ウィンストン・チャーチルの死と国葬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィンストン・チャーチルの死と国葬
ロンドンにおける葬列、1965年
日付1965年1月24日
(死亡)
1965年1月30日
(国葬)
場所セント・ポール大聖堂、ロンドン
(公式の葬礼)
原因脳卒中
埋葬セント・マーティン教会、ブラドン英語版

ウィンストン・チャーチルの死と国葬(ウィンストン・チャーチルのしとこくそう)。1965年1月24日イギリス大英帝国)の政治家、軍人、作家で第二次世界大戦時にイギリスの首相を務めたサー・ウィンストン・チャーチルが、90歳で没した[1][2][3]

経緯[編集]

イギリスの歴史で、国王以外の人物の国葬英語版が行われたのは、1935年のエドワード・カーソン英語版以来はじめての事であり[4][5]2022年9月19日エリザベス2世の国葬が行われるまでは、イギリスにおける最直近の国葬だった[6][7]。 葬儀の公式日程は、4日間にわたって続いた[8]。「ホープ・ノット作戦英語版」の名で知られる葬儀の計画は、チャーチルが没する12年前から立てられていた。計画のきっかけとなったのは、1953年、戦時下英語版から数えて2度目のイギリス首相在任中だったチャーチルが、脳卒中で倒れた事だった。その後、チャーチルは快復し、存命であり続けたため(ルイス・マウントバッテンは「棺担英語版たちが死に続けている」と評した)、計画は数度にわたって改訂された後、チャーチルが没した2日後である1965年1月26日に発動した[9]

1月26日から3日間、エリザベス2世女王の命により、彼の遺体はウェストミンスター・ホール公開安置英語版された。1月30日、セント・ポール大聖堂で、葬儀が挙行された。葬儀の後、遺体は、軍の敬礼の中、テムズ川を航行してウォータールー駅まで運ばれた。午後、彼は、祖先や弟が眠るブラドンのセント・マーティン教会英語版に葬られた。葬儀には、120か国の政府代表、6,000人の人々、そして異例な事に女王が参列し、1,000人以上の警官や警備員、9つの軍楽隊、軍の18個大隊イギリス空軍の16機のイングリッシュ・エレクトリック ライトニングジェット戦闘機、特殊舟艇「ヘイブンゴア英語版」、SR ライト・パシフィック級蒸気機関車が動員され、321,360人の人々が弔意を示し、3億5,000万の人々によって見守られる、歴史上最大の国葬となった[10][11]。それは、「イギリス人の公衆スペクタクルに対する並外れた才能を示している」と評された[12]

背景と葬儀の計画[編集]

2002年、BBCによって行われた世論調査で、最も偉大な英国人に選出されたサー・ウィンストン・チャーチルは、第二次世界大戦中にイギリス首相を務め、連合国の一員として、彼の国を勝利へと導いた事によって記憶されている。彼が2度目の政権英語版にあった1953年6月、ダウニング街で行われた夕食会の席上で、重い脳卒中に倒れ、他の参会者に知られないまま、彼は半身不随となったが、家族はこの事を内密とした[13] 。女王に即位してわずか1年だったエリザベス2世は、この件について知らされた数少ない人物のひとりだった。彼女は、軍務伯として国葬案件を担当していた第16代ノーフォーク公に対し、チャーチルの死の際の催事について「歴史において彼が占める地位にふさわしい規模」とする態勢をとる事を命じた[14]。極秘裏に「ホープ・ノット作戦」という名による入念な計画が立てられた[15]。その後、12年間にわたってチャーチルが存命である間、必要な改訂が繰り返された。チャーチルが没して2日後の、1965年1月26日、『ガーター勲爵士メリット勲爵士コンパニオンズ・オブ・オーナー勲爵士、故サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチルの国葬』と題された最終稿が確定した。この文書によって、葬儀のすべての細部にわたる段取りが規定された[16]

死亡[編集]

1965年1月24日日曜日の朝、チャーチルは、彼の父親の70度目の命日にロンドンのハイド・パーク・ゲート英語版28番の自宅で没した。チャーチルは1949年以来、8度にわたって脳卒中に見舞われていた。最後に見舞われたのは、1965年1月15日の事で、彼は病気から快復する事はなかった。脳卒中に見舞われた後、彼はほとんど昏睡していた。彼の最期の言葉は、義理の息子であるクリストファー・ソームズ英語版につぶやいた「私はすべての事に退屈している」という物だった[17][18]。彼の担当医のモラン卿英語版が、はじめに訃報を知らせたのは女王とハロルド・ウィルソン首相で、その後、午前8時35分に「1月24日日曜日の8時過ぎ、サー・ウィンストン・チャーチルは、ロンドンの自宅で死去した。[署名]モラン」と記者団に発表した[19][20]

午前9時、BBCは、訃報を報じた[21][22][1]。そして、ベートーヴェンの第5交響曲が続いた。この曲の冒頭の主題は、3つの短音と1つの長音で構成され、それはモールス符号で、Vの文字を意味しており、戦時中のチャーチルの象徴となったVサインをあらわす物だった[2]

首相は次のような声明をだした。

サー・ウィンストンは、世界中の彼から多大な恩恵を受けた人々によって悼まれる事でしょう。彼は、歴史の創造者として、歴史が読み続けられる限り記憶されるであろう人生を終えた今、安息の地にとどまっています[23]

その日、アメリカのリンドン・ジョンソン大統領も次のような公式声明を発した。

世界が暗黒によって覆われ、人々の心から希望が失われた時、偉大なる天命によってウィンストン・チャーチルが私たちのもとに遣わされました。

人々が、その苛酷な危機の時代や勝利を勝ち得た男たちの事を語り継ぐ限り、チャーチルの名は生き続ける事でしょう...

