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いせ丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いせ丸
日本カーフェリー「みやさき」
基本情報
船種 フェリー
船籍 日本の旗 日本
所有者 フジフェリー(1973-1978)
日本カーフェリー(1978-1996)
運用者 フジフェリー(1973-1978)
日本カーフェリー(1978-1996)
建造所 林兼造船下関造船所
姉妹船 しま丸
航行区域 沿海[1]
IMO番号 7319553
改名 いせ丸(1973-1978)
みやさき(1978-1996)
経歴
起工 1973年1月24日[1]
進水 1973年4月5日[1]
竣工 1973年7月9日[1]
就航 1973年
運航終了 1996年
最後 スクラップとして売却、解体
要目
総トン数 7,041.85トン[1]
載貨重量 3,037kt[1]
排水量 8,292トン(満載時)[1]
全長 140.85 m[1]
型幅 22.40 m[1]
型深さ 8.0 m[1]
満載喫水 5.5 m[1]
機関方式 ディーゼル
主機関 三菱・横浜MAN V9V40/54 2基[1]
推進器 2軸
最大出力 20,000馬力[1]
定格出力 17,000馬力[1]
最大速力 23.95ノット[1]
航海速力 21.5ノット[1]
航続距離 3,200海里
旅客定員 670名[1]
乗組員 55名[1]
車両搭載数 8.5mトラック64台、乗用車45台[1]
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いせ丸(いせまる)は、フジフェリーが運航していたフェリー。後に日本カーフェリーみやさきとして就航した。

概要

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林兼造船下関造船所で建造され、1973年7月に竣工したが、松坂港での漁業補償がまとまらず航路開設が遅れたため、日本沿海フェリーに用船され東京 - 苫小牧航路に就航した。1974年7月には主機不調のあるびれおの代船として太平洋沿海フェリーに用船された。その後、1974年10月17日にフジフェリーの東京 - 伊勢航路に就航した。

1978年9月に事故で沈没したさいとばるの代船として、日本カーフェリーに売却されみやさきとして、11月に神戸航路に就航した。 その後、シーコムによる日本カーフェリーの買収で、シーコムフェリー(マリンエキスプレスに社名変更)へ継承され運航されたが、1996年12月、神戸航路の減便とみやざきエキスプレスの就航により、えびのとともに引退、その後、海外売船された。

その後、海外売船され、フィリピンネグロス・ナビゲーション英語版に売却され、St. Ezekiel Morenoとなり、スーパーフェリー英語版で就航した。引退後、スクラップとして売却、解体された。

航路

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フジフェリー

当初は東京 - 松阪 - 名古屋航路での運航を計画していたが、1974年5月に断念した。また、就航当初は東京港フェリーターミナルのバースに空きがなく、有明埠頭を暫定のりばとして使用していた。本船としま丸の2隻で運航していたが、1978年8月以降はしま丸のみでの運航となった。

日本カーフェリー

本船とえびので運航されていた。下り便は、神戸19時発、細島翌9時20分着(所要時間14時間20分)、上り便は、細島21時発、神戸翌11時着(所要時間14時間)のダイヤが組まれていた。

設計

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船体は6層構造で、上部からプロムナードデッキ、A・B・C・D・Eデッキと呼称しており、プロムナードデッキは操舵室および乗組員区画、Aデッキは旅客区画、Bデッキは船首側に乗組員区画、船尾側にドライバー区画、C・Dデッキは車両搭載区画、Eデッキは機関室となっていた。Bデッキの中央部は吹き抜けでCデッキの天井高を確保しており、CデッキとDデッキは2箇所のスロープで連絡されていた。ランプウェイは船首と船尾右舷に装備しており、Dデッキに接続していた。

船内

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船室

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  • 特等室(2名×6室) - 12名
  • 1等洋室(6名×14室) - 84名 
  • 1等和室(4名×16室) - 64名
  • 2等室 - 460名  
  • ドライバー室 - 72名

設備

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Aデッキ
  • 案内所
  • 売店
  • レストラン
  • スナック
  • ラウンジ
  • 特等室
  • 1等室
  • 2等室
  • 特2等室
Bデッキ
  • ドライバールーム
  • 浴室

事故・インシデント

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自動車運搬船との接触
1976年11月5日23時30分頃、東京港から松阪港へ向かっていた本船は下田沖約18kmを航行中カナダから名古屋港へ向け航行していた自動車運搬船「かなだ丸」と接触。両船とも小破したものの負傷者はなし[2]
乗組員食堂火災
1976年12月28日、松阪港から東京港へ向かっていた本船は、伊勢湾を航行中、乗組員食堂付近の廊下から出火、約30分後に鎮火したが食堂の一部が焼損、乗組員1名が死亡した。旅客・車両搭載区画への延焼は抑えられたため、旅客、搭載車両へ被害はなかった[3]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 新造船写真集 いせ丸 - 船の科学1973年8月号
  2. ^ おもなできごと昭和51年11月分 フェリー衝突 - 安全1977年2月号(中央労働災害防止協会
  3. ^ 世界の艦船(1977年4月号,p147)