月15日). 2023年6月16日閲覧。
  13. ^ 昭文社 2020, p. 75, 77.
  14. ^ a b c 佐々木 2020, p. 134.
  15. ^ a b 九鬼港(北牟婁郡九鬼村九木浦) 歴史の情報蔵
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  17. ^ 石野哲『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』JTB、1998年、373頁。 
  18. ^ 「尾鷲・九鬼 地元女性が調理、接客 食堂開店 笑顔あふれる 豪華メニューに客ら感激」『中日新聞』2015年4月12日
  19. ^ a b 「『網干場』きょう開店 尾鷲・九鬼 活性化目指す食堂」『中日新聞』2015年5月2日
  20. ^ a b 「尾鷲・九鬼 食堂開店3カ月 県内外から来店 地域拠点へ前進 課題は運営基盤の確立」『中日新聞』2015年8月16日
  21. ^ 「集う 生きがい求めて(1)尾鷲・九鬼 唯一の食堂『網干場』」『中日新聞』2016年1月5日
  22. ^ 「街唯一の食堂 看板設置 九鬼 尾鷲高生提案で実現」『中日新聞』2016年3月25日
  23. ^ a b 「紀州日記 尾鷲『網干場』喫茶店に 貴重な交流の場提供」『中日新聞』2021年5月30日
  24. ^ 「尾鷲・九鬼 町活性化の拠点 食堂『網干場』6年で幕 来月ワーケーション施設に」『中日新聞』2021年3月29日
  25. ^ 「尾鷲の漁村に古書店 元協力隊 豊田さんら開店」『中日新聞』2018年8月10日
  26. ^ 「九鬼町 漁村の食堂、活気呼ぶ」『朝日新聞』2018年12月4日
  27. ^ 「キラリくまのびと トンガ坂文庫店主 本沢結香さん(33)尾鷲市九鬼町 本で人とつながりたい」『中日新聞』2019年5月9日
  28. ^ 「紀州日記 尾鷲市地域おこし協力隊の可知さん 観光案内所開設 リピートのきっかけに」『中日新聞』2021年7月9日
  29. ^ 「旅する伊料理店 尾鷲に来た あすから期間限定営業」『中日新聞』2023年1月16日
  30. ^ 「地元の支えに感謝 尾鷲の旅する伊料理店 営業終了 約1カ月間盛況 シェフ原口さんら『再び出店を』」『中日新聞』2023年2月25日
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参考文献

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 24 三重県』角川書店、1983年。 
  • 『日本歴史地名大系 24 三重県の地名』平凡社、1983年。 
  • 尾鷲市役所 編『尾鷲市史 上巻』尾鷲市役所、1969年。 
  • 尾鷲市役所 編『尾鷲市史 下巻』尾鷲市役所、1971年。 
  • 佐々木勇志「九鬼(尾鷲市九鬼町) 戦国時代最強の水軍を率いた九鬼氏発祥の地」『ふるさと再発見の旅 近畿2』清永安雄 撮影、産業編集センター、2020年9月15日、134-140頁。ISBN 978-4-86311-265-0 
  • 県別マップル24 三重県道路地図』昭文社〈4版6刷〉、2020年9月。ISBN 978-4-398-62656-1 

外部リンク

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