彼は歴史の子であり、彼の言葉や功績は不滅であり続けるでしょう[24]

翌日、庶民院議員たちは、敬意を捧げた[25][26]。審議において、首相は女王からの要望として、公開安置や葬儀の会場に関する動議を提出、次のように決議された。

女王陛下が、ガーター勲爵士サー・ウィンストン・チャーチル閣下の遺体をウェストミンスター・ホールに公開安置し、セント・ポール大聖堂で葬儀を行うよう、ご指示くださった事に謹んで感謝するとともに、この偉人の記憶は、本院並びにすべての女王陛下に忠良な臣民の間で残されており、愛情や賞賛を示すためのこれらの措置に、女王陛下からの心からのご援助と同意をいただけた事に感謝をするとともに、女王陛下にささやかなご挨拶を申し上げます[27]

エンバーミング[編集]

1928年以来、イギリス王室御用達葬儀業英語版である、ロンドンパディントンのJ・H・ケニヨン社が、葬儀に向けたチャーチルの遺体の準備作業を行う事になった。同社の主任エンバーマーであるデズモンド・ヘンリー英語版が、ハイド・パーク・ゲートのチャーチルの自宅に向かい、作業工程の監督にあたった[28]。チャーチルの遺体は彼が没した部屋で、エンバーミングを施された。処理が済んだ後、絹のパジャマドレスガウン英語版を着せられた彼の遺体は、ベッドに戻された。チャーチルの遺体は、火曜日の午後9時、ケニヨンの職員が、ウェストミンスター・ホールでの一般公開のために運び出すまで自宅にとどまっていた[29]

葬儀の式次第[編集]

公開安置[編集]

1965年1月26日の火曜日、葬儀の日程が開始された。午後8時30分、警官・警備員が担当位置に配備され、デイリー・テレグラフ紙は「イングランドにおけるこの種の警備作戦としては最大規模である」と報じた[11]。午後9時15分、チャーチルの遺体は、公開安置英語版のためロンドンの彼の自宅からウェストミンスター・ホールに運ばれた。遺族に付き添って儀式を取り仕切ったのは、宮内長官英語版初代コボルド男爵キャメロン・コボルドだった[26]。棺は、チャーチル夫人軍務伯の前の棺台英語版に置かれた。午後9時、グレナディアガーズコールドストリームガーズがホールの警備を開始した。続く日には、イギリス海軍や5個の近衛歩兵連隊クイーンズ・ロイヤル・アイリッシュ軽騎兵連隊英語版が交代で警備に当たった[30]

1月27日の水曜日から1月30日の午前6時まで、公開安置は続けられ[31]、その間ウェストミンスター・ホールは毎日23時間にわたって開かれ続けており、残りの1時間は清掃時間として確保されていた。弔問に訪れた人の行列は、長い時で1マイル以上におよび待機時間はおおよそ3時間だった[26]。321,360人の人々が弔意を示すために訪れた[10][32]

葬列[編集]

1月30日土曜日午前9時45分、葬儀はビッグ・ベンの鐘が鳴ると同時に始まった。葬儀の模様はBBCによって生中継され、リチャード・ディンブルビー英語版司会を務めた[33]。その後、その日を通して時計は沈黙した。ハイド・パークでは、チャーチルの90年にわたる人生をあらわす、90発の弔砲が発射された[8][34]ユニオン・フラッグで覆われ、その上に黒のクッションが置かれ、さらにその上にガーター勲章の徽章が置かれた棺は、グレナディアガーズ第2大隊所属の8人の衛兵たちに担がれて、ウェストミンスター・ホールから運び出され、砲車に乗せられた。イギリス空軍と歩兵連隊が先導する葬列は、イギリス海軍による太鼓を合図に行進を開始した[26]。98人の水兵が砲車を牽引し、砲車の後ろでは44人の水兵が引き綱を保持していた[34]

その後ろには、息子のランドルフ英語版と孫のウィンストン英語版が並び立ち、チャーチル家の男子とチャーチルの私設秘書アンソニー・モンタギュー・ブラウン英語版が徒歩で付き従った[26]。チャーチル夫人と2人の娘たちは、女王差し回しの馬車で後に続いた。葬列がウェストミンスター宮殿ニュー・パレス・ヤード英語版を出発した時、セント・ジェームズ・パークで1発の銃が発射された[35]。葬列は、ホワイトホールトラファルガー広場ストランドフリート・ストリート、さらにラドゲート・ヒル英語版を通過した。葬列の軍楽隊は、スコッツガーズ第2大隊の、3人の将校と96人の兵士で構成されていた。ザ・セノタフを通過した際、敬意を示すためにデンマークにおける抵抗運動英語版のバナーが、振り下ろされた[36]。2,500人の兵士や文民によって葬列は構成され、半中隊4個が沿道に並んだ。クイーンズ・ロイヤル・アイリッシュ軽騎兵連隊英語版の4名の少佐が、チャーチルのメダルや勲章の捧持役に選定された[8]。葬列がセント・ポール大聖堂に到着するまで、1分ごとに1発の銃声が鳴り響いていた[35]

セント・ポール大聖堂到着[編集]

午前10時45分、棺はセント・ポール大聖堂に到着した[37]棺担英語版たちは、大聖堂の西の隅で砲車から棺を降ろして担ぎながら、入り口に続く24段の階段をのぼった[38][39]。棺担を務めたのは、グレナディアガーズ所属の8名の兵士たちだった[40]

