藤沢和雄
藤澤 和雄(ふじさわ かずお、1951年9月22日 - )は、中央競馬・美浦トレーニングセンター所属の調教師。北海道出身。新聞など(JRA公式ページにおける表記も含む)では常用漢字外の文字の使用には制約があるため、藤沢 和雄と表記される事が多い。また、日本中央競馬会には栗東に同姓の藤沢則雄調教師が在籍していることから、競馬新聞やスポーツ新聞では「藤沢和」と表記される。
1995年から2004年まで10年連続で中央競馬の全国最多勝を獲得。
経歴
北海道産業大学[1]にて教職課程を修得するが、教師への適性に自ら疑問を抱き、父の友人である小牧場「青藍牧場」の主、田中良熊の下で馬産の手伝いをするようになる。しかし、その頃はホースマンになろうという確固たる信念は無く、彼にとって競馬界は自身の将来を定めるまでの短い「腰掛け」に過ぎなかった。
しかし、「青藍牧場」で働く中、徐々に田中の影響を受け、藤沢はホースマンへの志を固めていく。そして田中の強い勧めで渡英、名門厩舎のギャビン・プリチャード・ゴードン厩舎の下で厩務員として4年間働き、そこで競馬に対する哲学、馬への接し方等、今日の藤沢厩舎を築くことになる競馬理論を形成していくことになる。彼の信念である「ハッピーピープル・メイク・ハッピーホース」はその最たるものであろう。ちなみに彼を競馬界へと導いた田中は、藤沢が渡英した翌年、急逝している。
帰国した藤沢は、美浦・菊池一雄厩舎の調教助手として日本のホースマンとしての第一歩を踏み出し、二冠馬カツトップエース(皐月賞、東京優駿(日本ダービー))の調教に携わるなど、闘病中の菊池に代わり、番頭として同厩舎を切り盛りする。菊池が病死し(厩舎清算のため、菊池の死後1年間、元調教師の佐藤勝美が名目上の後継調教師となっている)、厩舎が解散した後は野平祐二に誘われ、野平厩舎へ。そこで名馬シンボリルドルフと後の厩舎の主戦騎手岡部幸雄とめぐり合うことになる。
1987年、独立して厩舎を開業。初勝利は、若い管理馬たちのリーダーとなるよう地方競馬からスカウトした老馬ガルダンだった。開業後順調に勝利を積み重ね頭角を現す。勝利数の割に重賞を勝てず手腕が疑問視されたこともあったが1992年にシンコウラブリイで初重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)制覇を達成すると、翌1993年には再びシンコウラブリイで初のGI(マイルチャンピオンシップ)を制覇。それからもタイキブリザード、バブルガムフェロー、レガシーオブゼルダ等を率いて数多の戦果を挙げ、1998年には管理馬タイキシャトルがフランスマイルレースの最高峰「ジャック・ル・マロワ賞」を鞍上岡部幸雄で1.9倍の断然人気で制覇する。(なお7日前には森秀行管理のシーキングザパールが鞍上武豊で「モーリス・ド・ゲスト賞」を制覇している)
この頃の藤沢の管理手法は、馬に無理はさせず、クラシックは意識せずに活躍は古馬になってからでもいいという考え方であった。 これは厩舎主戦騎手の岡部幸雄の馬優先主義の考えによる所も大きく、岡部が桜花賞を勝てなかった所以のひとつともされる。 そのためか、日本競馬の最高峰、東京優駿(日本ダービー)には縁がなく、有力とされていたバブルガムフェローの故障などもあり、2001年までロンドンボーイ(1989年/24頭中22着)ただ1頭しか出走馬がいなかった。
だが、2002年に久しぶりに管理馬を東京優駿(日本ダービー)出走させることとなり、この際にはシンボリクリスエス(2着)をはじめ、所属馬を一気に4頭も送り出した。その後クラシック競走を意識するようになる。2004年には厩舎初のクラシック制覇(桜花賞)をダンスインザムードで飾り、ゼンノロブロイで秋古馬GI(天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念)を3連勝する。
2005年に厩舎の主戦騎手であり、調教等で所属馬に英才教育を叩き込んでいた岡部幸雄が引退してからは、一時期のようにオープン馬を十数頭抱えるという事は無くなってきたが、それでも美浦のトップステーブルとの評価は揺らいでいない。
藤沢の調教手法は「馬なり主体」「速い時計を出さない」点に特徴があるとされる。しかしこれは必ずしも馬に負荷をかけないということではない。元調教助手の野村功は、追い切りをかけた翌日にキャンターをするなど運動量の豊富さは中央競馬の厩舎の中でも随一であると指摘している[2]。
2008年、管理馬のカジノドライヴをベルモントステークスに出走させることが明らかになったが、レース当日に出走を回避した。前哨戦のピーターパンステークスを勝利した。同年、管理馬アムールマルルーを2009年のフランスダービーに、ダート戦で4連勝を飾ったサトノコクオーを2009年のドバイワールドカップに挑戦させることを明らかにしたが、実現はしなかった。
