アルベール1世 (ヴェルマンドワ伯)
アルベール1世 Albert Ier | |
---|---|
ヴェルマンドワ伯 | |
在位 | 943年 - 987年 |
出生 |
915年ごろ |
死去 |
987年9月8日ごろ |
配偶者 | ゲルベルガ・フォン・ロートリンゲン |
子女 |
エルベール3世 オトン ウード リウドルフ |
家名 | ヴェルマンドワ家 |
父親 | ヴェルマンドワ伯エルベール2世 |
母親 | アデル・ド・フランス |
アルベール1世(フランス語:Albert Ier, 915年ごろ - 987年9月8日ごろ)は、ヴェルマンドワ伯(在位:943年 - 987年)。敬虔伯(le Pieux)といわれる。ヴェルマンドワ伯エルベール2世とアデル・ド・フランスの息子[1]。
生涯
[編集]アルベール1世は、弟エルベール3世とフランス王ルイ4世の母である王妃「オットベガ」(エドギフ・オブ・ウェセックス)との結婚を支援した。アルベールの家臣はオットベガをランの修道院からエルベール3世との結婚式まで護送した(一部の資料によると誘拐した)が、これはルイ4世を激怒させた[2]。ルイ4世とヴェルマンドワ家の間には因縁があり、アルベールの父エルベール2世はルイ4世の父シャルル3世の捕虜・投獄・獄死と、ルイ4世自身が幼児期にイングランドに亡命する原因となった人物であった。ルイ4世は母親の財産、妃ゲルベルガ・フォン・ザクセンに与えたランの聖マリア修道院、そしてアティニーの王室財産を没収した[2]。957年、アルベールとその弟であるモー伯・トロワ伯ロベールは、フランス王ロテールの支持者であった[注釈 1][3]。
下ロレーヌ公シャルルが王位継承権を主張することを決めたとき、アルベールとその2人の甥、モー伯エルベールとブロワ伯ウード1世の支援を受けた[4]。2人はシャルルの陰謀を手助けし、シャルルが捕らえられ投獄された後も新王を煩わし続けた[4]。
アルベールはユーグ・カペーがフランス王に選出されたことをなかなか認めなかった。アルベールはユーグが自分を攻撃するつもりであることを知ると、ノルマンディー公リシャール1世が両国間の平和を維持するためにその影響力を行使するかを確認するためサン=カンタン司祭デュドをノルマンディーに送り、リシャール1世はそれを実行したようである[4]。ユーグ・カペーとしては、アルベールが自分に反抗しようとしているのではないかと疑っていた[5]。987年9月8日ごろにアルベール1世が死去し、息子のエルベール3世が跡を継いだ[1]。
家族
[編集]954年にロートリンゲン公ギゼルベルト[1]とゲルベルガ・フォン・ザクセン[6]の娘ゲルベルガ(ジェルベルジュ)と結婚し[注釈 2]、以下の子女をもうけた。
- エルベール3世(953年 - 1016年頃)[1] - ヴェルマンドワ伯
- オトン(950/5年 - 987年) - シニー伯[7]
- ウード(956年頃 - 983/7年)[1]
- リウドルフ(957年頃 - 986年) - ノワイヨン司教、トゥルネー司教[1]
注釈
[編集]- ^ アルベールはゲルベルガ・フォン・ロートリンゲンとの結婚により、フランス王ロテールと下ロレーヌ公シャルルの義理の兄弟となった。ゲルベルガ、ロテール、シャルルは全員ゲルベルガ・フォン・ザクセンの子供であり、アルベールと同様に3人全員がカロリング家出身であった。
- ^ 2人が結婚したとき、アルベールとゲルベルガ(ジェルベルジュ)は当時の教会法で定められた7親等の血族関係内に入っていた。アルベール1世とゲルベルガの父ギゼルベルトはみいとこ同士であった。しかし、カロリング家のこの支流は、教会法に関わりなく、独自の結婚同盟政策に従っていた(Régine Le Jan, Famille et pouvoir dans le monde franc (VII-X siècle) essai d'anthropologie sociale (Paris: Publications de la Sorbonne, 2003), pp. 324-25 & 325 table 41を参照)。アルベールとゲルベルガの結婚は、いわゆる姻戚関係の「再結合」(renchaînement alliance)と呼ばれるものの一例であり、この言葉は両家の間で数世代にわたって複数の結婚が行われた共通の祖先の子孫である夫婦に用いられた。これらの結びつきは教会の管理外で慎重に維持された(The SAGE Handbook of Social Network Analysis, eds. John Scott; Peter J. Carrington; et al. (London; Thousand Oaks, CA: SAGE, 2011), pp. 136-37; Douglas R. White and Michael Houseman, A reticular approach to kinship, l’Homme (2013), p. 1を参照)。
系図
[編集]カール大帝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ピピン イタリア王 | ルートヴィヒ1世 フランク王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベルナルド イタリア王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ピピン ヴェルマンドワ伯 | ロベール豪胆公 | アデライード・ ド・トゥール | エルマンガルド | ロタール1世 フランク王 | シャルル2世 西フランク王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エルベール1世 ヴェルマンドワ伯 | ベルト・ド・モーヴォワ | ロベール1世 西フランク王 | アデル・デュ・メーヌ | エルマンガルド | ギゼルベルト マーズガウ伯 | オットー1世 ザクセン公 | ハトヴィヒ・ フォン・バーベンベルク | ルイ2世 西フランク王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベアトリス | ユーグ大公 パリ伯 | レニエ1世 | ハインリヒ1世 東フランク王 | マティルデ | シャルル3世 西フランク王 | エドギフ・オブ・ウェセックス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エルベール2世 ヴェルマンドワ伯 | アデル | ユーグ・カペー | ハトヴィヒ | ギゼルベルト ロートリンゲン公 | ゲルベルガ | ルイ4世 西フランク王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルベール1世 ヴェルマンドワ伯 | ゲルベルガ | ロテール 西フランク王 | シャルル 下ロレーヌ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ a b c d e f Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band III Teilband 1 (Marburg, Germany: J. A. Stargardt, 1984), Tafel 49
- ^ a b The Annals of Flodoard of Reims, 916–966, eds & trans. Steven Fanning: Bernard S. Bachrach (New York; Ontario, Can: University of Toronto Press, 2011), p. 56
- ^ Heather J Tanner, Families, friends and allies : Boulogne and politics in Northern France and England, c. 879-1160 (Leiden; Boston: Brill, 2004), p. 39 n. 34
- ^ a b c Geoffrey Koziol, Begging Pardon and Favor: Ritual and Political Order in Early Medieval France (Ithaca: Cornell University Press, 1992), p. 149
- ^ Lea Shopkow, 'The Man from Vermandois: Dudo of St-Quentin and His Patrons', Religion, Text, and Society in Medieval Spain and Northern Europe: Essays in Honor of J.N. Hillgarth, eds. Thomas E Burman; Jocelyn N Hillgarth; Lea Shopkow (Toronto: Pontifical Institute of Mediaeval Studies, 2002), pp. 303 & n. 2
- ^ Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band I (Marburg, Germany: J. A. Stargardt, 1980), Tafel 3
- ^ Vanderkindere 1902, p. 344.
参考文献
[編集]- Vanderkindere, Léon (1902). La Formation territoriale des principautés belges au Moyen Âge. 2. H. Lamertin, Libraire-Editeur
|
|
|