棺と棺担の前を歩いていたのは、12人の名誉棺担で、初代ビルマのマウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテンオーストラリア首相ロバート・メンジーズ、イギリスの首相経験者であるクレメント・アトリーアンソニー・イーデンそしてハロルド・マクミランが含まれていた[36]。当時82歳だったアトリーは、健康を害していたが、生前のチャーチルから頼まれていた事を理由に、名誉棺担を務める事を譲らなかった[41]。棺のすぐ前を歩いていた彼が階段でつまずいた事で、棺担がバランスを失って棺を落下させかけたが、棺の後部を受け持つ「押し屋」と呼ばれる2名の兵士により、間一髪の事態を免れた[39][42]

追悼礼拝[編集]

セント・ポール大聖堂に、棺が安置された後、追悼礼拝が開始された。112か国からの使節を含む参列者は3,500人におよんだ。それは、1980年にヨシップ・ブロズ・チトーの葬儀英語版、2005年にヨハネ・パウロ2世の葬儀英語版、そして、2013年にネルソン・マンデラの葬儀が行われるまで、歴史上、最多の要人が集結する機会となった。参列者には、フランス大統領シャルル・ド・ゴールカナダ首相レスター・B・ピアソンローデシア首相のイアン・スミス、元アメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワー、その他にも多くの現職・元職の国家や行政のトップ、何か国もの王室の成員が含まれた[8]。当初チャーチルは、戦時中の同盟相手だったド・ゴールを反英主義者と見なしていたため、参列をはっきりと拒んでいたが[43]、ノーフォーク公が、政治的和解を理由に参列させるよう嘆願したため、結局、当初の計画で予定されていたパディントン駅ではなくウォータールー駅で出迎える事を条件として、参列を認めた[44]。礼拝中、生前のチャーチルが好んだ『勇敢に戦う英語版』、『巡礼者であるために英語版』そして『リパブリック讃歌』などの讃美歌が歌われた。棺の入場の際には、ウィリアム・クロフトの『葬儀の典礼』や死者のためのコンタキオン英語版『おお、キリスト、汝の僕に、汝の聖徒とともに安息を与えよ』が歌われていた[45]

感謝の祈りの際、メンジーズは、次のような頌徳文を読み上げた。

すべての記録された歴史において、これ(第二次世界大戦)は、ひとりの男が、心の中に舞い上がる想像力と熱く燃える炎を抱き、それを他者に伝える類例のない手腕に恵まれた事により、軍隊(あの日々はたくさんの英雄がいました)にとってのみならず、人間の自由の精神にとっても大変すばらしい勝利となった、ひとつの特別な出来事だったと私は信じます。そして、今日、私たちは彼に感謝をささげ、彼のために神に感謝をささげます[46]

騎兵によるラスト・ポスト英語版は、ライフガーズのトランペット手であるピーター・ウィルソン伍長、起床ラッパ英語版は、クイーンズ・ロイヤル・アイリッシュ軽騎兵連隊のトランペット手であるバジル・キングによって奏された[47]。午後1時過ぎに追悼礼拝が終わり[35]、棺担たちが準備している間、オルガンによってヘンデルの『葬送行進曲』が演奏された。西側の大扉から出棺する時、参列者は、『神よ、過ぎ去りし頃からの私たちの助け英語版』を歌った[48]

移動[編集]

棺をタワー・ピア英語版からウォータールー駅まで運んだ特殊舟艇「ヘイブンゴア」英語版

教会での追悼礼拝が終わった後、チャーチルの棺は、グレナディアガーズの棺担たちによってロンドン塔まで運ばれた。移動に要した所要時間は18分におよび、国葬で、棺担が運んだ距離の最長記録を更新する物だった。葬列がタワー・ヒルに到着すると、ロイヤル・イニスキリング・フュージリアーズ英語版キングズ・オウン・スコティッシュ・ボーダラーズ英語版の隊員で構成された60人のバグパイプ隊によってスコットランドのラメントが演奏され、その後、タワーワーフでイギリス海兵隊の軍楽隊が『サンセット』英語版を奏し、名誉砲兵中隊英語版が、政府の長五港長官英語版の地位にあったチャーチルへの礼遇として、19発の礼砲を発射した[49]。葬列はタワー・ピア英語版に向かい、そこで棺は、特殊舟艇「ヘイブンゴア」英語版に積み込まれた[10]。海軍によって号笛英語版が鳴らされ、海兵隊の軍楽隊は、かつての海軍大臣英語版を称えて、『ルール・ブリタニア』を演奏した。船が航行する中、イギリス空軍のイングリッシュ・エレクトリック ライトニング16機が空中分列飛行英語版を行った[8]

棺を乗せた船がテムズ川を航行する中、川の南岸で36人以上の港湾労働者が、クレーンのジブをおろして敬意を表した[10]。それは当初の計画にはなく、無用な個人的敬意であるとしてスコットランドヤードから却下されていた物だった[50]。ヘイズ・ウォーフ(現在のヘイズ ガレリア)に置かれたクレーン群による即興的[51]な自発的行動[52][53] は、心からの敬意を示す物として賞賛された[54]

チャーチルの孫にあたるニコラス・ソームズ英語版は、この予想外の出来事で「私たちすべてが解き放たれた」と述べた[55]。しかし、2015年、BBCが、ジェレミー・パックスマン英語版によるドキュメンタリー『チャーチル: ひとつの国葬』を放映した事で論争が巻き起こった。そこでパックスマンは、存命の港湾労働者のひとりであるジョン・リンチにインタビューを行い、リンチは、職場に現れる事で給料を貰う身の労働者が、休日である土曜日にそのようなジェスチャーを示したのは報酬目当てだったからだと主張した。さらにリンチは、港湾労働者たちがチャーチルを嫌悪していたとも述べた[56]。これに対し、デイヴィッド・フリーマンは、1965年当時、ヘイズ・ウォーフのマネージング・ディレクターだったデイヴィッド・バーネットが、あのジェスチャーは自発的な物であったと述べた事を報じた。デイリー・メールの取材に対し、バーネットは、「私たちは、サー・ウィンストンにささやかな敬意を示したいと考え、港湾労働関係者たちは、休日を返上する事に同意してくれました... 私たちの労働者は残業代を求めていませんが、いくばくかの実費が支払われる事でしょう」と述べた[57]。また、2014年、ロドニー・J・クロフトは、著書『チャーチル最後の告別』の中で、クレーン運転士が「残業代を求める事なく」自らの意思で働いたと述べている[50]