2009年9月27日の中山8R3歳上500万下でワールドカルティエが1着となり、調教師として史上13人目のJRA通算1000勝を達成した。
主な依頼騎手
所属騎手
所属騎手以外(平地)
- 横山典弘
- 武豊
- 安藤勝己(公営時代より)
- 藤田伸二(主に、西場(京都・阪神)、夏の北海道開催(函館・札幌)に出走したとき)
- 四位洋文
- 岩田康誠
- 中舘英二(主に、東場のローカル(福島・新潟)に出走したとき)
- 丸田恭介
- 池添謙一
- 青木芳之(元所属)
- 内田博幸(公営時代より)
- 岡部幸雄(引退)
- 坂本勝美(引退)
- 橋本広喜(引退)
- 公営所属騎手…他
- 外国人騎手…他
- 稀ではあるが、最近では三浦皇成(タイガーマスク等)、津村明秀(岡田繁幸氏・ラフィアン所有馬等)、増沢由貴子に依頼したケースがある。
- 一時期、田中勝春や柴田善臣が藤沢厩舎の主戦騎手を務めていた時期もあったが、現在は騎乗機会が殆どない。
所属騎手以外(障害)
連載
- デイリースポーツサラブnet 藤沢和雄の「伯楽一顧」(Web)
著書
DVD
- スーパートレーナー 藤沢和雄 名馬を語る ポニーキャニオン
- スーパートレーナー 藤沢和雄 調教の秘密 ポニーキャニオン
成績
記録年表
- 1977年、菊池一雄厩舎にて調教助手となる。
- 1982年、佐藤勝美厩舎に移籍。
- 1983年、野平祐二厩舎に移籍、シンボリルドルフによって岡部幸雄との知遇を得る。
- 1987年、JRA調教師免許取得。
- 1988年3月開業。初出走は3月12日2回東京5日目1Rケイアイパワーの3着。
4月24日1回新潟2日目11Rガルダンで延6頭目にして初勝利。
- 1992年、シンコウラブリイで初重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)制覇
- 1993年、シンコウラブリイで初GI(マイルチャンピオンシップ)制覇、初の全国最多勝。
- 1996年、バブルガムフェローで初の天皇賞制覇、距離適性から菊花賞を回避しての制覇で英断が話題になる。
- 1997年、JRAの年間最多重賞勝利新記録達成(13勝)。
- 1998年、フランス・ドーヴィル競馬場のジャック・ル・マロワ賞でタイキシャトルが勝利し、前週のシーキングザパールに続く、日本調教馬2頭目の海外GI制覇に導く。タイキシャトルが藤沢管理馬初の年度代表馬となる。
- 2002年、シンボリクリスエスを筆頭に4頭を東京優駿(日本ダービー)に出走させる。
- 2004年、ダンスインザムードで桜花賞制覇。クラシック初勝利。ゼンノロブロイが秋の古馬GIを3連勝。
- 2006年、ダンスインザムードで新設GIヴィクトリアマイルを勝利する。
- 2008年、カジノドライヴで米GII ピーターパンステークスを勝利する。
- 2009年、9月27日の中山競馬場第8レースに出走したワールドカルティエが優勝。JRA通算1000勝(史上13人目)を達成した。
成績表
年 | 勝利数・連対率 | 受賞名 |
---|---|---|
1988年 | 8勝 (.193) | |
1989年 | 15勝 (.227) | |
1990年 | 22勝 (.241) | |
1991年 | 36勝 (.307) | '91JRA賞(最高勝率調教師) |
1992年 | 34勝 (.320) | |
1993年 | 44勝 (.319) | '93JRA賞(最多勝利調教師・優秀技術調教師)、 |
1994年 | 37勝 (.305) | |
1995年 | 53勝 (.333) | '95JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)、東京競馬記者クラブ賞 |
1996年 | 52勝 (.352) | '96JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師) |
1997年 | 58勝 (.336) | '97JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師)、東京競馬記者クラブ賞 |
1998年 | 57勝 (.346) | '98JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師) |
1999年 | 49勝 (.310) | '99JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・優秀技術調教師) |
2000年 | 57勝 (.344) | '00JRA賞(最多勝利調教師・優秀技術調教師) |
