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ウィリー・メレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィリー・メレス
基本情報
国籍 ベルギーの旗 ベルギー
生年月日 (1928-10-01) 1928年10月1日
没年月日 (1969-09-02) 1969年9月2日(40歳没)
F1での経歴
活動時期 1960-1963,1965
所属チーム '60,'61,'62,'63 フェラーリ
'61 ロータス
'65 BRM
出走回数 13 (12スタート)
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 1
通算獲得ポイント 7
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
最終戦 1965年ベルギーGP
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ウィリー・メレス(Willy Mairesse、1928年10月1日 - 1969年9月2日)は、ベルギー出身のレースドライバー。

略歴

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1960年

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メレスはフェラーリから地元ベルギーGPでF1デビュー。出走3戦目のイタリアGPでは3位に入った。結果的にこれが最初で最後のF1での表彰台獲得となる。

1961年

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F1ではENBとロータスから1戦ずつ走ったが共にリタイアに終わり、シーズン半ばにフェラーリに復帰。しかし復帰初戦となったドイツGPでジャンピングスポットでの着地の際にバランスを崩して大クラッシュを喫する。幸いメレスは無傷でマシンを降り、大事には至らなかった。

またこの年のル・マン24時間レースではマイク・パークスとのドライブで2位に入った。

1962年

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F1では引き続きフェラーリから参戦。開幕戦のオランダGPはマシンが間に合わず欠場したが、第2戦のモナコGPでは前年型の改良マシンで予選4位、決勝7位を記録。

続く第3戦ベルギーGPでは、予選6位からのスタートで一気に順位を上げロータスのトレバー・テイラーと激しいトップ争いを演じる。9周目に隙をつかれてジム・クラークに首位こそ奪われたが、2位争いになってもテイラーとのバトルは依然として続き、オー・ルージュを2台並んで通過するなど激しいデッドヒートを見せた。 しかし終盤の25周目、ブランシモンでテイラーを抜こうとラインを変えたメレスのマシンと、テイラーのマシンの動きがシンクロして接触。メレスのマシンは跳ね上がってドライバーを乗せたまま数回転し、火を吹いて着地。テイラーのマシンもコントロールを失ってランオフエリアに突っ込んだが、テイラーは自力でマシンから脱出した。しかしメレスは火の回りが早くてマシンから出られず、腕と足に火傷を負った。

この事故でメレスは前年2位に入ったル・マン24時間レースなどにも出場できず、シーズンの大半を棒に振ることとなった。 復帰後のイタリアGPで4位、WSCパリ1000kmでも5位に入るなど良い成績を残しただけに、メレスにとってこの事故は大きな痛手となってしまった。

1963年

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ニュルブルクリンクでフェラーリ・250Pをドライブするメレス

引き続きF1と並行してスポーツカーレースに参戦。F1では開幕から2戦連続リタイアだったが、WSCではセブリング12時間レースタルガ・フローリオで2位、スパ500kmニュルブルクリンク1000kmで優勝を果たすなど好調な結果を出していた。

しかしジョン・サーティースと組んで参戦したこの年のル・マン24時間レースで、サーティースと交代してマシンに乗ってピットから出た直後、突然エンジン部分から出火し、ストロー・フェンスにぶつかって停止。この際にメレスは気を失ってしまい、前年に続いて火傷を負ってしまった。

その後、この年のドイツGPでメレスはレース活動に復帰。しかしそのドイツGPでの1周目、2年前に大クラッシュを喫したところと同じ地点で、その時と同様のクラッシュを演じてしまう。メレスはマシンから投げ出され、両腕両足にヒビが入るケガをする。特に右腕は神経も損傷してしまい、後々彼を苦しめていくことになる。 またこの事故でメレスのマシンから外れたタイヤが観客席に飛び込んでしまい、観客が1人死亡する惨事になってしまった。チームからの信頼を失ったメレスは、このレースを最後にしばらくレース界から離れることとなる。