埋葬[編集]

クラパムジャンクション駅を通過するウィンストン・チャーチルの葬送列車

棺は、第二種礼装を着用したクイーンズ・ロイヤル・アイリッシュ軽騎兵連隊の下士官兵によって「ヘイブンゴア」から、フェスティバル・ピア英語版に停車していたオースチン・プリンセス英語版の黒塗りの霊柩車に移された。霊柩車には、チャーチル家が乗車した大型リムジンのみが随伴していた。午後1時23分、棺はウォータールー駅に到着し、第一種礼装を着用した10人のクイーンズ・ロイヤル・アイリッシュ軽騎兵連隊の将校に担がれて、特別列車に載せられた[35]。最終目的地であるオックスフォードシャーハンバラ駅英語版に向かう特別列車を牽引する蒸気機関車には「ウィンストン・チャーチル」英語版の名が冠されていた[58][59]。棺が安置された客車であるNo. S2464Sは、1962年、葬送列車用に特に用意されていた物だった[60][61]。鉄道の沿線や通過駅では、最後の敬意を示すため、何千人もの人々が静かに立っていた。棺はクイーン・ロイヤル・アイリッシュ軽騎兵連隊の将校から構成された棺担によって、ブラドンのセント・マーティン教会英語版に運ばれ、遺族のみが参加する非公開の儀式を経て、彼は両親や弟の近くの墓に葬られた[62]

女王の反応[編集]

1965年1月24日、エリザベス2世女王は、チャーチルの死を知ると直ちにチャーチルの未亡人にお悔みの手紙を送った。

彼の多方面にわたる才能の喪失によって、世界すべてがより貧しくなった一方で、いまだかつてない危機に見舞われたこの国家と英連邦の姉妹国家の存続こそ、彼のリーダーシップ、彼のビジョンと不屈の勇気を永久に記念する物となるでしょう[63]

女王は、チャーチルの葬儀の手続きに関する要望書を庶民院に送り、1月25日に読み上げられた。

ガーター勲爵士サー・ウィンストン・チャーチル閣下が没した事で私たちが受けた喪失には、最も適切な形で対処すべきであり、戦争と平和の時代の50年以上にわたって、途切れる事なく彼の国に奉仕し、私たちが最大の危機にあった時は、私たちすべてを勇気づけ、支えてくれた強力な指導者であった卓越した人物の死とその記憶に対する、彼らの哀悼と敬意を表現する機会を設けるべきとすべてのわが国民が望んでいる事を、私も承知しております。私は、忠良なる庶民院の支持と彼らの寛大な心により、私たちの感謝の気持ちと国家の哀悼の念が適切に表明される事を確信しております。私は、サー・ウィンストンの遺体をウェストミンスター・ホールに公開安置し、しかる後に、セント・ポール大聖堂で葬儀を挙行する事を命じました。– エリザベス レジーナ[27]

女王は、チャーチルの葬儀において、王室のたしかな慣習を破った。ひとつ目の点として、君主は、王室の成員ではない者の葬儀に参列しない事が、王室の一般化した慣例だった[64]。ふたつ目には、女王は葬儀に参列するのみにとどまらず、棺や遺族が入場する前に、最初にセント・ポールに到着した参列者のひとりだった事である。何の催事であろうが、常に君主は最後に入場するのが王室の慣例である[65][66]。加えて、君主が、催事の最中に退席する事や、催事の終了後、最初に退場する事も王室の慣例である[67][68]。葬儀が終わった後、女王は大聖堂で遺族を見送った。このような女王による異例のあつかいについて、「女王が誰かに優先権を譲る事は、絶対にないとまではいわないまでも極めて例外的な事です。彼女が、棺や私の祖父より先に到着した事は美しく、大変心にふれる行為でした」とニコラス・ソームズは述べた[69]

参列した要人[編集]

チャーチルの葬儀は、1960年代当時としては、歴史上最多の世界の要人たちが集結する機会となった。世界の112か国や国際機関から、5人の国王、2人の女王、1人の皇帝、1人の大公、2人の王配、15人の大統領、14人の首相、そして、10人の首脳経験者を含む多数の使節が参列した。唯一目に付いた欠席者は、その時体調不良だったアメリカ合衆国大統領リンドン・ジョンソンだった。アメリカ合衆国を公式に代表して参列したのは、アメリカ合衆国最高裁判所長官アール・ウォーレンであった[70]

主要国の参列者

主な欠席者[編集]

ジョンソン大統領は、葬儀に参列せず、また、ヒューバート・H・ハンフリー副大統領をアメリカの代表として送る事もなかった[77]。その代わりとして、彼は、アール・ウォーレン最高裁長官を代表に任じ、さらにディーン・ラスク国務長官、デイヴィッド・K・E・ブルース英語版駐英アメリカ大使、国務省儀典長英語版ロイド・ネルソン・ハンド英語版からなる弔問団を送った[78]。ラスクは、体調不良により国葬に参列できなかった。チャーチルが没した時、ジョンソンは風邪でベセスダアメリカ海軍病院英語版に入院していた[24]。しかし、葬儀前に退院してホワイト・ハウスに戻っていた彼は、1月27日[79]、記者に対し、旅行をやめるよう医師から助言されたとした上で、「私はいつものような元気を取り戻せていません」と述べた[80][81]。2月4日、彼は大統領記者会見で公式に謝罪した。