2001年 | 68勝 (.390) | '01JRA賞(最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師) |
2002年 | 51勝 (.327) | '02JRA賞(最多勝利調教師・最多賞金獲得調教師・優秀技術調教師) |
2003年 | 63勝 (.382) | '03JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師) |
2004年 | 60勝 (.359) | '04JRA賞(最多勝利調教師・最高勝率調教師・最多賞金獲得調教師) |
2005年 | 48勝 (.286) | '05JRA賞(優秀技術調教師) |
2006年 | 55勝 (.316) | |
2007年 | 48勝 (.292) | '07JRA賞(最多勝利調教師) |
2008年 | 44勝 (.264) | '08JRA賞(優秀技術調教師) |
※1991年以来、2001年を除く毎年、優秀調教師賞(関東)受賞。
管理競走馬
代表馬
- シンコウラブリイ
- 厩舎初の重賞、GI制覇を達成した名牝。
- バブルガムフェロー
- 厩舎初の天皇賞(秋)制覇
- タイキシャトル
- 厩舎初の年度代表馬、海外GI優勝馬
- シンコウキング
- 1997年、高松宮杯優勝。
- タイキブリザード
- 1997年、安田記念優勝。
- スティンガー
- 1998年、阪神3歳牝馬ステークス優勝。
- シンボリインディ
- 1999年、NHKマイルカップ優勝。
- ゼンノエルシド
- 2001年、マイルチャンピオンシップ優勝。
- シンボリクリスエス
- 2002年、2003年と2年連続年度代表馬
- ゼンノロブロイ
- ダンスインザムード
エピソード
- 実家・藤沢牧場は牝馬初の年度代表馬・トウメイの代表産駒であるテンメイを輩出した事で有名である。因みに、トウメイの育成を行ったのも藤沢牧場で、一時的とは言えトウメイを繁殖牝馬として預かる一因になったと言われている。
- 1993年、シンボリルドルフの仔でデビュー戦を圧勝し期待されていたヤマトダマシイが次のレース中に故障し安楽死となった。今でもこの馬を思い出すと涙ぐむが、今でも元気だと藤沢は言う。
- 短期免許で来日した騎手の身元引き受け調教師となることが多い。これまでオリビエ・ペリエ、ビクター・エスピノーザ、ダミアン・オリヴァー、ダグラス・ホワイトといった騎手の身元を引き受けている。なお、2006年に外国人ジョッキーは人手が足りない場合でないと呼ばないと宣言し、それ以降は外国人ジョッキーを呼んでいなかったが[3]、2008年以降に再び外国人騎手の引き受けを再開。2月にカジノドライヴのデビュー戦の鞍上としてビクター・エスピノーザに依頼(しかし日程の都合がつかず来日できず)、7月にはダグラス・ホワイトを招き入れ、2年ぶりに外国人騎手の身元引き受け調教師となり、翌2009年はアントニー・クラストゥス引き受けている。
- 文字にすると誤解を招きかねないような辛口のジョークをよく発する。ただしほとんどは心にもない、あくまでもジョークである。例としては;
- 岡部幸雄について、「下手なジョッキー」とマスコミの前で言っていた。[4](もちろん藤沢は岡部の騎乗技術、人間性を高く評価し、所属の有力馬に主戦騎手として起用していた。その証拠に、藤沢は岡部が現役である間は、岡部に対してしか「ジョッキー」という呼び方をせず、他の騎手とは別格に扱っていた)
- 「ニンジン噛み砕く力はGI級だな」なかなか成績の上がらないタイキスピリッツに対して。
- 2008年ピーターパンステークスにカジノドライヴで騎乗したケント・デザーモに対してレース前に「ごめんね。こんな強い馬連れてきて」
- 2008年ベルモントステークスにカジノドライヴで騎乗予定のエドガー・プラードに「二度も三冠を阻止している意地悪なジョッキーだからな」
- 同じ美浦所属の国枝栄調教師からは、日本一という意味、また親しみをこめて「フジさん(富士山)」と呼ばれている。
テレビ出演
- スーパー競馬(1994年4月17日)
- 皐月賞のゲスト解説で田中勝春騎手と共に出演
- サンデースポーツ(1997年11月23日)
- 情熱大陸(2004年12月5日)
- プロフェッショナル 仕事の流儀(2007年5月15日)
- 武豊TV!(2007年8月2日)
脚注
- ^ 著書等には「北海道産業大学」と記述されることが多いが、該当する大学は確認されていない。「北海道産業短期大学」(後に道都大学短期大学部)は存在する。
- ^ 『馬人野村功 藁の匂いが好きだ』(「大阪スポーツ」 2008年9月7日付 10面)
- ^ 藤沢和師リーディング奪回だ2006年1月3日日刊スポーツ
- ^ 別冊宝島より。
外部リンク
- 藤沢和雄の「伯楽一顧」(サラブnet)