1964年-1967年

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しばらくレース界から離れていたメレスだったが、友人のジャン=ビュアリー・ブレトンがスポーツカーレースへのエントリーを持ちかけたことがきっかけで、1964年のWSC最終戦パリ1000kmに出場。以降はブレトンがマネージャーとなり、メレスは活路をWSCへ見出していく。

1965年、メレスは2年ぶりにF1の世界に復帰しプライベートBRMから地元ベルギーGPに出場したが、結局予選も走ることなくF1を去る。WSCには5戦に参戦し、プライベーターチームでの出場ながら優勝1回、3位2回の成績を収める。

1966年はスクデリア・フィリピネッティのサポートを受け、フォードやポルシェなど様々なマシンをドライブ。第4戦として行われたタルガ・フローリオでは優勝を果たしている。

1967年は2年前と同じ布陣で臨んだメレスだったが、3位に入ったル・マン24時間レース以降は、マシンに対して神経質になっていたこともあって完走もままならないレースが続き、この年は前年ほどの結果を残せなかった。

1968年

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前年から一転して以前同様の力のある走りを見せていたメレスだったが、この年のル・マン24時間レースでの1周目走行中、突然メレスの座席側のドアが風圧で引きちぎられるアクシデントが発生。マシンはコントロールを失い、スピンしながらガードレールに激突して大破。メレスは頭部を負傷し、このレースを最後に2度とサーキットに戻ってくることはなかった。 事故については「メレスがドアを閉めそこなった」という疑いも浮上したが、結局原因が明らかになることはなかった。

その後メレスは以前の事故の後遺症である右腕の痛みに加え、この事故による頭部の慢性的な痛みにも悩まされる日々が続き、翌年9月にホテルの一室で睡眠薬の多量摂取により死亡した。40歳没。 発見時に遺書らしき物が無かったため、自殺とも頭痛による睡眠不足の解消をしようとして大量服用したのではないかとも言われているが、確かな原因は今日に至るまで未だ謎のままである。

レース戦績

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フォーミュラ1

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所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 WDC ポイント
1960年 フェラーリ Dino 246 ARG MON 500 NED BEL
Ret
FRA
Ret
GBR POR ITA
3
USA 15位 4
1961年 ロータスナツィオナーレ・ベルゲ 18 MON NED BEL
Ret
NC
(41位)
0
ロータス 21 FRA
Ret
GBR
フェラーリ 156 GER
Ret
ITA USA
1962年 NED MON
7
BEL
Ret
FRA GBR GER ITA
4
USA RSA 14位 3
1963年 MON
Ret
BEL
Ret
NED FRA GBR GER
Ret
ITA USA MEX RSA NC
(36位)
0
1965年 BRMセントロ・スッド P57 RSA MON BEL
DNS
FRA GBR NED GER ITA USA MEX NC 0

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1958年 ベルギーの旗 エキュリー・フランコルシャン ベルギーの旗 ルシアン・ビアンキ フェラーリ・250TR S 3.0 33 DNF DNF
1960年 イタリアの旗 スクーデリア・フェラーリ アメリカ合衆国の旗 リッチー・ギンサー フェラーリ・250 TRI/60 S 3.0 203 DNF DNF
1961年 イタリアの旗 SEFAC フェラーリ SpA イギリスの旗 マイク・パークス S 3.0 330 2位 2位
1963年 イギリスの旗 ジョン・サーティース フェラーリ・250P S 3.0 252 DNF DNF
1965年 ベルギーの旗 エキュリー・フランコルシャン ベルギーの旗 ジャン・ブラトン フェラーリ・275 GTB GT 4.0 340 3位 1位
1966年 スイスの旗 スクーデリア・フィリピネッティ スイスの旗 ヘルベルト・ミューラー フェラーリ・365 P2 P 5.0 166 DNF DNF
1967年 ベルギーの旗 エキュリー ナシオナル ベルジュ ベルギーの旗 ジャン・ブラトン フェラーリ・330 P4 P 5.0 377 3位 2位
1968年 ベルギーの旗 クロード・デュボア ベルギーの旗 ジャン・ブラトン フォード・GT40 S 5.0 0 DNF DNF

関連項目

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