私は、チャーチルの葬儀に参列する各国の代表者の一覧を確認しました。そして、私には外国が、必ずしも自国の元首や次席者を送っているようには見えませんでした... あなたがたや外国の関心を照らし合わせると、私が、副大統領ではなく最高裁判所長官にお願いした事は誤りだったかも知れません。私は葬儀に関連する問題に対する、あなたがたの非常に強い関心に留意し、私たちの国益に沿って行動する事に尽力します[82][83]

ジョンソンの対応は広範な批判を受け、彼の信頼が失墜英語版する伏線になった[80]。元大統領のドワイト・D・アイゼンハワーは招きを受けて、個人としての資格で参列した[83]。もうひとりの大統領経験者であるハリー・S・トルーマンも招かれたが、旅行が可能な健康状態ではなかった[83]

アイルランド大統領エイモン・デ・ヴァレラは、葬儀に招かれなかった[84]。彼は、アイルランドの分裂英語版に関与したチャーチルへの率直な敵対心を隠す事はなかった。訃報を耳にした彼はチャーチルを「偉大なイングランド人」と称えた上で「危険な敵対者」でもあったと補足した[85]アドルフ・ヒトラーの死から2日後の1945年5月2日、彼は、ダブリンのドイツ大使館でヒトラーの死を悼む記帳をした事で物議をかもした[86]

中国は、葬儀に代表者を参列させなかった唯一の国家だった[87]

その後[編集]

チャーチルの未亡人は、就寝する時、彼女の娘のメアリー英語版に「メアリー、あれは葬儀じゃなかった。勝利だったの」と言った[26]

スコッツガーズは、大隊活動要約において、「大隊の多くが参加したパレードの中でも、1月30日に挙行された国葬こそが、最も心動かされる物であった事に疑問の余地はない。完全無欠のタイミング、入念な訓練、そして、大きな威容、これらの相乗効果によって、素晴らしく誇らしい結果となった」と述べた[30]

1月31日、オブザーバー紙は、「これは、ロンドンが世界の首都となる最後の機会で、過ぎ去った帝国の時代の弔鐘を告げる物だった。これは偉大なイギリスの終焉を意味する物だった... それは勝利だった。それは過ぎ去った偉大な過去を祝福する物だった」と報道した[88]。1週間で10万人以上の人々が墓参した[10]。1998年、チャーチルの墓の墓石やその周辺は、長年にわたる多くの墓参者によって摩耗していたため、墓石を交換する必要が生じた。同年、新たな墓石に置き換えられ、チャーチル=スペンサー家の人々が出席する儀式が行われた[89]

国葬が行われた1月30日は、フランクリン・ルーズベルトの誕生日であった事から、アメリカ人は、チャーチルとルーズベルトの盟友関係に敬意を払った。ルーズベルトの本邸と墓があるニューヨーク州のハイド・パーク英語版で行なわれた追悼礼拝に出た人々に、牧師は、歴史を共有した2人の盟友が記念する日も共有した縁について語った[90]

