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アジウソン・ディアス・バティスタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アジウソン
名前
本名 アジウソン・ディアス・バティスタ
Adilson Dias Batista
ラテン文字 ADILSON
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1968-03-16) 1968年3月16日(56歳)
出身地 クリチバ
身長 183cm
体重 78kg
選手情報
ポジション DF, MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1988 ブラジルの旗 アトレチコ-PR 20 (1)
1989-1993 ブラジルの旗 クルゼイロ 48 (4)
1993 ブラジルの旗 インテルナシオナル 11 (2)
1994 ブラジルの旗 アトレチコ-MG 19 (2)
1995-1996 ブラジルの旗 グレミオ 30 (2)
1997-1999 日本の旗 ジュビロ磐田 52 (10)
2000 ブラジルの旗 コリンチャンス 5 (0)
通算 195 (21)
代表歴
1990-1991 ブラジルの旗 ブラジル 4 (0)
監督歴
2001 ブラジルの旗 モジミリン
2002 ブラジルの旗 アメリカ-RN
2002-2003 ブラジルの旗 アヴァイ
2003 ブラジルの旗 パラナ・クルーベ
2003-2004 ブラジルの旗 グレミオ
2004 ブラジルの旗 パイサンドゥ
2005 ブラジルの旗 スポルチ・レシフェ
2005-2006 ブラジルの旗 フィゲイレンセ
2006-2007 日本の旗 ジュビロ磐田
2008-2010 ブラジルの旗 クルゼイロ
2010 ブラジルの旗 コリンチャンス
2010-2011 ブラジルの旗 サントス
2011 ブラジルの旗 アトレチコ-PR
2011 ブラジルの旗 サンパウロ
2012 ブラジルの旗 アトレチコ-GO
2013 ブラジルの旗 フィゲイレンセ
2013-2014 ブラジルの旗 ヴァスコ・ダ・ガマ
2015 ブラジルの旗 ジョインヴィレ
2018 ブラジルの旗 アメリカ・ミネイロ
2019 ブラジルの旗 セアラー
2019-2020 ブラジルの旗 クルゼイロ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アジウソン・ディアス・バティスタ(Adilson Dias Batista, 1968年3月16日 - )は、ブラジルパラナ州クリチバ出身のサッカー選手、指導者。現役時代のポジションはディフェンダーミッドフィールダーブラジル代表にも選出された経歴を持つ。

来歴

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選手歴

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1990年代のグレミオなどで、守備の中心として活躍したDF、ヘディングの強さは守備だけでなく攻撃においても大きな武器となっていた[1]。グレミオではパラグアイ代表カタリーノ・リバローラと強靭なセンターバックを形成[1]、キャプテンとして、リーダーシップを取り、1995年チームをリベルタドーレスカップ優勝に導いた[1]。同年のインターコンチネンタルカップでは延長PK戦でアヤックスに敗れた。1996年に神戸で開催されたレコパ・スダメリカーナCAインデペンディエンテ戦では1得点を決めて優勝を果たした[2]

ファルカンが監督を務めていた1990年にはブラジル代表入りしたが[3]、以降代表には縁がなく(アジウソン本人によれば、サンパウロリオデジャネイロなどの都会のクラブに所属していない選手にはありがちなことだという)、代表に選ばれないことを惜しむファンからは南米代表のキャプテン」とも呼ばれた。[要出典]

アトレチコ・ミネイロ時代にもJリーグ入りの話を受けたが[1]、1997年にルイス・フェリペ・スコラーリジュビロ磐田の監督に就任するにあたり、監督を務めていたグレミオから連れてくる形でジュビロに入団した。ここでも守備の要として活躍した。磐田ではスコラーリによりボランチとして起用され、ドゥンガとコンビを組むこともあった。1997年4月12日のサンフレッチェ広島戦でデビューし初ゴールも決めた[4]。同年のチャンピオンシップ、鹿島アントラーズ戦では1stレグで3-2と勝利[5]、2ndレグでもールキーパーの大神友明と共に鹿島アントラーズの前に立ちはだかり、1-0で勝利し[6]、優勝に貢献した[7]。しかし1998年秋に膝を痛め、翌1999年はその影響でファーストステージを欠場するなど[8]、試合出場が減り[9]、同年退団した。Jリーグでは1997年は22試合5ゴール、1998年は23試合5ゴールとDFながら高い得点率で、通算52試合10ゴールの成績を残した[4]

帰国後はコリンチャンスでプレーし、第1回世界クラブ選手権に優勝。しかし磐田時代に痛めた膝は完治せず、程なくして現役を引退。フェリペの元で指導者の道に進んだ。

指導歴

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その後はモジミリンブラジル全国選手権3部から2部に昇格させるなど実績を積み、2003年9月から2004年6月まではグレミオの監督も務めた。フィゲイレンセ監督時代には問題児エジムンドをうまくコントロールし、彼ら主力が抜けた後は若手と移籍選手でうまく穴埋めし、ブラジル全国選手権でもなかなかの健闘を見せていた。

2006年6月22日に磐田監督に就任。当時Jリーグ最年少の監督であり、磐田で最年長の選手でかつてのチームメイトでもあった中山雅史よりも年下であった(学年は同じである)。新旧交代を求められた彼は、犬塚友輔上田康太らの若手選手を積極的に起用し、11位に低迷していたチームを5位にまで躍進するも、シーズン中に名波浩C大阪へとレンタル移籍。シーズン終了後には名波が東京Vへ再びレンタル移籍、服部年宏も同じく東京Vへ移籍、そして福西崇史FC東京へ移籍と、クラブを支えてきたベテラン選手たちが次々と磐田を去ることになった。

2007年も引き続き磐田を指揮。しかし守備が安定せずに大量失点での敗戦が目立つなどチームは迷走した。9月1日清水戦にロスタイムの失点で敗戦の翌日、まだ9位ではあったが辞任した。

帰国後の2008年より、クルゼイロ監督としてブラジルサッカーに復帰。チームを全国選手権上位に導くなど、ブラジル1部リーグで監督としてのキャリアを積んでいた。

エピソード

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個人成績

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クラブでの成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1988 アトレチコ-PR 20 1
1989 クルゼイロ 8 1
1990 15 1
1991 16 2
1992 9 0
1993
1993 インテルナシオナル 11 2
1994 アトレチコ-MG 19 2
1995 グレミオ 5 0
1996 25 2
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1997 磐田 4 J 22 5 11 3 0 0 33 8
1998 23 5 4 1 0 0 27 6
1999 J1 7 0 2 0 0 0 9 0
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
2000 コリンチャンス 5 0
通算 ブラジル
日本 J1 52 10 17 4 0 0 69 14
総通算

その他の公式戦

代表での成績

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出典[10]


ブラジル代表国際Aマッチ
出場得点
1990 3 0
1991 1 0
通算 4 0

タイトル

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選手

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アトレチコ・パラナエンセ
クルゼイロ
グレミオ
ジュビロ磐田
コリンチャンス

指導者

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アメリカ-RN
フィゲイレンセ
クルゼイロ
  • カンピオナート・ミネイロ: 2008, 2009

脚注

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関連項目

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外部リンク

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