フランス大統領のシャルル・ド・ゴールは、「今のイギリスは、もはや列強ではない」と述べた[64]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b “On this day: 1965: Winston Churchill dies” (英語). BBC. (1965年1月24日). http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/january/24/newsid_2506000/2506493.stm 2021年5月31日閲覧。 
  2. ^ a b Lewis, Anthony (1965年1月24日). “Churchill is Dead at 90; The World Mourns Him; State Funeral Saturday”. The New York Times. 2021年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  3. ^ “Remembering Winston Churchill: About this collection”. BBC. オリジナルの2018年12月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181202114638/http://www.bbc.co.uk/archive/churchill/ 2018年12月30日閲覧。 
  4. ^ Remembering Britain's WWII hero Winston Churchill” (英語). British Heritage (2022年1月24日). 2022年3月25日閲覧。
  5. ^ Farnsworth, Clyde H. (1965年1月25日). “Churchill to Get a State Funeral; Will Be First Commoner So Honored Since Gladstone” (英語). The New York Times: p. 12. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/1965/01/25/archives/churchill-to-get-a-state-funeral-will-be-first-commoner-so-honored.html 2021年5月29日閲覧。 
  6. ^ Petter, Olivia (2021年4月16日). “Will Prince Philip have a state funeral?” (英語). The Independent. 2021年5月29日閲覧。
  7. ^ Dickinson, Sophie (2021年4月9日). “Prince Philip: What's the difference between a state and a ceremonial funeral?” (英語). Metro. 2021年5月29日閲覧。
  8. ^ a b c d e Klein, Christopher (2015年1月30日). “Winston Churchill's Funeral, 50 Years Ago”. History. オリジナルの2016年6月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160601010716/http://www.history.com/news/winston-churchills-funeral-50-years-ago 2016年5月27日閲覧。 
  9. ^ Dockter, Warren (2015年1月30日). “Winston Churchill's funeral was 12 years in the planning”. The Daily Telegraph. オリジナルの2016年8月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160806054222/http://www.telegraph.co.uk/news/winston-churchill/11377686/Winston-Churchills-funeral-was-12-years-in-the-planning.html 2016年5月27日閲覧。 
  10. ^ a b c d e Brown, Aaron (2015年1月30日). “Funeral of Sir Winston Churchill: 50 years since Britain buried its iconic wartime leader”. Daily Express. https://www.express.co.uk/news/history/554733/Sir-Winston-Churchill-State-Funeral-50-Anniversary-Wartime-Prime-Minister 2019年1月3日閲覧。 
  11. ^ a b Dodds, Laurence (2015年1月30日). “As it happened: The state funeral of Winston Churchill, January 30, 1965”. The Daily Telegraph. オリジナルの2018年2月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180216233558/http://www.telegraph.co.uk/news/winston-churchill/11375818/As-it-happened-The-state-funeral-of-Winston-Churchill-January-30-1965-live.html 2019年1月3日閲覧。 
  12. ^ Jukes, Eric (2016). “British royal and state funerals: music and ceremonial since Elizabeth I” (英語). Reference Reviews 30 (8): 29–31. doi:10.1108/RR-07-2016-0183. https://www.emerald.com/insight/content/doi/10.1108/RR-07-2016-0183/full/html. 
  13. ^ Furness, Hannah (2016年2月27日). “Sir Winston Churchill's family kept his strokes hidden, new drama reveals” (英語). The Daily Telegraph. ISSN 0307-1235. https://www.telegraph.co.uk/news/winston-churchill/12176391/Sir-Winston-Churchills-family-kept-his-strokes-hidden-new-drama-reveals.html 2019年1月7日閲覧。 
  14. ^ Roberts, Andrew (2015年1月18日). “The death of Winston Churchill was the day the Empire died”. The Daily Telegraph. オリジナルの2018年12月31日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181231043002/https://www.telegraph.co.uk/history/11351639/The-death-of-Winston-Churchill-was-the-day-the-Empire-died.html 2018年12月30日閲覧。 
  15. ^ Docktor, Warren (2015年1月30日). “Winston Churchill's funeral was 12 years in the planning”. The Daily Telegraph. https://www.telegraph.co.uk/news/winston-churchill/11377686/Winston-Churchills-funeral-was-12-years-in-the-planning.html 2019年1月6日閲覧。 
  16. ^ Smith, Louie (2017年2月17日). “Top secret plans for Winston Churchill's funeral revealed after 50 years”. Daily Mirror. オリジナルの2018年12月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181229220644/https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/top-secret-plans-winston-churchills-9840050 2018年12月29日閲覧。 
  17. ^ Perry, John (2010) (英語). Winston Churchill. Thomas Nelson. pp. 156. ISBN 978-1-4185-5523-8. https://books.google.com/books?id=HrgnN-caefcC 
  18. ^ O'Byrne, Robert (2011年4月30日). “What the servants saw” (英語). The Irish Times. https://www.irishtimes.com/culture/books/what-the-servants-saw-1.586023 2021年5月31日閲覧。 
  19. ^ Soames, Mary (2003) (英語). Clementine Churchill: The Biography of a Marriage. Houghton Mifflin Harcourt. pp. 539. ISBN 978-0-618-26732-3. https://books.google.com/books?id=hOpXeY-1pwwC 
  20. ^ Churchill is dead” (英語). UPI (1965年1月24日). 2018年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  21. ^ Death of Sir Winston Churchill” (英語). Audioboom (2015年1月5日). 2021年5月31日閲覧。
  22. ^ People react to Churchill's death, 1965” (英語). BBC Archive. 2021年5月31日閲覧。
  23. ^ Lewis, Anthony (1965年1月24日). “Churchill Dies at 90 At Home in London”. The New York Times. 2010年時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  24. ^ a b Johnson, Lyndon B. (1965年1月24日). “Statement by the President on the Death of Winston Churchill”. www.presidency.ucsb.edu. The American Presidency Project. 2021年1月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  25. ^ "Death of Sir Winston Churchill". Parliamentary Debates (Hansard). House of Commons. 25 January 1965. col. 667–679.
  26. ^ a b c d e f Soames, Nicholas (2015年1月30日). “My grandfather, Winston Churchill, was buried fifty years ago today. It wasn't a funeral – it was a triumph”. The Daily Telegraph. オリジナルの2016年3月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160310191016/http://www.telegraph.co.uk/history/11377818/My-grandfather-Winston-Churchill-was-buried-fifty-years-ago-today.-It-wasnt-a-funeral-it-was-a-triumph.html 2019年1月3日閲覧。 
  27. ^ a b Deb, H. C. (1965年1月25日). “Death of Sir Winston Churchill (Hansard, 25 January 1965)”. api.parliament.uk. 2019年9月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  28. ^ Van Beck, Todd (2012-10). “The Death and State Funeral of Sir Winston Leonard Spencer Churchill Part II”. Canadian Funeral News 40 (10): 10. オリジナルの2014-03-16時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140316212850/http://www.otcommunications.com/images/issue/oct12cfn.pdf. 
  29. ^ Todd Van Beck, "The Death and State Funeral of Sir Winston Leonard Spencer Churchill", part II, in Canadian Funeral News (October 2012), Vol. 40 Issue 10, p. 10 (online Archived 2014-03-16 at the Wayback Machine.)
  30. ^ a b Murray, Naylor (1995). Among Friends: The Scots Guards 1956–1993. London, UK: Leo Cooper. pp. 54–56. ISBN 978-0-850-52455-0. https://books.google.com/books?id=fNCXAwAAQBAJ 
  31. ^ Churchill's Final Farewell: The State and Private Funeral of Sir Winston Churchill, winstonchurchill.org, accessed 6 February 2021.
  32. ^ “1965: Last farewell to Churchill”. BBC. オリジナルの2008年1月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080103112626/http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/january/30/newsid_2505000/2505981.stm 2019年1月3日閲覧。 
  33. ^ The State Funeral of Sir Winston Churchill” (英語). www.bbc.com. 2022年1月16日閲覧。
  34. ^ a b “From the Monitor archives: Britain bids Winston Churchill farewell”. Christian Science Monitor. (2015年1月30日). ISSN 0882-7729. https://www.csmonitor.com/World/Europe/2015/0130/From-the-Monitor-archives-Britain-bids-Winston-Churchill-farewell 2019年1月7日閲覧。 
  35. ^ a b c d Wall, Michael (2015年1月30日). “Winston Churchill's funeral - in pictures” (英語). The Guardian. 2015年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月27日閲覧。
  36. ^ a b Rose, Norman (2009). Churchill : an Unruly Life. London, UK: Tauris Parke. pp. 1–2. ISBN 978-0-85771-139-7. https://books.google.com/books?id=njUBAwAAQBAJ 
  37. ^ Funeral of Winston Churchill | WNYC | New York Public Radio, Podcasts, Live Streaming Radio, News” (英語). WNYC. 2022年9月21日閲覧。
  38. ^ Why do 800 schoolbags line the steps of St Paul's Cathedral?” (英語). www.wateraid.org. 2022年9月21日閲覧。
  39. ^ a b “A near miss with Churchill's coffin” (英語). BBC News. (2015年1月28日). https://www.bbc.com/news/av/magazine-30988265 2022年9月21日閲覧。 
  40. ^ Chipperfield, John (2015年2月23日). “Guardsman was proud to be a pallbearer for Sir Winston” (英語). Oxford Mail. 2022年9月21日閲覧。
  41. ^ Rawnsley, Andrew (2019年10月14日). “Attlee and Churchill review – a deft account of a terrific double act” (英語). The Guardian. 2021年5月31日閲覧。
  42. ^ Wallis, Lucy (2015年1月28日). “'We nearly dropped Churchill's coffin'” (英語). BBC News. https://www.bbc.com/news/magazine-30981155 2021年5月31日閲覧。 
  43. ^ Reynolds, David (2006), Capet, Antoine, ed., “Churchill and de Gaulle: Makers and Writers of History” (英語), Britain, France and the Entente Cordiale since 1904 (London: Palgrave Macmillan UK): pp. 105–123, doi:10.1057/9780230207004_7, ISBN 978-1-349-28447-4, http://link.springer.com/10.1057/9780230207004_7 2021年8月27日閲覧。 
  44. ^ Croft, Rodney J. (2014). Churchill's Final Farewell: The State and Private Funeral of Sir Winston Churchill. London, UK: Croft Publishing. pp. 32–34. ISBN 978-1-84396-332-5. オリジナルの2019-01-01時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190101145430/https://books.google.com/books?id=8hgvDwAAQBAJ&printsec=frontcover&dq=churchill+final+farewell+croft&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjpoPy55MvfAhUI448KHV6NB9EQ6AEIKDAA#v=onepage&q=churchill%20final%20farewell%20croft&f=false 2019年1月3日閲覧。 
  45. ^ Range, Matthias (2016). British Royal and State Funerals: Music and Ceremonial since Elizabeth I. Martlesham, Suffolk: Boydell Press. p. 297. ISBN 978-1783270927. https://books.google.com/books?id=Kn1FDAAAQBAJ 
  46. ^ Sir Winston Churchill's Funeral: Eulogy By Sir Robert Menzies”. australianpolitics.com. 2017年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月3日閲覧。
  47. ^ The fiftieth anniversary of Churchill's funeral brings many memories for trumpeter Basil King” (2015年2月3日). 2022年9月30日閲覧。
  48. ^ Sir Winston Churchill Funeral – 1965 – St Paul's Cathedral”. www.stpauls.co.uk. 2021年8月28日閲覧。
  49. ^ Croft (2014), pp. 95-96
  50. ^ a b Croft, Rodney J. (2014). Op. cit.. pp. 98. OCLC 962392326. https://www.worldcat.org/oclc/962392326 
  51. ^ Taylor, A.J.P. (1976). “The war lords 3. Churchill” (英語). The Listener. 96. British Broadcasting Corporation. pp. 198. https://books.google.com/books?id=P3hBAQAAIAAJ 
  52. ^ “Winston S Churchill” (英語). Port of London. 49. (1974). pp. 382. https://books.google.com/books?id=UtxOAQAAIAAJ 
  53. ^ Lambert, Victoria (2015年1月25日). “Churchill's Funeral: We were part of history”. The Daily Telegraph. 2015年1月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月27日閲覧。
  54. ^ “1965: Memories of Churchill's funeral” (英語). (1965年1月24日). http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/witness/january/24/newsid_2692000/2692293.stm 2021年8月27日閲覧。 
  55. ^ Churchill, Randolf (2015年8月2日). “Fifty Years On”. International Churchill Society. 2021年8月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月27日閲覧。
  56. ^ Wyatt, Daisy (2015年1月30日). “Churchill: The Nation's Farewell - No, dockers were not bribed to dip cranes at Churchill's funeral” (英語). The Independent. 2021年5月31日閲覧。
  57. ^ Freeman, David (2015年8月2日). “Books, Arts & Curiosities - Craning for Attention”. International Churchill Society. 2016年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月27日閲覧。
  58. ^ “Churchill's final journey”. National Railway Museum. オリジナルの2016年5月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160509055011/http://www.nrm.org.uk/planavisit/events/churchill/main 2016年5月30日閲覧。 
  59. ^ Sir Winston Churchill's Funeral Train”. Southern E-Group. 2008年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年2月26日閲覧。
  60. ^ Gould, David (1992). Southern Railway Passenger Vans. Headington: Oakwood Press. p. 77,80,85. ISBN 0-85361-428-8 
  61. ^ King, Mike (2003), An Illustrated History of Southern Coaches, Horsham, Surrey: Oxford Publishing Company, pp. 194, 223, ISBN 0-86093-570-1 
  62. ^ Addison, Paul (2006). Churchill: The Unexpected Hero. Oxford: Oxford University Press Inc.. p. 245. ISBN 978-0-19-929743-6. オリジナルの2018-11-17時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181117063239/https://books.google.com/books?id=59wSDAAAQBAJ&printsec 2018年12月30日閲覧。 
  63. ^ Croft, Rodney J. (2014). Op.cit.. pp. 54–55. ISBN 9781843963325. https://books.google.com/books?id=8hgvDwAAQBAJ 
  64. ^ a b Brendon, Piers (2020年1月24日). “The death of Sir Winston Churchill and the top-secret plans for his funeral” (英語). History Extra. Immediate Media Company Ltd.. 2019年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月27日閲覧。
  65. ^ Queen Elizabeth II and Winston Churchill's unlikely friendship” (英語). British Heritage. 2021年8月27日閲覧。
  66. ^ Stinson, Nicole (2018年2月22日). “REVEALED: Queen broke royal protocol for Winston Churchill by bestowing rare honour on PM” (英語). Daily Express. 2021年5月31日閲覧。
  67. ^ Hallemann, Caroline (2019年5月15日). “5 Times Queen Elizabeth Was a Total Boss at the Royal Wedding” (英語). Town & Country. 2021年8月27日閲覧。
  68. ^ Scarsi, Alice (2021年6月13日). “Oh Joe! Biden breaks royal protocol during first ever visit with Queen” (英語). Daily Express. 2021年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月27日閲覧。
  69. ^ Stinson, Nicole (2018年2月22日). “Revealed: Queen broke royal protocol for Winston Churchill by bestowing rare honour on PM” (英語). Daily Express. 2018年2月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月27日閲覧。
  70. ^ Commemorating the historic Winston Churchill funeral”. Digital Dying. Funeralwise LLC (2015年1月29日). 2020年2月29日閲覧。
  71. ^ a b c d Associated Press (1965年1月31日). “Dignitaries at Funeral”. The New York Times: p. 33 
  72. ^ “From the past pages of dawn: 1965: Fifty years ago: Winston Churchill dead”. Dawn. (2015年1月25日). https://www.dawn.com/news/1159251 2022年10月3日閲覧。 
  73. ^ Farnsworth, Clyde H. (1965年1月31日). “Wilson Confers With Erhard and Other Leaders After Rites”. The New York Times: p. 35 
  74. ^ 有馬純達 (2007年4月). “チャーチル国葬(有馬純達・朝日新聞特派員)2007年4月”. 日本記者クラブ Japan National Press Club (JNPC). 日本記者クラブ. 2022年10月4日閲覧。
  75. ^ 岸信介『二十世紀のリーダーたち』pp. 99-100(サンケイ出版、1982年)
  76. ^ 岸の回想にもこの時の韓国側との交渉を記述。岸信介『二十世紀のリーダーたち』p. 101 (サンケイ出版、1982年) 帰途の2月6日に来日し佐藤栄作首相・椎名悦三郎外相と会談。
  77. ^ Beschloss, Michael (2015年1月30日). “Churchill's Funeral, and the Perils of Staying Home” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/2015/01/31/upshot/churchills-funeral-and-the-perils-of-staying-home.html 2021年8月29日閲覧。 
  78. ^ Hand, Lloyd (2015年8月2日). “An Unexpected Journey”. International Churchill Society. 2016年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  79. ^ Montana Album: Universities, colleges get new names” (英語). Great Falls Tribune (2015年1月24日). 2021年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  80. ^ a b Stokes, David (2013年12月10日). “The World Leader Who Didn't Attend Churchill's Funeral” (英語). Townhall. 2013年12月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  81. ^ “The Presidency: Back to The White House” (英語). Time. (1965年2月5日). ISSN 0040-781X. http://content.time.com/time/subscriber/article/0,33009,839211,00.html 2021年8月29日閲覧。 
  82. ^ Johnson, Lyndon B. (1966) (英語). Public Papers of the Presidents of the United States, Lyndon B. Johnson: Containing the Public Messages, Speeches and Statements of the President, 1965, (in Two Books). Book I, January 1 to May 31, 1965. Washington: The National Archive of the United States. pp. 134. https://books.google.com/books?id=gvxZAAAAcAAJ 
  83. ^ a b c “Transcript of the President's News Conference on Foreign and Domestic Affairs”. The New York Times: p. 14. (1965年2月5日) 
  84. ^ “De Valera not invited to Churchill's funeral” (英語). The Irish Times. (2001年8月14日). オリジナルの2021年8月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210829085139/https://www.irishtimes.com/news/de-valera-not-invited-to-churchill-s-funeral-1.393088 2021年8月29日閲覧。 
  85. ^ Even in death De Valera refused to forgive Churchill over partition” (英語). The Herald (2001年8月15日). 2021年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  86. ^ Ghosh, Palash (2013年9月10日). “The Irish Nationalist And The Nazi: When Eamon De Valera Paid His Respects To Adolf Hitler”. International Business Times. 2013年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  87. ^ King, Laurel (2013年11月6日). “Winston Churchill Death”. whowaswinstonchurchill.com. 2013年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  88. ^ O'Donovan, Patrick (2013年2月3日). “From the Observer archive, 31 January 1965: Winston Churchill's state funeral” (英語). The Guardian. 2021年5月31日閲覧。
  89. ^ New grave honours Churchill”. BBC News Online (1998年5月8日). 2004年3月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年2月26日閲覧。
  90. ^ “Roosevelt's Birth Marked At Hyde Park Graveside”. The New York Times. Associated Press: p. 33. (1965年1月31日). https://www.nytimes.com/1965/01/31/archives/roosevelts-birth-marked-at-hyde-park-graveside.html 2021年5月31日閲覧。 

外部リンク[編集]